八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

凡夫が読む『般若心経』ーはじめに

2008-12-16 03:43:11 | Weblog

 私と「般若心経」との出会い

 私が初めて「般若心経」の解説本(文庫本)を購入したのは北陸地方の駅の売店でした。当時、私は40 歳の働き盛りで、仕事は繁忙を極めておりました。土・日・祭日の休みもなく、残業時間は月~土曜日の分だけでも、毎月80 時間を越えていました。手当てはそのうちの 18時間分だけです。

家内には随分と心配させたり苦労させたりしましたが、私の職場哲学は「仕事のために仕事をする。仕事は上司のためにするのではない。」というものでした。ですからサービス残業のことについては何の不満もありませんでした。

  当時は職務により、北陸地方へ度々出張しました。鉄道は民営化される前の「国鉄」でしたが、出張先へは本線の駅から支線に乗り換えて行くのです。不便な場所で、本線の駅へ夜の九時頃までに着かなければその日に帰ることが出来ません。時々、私はその時間に間に合わなく、翌朝の三時頃の始発電車まで、駅の待合室で一夜を明かしていました。職場には午前8時頃に帰り着きますが、その日は続けて勤務でした。

  このような生活の中で、私は読書する時間がありませんでした。ですから、駅の売店で「般若心経」の本を見つけたときは、"これを読むことだ"、と直観しました。これを覚えて暗誦しながら教えを学べば、一般書を読む以上の効果があると思い、直ぐ購入しました。

 私は、忙しい生活のなかで「般若心経」を手帖に書写し、それを持ち歩き、出張途中の帰りの電車の中などで覚えました。

 以来、私は30年間、時には毎日、今でも「般若心経」の教えに感動しながら暗誦を続けています。

  私はこれまでにいろろいな沢山の仏典や仏教関係の書物を読んできましたが、仏教の教えは「般若心経」の経文に集約することができるのではないかと思っています。

 「般若心経」の教えは、当に「知恵の完成」であり、世尊の知であり、無分別の知であります。私たち凡人の分別知だけでは、経文の教えを自由自在に実践することができないのではないかと思います。

 この考え方を実証するかのような教説文(太文字部 )を次に紹介します。

 「また、世尊よ、知恵の完成への道を追究し、知恵の完成を修習する菩薩大士は、 教えられているときに、彼がそのさとりに志向する心(菩提心)におごらない、 というような仕方で学ばねばなりません。なぜかというと、心というものは心ではありません。心の本性は浄く輝い(てすべての汚れを離れ)ているのです」 (中公文庫・大乗仏典 2 八千頌般若経 Ⅰ・梶山雄一訳・p11)

  私は、この教説文でいう「心」とは、いわゆる凡人が持っている分別する心を意味していると思います。一方、「般若心経」の教えは浄く輝いて、すべての汚れを離れた無分別の知恵が説かれているのです。

 私は、この関係をイメージ的に湖の様相であると考えています。つまり湖は浄く澄んでいるように眺められますが、その水中を細かく分析的に観察すればいろいろな不純物が含まれています。私たちと般若心経との関係も同じようなものではないかと、考えています。

  つまり、「般若心経」の教えは浄く輝いた無分別の知恵が説かれています。ところが、私たちはそれを煩悩で汚された分別心で誦んで、それを自己流に解釈しているのです。

 「般若心経」に関しては、多くの解説本がありますが、それぞれに解釈の内容が異なっているように思います。何故かと言えば、言葉や文章はすべて分別する心から生れるからであると思います。

 私は可能な限り、生活の営みに照合させながら、「般若心経」を暗誦するように心掛けています。

  次回から「凡夫が読む『般若心経』」と題して、少しずつ投稿する予定です。現在は、図書館で「新版 仏教学辞典」((株)法蔵館)により、経文で使われている言葉の意味を確認しているところです。


「善勇猛般若経」を読む(最終回)[知恵の完成の住まい 7]

2008-12-08 04:07:20 | Weblog

七 讃嘆 ・ 経典にそなわる高貴な徳

 実にこの教えを世尊が説かれたとき、はかりしれない多くの菩薩が、存在は(本来)生じることがないという認識(無生法忍)を得た。また、はかりしれない無数の衆生が、このうえなく正しいさとりを求める心を起こし、如来によって、彼らはさとりをかならず得る、と告げられた。

 -世尊がこのように説かれたとき、偉大な菩薩である善勇猛や、そのほかその席に連なる四種の衆生(四衆)や、神々や、人間たちや、龍や、ヤクシャや、ガンダルヴァやアスラや、ガルダや、キンナラや、マホーラガという世間のものたちは、心楽しみ、世尊のことばに歓喜した。

 以上、第七「讃嘆の章」である。 (「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p298)

私の解釈

 「正しいさとり」とはどのようなものであるのか。

私はそれを理解することはできませんが、次のような解釈もできるのではないか、と思います。

 つまり、仏教によりますと、私たちは「憂・喜・苦・楽・受」という五受の生活をしているとのことです。「正しいさとり」の生活とは、「無生法忍」(存在は本来生じることがないという認識) を達成したうえで、これら五受の生活体験において、常に正しい考え方とか行動ができるという境地なのであろうと思うのです。

