八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「善勇猛般若経」を読む(8) 〔知恵とは 7〕

2008-03-21 03:48:38 | Weblog

一 序 ・ 涅槃

 世尊の仰せ「・・・中略・・・

 善勇猛よ、このような無滅と滅との知の考察を、あらゆる存在について理解するとき、彼は滅知をも離脱し、不滅の究極(滅の究極のないところ)に到達している。

究極のないところ(無極)とは、涅槃の究極である。しかしここでもまた、ことばどおりにそれがあるのではない。実に、あらゆる存在は、究極のないもの(無極)であり、すなわち涅槃を究極とするものであるからである。

すべての究極の断ぜられたところが、涅槃の究極であるといわれるのも、これまたそういわれることばどおりにあるのではない。涅槃(の究極)はことばによって表現されえず、すべての言語表現の断たれているものであるからである。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1  p101)

 私の解釈

 「あらゆる存在」とは、私たちが日常生活の中で接する全ての事物のことです。

 そこで私は、「滅」と「無滅」について、一つの山を例に挙げて考えたいと思います。

  まず、「滅」についてです。

 例えば私たちは肉眼で山を眺めたとしても、背を向けたり、或はその場から遠く離れれば、その山が見えなくなります。また、私たちは心の中に一つの山を想像した場合にも、他のことに関心を移せば、山の姿は消えてなくなります。つまり、山が心の中から「滅した」ということになります。

 このように私たちは「滅」ということばを認識の手段として使っているのです。

  次に「無滅」についてです。

 私たちが肉眼で眺める山の姿(相)は場所や季節や天候などによっていろいろ様々に変化します。つまり、私たちは原因と条件(因縁)によって山を眺めているわけです。ですから、私たちは山の真実の姿を決め付けることはできません。山は常に、実在していますが、その姿(相)はいろいろ様々に変化しますので山には本当の姿(本性)はない、ということになります。

  心の中に映し出された山の姿(相)は、肉眼によるにしても、想像するにしても私たち個々の因縁によるものです。因縁が無くなれば心の中から山も消えますが、しかし、山の姿(相)は「無滅」であります。

 私は山を例に挙げましたが、大空に浮かぶ一片の白い雲について考えても同じことです。

 空気が浄化されている日に、白い雲が消えた後は青く澄み渡った大空のみとなります。つまり当に、大空は「空」の状態になります。雲は因縁によって生じたり滅したりするものであり、本来は不生不滅なのです。

 以上の考察によって、私は「無滅と滅」について次のように考えます。

・ 因縁に基づいて、心の中に映し出された事物の相が別の因縁によって消えたときに、私たちは「滅」を認識する。

・本来、事物の姿(相)は「無滅」なのである。

 以上のような考察を進めて行けば、不滅の究極とは滅の究極のないところ、ということになり、究極のないところが涅槃の究極であるということが理解できる筈であると私は考えています。これらの関係は、図形化すれば分かりやすくなりますが省略します。

  そして結局、「あらゆる存在は、究極のないもの(無極)であり、すなわち涅槃を究極とするものであるからである。」ということになるのです。

 更に、「涅槃(の究極)はことばによって表現されえず、すべての言語表現の断たれているものである」と説かれているのです。

 涅槃の究極とは、一片の白い雲もない大空のようなものであると私は解釈しています。


「善勇猛般若経」を読む (7) 〔知恵とは 6〕

2008-03-10 03:39:08 | Weblog

 一 序 ・ 生滅・縁起の洞察

世尊の仰せ

「・・・中略・・・  善勇猛よ、知りつくすというのは、縁起をあますところなく知ることである。

 (あらゆる)ものは、何かに依存して生起する(つまり縁起する)が、そのようにまさに何かに 依存するから、(あらゆる)ものは実在ではない。(このように知ること)そのことが、縁起を知りつくすといわれるのである。

 善勇猛よ、縁起をあますところなく知ることの真理性ーこれが、生起がないということによって示されるのである。実に、縁起(縁りて生起する)には生起することがない。

 生起しないことが平等であるから、それゆえに、縁起といわれる。

 (このように、縁起には)生起さえないのに、そこにどうして滅があろうか。 縁起について、”滅は滅ではない”とさとる、このことがすなわち”起らないことが縁起である”ということなのである。

 起ることがないとき生起もなく、生起がないとき過去もなく、未来もなく、現在もない。 そのようなものに、滅することはありえない。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1  p99)

 私の解釈

物事について知りつくすということは、縁起をあますところなく知ることであり、縁起の働きが分かれば、あらゆるものは実在ではない、と知ることができるというのです。 先ず、縁起について考えることとします。

 たとえば、私たちは条件が揃えば夜空に満月を見ることができます。また、昼間でも、眼を閉じて、想像力を働かせることによって、頭の中に満月を思い描くこともできます。いずれにしても、私たちは満月を眺めて、満月は実在すると思い込んでいます。

 しかし、私たちが満月を見ることができるのは、条件が整ったときに限られるのです。本文の教えに従って説明すれば、満月は縁起によって見ることができるものであり、本来は実在しないのである、ということです。当然のことながら、全ての事象や事物についても同様に説明できます。すなわち、すべての事象や事物は、”何かに依存して生起する(つまり縁起する)から、実在ではない”、ということになります。

