八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「正法眼蔵」の拾い読み(13)・[自分]

2006-02-24 05:17:21 | Weblog
「優曇華」の巻に次の文(訳文)があります。

 「 いったい、この山河大地(センガダイチ)、日月風雨より、人畜草木にいたるまで、
 みないろいろの営みをなしているが、そのそれぞれの営みが、とりもなおさず優曇華を拈ずるのである。
 生といい死というも、その華のいろであり、その華のひかりである。
 いま、わたしどもがこのようにまなびいたるのも、またその華を拈じているのである。」 

 (『正法眼蔵』(六)「優曇華」巻P254・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)
 
* 「優曇華」と「華を拈じる」については脚注に示しました。

・ 私の解釈:

 例えば、私という人間は、この宇宙の中で私一人しかいません。しかも私は全くの偶然の因縁によってこの世に生まれてきたのです。

 私は人間として誕生し、名前を付けられ、育てられ、知識を吸収し鍛えられて、今日まで、成長してきました。
 今の私は、社会人としての立場も義務も責任もあり、一人ぼっちではありません。

 しかし、心の中には「もう一人の自分」がいるということを意識するときがあります。

それは、どういうときか、といいますと、

 ・心が乱れたとき、下腹部(丹田)に意識を集中して深呼吸をするとか、両手を握り締めることなどによって、心が落ち着き、気分が冷静になれたとき、
 
・困難な問題解決に熱中すると、直感的に解決策がひらめいたり、気付いたりするとき、

・強いて思い出そうともしないのに、突然、先祖から受け継いでいると考えられるような心意気を感じるとき、

 このような体験をしたときに、私は普段の自分とは違う「もう一人の自分」を意識します。

 哲学者・西田幾多郎は次のように詠っています。
 
 「わがこころ、ふかき底あり、よろこびも 憂いのなみも 届かじとおもう」と。
 
 さらに言えば、この心の底は、水深一万メートルの海底の静けさにも匹敵するほどの
静寂な領域であると、私は考えています。

そのような場所に「もうひとりの自分」が居て、必要に応じて現実生活の中へ現れてくるのです。

 このように考えますと、私が今、ここで生かされていることが即ち、優曇華の華のいろであり、ひかりである、だから、人間は他人も自分も大切にしなければならない、と思うのです。

脚注:

優曇華:インドで古くより神聖視される樹木、クワ科の常緑樹、この樹木はイチジクの一種で、毎年開花はするが、その花は外部からは見えない。そこで仏教徒は、これを三千年に一度だけ咲くきわめて珍しいものとし、合い難い稀有な事柄・出来事のたとえに用いるようになった。 
(「岩波仏教辞典」より)

華を拈じる:拈華微笑の古事による言葉だと思います。

拈華微笑: 華を拈(ツマ)んでほほえむ意。あるとき釈尊が霊鷲山(リョウジュセン)で、一本の花を手にとったところ、みな何のことかわからず黙っていたが、摩訶迦葉だけがその意味を理解してにっこりほほえんだ。そのために、釈尊は迦葉に法を伝えた、という伝説的な古事。
(「岩波仏教辞典」より)

 つまり、そのとき世尊は
『われに正法眼蔵、涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉に与える』と言ったとのことです。
(『正法眼蔵』(六)「優曇華」巻P252・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

「正法眼蔵」の拾い読み(12)・[春の新緑]

2006-02-20 03:55:18 | Weblog
「龍吟」の巻に次の文(訳文)があります。

  慈済(ジザイ)大師に、ある時、一人の僧が問うていった。

 「枯木のなかにも、また龍の声があるのでございましょうか」

  師はいった。

 「わしにいわせれば、髑髏(ドクロ)のなかに獅子の声があるというところじゃ」
・・・・・・

つまり、枯ということの性質やその作用は、まことにさまざまであって、誰だったかさる仏祖もいわれたように、ある時には枯れぼっくいであり、またある時には枯れぼっくいではないのである。
・・・・・・

