八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「八千頌般若経」を読む (50) [最終回]

2007-12-18 04:01:36 | Weblog

第三十二章 「委託」 ・ 如来の教誡と法の嘱累

 そこで、さらにまた、世尊はアーナンダ長老に仰せられた。

「さて、アーナンダよ、お前はこの教え方によっても、『まさにこのようにして、この知恵の完成は 菩薩大士たちに全知者の知をもたらすものである』と、こう知るべきである。

そういうわけで、アーナンダよ、全知者の知を獲得しようと思う菩薩大士は、この知恵の完成への道を追求すべきであり、この知恵の完成を聞き、習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦し、書写すべきである。・・・・・・(省略)

アーナンダよ、これ(知恵の完成)がわれわれ(諸仏)の教訓である。それはなぜか。というのは、この知恵の完成において全知者の知は成就するだろうからである。・・・・・・(省略)

アーナンダよ、私はお前にこの知恵の完成を、それが消滅しないように、二度も三度も委託し、委嘱するから、お前はこの(知恵の完成を伝える)最後の人になってはいけない。

アーナンダよ、この知恵の完成が世間に流布しているかぎり、如来が(そこに)存在すると知り、如来が教えを説いているのだ、と知りなさい。 ・・・・・・(省略) 」    (p377)

               完

(「八千頌般若経Ⅱ」 丹治昭義訳 中公文庫・大乗仏典 3 p375-376)

 私の解釈

  私は本文のことばを次ぎのように読み替えて解釈したいと思います。

つまり、”知恵の完成”を「般若心経」と読み、”菩薩大士または諸仏”を「私たち凡人」と読み、 ”全知知者の知”を「凡人としての最高位の知恵」と読むこととします。

  このように読み替えて本文を再掲させて頂きますと次ぎのようになります。

 ① 「般若心経」は私たちに最高位の知恵をもたらすものである。

 ② 私たちは最高位の知恵を獲得するために「般若心経」の教えを追求すべきである。

 ③ 私たちは「般若心経」を聞き、習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦し、書写すべきである。

④ 「般若心経」が私たち凡人の教訓である。

⑤ 私たちは「般若心経」の教えを実践することによって最高位の知恵を成就させることができる。

 ⑥ 私たちは「般若心経」が世間に流布している限り、如来が教えを説いているのであると知らなければならない。

  私たちは日常生活の中で憂い、喜び、苦しみ、楽しみ、その他諸々の事象を受け入れながらそれぞれに対処しています。

これはいわゆる「五受(憂・喜・苦・楽・受)の生活」といわれるものです。

 本文によりますと、私たちはこのような「五受の生活」の中で、「般若心経」の教えを実践することができれば、最高に幸せな生活ができるのだと思います。

 しかも、このような最高に幸せな生活の場では如来(お釈迦さま)の教えを直接受けることができる、というのです。

 しかし、「般若心経」の教えを実践するということは、非常に困難なことです。

 何故なら、その教えは非常に微妙であり深甚であるため、言葉だけでは理解することが不可能であると考えられるからです。

 例えば、「色即是空・空即是色」という教えについてです。

  この教えを理解するためには、「鏡に写る映像」を想像すればよいと思います。

  例えば、先の「五受の生活」の中で私たちが経験するすべての事象はそれぞれに「鏡に写る映像」と考えます。

この映像は因縁に基づいて映し出されるものですから、その因縁を取り除けば映像も消えてなくなります。

つまり、私たちは因縁を制御できれば、不安も苦しみも執着も自由自在に取捨選択できるというわけです。

 しかし、私たちは「般若心経」の教えを実生活の場で実践することは非常に困難です。

何故なら、その教えを実践できる心は十分に修養されていなければならない、と考えられるからです。

心の修養が未熟であれば、たとえ高度な知識や理論が理解できたとしても、それを実生活の場で活用することは不可能であると思います。

  私たちが実生活の場で「般若心経」の教えを活用するためには、長年に渡る心の修養を積む必要がある、と私は考えています。

 おわり

 これで『八千頌般若経』を閉じます。読者の皆様長い間、ありがとうございました。

次回(来年)からは『善勇猛般若経』(戸崎宏正訳・中公文庫・「大乗仏典 1 」)を読む予定です。

皆様

どうぞ良いお年をお迎えください。

来年も、よろしくお願い申し上げます。

                           zazen256 

 

 


「八千頌般若経」を読む (49) [般若心経]

