八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「八千頌般若経」を読む (6) [顛倒無想]

2006-05-31 04:09:01 | Weblog

第六章 「随喜と廻向」・無取得 より    

 上座のスブーティ長老はマイトレーヤ菩薩

大士につぎのように言った。


 「もし彼が、現に存在しない徳目、存在しない

対象を対象として認識し、その特徴をとらえる

ならば、どうして彼の意識は誤っておらず、

心も見解も誤っていないといえましょうか。

 それはなぜかといますと、そのようなものが

現に存在しないにもかかわらず、無常なるもの

をこれは常住だと、苦しみをこれは楽しみだ

と、無我なるものをこれは自我だと、汚れた

ものをこれは浄らかだと考え、 想像して、

人は愛着(貪)を起こすのであるが、

それは誤った意識、誤った心、誤った見解

なのである。


 ・・・・・・(省略)。」 (p170)

    (「八千頌般若経Ⅰ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 2,)

私の解釈

 この言葉は「般若心経」のなかで説かれて

いる「遠離一切顛倒無想」に関わる教えでも

あります。

 私たちは、常・楽・我・浄について、常なる

ものを無常と考え、楽しいことを苦しいと考え、

我を無我と考え、浄いものを汚れていると考え

たり、また、その逆についても当然のことのよう

に思い込んでしまう傾向が強いといわれます。
 

たとえば、「無常」なることを「常」であると

考えてしまう例として、「私という人間」を

挙げて見ます。
 

 私たちは、この「私という人間」について

考えるとき、昨日の自分も今日の自分も

まったく同じ人間であると思い込んで

しまいます。


 しかも、その考え方は当然であり、疑う余地

もないと思っています。
 

 しかし、この考え方は誤りであります。

なぜなら、もしも今日の自分が昨日の自分と

全く同じで変化していないのであれば、私たち

は永久に生き続けることになってしまいます。

ですから、今日の自分は、昨日の自分では

ないし、また明日の自分は今日の自分では

ないのです。


 このことを私たちはハッキリ認識する必要が

あります。

 同様のことが「楽しいこと」にも「我」にも、

「浄いこと」についても、私たちは逆に捉えて、

それが当たり前である、と思い込んでしまう

というのです。

 逆に、また私たちは無常を常に、苦を楽に、

無我を我に、汚れを浄いというふうに決めつけ

てしまって、それが当然であるかのように思い

込む傾向が強い、といわれ、これを「顛倒」と

いうわけです。
 

 このように、常識であるかの如くに、当然の

こととして思い込んでいることは間違っている

から、その間違った考え方から遠く離れ

なさい、そのためには、何も考えないで、

あるがままに生きればよい、という教えが

「般若心経」のなかで、「遠離一切顛倒無想」

という言葉によって説かれているのです。


 ここで、「あるがままに生きる」という内容

は、非常に微妙で高度な営みであること

は、いうまでもないことです。


「八千頌般若経」を読む (5) [知恵の完成の徳性]

2006-05-27 03:37:16 | Weblog

第四章 「(知恵の完成の)徳性の称揚」 より

 世尊は仰せられた。
 「また、カウシカよ、現に、無量、無数の世界

仏陀世尊たちが存在し、耐えられ、生きて

おられるが、カウシカよ、彼ら仏陀世尊も

この知恵の完成に達して、無上にして完全な

さとりをさとっておられるのである。」

                                        (P136)

 「カウシカよ、菩薩大士は長いあいだ、

知恵の完成への道を追求するので、

そのために、知恵の完成によって、すべての

有情の心の動きを正しく知り、見るのである」

                                             (p137)

 神々の主シャクラは世尊につぎのように

申し上げた。
 

 「世尊よ、実に、この知恵の完成というものは

偉大なる徳性をそなえています。

 世尊よ、この知恵の完成というものは無量の

徳性をそなえています。

 世尊よ、この知恵の完成というものは無辺の

徳性をそなえています。」 (p138)

(「八千頌般若経Ⅰ」 梶山雄一訳 大乗仏典 2,  )