 それらはみんな、まず根があって、そこから葉がのびてくる。その根を仏祖という。
また、それらはやがて、枝も葉もみんな大木にかえってゆかねばならぬ。

 それがとりもなおさず参学というものである。そのようなのが、枯木のあの姿である。

 すなわち、ある時はのびのびとその身をのばした姿をあらわし、またある時はすっかり身をひそめて小さくなった姿をとる時がある。
・・・・・・

 かって一人の仏祖は、

 「いくたびか春に逢うて心はかわらず」

 と詠じたことがあったが、この世界のすべてが、このような枯木の龍吟であることを語っている。

 (『正法眼蔵』(六)「龍吟」巻P191~192・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

私の解釈:

  この文章を読んで、私は春の新緑を思い浮かべます。

 冬の間は枯木のような姿で、元気がなかった草木や花の木が、春になると一斉に芽を出し、青葉をつけ、花を咲かせます。 

 樹木たちは、その内部で根から栄養分を摂り、太陽光線からエネルギーを吸収しながら、活発な生命活動を営んでいるのです。

 本文では、このことを指して、「龍の声」と表現しているのだと思います。

 私たち人間も、樹木たちと同様、その内部(頭脳)では常に活発な営みが行われているのだと思います。それは体内の血流や細胞の働きだけではありません。

 唯識説の教えの中に「現行薫種子・種子生現行・種子生種子」というのがあります。

 つまり「現行」とは日常の生活行動をいい、「種子」とは「現行」によって脳内へ薫じつけられ貯えられたものを植物の種子にたとえてこのようにいうのです。

 この教えを、簡単に言えばつぎのとおりだと思います。
 
 人間は生活体験のすべてを、脳内に「種子」として薫じつけ、貯える。(現行薫種子)
 
 また、日常行動のすべては、この「種子」の影響をうける。(種子生現行)

 その行動の結果によって、また新たな種子を造る。(現行薫種子)

 新たな種子は、脳内で過去の種子と混ざり合い影響し合って、さらに新たな「種子」を造る。(種子生種子)

ということです。
 
 私たちの生活は、頭脳の働きによって常に、このような営みを繰り返しているのです。

 だから正しく生きるためには正しい種子が必要なわけですから、常に正しい考え方や正しい行いを繰り返すことが大切なことである、というわけです。

 ですから私は、どんなに些細なことでもよいから「正しい行動」が続けられるように心掛けたいと思っています。

 「正法眼蔵」の拾い読み(11)・[課題]

2006-02-18 04:34:32 | Weblog
「遍参」の巻に次の文(訳文)があります。
 
 「遍参とは、石が大きければ大きいまま、石が小さければ小さいまま、石はそのままに動かさずして、
大は大とまなび、小は小ときわめるのである。
 それを、ただあれにもこれにもと参見するのは、
まだまことの遍参というものではない。
 遍(アマネ)くとはいうものの、そのなかにいろいろの変化があるのが遍参である。
 地を打つときにはただ地を打つ。それが遍参である。
 ひとつ地を打ったこと思うと、つぎには空を打つ、
さらには四方八方というのは、遍参ではない。」
   (『正法眼蔵』(六)「遍参」巻P127・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

私の解釈

 この文章は、要するに一つのことに徹しなさい、
ということを述べているのです。

 仕事でも何でもそうだと思いますが、一つの課題を定めたときは、そのことに成り切りなさい、ということです。

 成り切るということは、その課題に集中し、広く知識を集め、思索を深めながら作業を進めることです。
つまり、これが遍参するという意味である、と私は思います。

 別の巻で、道元禅師は次のように述べています。
「わずかに一つの事一つの物に通ずれば、よろずの事物に通ずるとはいうのである」
  (『正法眼蔵』(四)「画餅」巻P245) と。

 仕事をする時には、他に気を散らしたり、移り気を起こしたりせずに、自分が為すべきことに、集中して取り組む
ように心掛けたいものです。


「正法眼蔵」の拾い読み(10)・[面壁九年]

2006-02-09 04:39:32 | Weblog
「説心説性」の巻に、私がとても印象に残る文(訳文)がありました。

 この文章は道元禅師が最も強調される「坐禅の実践」に関わることですので、長文になりますが、投稿させていただきました。

〔初祖とニ祖の問答〕

 その時、初祖はニ祖にいった。
 「汝はただ、外はいろいろの事に惹かれることをやめ、内は心をくるしむことなく、心はあたかも牆壁(ショウヘキ)のごとくにして、その時はじめて道に入ることができるのである」  