  仏教には頼らないと豪語されるた昭和の哲人・中村天風師は「思念力」というものを強調されます。つまり、心は清く尊いものであり、それは人間に本来備わっている[思念力」によって、蘇らせることができるというのです。

 師によれば、心を曇らせるような出来事に出会ったときには「思念力」を働かせて、心が晴れ晴れするような積極的な考え方をし、言葉を使うことによって、その場を乗り切ることができる、と述べておられます。(「ほんとうの心の力」・中村天風・PHP文庫による)

  その「思念力」の根底に「無生法忍」の認識が少しでもあれば、なお良いと私は考えます。

つまり、すべての物事は永続的に存在しないのです。何故なら、物事はすべて因縁によって生起し、消滅するものであり、「無生法忍」とは、このことをはっきり認識することでもあるからです。

  仏教の教えは、私たち凡人の不安や苦しみを和らげ、心の中が清く尊い晴れやかな状態を保持するように導いてくださいます。

 ですから、私たちは「さとり」の境地に達することができなくとも、世尊の教えを学ぶだけでも十分に幸せであり、ありがたいことであると私は考えています。

  これで、「善勇猛般若経を読む」を終わります。

 読者の皆様、長い間、私の拙文に、お付き合いしてくださいまして、真にありがとうございました。

 来年は「般若心経」について、私の解釈を交えながら投稿する予定です。

 


「善勇猛般若経」を読む(39)[知恵の完成の住まい 6]

2008-12-05 03:37:44 | Weblog

七 讃嘆 ・ 知恵の完成を学ぶということ

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 ・知恵の完成を学ぶということ

 善勇猛よ、知恵の完成を学習する菩薩は、どんなものも - 世間的なものであろうと、超世間的なものであろうと、因果関係のあるもの(有為)であろうと、因果関係を超えたもの(無為)であろうと、煩悩のあるもの(有漏)であろうと、煩悩のないもの(無漏)であろうと、罪のあるものであろうと、罪のないものであろうと -学んでいるのではない。

彼は、どんなものに対しても固執せず、あらゆるものに固着しないあり方でいるものとなっている。

  ・固着することなく、縛られることのないものには、解放もまたない

 それはなぜであるか。善勇猛よ、あらゆるものは執着されてあるのでもなく、縛られたのでもなく、解放されたのでもなく、また何かに固着しているものとしてあるのでもなく、何かを縛っているものとしてあるのでもないからである。 以下・・・・・・(省略)」(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p290)

 私の解釈

 ここでいう菩薩とは、既に知恵の完成の境地に達せられ、知恵の完成という住まいに住まわれている修行者のことをいいます。

 そのような菩薩たちは、どんなものも学んでいるのではなく、あらゆるものに執着せず、縛られず、解放されているのでもない、というわけです。

 この教えを理解するために、私は一つの事例を挙げて考えたいと思います。

  たとえば、仏教の教えの中に「あらゆるものは本体がないから空である、それは、それが絶対的に清浄であるということである」というのがあります。

知恵の完成に達した菩薩たちは、このような教えに関わる如何なることも学ぶことはなく、また、教えにも固執せず、固執しないあり方でいる。さらには、教えに執着せず、縛られず、解放されもしない、というわけです。

何故このような能力があるのかといえば、菩薩たちは煩悩や邪念や妄想というものを完全に排除しているからです。ですから、菩薩たちはあらゆるものを、ありのままにそのままに「受け入れる」ことができるのだと思います。

「ものの本体は空であり、ものは本来清浄である」などということは、菩薩たちにとっては、ことばで説明するまでもない当然のことなのです。

 ところが私たち凡人は、このような教えを一応は納得できますが、しかし直ぐに忘れてしまい、日常的に実践することはできません。そして物事には本体が実在する、ということが真実であると思い込んでしまいます。

その原因は何かといえば、私たちが煩悩に支配されているからであります。私たちが「ものの本体は空である」ということを体得するためには、煩悩を完全に排除し、邪念、雑念、妄想などという心の中を曇らせるものを起こさないことが、必要且つ十分条件であると思います。

「ものの本体は空である」という教えに限らず、殆どの教えについて、私たちは仏教の教えを完全に実践できるような境地に達することは不可能ではないかと、私は考えています。

何故なら、私たちは先祖代々引き継いでいるものも含めて誕生以来、心身の中に蓄積されてきた煩悩から解放されるいうことは不可能であるからです。

 しかし、仏典は私たち凡人にも理解されやすいように、巧みな方便を使って説かれています。このため、私たちは仏教を学ぶことにより生活を充実させることができるばかりでなく、知恵の完成へ向って成長しているという満足感を味わうことができます。

参考:

  私は丁度、昨日、「大乗仏典11 三昧王経 Ⅱ・田村智淳、一郷正道訳」を読み終えました。その最後は次のような締めくくりでした。

 「原因によって生起しているもろもろの存在、それらの原因を如来は語られた。  そして、それらの消滅をも、以上のように、偉大なる沙門(すなわち仏)は語られた。」 (同書・P311)

 これを読んで、私は仏典が巧みな方便を使って説かれたものであるという思いを強くしました。