八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「善勇猛般若経」を読む(28)[知恵の完成の実践 7]

2008-09-23 04:16:09 | Weblog

 六 実践 ・ 心は思考するものではない

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 善勇猛よ、心が生起するとは、これは転倒にほかならない。善勇猛よ、心といい、心から生じたものといい、これは実は思惟を否定しているのである。

善勇猛よ、実に心の本質というものは、起ることもなく、生じることもない。善勇猛よ、心は転倒を伴なってのみ起る。そのばあい、心もあらわれるが、(心を)生起させる転倒もまたあらわれる。

しかも善勇猛よ、愚かな凡夫たちは、心もあらわれるが、同時に(心が)起る基盤(である転倒)もあらわれ、あるいは (心を)起こさせるもの(としての転倒)があらわれるということを知らない。

 彼らは、心(主観)が(存在を)超脱していることを知らず、対象が(存在を)超脱していることを知らず、ー "心はわれである、心はわれに属する、心はこれこれに属する、心はこれこれから生じる" と妄執する。彼らは心があると妄執したうえで、善があるといって妄執し、あるいは不善があるといって妄執する。 (以下、いろいろと妄執する事例が多数、挙げられている 。  P233-234) (「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p232)

 私の解釈

  この引用文は表題に示す通り[知恵の完成の実践」についての教説文です。この前の文章で世尊は、五蘊や縁起や涅槃や仏の教えなど、たくさんの例を挙げて、それらが思考されえないものであるから、知恵の完成の実践は思考されえないものである、というふうに説いています(本書 p230-p232)。

  ここで取り上げた教説文によりますと、心が生起するということは、転倒であるということであり、また、心は思惟を否定している、とのことす。先ず、このことについて考えて見たいと思います。

 私たちの心には、表層の心と深層の心があると思います。

表層の心とは、日常生活の中で体験する喜怒哀楽などを感ずる心であり、

深層の心とは、私たちが成長するとともに形成される人格としての心であると考えることができます。この深層の心が、仏教で言うところの阿頼耶識であり、心理学でいう深層心理として働く心です。また、心は思惟しないということについては、私たちの深層の心をイメージすれば分かりやすいと思います。

 小説家・吉川英治氏は人間の心について次のように歌っています。

「波騒は 世の常なり 波にまかせて 雑魚は歌い 雑魚は踊る けれど 誰が知ろう 水の心を 水の深さを」と。

この歌の前半が表層の心を表わし 、後半が深層の心を表わしていると思います。

 更にまた、深層の心については、哲学者・西田幾太郎がつぎのように歌っています。

「わがこころ、深き底あり、よろこびも うれいの波も とどかじと おもう」と。

 私たちが日常生活の中で働かせている心は表層の心であり、吉川英治氏のいう波騒のような心である、と思います。

 私たちは物事の事象を表層の心で捉えて、喜怒哀楽などの感情を加えながら処理しているのです。また、私たちが対象とする物事の事象とは、私たちの個人的な因縁に依って現出したものです。因縁に依る事象はすべて、物事の全体像を示すものでもなく、真実の姿を現わしているものでもない、と考えることができます。

 つまり、私たちが対象とする事象は、すべて物事の一部分だけであるということになります。ですから私たちは表層の心で物事の一部分を対象として生活を営んでいるのです。

 このように私たちの対象が物事の全体とか真実を現していないため、仏教ではこれを転倒であるというのです。そして、私たちの心は「転倒を伴なってのみ起こる」というわけです。このような心が、いわゆる私たちの表層の心であり、転倒を伴なうため思惟が生じ、思惟するため苦悩や不安が生まれることになるのです。

 知恵の完成を実践する菩薩は「心の不生」を完全に理解していますから、「心は存在を超脱している」といわれ、心は思惟しないものであるというのです。

 私たちの深層の心は、仏教で「現行薫種子・種子生現行」と説かれているいうように「不生」ではありませんが、思惟はしていない、と思います。思惟はしませんが、私たちが正しい日常生活を心掛けておれば、その行(現行)が深層の心の中に薫習されることによって、正しい生活を営むことができる。深層の心は、そのような働きをしてると思います。

  私たちの深層の心が菩薩の心と同じであるとは言い切れませんが、しかし、重なり合う面がある、と考えることができます。だからこそ、私たちは夢と希望をもって仏典を読み、多くのことを学習したり取得することができるのです。

 なお、菩薩は物事の本質が空であることを完全に知っていますから、「対象は存在を超脱している」といわれるのです。現在の私は、この意味をことばで説明することができません。直観によって納得するより他に理解の仕様がないと思っています。


「善勇猛般若経」を読む(27)[智恵の完成の実践 6]

2008-09-12 04:00:43 | Weblog

 六 実践 ・ "何々である"という邪思の否定

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 善勇猛よ、これらあらゆるものは(真の実在ではなく)、考察推理されたもの、観察されたもの、実践されたり実践されなかったりするものにすぎないからである。

 善勇猛よ、そこで菩薩は、これらあらゆるものが、考察推理されたもの、観察されたもの、実践されたり実践されなかったりするものであることを知って、一切の実践を打ち破るために、また一切の実践を完全に知るために、知恵の完成を実践する。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p230)

 私の解釈

 ここでは省略しましたが、本文の前に、「あらゆるものは夢・幻・かげろうなどの如きものである」と述べられています。その次に本文があり、「あらゆるものは真の実在ではない」と説かれています。