 そこでニ祖は、いろいろと心を説き性を語ることを試みたが、いずれもぴたりとゆかなかった。しかるに、ある日、忽然としてみずから省みて得るところがあり、ついに初祖に申していった。

 「わたしは、このたび、はじめて、いろいろの事に心惹かれることをやめました」

 初祖は、それで、彼がすでに悟りを得たことを知って、さらに問い詰めることをせず、ただいった。

 「どうだ、それが杜絶(トダ)えることはないか」

 ニ祖はいった。

 「ございません」

 初祖はいった。

 「では、そなた、どんな具合だ」

 ニ祖はいった。

 「あんまりはっきりしているので、ことばではとてもいえません」

 初祖はいった。

 「それが、とりも直さず、これまでの仏祖のかたがたが
伝えてきた心のありようある。そなたはいますでにそれを得たのである。よくそれを大事にするがよい」

    ・・・・・・・

 そのころ、ニ祖はしきりに、心とは、性とは、ああでもあろうかと考え、こうでもあろうかと考えてみるが、どうしても
ぴったりゆかなかった。それが功を積み徳を累(カサ)ねて、ついに初祖がいうところを実現することができたのである。

 (『正法眼蔵』(五)「説心説性」巻P54-55・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)
    
 注: ここで初祖とは禅宗の初祖、菩提達磨であり、ニ祖とはその弟子慧可のことです。

私の解釈

 この文で私が特に印象に残るのは、最初の「心はあたかも牆壁(ショウヘキ)のごとくにして、その時はじめて道に入ることができるのである」という初祖のことばです。

 私はこの文を次のように解釈したいと思います。
 
 つまり、
 達磨大師は「面壁九年」といって、九年間壁に向かって坐禅をされた、といわれます。

 しかし、その壁とは、達磨さんが心の中に設定するべき壁だったのではないかと私は想像するのです。

 つまり、達磨さんは外部と接触する六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と、それらの一つから侵入してくる外来物によって、動揺させられる「心」との間に壁を作ることを考えられた。九年間、その勤め(坐禅)を続けられて、ついに六根と心との間に牆壁を完成され、最高の悟りに達せられたのではないでしょうか?

 この壁によって、心の中は外部と遮断され、涅槃寂静となり仏心の境地が達成されるのではないかと思うのです。

 勿論、ここでいう六根の「意」とは、さまざまな事象を最初に受け入れる場の一つであって、その事象に対して、いろいろと感じたり考えたりする心の領域とは全く別のもの、と考えます。

 例えば、煩悩を消すことについて考えます。

 煩悩の原因は六根から入り込み、それを心の中に取り込んでしまうから、心が乱されるのです。ですから、六根と心との間に壁を作ってしまえば煩悩が消滅するわけです。

 六根と心との間を壁で仕切ってしまえば、心の領域には煩悩が生ぜず、寂静の世界が実現できる、と思うのです。

 ですから、私は、六根(精密には22根あるといわれますがここでは省略します)と心との間に壁を作ることを目標にしながら、仏教を学びたいと考えています。

 凡人には不可能なことのように思えますが、しかし続けて行けば何時かは達成できると信じています。

 最後に坐禅の定義を紹介します。

 『六祖壇経』(六祖慧能の公開説法集)によりますと、次の通りです。
 
 「外一切、善悪の境界において、心念起こらざるを、名づけて坐と為す。
  内自性を見て動ぜざるを、名づけて禅と為す」 というのです。
 
  (『六祖壇経』・中川孝著・タチバナ教養文庫・P112)

 この定義は、「坐」が六根と心との境界部分を示し、「禅」が心の領域全体を示していると思うのですが、如何でしょうか?