2007-12-11 03:19:05 | Weblog

 第三十一章 「ダルモードガタ菩薩」 ・ ダルモードガタ菩薩の教え - 知恵の完成

 以下が、そこでのダルモードガタ菩薩大士の、知恵の完成についての教説である。すなわち、

(1) あらゆるものが平等であることによって、知恵の完成も平等であり、

(3) あらゆるものが不動であることによって、知恵の完成も不動であり、

(4) あらゆるものが無念無想であることによって、知恵の完成も無念無想であり、

(7) あらゆるものが無辺であることによって、知恵の完成も無辺であり、

(8) あらゆるものが不生であることによって、知恵の完成も不生であり、

(9) あらゆるものが不滅であることによって、知恵の完成も不滅であり、

(10) 虚空が無辺であることによって、知恵の完成も無辺であり、

(13) 虚空が無想念であることによって、知恵の完成も無想念であり、

(20) あらゆるものが無差別であることによって、知恵の完成も無差別であり、

(21) あらゆるものが認識できないことによって、知恵の完成も認識できないのであり、

(23) あらゆるものが活動を欠くことによって、知恵の完成も活動を欠き、

(24) あらゆるものが不可思議であることによって、知恵の完成も不可思議である、と知るべきです」

(「八千頌般若経Ⅱ」 丹治昭義訳 中公文庫・大乗仏典 3 p370)

 (投稿者注:仏典では24項目が挙げられていますが、長くなるため、そのうちの12項目 のみを示しました。カッコ内の数字は仏典で示されている番号です)

 私の解釈

 私は、本文においても「知恵の完成」とは「般若心経」のことであると解釈しています。

  そこで本文を解釈する前に「般若心経」の核心部をハッキリ認識しておきたいと思います。

 「般若心経」では五蘊(色・受・想・行・識)は、全てその本体が無く「空」であると説いています。何故なら、これらは全て「因縁の法則」に基づいて生起するものであるからです。

 さらに、「般若心経」は具体的な説明によって、私たちが「空の世界」で生活していることを教説しています。

 つまり、私たちの生活の場には、先の五蘊だけでなく、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)も六境(色・声・香・味・触・法)も六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)も四聖諦(苦・集・滅・道)も八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)も十二因縁(無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死)も、全て、それらの本体は存在しない(「無」)、と説いています。

  ここで、私は文章を簡略化するため、これらのすべて、即ち五蘊から十二因縁までを一括して「生活要素」と呼ぶことにします。

 「般若心経」の教えによりますと、上述の「生活要素」のすべては、その本体が「無」であり、私たちの生活は「空の世界」の中で「因縁の法則」に従って営まれている、というのです。

  これを譬えて言えば、「大空に浮かぶ雲のようなものである」ということもできると思います。

つまり、大空が私たちの脳(心)であり、生活の瞬間、瞬間を考えれば、「生活要素」の一つ一つが、雲のようであると思います。

更に、私たちが経験することの全てについても、生じたり消えたりする様子はまるで雲のようである、といえます。

  大空で様々な形状をしている雲は本体がなく、すべて「因縁の法則」に従って発生しています。

 このように大空に浮かぶ雲をイメージすることによって私は、仏典で教説される「知恵の完成」(「般若心経」)のすべてが納得できるように思えるのです。

  ここでは、先に私が取り挙げた12項目のうちから4項目を選んで解釈することとします。

 (1) 「あらゆるものが平等であることによって、知恵の完成も平等である」

  たとえば、空に浮かぶ様々な形状の雲は「因縁の法則」に従って発生したものであり、すべての雲は平等です。同様にして私たちが経験することや先に示した「生活要素」の すべては平等であると考えられます。「般若心経」の教えは、これらの個々に対応して教説されますから平等である、ということになります。

(8) 「あらゆるものが不生であることによって、知恵の完成も不生である」

  たとえば、大空に浮かぶ雲はその因縁をすべて取り除けば私たちは雲として視認できなくなります。 雲としては視認できなくとも宇宙内では雲の要素は存在しています。このことは 「因縁の法則」さえ整えば、人々はいつでも雲として視認できるということです。 即ち、すべての雲は不生である、ということになります。 同様にして、「般若心経」の教えも「因縁の法則」に従って、生活の場で個々に対応して 教説されるものですから、本来は不生である、ということになります。

