第三十二章 「委託」 ・ 如来の教誡と法の嘱累
そこで、さらにまた、世尊はアーナンダ長老に仰せられた。
「さて、アーナンダよ、お前はこの教え方によっても、『まさにこのようにして、この知恵の完成は 菩薩大士たちに全知者の知をもたらすものである』と、こう知るべきである。
そういうわけで、アーナンダよ、全知者の知を獲得しようと思う菩薩大士は、この知恵の完成への道を追求すべきであり、この知恵の完成を聞き、習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦し、書写すべきである。・・・・・・(省略)
アーナンダよ、これ(知恵の完成)がわれわれ(諸仏)の教訓である。それはなぜか。というのは、この知恵の完成において全知者の知は成就するだろうからである。・・・・・・(省略)
アーナンダよ、私はお前にこの知恵の完成を、それが消滅しないように、二度も三度も委託し、委嘱するから、お前はこの(知恵の完成を伝える)最後の人になってはいけない。
アーナンダよ、この知恵の完成が世間に流布しているかぎり、如来が(そこに)存在すると知り、如来が教えを説いているのだ、と知りなさい。 ・・・・・・(省略) 」 (p377)
完
(「八千頌般若経Ⅱ」 丹治昭義訳 中公文庫・大乗仏典 3 p375-376)
私の解釈
私は本文のことばを次ぎのように読み替えて解釈したいと思います。
つまり、”知恵の完成”を「般若心経」と読み、”菩薩大士または諸仏”を「私たち凡人」と読み、 ”全知知者の知”を「凡人としての最高位の知恵」と読むこととします。
このように読み替えて本文を再掲させて頂きますと次ぎのようになります。
① 「般若心経」は私たちに最高位の知恵をもたらすものである。
② 私たちは最高位の知恵を獲得するために「般若心経」の教えを追求すべきである。
③ 私たちは「般若心経」を聞き、習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦し、書写すべきである。
④ 「般若心経」が私たち凡人の教訓である。
⑤ 私たちは「般若心経」の教えを実践することによって最高位の知恵を成就させることができる。
⑥ 私たちは「般若心経」が世間に流布している限り、如来が教えを説いているのであると知らなければならない。
私たちは日常生活の中で憂い、喜び、苦しみ、楽しみ、その他諸々の事象を受け入れながらそれぞれに対処しています。
これはいわゆる「五受(憂・喜・苦・楽・受)の生活」といわれるものです。
本文によりますと、私たちはこのような「五受の生活」の中で、「般若心経」の教えを実践することができれば、最高に幸せな生活ができるのだと思います。
しかも、このような最高に幸せな生活の場では如来(お釈迦さま)の教えを直接受けることができる、というのです。
しかし、「般若心経」の教えを実践するということは、非常に困難なことです。
何故なら、その教えは非常に微妙であり深甚であるため、言葉だけでは理解することが不可能であると考えられるからです。
例えば、「色即是空・空即是色」という教えについてです。
この教えを理解するためには、「鏡に写る映像」を想像すればよいと思います。
例えば、先の「五受の生活」の中で私たちが経験するすべての事象はそれぞれに「鏡に写る映像」と考えます。
この映像は因縁に基づいて映し出されるものですから、その因縁を取り除けば映像も消えてなくなります。
つまり、私たちは因縁を制御できれば、不安も苦しみも執着も自由自在に取捨選択できるというわけです。
しかし、私たちは「般若心経」の教えを実生活の場で実践することは非常に困難です。
何故なら、その教えを実践できる心は十分に修養されていなければならない、と考えられるからです。
心の修養が未熟であれば、たとえ高度な知識や理論が理解できたとしても、それを実生活の場で活用することは不可能であると思います。
私たちが実生活の場で「般若心経」の教えを活用するためには、長年に渡る心の修養を積む必要がある、と私は考えています。
おわり
これで『八千頌般若経』を閉じます。読者の皆様長い間、ありがとうございました。
次回(来年)からは『善勇猛般若経』(戸崎宏正訳・中公文庫・「大乗仏典 1 」)を読む予定です。
皆様
どうぞ良いお年をお迎えください。
来年も、よろしくお願い申し上げます。
zazen256