第六章 「随喜と廻向」・無取得 より
上座のスブーティ長老はマイトレーヤ菩薩
大士につぎのように言った。
「もし彼が、現に存在しない徳目、存在しない
対象を対象として認識し、その特徴をとらえる
ならば、どうして彼の意識は誤っておらず、
心も見解も誤っていないといえましょうか。
それはなぜかといますと、そのようなものが
現に存在しないにもかかわらず、無常なるもの
をこれは常住だと、苦しみをこれは楽しみだ
と、無我なるものをこれは自我だと、汚れた
ものをこれは浄らかだと考え、 想像して、
人は愛着(貪)を起こすのであるが、
それは誤った意識、誤った心、誤った見解
なのである。
・・・・・・(省略)。」 (p170)
(「八千頌般若経Ⅰ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 2,)
私の解釈
この言葉は「般若心経」のなかで説かれて
いる「遠離一切顛倒無想」に関わる教えでも
あります。
私たちは、常・楽・我・浄について、常なる
ものを無常と考え、楽しいことを苦しいと考え、
我を無我と考え、浄いものを汚れていると考え
たり、また、その逆についても当然のことのよう
に思い込んでしまう傾向が強いといわれます。
たとえば、「無常」なることを「常」であると
考えてしまう例として、「私という人間」を
挙げて見ます。
私たちは、この「私という人間」について
考えるとき、昨日の自分も今日の自分も
まったく同じ人間であると思い込んで
しまいます。
しかも、その考え方は当然であり、疑う余地
もないと思っています。
しかし、この考え方は誤りであります。
なぜなら、もしも今日の自分が昨日の自分と
全く同じで変化していないのであれば、私たち
は永久に生き続けることになってしまいます。
ですから、今日の自分は、昨日の自分では
ないし、また明日の自分は今日の自分では
ないのです。
このことを私たちはハッキリ認識する必要が
あります。
同様のことが「楽しいこと」にも「我」にも、
「浄いこと」についても、私たちは逆に捉えて、
それが当たり前である、と思い込んでしまう
というのです。
逆に、また私たちは無常を常に、苦を楽に、
無我を我に、汚れを浄いというふうに決めつけ
てしまって、それが当然であるかのように思い
込む傾向が強い、といわれ、これを「顛倒」と
いうわけです。
このように、常識であるかの如くに、当然の
こととして思い込んでいることは間違っている
から、その間違った考え方から遠く離れ
なさい、そのためには、何も考えないで、
あるがままに生きればよい、という教えが
「般若心経」のなかで、「遠離一切顛倒無想」
という言葉によって説かれているのです。
ここで、「あるがままに生きる」という内容
は、非常に微妙で高度な営みであること
は、いうまでもないことです。