(21) 「あらゆるものが認識できないことによって、知恵の完成も認識できないのである」

 あらゆるものの本体は「空」であり、これらは「因縁の法則」に従って生起していますから、それらの本体は認識できません。「般若心経」についても同様であり、その本体を認識することはできません。

 (24) あらゆるものが不可思議であることによって、知恵の完成も不可思議である、と知るべきです」

 大空に浮かぶ雲は、それぞれに「因縁の法則」にしたがって発生するのですが、それぞれにさまざまな姿を見せています。このことは真に不可思議です。

 「般若心経」についても、雲と同様、時と場合に応じて、しかも「因縁の法則」にしたがってさまざまな教説となって生活の場に示されます。「般若心経」の教えは無量・無数であり、しかも無辺に行き届きますから、真に不可思議な教えです。

 以上で終わります。最後まで読んでくださいまして、真にありがとうございました。  

  簡単なコメントでも頂ければ有り難く存じます。

 私は今後も「般若心経」の教えについて思索・研究を続けなければならない、と考えています。

 


「八千頌般若経」を読む (48) [脳(心)の営み]

2007-12-03 03:30:12 | Weblog

第三十一章 「ダルモードガタ菩薩」 ・ 不去、不来の縁起

 ダルモードガタ菩薩は語った。

 「・・・中略・・・

 不去、不来の縁起

 良家の子よ、たとえば、大海のなかにあるいろいろな宝は、東の方角からくるのでもなく、南からでもなく、西からでもなく、北からでもなく、(東南などの)四維からでもなく、下からでも、上からでもなく、いかなる場所や方角からくるのでもなくて、有情たちの善い果報を生じる行為(善根)にもとづいて、いろいろな宝は大海のなかに生じるのです。

それらのものは原因なくして生じるのでなく、原因、条件、理由に依存し、依拠して生じた(縁起)ものなのです。滅しつつあるときも、それらの宝は十方の世界のいずれにも移動するのではありません。

そうではなくて、ある諸条件が存在するあいだ、それらの宝はあらわれ、その諸条件が存在しないならば、それらの宝はあらわれないのです。

 (この後の文で、”それらの如来の完全な身体は、十方にあるどの世界から来たのでもなく、 十方の世界のいずれかへ去るのでもないのです。”とある。 P359)

(「八千頌般若経Ⅱ」 丹治昭義訳 中公文庫・大乗仏典 3 p358)

私の解釈

 唯識哲学には「種子生現行・現行薫種子」(シュウジ ショウ ゲンギョウ・ゲンギョウ クン シュウジ)という言葉があります。

つまり、私たちの活動(現行)は、すべて脳(心)の奥底にある活動の素(種子)に基づいて営まれるのであり、更に、その活動の結果は脳(心)の中に新たな種子として蓄積され、過去の種子と混ざり合いながら、薫習されるというのです。

(薫習とは、強い香りが衣服などに付着して残存するように、経験した事柄が心あるいは肉体に印象を与えてその結果が残存することをいう。 ー 岩波 仏教辞典によるー )

  また、このような脳内の営みについて、唯識論では「転ずること暴流の如し」と説明されています。

 ですから私たちは普段から善い行いを続ければ、脳(心)の中には善い種子が薫習され、善い種子は善い行いを生じる基となるというわけです。

 本文でいう宝とは、この種子のことであり、大海とは脳(心)のことであると解釈できます。

 更に、浄土教には「本願一乗円融無碍 真実功徳大宝海」(ホンガン イチジョウ エンユウムゲ・シンジツ クドク ダイホウカイ)という言葉があります。

この言葉は、私たちが仏心の成就を目標として学び続ければ(本願一乗)、まるで大宝海にも譬えられるような脳(心)の働きによって、真実の功徳を自由自在(円融無碍)に取り出すことができる、というふうに解釈できます。

 このように唯識哲学や浄土教によりますと、私たちは普段から、よい行いを続ければ、まるで大海のなかにいろいろな宝が生じるように、脳(心)内には善根となる種子が育まれるというのです。

  ところが、私たちは常に正しい行為のみを続けることはできません。

 そこで、私たち凡人が正しい心を磨くためには、陰徳を積むことも大切ですが、不正行為に対しては、その都度反省し、心の修正を積み重ねるる必要があると思います。

 要するに、私たちは日常生活のなかで、「正しい心を持つ」ということを念頭に置き、善悪の行為が微妙にバランス良く行われるように心がけることが肝要であると思うのです。