「優曇華」の巻に次の文(訳文)があります。
「 いったい、この山河大地(センガダイチ)、日月風雨より、人畜草木にいたるまで、
みないろいろの営みをなしているが、そのそれぞれの営みが、とりもなおさず優曇華を拈ずるのである。
生といい死というも、その華のいろであり、その華のひかりである。
いま、わたしどもがこのようにまなびいたるのも、またその華を拈じているのである。」
(『正法眼蔵』(六)「優曇華」巻P254・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)
* 「優曇華」と「華を拈じる」については脚注に示しました。
・ 私の解釈:
例えば、私という人間は、この宇宙の中で私一人しかいません。しかも私は全くの偶然の因縁によってこの世に生まれてきたのです。
私は人間として誕生し、名前を付けられ、育てられ、知識を吸収し鍛えられて、今日まで、成長してきました。
今の私は、社会人としての立場も義務も責任もあり、一人ぼっちではありません。
しかし、心の中には「もう一人の自分」がいるということを意識するときがあります。
それは、どういうときか、といいますと、
・心が乱れたとき、下腹部(丹田)に意識を集中して深呼吸をするとか、両手を握り締めることなどによって、心が落ち着き、気分が冷静になれたとき、
・困難な問題解決に熱中すると、直感的に解決策がひらめいたり、気付いたりするとき、
・強いて思い出そうともしないのに、突然、先祖から受け継いでいると考えられるような心意気を感じるとき、
このような体験をしたときに、私は普段の自分とは違う「もう一人の自分」を意識します。
哲学者・西田幾多郎は次のように詠っています。
「わがこころ、ふかき底あり、よろこびも 憂いのなみも 届かじとおもう」と。
さらに言えば、この心の底は、水深一万メートルの海底の静けさにも匹敵するほどの
静寂な領域であると、私は考えています。
そのような場所に「もうひとりの自分」が居て、必要に応じて現実生活の中へ現れてくるのです。
このように考えますと、私が今、ここで生かされていることが即ち、優曇華の華のいろであり、ひかりである、だから、人間は他人も自分も大切にしなければならない、と思うのです。
脚注:
優曇華:インドで古くより神聖視される樹木、クワ科の常緑樹、この樹木はイチジクの一種で、毎年開花はするが、その花は外部からは見えない。そこで仏教徒は、これを三千年に一度だけ咲くきわめて珍しいものとし、合い難い稀有な事柄・出来事のたとえに用いるようになった。
(「岩波仏教辞典」より)
華を拈じる:拈華微笑の古事による言葉だと思います。
拈華微笑: 華を拈(ツマ)んでほほえむ意。あるとき釈尊が霊鷲山(リョウジュセン)で、一本の花を手にとったところ、みな何のことかわからず黙っていたが、摩訶迦葉だけがその意味を理解してにっこりほほえんだ。そのために、釈尊は迦葉に法を伝えた、という伝説的な古事。
(「岩波仏教辞典」より)
つまり、そのとき世尊は
『われに正法眼蔵、涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉に与える』と言ったとのことです。
(『正法眼蔵』(六)「優曇華」巻P252・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)
「 いったい、この山河大地(センガダイチ)、日月風雨より、人畜草木にいたるまで、
みないろいろの営みをなしているが、そのそれぞれの営みが、とりもなおさず優曇華を拈ずるのである。
生といい死というも、その華のいろであり、その華のひかりである。
いま、わたしどもがこのようにまなびいたるのも、またその華を拈じているのである。」
(『正法眼蔵』(六)「優曇華」巻P254・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)
* 「優曇華」と「華を拈じる」については脚注に示しました。
・ 私の解釈:
例えば、私という人間は、この宇宙の中で私一人しかいません。しかも私は全くの偶然の因縁によってこの世に生まれてきたのです。
私は人間として誕生し、名前を付けられ、育てられ、知識を吸収し鍛えられて、今日まで、成長してきました。
今の私は、社会人としての立場も義務も責任もあり、一人ぼっちではありません。
しかし、心の中には「もう一人の自分」がいるということを意識するときがあります。
それは、どういうときか、といいますと、
・心が乱れたとき、下腹部(丹田)に意識を集中して深呼吸をするとか、両手を握り締めることなどによって、心が落ち着き、気分が冷静になれたとき、
・困難な問題解決に熱中すると、直感的に解決策がひらめいたり、気付いたりするとき、
・強いて思い出そうともしないのに、突然、先祖から受け継いでいると考えられるような心意気を感じるとき、
このような体験をしたときに、私は普段の自分とは違う「もう一人の自分」を意識します。
哲学者・西田幾多郎は次のように詠っています。
「わがこころ、ふかき底あり、よろこびも 憂いのなみも 届かじとおもう」と。
さらに言えば、この心の底は、水深一万メートルの海底の静けさにも匹敵するほどの
静寂な領域であると、私は考えています。
そのような場所に「もうひとりの自分」が居て、必要に応じて現実生活の中へ現れてくるのです。
このように考えますと、私が今、ここで生かされていることが即ち、優曇華の華のいろであり、ひかりである、だから、人間は他人も自分も大切にしなければならない、と思うのです。
脚注:
優曇華:インドで古くより神聖視される樹木、クワ科の常緑樹、この樹木はイチジクの一種で、毎年開花はするが、その花は外部からは見えない。そこで仏教徒は、これを三千年に一度だけ咲くきわめて珍しいものとし、合い難い稀有な事柄・出来事のたとえに用いるようになった。
(「岩波仏教辞典」より)
華を拈じる:拈華微笑の古事による言葉だと思います。
拈華微笑: 華を拈(ツマ)んでほほえむ意。あるとき釈尊が霊鷲山(リョウジュセン)で、一本の花を手にとったところ、みな何のことかわからず黙っていたが、摩訶迦葉だけがその意味を理解してにっこりほほえんだ。そのために、釈尊は迦葉に法を伝えた、という伝説的な古事。
(「岩波仏教辞典」より)
つまり、そのとき世尊は
『われに正法眼蔵、涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉に与える』と言ったとのことです。
(『正法眼蔵』(六)「優曇華」巻P252・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)