私と「般若心経」との出会い
私が初めて「般若心経」の解説本(文庫本)を購入したのは北陸地方の駅の売店でした。当時、私は40 歳の働き盛りで、仕事は繁忙を極めておりました。土・日・祭日の休みもなく、残業時間は月~土曜日の分だけでも、毎月80 時間を越えていました。手当てはそのうちの 18時間分だけです。
家内には随分と心配させたり苦労させたりしましたが、私の職場哲学は「仕事のために仕事をする。仕事は上司のためにするのではない。」というものでした。ですからサービス残業のことについては何の不満もありませんでした。
当時は職務により、北陸地方へ度々出張しました。鉄道は民営化される前の「国鉄」でしたが、出張先へは本線の駅から支線に乗り換えて行くのです。不便な場所で、本線の駅へ夜の九時頃までに着かなければその日に帰ることが出来ません。時々、私はその時間に間に合わなく、翌朝の三時頃の始発電車まで、駅の待合室で一夜を明かしていました。職場には午前8時頃に帰り着きますが、その日は続けて勤務でした。
このような生活の中で、私は読書する時間がありませんでした。ですから、駅の売店で「般若心経」の本を見つけたときは、"これを読むことだ"、と直観しました。これを覚えて暗誦しながら教えを学べば、一般書を読む以上の効果があると思い、直ぐ購入しました。
私は、忙しい生活のなかで「般若心経」を手帖に書写し、それを持ち歩き、出張途中の帰りの電車の中などで覚えました。
以来、私は30年間、時には毎日、今でも「般若心経」の教えに感動しながら暗誦を続けています。
私はこれまでにいろろいな沢山の仏典や仏教関係の書物を読んできましたが、仏教の教えは「般若心経」の経文に集約することができるのではないかと思っています。
「般若心経」の教えは、当に「知恵の完成」であり、世尊の知であり、無分別の知であります。私たち凡人の分別知だけでは、経文の教えを自由自在に実践することができないのではないかと思います。
この考え方を実証するかのような教説文(太文字部 )を次に紹介します。
「また、世尊よ、知恵の完成への道を追究し、知恵の完成を修習する菩薩大士は、 教えられているときに、彼がそのさとりに志向する心(菩提心)におごらない、 というような仕方で学ばねばなりません。なぜかというと、心というものは心ではありません。心の本性は浄く輝い(てすべての汚れを離れ)ているのです」 (中公文庫・大乗仏典 2 八千頌般若経 Ⅰ・梶山雄一訳・p11)
私は、この教説文でいう「心」とは、いわゆる凡人が持っている分別する心を意味していると思います。一方、「般若心経」の教えは浄く輝いて、すべての汚れを離れた無分別の知恵が説かれているのです。
私は、この関係をイメージ的に湖の様相であると考えています。つまり湖は浄く澄んでいるように眺められますが、その水中を細かく分析的に観察すればいろいろな不純物が含まれています。私たちと般若心経との関係も同じようなものではないかと、考えています。
つまり、「般若心経」の教えは浄く輝いた無分別の知恵が説かれています。ところが、私たちはそれを煩悩で汚された分別心で誦んで、それを自己流に解釈しているのです。
「般若心経」に関しては、多くの解説本がありますが、それぞれに解釈の内容が異なっているように思います。何故かと言えば、言葉や文章はすべて分別する心から生れるからであると思います。
私は可能な限り、生活の営みに照合させながら、「般若心経」を暗誦するように心掛けています。
次回から「凡夫が読む『般若心経』」と題して、少しずつ投稿する予定です。現在は、図書館で「新版 仏教学辞典」((株)法蔵館)により、経文で使われている言葉の意味を確認しているところです。