私の解釈

 人々はすべて死んだ後に、仏様となられる

のだと思います。その仏様たちは「空の世界」

に住んで、仏陀世尊となられ、「知恵の完成」

達し、無上にして完全なさとりをさとって

おられるのだろうと私は考えています。

 ですから、仏様方の特性は偉大で無量、

無辺であると信じているわけです。

 たとえば、私の場合、祖先の墓前に立って

手を合わせて拝むとき、非常に厳粛な気持ち

になります。その場では祖先の霊魂と私の

霊魂の出会いを感じます。そこには言葉では

表現できないほどの微妙な雰囲気があります。


強いて言葉で表現するとすれば、祖先の霊は

私に対して、「皆と仲良く暮らして、長生きを

しなさい」といっているように感じられるのです。

 その言葉には理屈や補足説明など一切あり

ません。

 「知恵の完成」に近づくためには、何をどの

ように学べばよいかということが私には全く

分かりません。

 とりあえず、私は試行錯誤しながら「空」に

ついての思索を続けて行こうと考えています。


「八千頌般若経」を読む (4) [知恵の完成による功徳]

2006-05-24 04:17:27 | Weblog

第三章 「知恵の完成とストゥーパ(塔)との

    尊敬に無量の功徳のあること」 の項に

    世尊の言葉として次の訳文があります。

  「・・・・・・(省略)。 実に、知恵の完成は、

貪りをはじめとして涅槃に対する執着にいたる

までの(すべての煩悩の)鎮め手であって、

成長させるものではないからである。

  ・・・・・・(省略)。

  この知恵の完成を習い、覚え、理解し、宣布

し、説き、述べ、教示し、読誦する良家の男子

女子は、快いことばを語る人、やわらか

ことばを語る人、適切なことばを語る人、筋の

通ったことばを語る人となるのであって、怒り

を抑えきれなかったり、慢心を抑えきれ

なかったりすることはないであろう。

それはなぜか。というのは、知恵の完成が彼を

訓練し、知恵の完成が彼を成熟させて、怒りや

慢心を増長させないからである。

彼は憎しみをいだかず、悪意をいだかず、

悪への傾向性(隋眼)をもたないのだ。

  このように振舞う良家の男子や女子には、

注意深さ(念)と慈しみの心とが生じてくる。

 (「八千頌般若経Ⅰ」 梶山雄一訳

 大乗仏典 2, p80 )

 

  私の解釈

  ここでは、知恵の完成を修得された菩薩たち

の振舞い方が述べられています。  

 私たち凡人は、このような振舞い方を一時的

にはできるかも知れませんが、

いつも自由自在にできるわけがありません。

  しかし、知恵の完成がどのような意味を

持っているかについては、その一端にしか

すぎませんが、理解することはできます。

  そこで私は、知恵の完成に近づくためには、

とりあえず次のような考え方に徹する必要が

あると理解しています。

  一、日常生活のなかで体験することは

   すべて因縁によるものであり、その因縁

   さえなくなれば、それによって起こる事象

   は消えてなくなる。

  二、すぺての事象は因縁によるものである

    ため、 実体がない。これを「空」という。

   三、私たちが外界と接する部分には、

     「空」の領域がある。即ち、六根(眼・

     耳・鼻・舌・身・意)がその領域であり、

     事象はそれぞれに、この領域を経由

     して心の中(すべての事柄を記憶して

     おり、その収容能力は巨大である)

     へ浸透してくる。

  四、心の中を清浄化するため、常に

    「八正道」を心がける必要がある。

 

 「心性本浄・煩悩本空」ということばがあり

ますが、 当に、この辺のところを教えている

のである、 と私は思います。


「八千頌般若経」を読む (3)「心は微妙で深い」

2006-05-19 03:34:11 | Weblog

第二章 シャクラ(帝釈天) の項に次の訳文があります。

 「・・・・・・預流果に達し、預流果にとどまりたいと思うものはこの(知恵の完成の微妙で、深い)ことを受容(忍)しなければ、そうはなれないのです。

・・・・・・無上にして完全な悟りに達し、無上にして完全なさとりにとどまろうと思うものは、この(同上)ことを受容するにいたらなければ、そうはなれないのです」

 (「八千頌般若経Ⅰ」 梶山雄一訳 大乗仏典 2, p60 )

 ここで私が注目したいことは、次の二点です。

 一、 知恵の完成は微妙で深い、ということ。

 二、 達成した境地にとどまろうとするためには微妙で深いことを受容(忍) するにいたらなければならない、ということです。

  知恵の完成がどのようなものであるかということについては、第一章(p8)から第二章(p74)まで具体的に述べられていますが、これらをブログで紹介することは、とてもできません。