「正法眼蔵」の拾い読み(9)・[平常心]

2006-02-07 04:08:25 | Weblog
「神通」の巻に次の文(訳文)があります。

 「四句の偈を受持するというのは、すべて有形・無形のものに対して、その眼も耳も鼻も舌も、いずれにおいても貧(ムサボ)り執(シュウ)しないことである。 
   
 貪り執することがないから、汚れに染まないのである。汚れに染まないのが平常心というものであり、常にそれを大切にするのである。
  ・・・・・・
 これに違(タガ)うのは仏法ではないと知るがよい。」

  (『正法眼蔵』(三)「神通」巻P138-139・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫
    注:この部分の記入方法は 恩師tenjin95さん に見習って変更しました。)

私の解釈

 本文の「四句」とは菩薩が修行する段階とのことで、私には理解不可能です。

 しかし、「平常心」がどういうもので、それを大切にしなければならないということについては納得できます。

 つまり、心が乱れたとき、心の中に平常心を取り戻すためには、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通して入り込んで来たものに、とらわれないことである、というのです。

 考えて見れば、私たちが物事に対して意識したり執着したりするのは、すべて因縁によって、それらの事象の様相が六根を通して心の領域へ入ってくるからです。

ですから心が、それらを貪ったり、執着したりしないようにするためには、六根の働きを止めなさい、というわけです。

 しかし、六根の働きを止めるなどということは、凡人には不可能です。

そこで私たち凡人が、乱された心を平常心に切り替える方法として考えられることは、乱れた心の中を新しく更新することです。

 その手法は、気持ちを切り換えるために明るく愉快なことを考え、それをハッキリ認識して、そのことに打ち込むこと、又は、どんなことでも良いから新たな行動を起こし、それに熱中することです。
 
 このように六根の働きを他に転換することによって、凡人は平常心を起こすことが可能になる、と思うのです。


 凡人としての私は、冒頭の文をこのように解釈して、納得したいと思います。


注: 四句とは、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果のこと。
  預流果とは、聖者の流れに入ることで、最大七回欲界の人と天の間を生まれかわれば悟りを開く位に到達した段階
  一来果とは、一回人と天の間を往来して悟りに至る位に到達した段階。
  不還果とは、浴界には再び還らず色界に上って悟りに至る位に到達した段階。
  阿羅漢果とは、今生の終わりに悟り(涅槃)に至り再び三界には生まれない位に到達した段階。
  (「岩波仏教辞典」による)


「正法眼蔵」の拾い読み(8)・[法が仏を説く]

2006-02-02 03:57:26 | Weblog
「行仏威儀」の項に次の文(訳文)があります。

 ”「烈々たる火焔が天にわたる」というのは
  「仏が法を説く」のであり、

  「天にみなぎる烈々たる火焔」とは
  「法が仏を説く」のである・・・・・” 

  (「正法眼蔵」(三)・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫・「行仏威儀」P58-66)

私の解釈

 私はこの文章の中の「法が仏を説く」という言葉と その考え方に共感します。

 仏様たちは法を説くばかりではなく、法からも教えを聞くというのです。

 私たちだって、法を聞くばかりではなく、法を修正することがあると思います。

 むしろ私たち凡人は法の教えを修正しなければ、それを生活の場で活用できない場合が多くあります。

 例えば「廓然無聖」という言葉(法)があります。

 その意味は、岩波仏教辞典によると、「からりとして際限がなく、仏法の真実からみれば凡とか聖とかの区分はない意」とのことです。

 しかし、私はその意味を修正して、「人間は皆、平等である。相手との間で気まずい関係になったときは、こだわらずにその場を切り抜け、気分はカラリとしておればよい」
というように解釈し、活用することにしています。
 
 この時、私は「八正道」を念頭に置くことが大切であると考えます。

 「八正道」は何事を実践する場合に於ても、常に、心掛けていなければならない徳目であると思います。

 私がこのように解釈しても、「廓然無聖」を説いた達磨大師(禅宗の初祖)の教えに背くことにはならないと思うのです。

追記 : 「天にみなぎる烈々たる火焔」について、

 これは凡人にも適用できる言葉だと思います。

 つまり、私の頭脳内においては様々な法が混ざり合い、私自身が常に変化し続けているという有様を言い表わしている、と解釈できます。

 しかしそのことについての説明は省略します。