一 序 ・ 涅槃
世尊の仰せ「・・・中略・・・
善勇猛よ、このような無滅と滅との知の考察を、あらゆる存在について理解するとき、彼は滅知をも離脱し、不滅の究極(滅の究極のないところ)に到達している。
究極のないところ(無極)とは、涅槃の究極である。しかしここでもまた、ことばどおりにそれがあるのではない。実に、あらゆる存在は、究極のないもの(無極)であり、すなわち涅槃を究極とするものであるからである。
すべての究極の断ぜられたところが、涅槃の究極であるといわれるのも、これまたそういわれることばどおりにあるのではない。涅槃(の究極)はことばによって表現されえず、すべての言語表現の断たれているものであるからである。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p101)
私の解釈
「あらゆる存在」とは、私たちが日常生活の中で接する全ての事物のことです。
そこで私は、「滅」と「無滅」について、一つの山を例に挙げて考えたいと思います。
まず、「滅」についてです。
例えば私たちは肉眼で山を眺めたとしても、背を向けたり、或はその場から遠く離れれば、その山が見えなくなります。また、私たちは心の中に一つの山を想像した場合にも、他のことに関心を移せば、山の姿は消えてなくなります。つまり、山が心の中から「滅した」ということになります。
このように私たちは「滅」ということばを認識の手段として使っているのです。
次に「無滅」についてです。
私たちが肉眼で眺める山の姿(相)は場所や季節や天候などによっていろいろ様々に変化します。つまり、私たちは原因と条件(因縁)によって山を眺めているわけです。ですから、私たちは山の真実の姿を決め付けることはできません。山は常に、実在していますが、その姿(相)はいろいろ様々に変化しますので山には本当の姿(本性)はない、ということになります。
心の中に映し出された山の姿(相)は、肉眼によるにしても、想像するにしても私たち個々の因縁によるものです。因縁が無くなれば心の中から山も消えますが、しかし、山の姿(相)は「無滅」であります。
私は山を例に挙げましたが、大空に浮かぶ一片の白い雲について考えても同じことです。
空気が浄化されている日に、白い雲が消えた後は青く澄み渡った大空のみとなります。つまり当に、大空は「空」の状態になります。雲は因縁によって生じたり滅したりするものであり、本来は不生不滅なのです。
以上の考察によって、私は「無滅と滅」について次のように考えます。
・ 因縁に基づいて、心の中に映し出された事物の相が別の因縁によって消えたときに、私たちは「滅」を認識する。
・本来、事物の姿(相)は「無滅」なのである。
以上のような考察を進めて行けば、不滅の究極とは滅の究極のないところ、ということになり、究極のないところが涅槃の究極であるということが理解できる筈であると私は考えています。これらの関係は、図形化すれば分かりやすくなりますが省略します。
そして結局、「あらゆる存在は、究極のないもの(無極)であり、すなわち涅槃を究極とするものであるからである。」ということになるのです。
更に、「涅槃(の究極)はことばによって表現されえず、すべての言語表現の断たれているものである」と説かれているのです。
涅槃の究極とは、一片の白い雲もない大空のようなものであると私は解釈しています。