  端的にいえば、知恵の完成、つまり、無上にして完全なさとり、に達するとは、「ものものごとは、実体のない「空」なるもので、それらは幻であり夢のごときものである、という念を持ち続けられることである」 ということではないかと私は受け止めています。

  凡人には実行不可能なことです。しかし凡人は凡人のレペルでその意味するところを理解し、その一端を一時的ではありますが、生活に活用することはできると思います。

 しかし、ここで常に念頭に置いていなければならないことがあります。

  それは、凡人がこのような「知恵の完成」の教えを活用するための絶対的な条件として「八正道」をこころがけ続けるということです。

  八正道とは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という言葉で示される正しい道のことです。

  日常生活の中では常に正しい行いをするように心がける必要があると思います。  

そのような生活の中で私たちは、すべての物事が実体のない「空」であり、幻であり夢のごときものである、という教えを理解し活用できるようになる、と私は考えています。

  私たちの生活の営みは、いわば心の営みであり、それは真に微妙で深く広大なものです。


「八千頌般若経」を読む (2)

2006-05-08 05:03:46 | Weblog
「第一章 あらゆる様相に通じる仏知の追求」の中に次の訳文があります。

スブ―ティ長老は世尊につぎのように申しあげた。(p40・不生の項)
「・・・・・
 仏陀というものは名前だけのものにすぎません。
 菩薩というものは名前だけのものにすぎません。
 知恵の完成というものは名前だけのものにすぎません。
 そして、その名前さえも生起し(存在し)ているものものではありません。
 自我はまったく生起していません。

 そのようにすべてのものに本体(自性)がないときに、把握もされず、生起もしていない物質的存在とは何でしょうか。感覚、表象、意欲、思惟とは何でしょうか。

 このようにすべてのものに本体がないということが不生ということなのです。

 そして、すべてのものの不生ということはすべてのもの(の存在すること)ではありません。それなのにどうして、不生のものを不生なる知恵の完成において私は教えさとせましょうか。

 世尊よ、また不生ということを別にして、すべてのもの、仏陀の特性、菩薩の特性、またさとりを追求する人も認識されはいたしません。
 ・・・・・・ 」
(「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳・中央公論親社刊・大乗仏典2 ,p39,40) 

 また、スブ―ティ長老は神々の主シャクラに次のように話しかけています。(同・p53)
 「・・・・・・
  カウシカよ、菩薩大士は空ということ(空性)にとどまって知恵の完成に心をとどめるべきです。カウシカよ、それによって菩薩大士は偉大な(徳の)甲冑(カッチュウ)に身を固めねばなりません。
  ・・・・・・ 」 と。

私の解釈

 私は「物事はすべて不生なものである」という教えをはっきり意識して、役立てるときがあります。

それは、寝床の中で嫌なことを思い出し、仲々寝つかれないときです。

このとき、私は気持ちを切り替えるためプラス言葉を唱えたり、明るい場面を思い浮かべたりなど、といろいろなことを試みます。

しかし、最後には「今、この寝床の中では何も生じていない。ここに有るのは自分の肉体だけだ。この自分の肉体さえ幻の自分に過ぎないなのだ。何も悩むことはない」と自分に言い聞かせて納得させます。

このように考えることによって、私はいつの間にか眠りに入っていけるようです。
 
この「物事はすべて不生なものである」という教えは、勿論、寝床の中だけで活用されるものではありません。この教えは、生活の場、全域で意識的に実践されるべきであると思います。
凡人には仲々難しい実践徳目のように思えます。

 しかし、この「すべてのものは不生である」という教えは、私たちが毎日体験していることであって、この営みによって私たちは成長を続けている、と考えられます。
このことは、因縁の教えを導入して考えれば納得できることです。

だからこそお釈迦様は「八正道」を実践しなさいと教えているのだと思います。

つまり、「八正道」を実践し、心の中を清浄にしなさい、そのうえでものごとを不生なものとして、そのありのままを受け入れなさい、という教えであると思うのです。

 お釈迦様の教えをこのように理解することによって、私は「空性にとどまって、知恵の完成に心をとどめること」へ向かうことができるのではないか、と考えます。

ここで「知恵の完成に心をとどめる」ことは、心に意識しないことである、知恵の完成さえ存在しないものである、という教えですが、そのような心の状態になることなど、凡人である私には不可能です。

 私にできることは仏教を学び続けることだけです。