 先ず、私は「あらゆるものは夢・幻・かげろうなどの如きものである」ということについて、次のように解釈しています。

 たとえば今、この場で私の視界に入っている物体は、場所を離れれば完全に視界から消えてなくなります。七日間も経過すれば思い出すことさえできません。

 つまり、すべての物体は、私たちの肉眼の中に常住することはできないということです。

 このことから、一切のものは夢・幻・かげろうの如きものであるということができると思うのです。

  今、肉眼で見える物体について考えましたが、私たちが眼・耳・鼻・舌・身・意( 六根 )で接すること、つまり色・声・香・味・触・法( 六境 )のすべてについても同様のことが言えると思います。つまり、六根のそれぞれを中心として考えれば、すべての物や物事は、夢・幻・かげろうのようなものである、ということになります。

  これが真実です。

  私たちは物や物事を中心に考えますから、すべてのものは本体が常に存在しているというふうな錯覚を起こしているのです。

  私たちはこのような錯覚を起こしながら、物や物事を対象として何の違和感もなく、日常生活を営んでいます。仏教ではこのような生活を真実ではなく、転倒した生活であるというのです。実際には、私たちがかかわるすべての物や物事は夢・幻・かげろうの如きものなのです。

 この真実を十分に認識し、活用する事ができれば、私たちは不安や苦しみを消滅させることができると思います。

 しかし、私たちは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に対しては感謝しなければなりません。何故なら、私たちは六根のそれぞれが、その機能を働かせ、それらの総合力によって日常生活を営むことができるからです。更には、その総合力の働きがあるからこそ、私たちは不安や苦しみを消滅させることもできるのです。

 ( そこで、 私はこれらの器官に両足と宇宙と大気と大地とを加えて 10 とし、夫々に気を巡らして感謝しながら毎日 500 回 「ありがとう」という言葉を唱え続けています)

 本文の最後に、菩薩は「一切の実践を完全に知るために知恵の完成を実践する」ということが述べられています。

 つまり、菩薩は、このように知恵の完成を実践されますが、その実践は世尊と同様、私たち凡人のために巧みな方便を使われているということを忘れてはならないと思います。

 私たちはこのことを十分に納得したうえで、仏典を読み、修行や学習に励まなければなりません。そのためには、困難であっても、四聖諦(苦・集・滅・道)を念頭に置いて、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を心掛けながら日常生活を続ける必要がある、と私は考えています。

[参考]

 参考までに『大乗仏典10 三昧王経Ⅰ』( 田村智淳訳・中公文庫 p159 ) から次の文を紹介します。

「なんとなれば、これらの諸感官は無感覚なものであり、本質的には善でも不善でも ないもの( 無記 )であり、正しい認識の基準とはならないのであるから、それゆえに 涅槃への道を求めるものは 聖なる八種の正しい道によって行為すべきである。[二十四] 」

 なお、ここで「諸感官」とは 六根のことであり、「聖なる八種の正しい道」とは八正道のことです。


「善勇猛般若経」を読む(26)[智恵の完成の実践 5]

2008-09-06 03:48:28 | Weblog

六 実践 ・ "何々である"という邪思の否定

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 善勇猛よ、このように実践する菩薩は、物はこれこれであると見るのではないし、物はこれこれによってあると見るのでもないし、物はこれこれに属すると見るのでもないし、物はこれこれから生じると見るのでもない。

彼は、このように物を見ないから、物をもち上げるのでもなく下に置くのでもなく、物を生起させるのでもなく滅させるのでもなく、物について実践するのでもなく実践しないのでもない。

ー 善勇猛よ、このように実践する菩薩こそ、知恵の完成を実践しているのである。

・・・・・・(省略)(以下、感覚や観念や意志形成や認識についても同様であると教説されています)(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p226)

私の解釈

 本文の前段では、菩薩の物の見方について説明されています。知恵の完成を実践する菩薩は、物について私たちのような見方をしないということです。

 つまり、菩薩は物を「これこれである」とか「これこれによってある」とか「これこれに属する」とか「これこれから生じる」というふうには見ないのです。だから、菩薩から見れば物は生滅しないのです。

 何故このような見方をするのかといいますと、菩薩は因縁の働きから解放されているからである、と私は思います。

 私たち凡人は誕生以来、生活の中で刷り込まれてきた強力な習性によって、因縁と執着心に支配されています。ですから、私たちが見る物とは、常に、物の一部分もしくは一面のみであるということになります。このため、私たちは物の全体像とかありのままの真実の姿とかを見ることができません。

ところが、菩薩は因縁の働きや執着心から解放されていますから、物のありのままの真実をハッキリ見通すことができるのです。しかも、仏典によれば、菩薩は物の本性が「空」であり清浄であるということを完全に知っているとのことです。

  更に、本文によりますと菩薩は「物について実践するのでもなく実践しないのでもない」と教説されています。

 この教えは非常に意味深く、言葉だけでは説明できません。

私たちはこの教えを直観的に理解できるように努力しなければならないと思います。

 私が理解している内容の一端は次の通りです。

 ・「物について実践するのではない」ということについて

 私たち凡人の実践は因縁や執着心に支配されていますから、常に、物の一部分とか一面とかに限定された実践となっています。ところが菩薩は違います。

 菩薩は物の本性が「空」であるという認識を基として、実践されます。ですから、菩薩の実践は、常に、眼前に現れた"物の一部分とか一面とか"に対してだけに限られたものではないということです。

・「物について実践しないのでもない」ということについて

 菩薩は、本性が「空」である物についての真実をありのままに捉えて、常に、知恵の完成を実践するということです。

  私たちが常に念頭に置くべきことは、物と私たちとの間には必ず因縁が介在するということです。つまり、物の様相は因縁によって決まるわけですから、その現れ方は無数に有り得るということです。丁度、大空に様々な雲が現れるようなものです。

 菩薩はその一つ一つについて、私たち凡人を正しく導くために、巧みな方便を使って教説してくださるのだ、と思います。

  以上は、物についてですが、続いて感覚、観念、意志形成、認識についても同様であると説かれています。