  更にまた、満月が見えないとか見えなくなったからといって、満月が消滅してしまったわけではありません。条件さえ揃えば見ることができるのです。

 だから、滅は滅でないというのです。すべては縁起による現象なのです。つまり、あらゆるものは、条件が揃ったときに現れるだけのことであり、何も新たに生じたり、または、滅したりするのではないということです。結局、あらゆるものには、生も滅もないということになります。現象として現れるのも、消えるのも、全て、縁起によるのです。

 また、起ることがないとき生起もなく、生起がないとき過去もなく、未来もなく、現在もありません。そのようなものに、滅することは有り得ません。だから、”起らないことが縁起である”というのです。

  以上のようにして、物事の生滅について知りつくすことは、縁起を知るということになる、と私は解釈してます。

私が本文から学んだこと 

 全ての事象や事物は縁起によって生起したものであり、実在するものではない。

 この真実を実社会のなかで自覚したり、実行することは非常に困難なことでことである。 しかし、この真実は常に、念頭に置く必要がある。

 特に、私たちの心を曇らせる不安や苦しみは、本来、実在しないことなのであるということを、私たちは、はっきりと自覚し、そのようなことにとらわれないようにすることが、何よりも大切である、ということです。

 

 


「善勇猛般若経」を読む (6) 〔知恵とは 5〕

2008-03-02 03:59:31 | Weblog

 一 序 ・ 知恵による洞察

 世尊の仰せ 「・・・中略・・・

 では善勇猛よ、知恵は洞察するものであるというとき、いったい何を洞察するのか。何であろうと見られたものすべてを洞察する。何が洞察するのか。

知恵が洞察する。

 いかなるものである、と知恵が洞察するのか。概念設定された相である、と洞察する。概念設定された相は、すべて(実在の)相ではない、(と洞察し、あるいは、実在の)相でないものが、概念設定された相である、と(洞察する)。

 善勇猛よ、このような知恵をそなえて見通すものは、全世界(三界)を見通すのである。 どのように見通すのか。三界は界ではない、と見通す。なぜならば、そのばあい、だれも界を見通さず、そしてその彼が、三界は界ではない、と見通すからである。 このように三界を洞察したものが、”洞察の知恵をそなえている”といわれる。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p95)

 私の解釈

 (最後に、私が本文から学びとったことと二つの事例を記しました)

 私たちが接したり考えたりする事象のすべては、因縁に基づいて生ずるものであり、事象の全体像を示すものではあり得ません。事象とはその時の因縁に応じて一つの相が現れているに過ぎないのです。

 しかも、私たちは因縁によって現前した事象を概念設定したうえ、言葉によって表現している、というのです。

  同様の考え方によって、私は「三界は界でない」という教えを次のように解釈します。

 三界とは浴界・色界・無色界のことです。

 先ず、「欲界は界でない」ということについてです。 私たちの日常生活は欲望にとらわれた世界つまり浴界といわれますが、欲界における全ての事象は因縁に基づいて発生するものですから、因縁が変われば事象の相も変わるということになります。ですから、本来、事象の実体というものはなく、実体がないから事象の本体は「空」であるといわれるのです。故に「欲界は界でない」ということになります。

 次に、「色界は界でない」ということについてです。 色界とは欲望は超越したが、物質的条件にとらわれた世界であるとのことです。

 仏典によりますと、高度な悟りの境地を達成された菩薩大士でさえ、物質の本性を表現することは出来ないといわれます。色界においても事象は因縁に基づいて生ずると考えられ、欲界と同様「空相」の世界であるといえます。故に「色界は界でない」ということになります。

  最後に、無色界とは欲望も物質的条件も超越し、精神的条件のみを有する世界であるとのことです。つまり無色界とは悟りの世界です。

お釈迦様の教えによりますと、悟りの世界は言葉では言い表すことができないということです。故に、無色界は表現することができない世界ですから界ではないというわけです。

 本文から、学びとったことと二つの事例

 私たちの日常生活は、すべて因縁に基づいて営まれている。だから、すべての事象はその一面のみを仮の姿として表しているに過ぎない。しかも、私たちはそれを言葉によって概念設定したうえで取り扱っている。だから、物事には様々な見方(相)があるから、一つの考え方に固執する場合には謙虚で且つ慎重でなければならない、ということになります。

 因縁の働きについて、二つの事例を挙げます。

 ① 私たちが過去の問題を振り返えるときに、「時間が解決した」とか「風化してしまった」などと言います。このような処理の仕方も考えようによっては因縁が変わったためであるということができると思います。

 ② 私は「心が苦しむ問題」に遭遇したときは、「ありがとう」と「ついてる」というプラス言葉を 夫々500回唱えることによって、苦しみを解消しています。これも因縁を変えればよい、という仏教の 教えに従っていることになる思います。

(「ありがとう」と唱えるときには、眼・耳・鼻・口・下腹・両足・頭・宇宙・大気・大地(10器官等)等が夫々に夫々の役割を果たし合ってくれるから、問題は必ず解決されると念じながら、夫々に気を巡らせて「ありがとう」を500回繰り返し唱えます。次に「ついてる」を500回唱えます。所要時間は約七分位いです。場合によっては、夫々1000回唱えることもありますが、それでも15分とはかかりません。このような短い時間で私は苦しみを取り除くことができるのです。)