八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

不動明王のご真言について

2006-10-22 10:25:38 | Weblog

 私は毎日ブログ記事を読んでいますが、其の中に「ハシちゃん2525」という方のブログに、次のような記事がありました。

http://plaza.rakuten.co.jp/hashichan2525/diary/200610210000/ より

「七田先生から・・・右脳開発の方法の中で・・・・効果的なトレーニングとして

不動明王のご真言・・・・

 ノウマクサンマンダー バーザラダンセンダー

 マーカロシャーダーソワタヤ ウンタラタカンマン

を一日30分唱え続けること」 と。

このご真言が私の蔵書『梵字手帖』(徳山喗純著・木耳社刊行)の中にありました。

それを次に引用させていただきます。

「     不動行者加護  不動心呪(慈救呪)

   ナゥマク  サマンダ  パザラダン  センダ   マカロシャダ

   帰命    普遍     諸金剛   暴悪魔障   大忿怒者

   ソハタヤ  ウン    タラタ      カンマン

   摧破    恐怖   忿怒聖語    不動明王

 意譯

  普く諸金剛に帰依し奉る、暴悪の相忿怒をなせる金剛尊よ、

  願くば、我が心中の悪魔をことごとく砕破したまえ。 」 (p50)

不動尊の光背の大火焔は一切の煩悩を焼き尽くす意味がある、と同書の説明にあります。

 私たちの煩悩は右脳で創り出されるものと思いますので、このご真言を唱えることは効果的であるのではないでしょうか。

 しかしこれを覚えることは中々難しいことです。覚えこむために何か良い方法があれば、どなたか教えてください。

 


ブログは中断します

2006-10-13 03:45:50 | Weblog
 理由は「八千頌般若経」で説かれている「知恵の完成」の真髄を成す「空」について深く勉強するためです。
 その教材として西谷啓治著『宗教とはなにか』(創文社)を選びました。
 この書物は私にとりまして、長年探し求めていた「空」の解説書です。理解困難な部分も多くありますが、心底より感銘を受けています。私がどこまで、その内容を咀嚼できるかは心もとないかぎりですが、とにかく、しばらくの間、読書に集中することとします。

 この本はブログ上でもいろいろ教えを受けている岡野守也先生の著書『よくわかる 般若心経』(PHP文庫・p13)で紹介されています。

 なお、皆様のブログ記事は毎日拝見させていただきます。
 今後とも何卒よろしくお願いします。


「八千頌般若経」を読む (22) [世間のよりどころ]

2006-10-05 04:13:00 | Weblog

第十五章 「神々」・不住涅槃  

(世尊が仰せになったことぱ・本文は前回(21)につづくことばであります)

「・・・・・・・ (前回(21)の文) また、スブーティよ、菩薩大士たちは、無上にして完全なさとりをさとったときに、どのようにして世間のよりどころとなるのであるか。

スブーティよ、菩薩大士たちは、無上にして完全なさとりをさとったときに、世間(の人々)に物質的存在は虚空に依拠している、と教えを説くのである。

感覚、表象、意欲についても同じであり、思惟は虚空に依拠している、と教えを説くのである。

まったく同じように、スブーティよ、すべてのものは虚空に依拠し、

くるのでもなく、去るのでもなく、虚空のようなものである。

 たとえば、虚空はきたのでもなく、去ったのでもなく、

つくられたものでもなく、変わったものでもなく、作為されたものでもなく、

存在したのでもなく、存在しているのでもなく、存在しつづけるのでもなく、

生じたのでもなく、滅したのでもない。

ちょうどそのように、スブーティよすべてのものはきたのでもなく、去ったのでもなく、つくられたものでもなく、変わったのでもなく、存在したのでもなく、存在しているのでもなく、存在しつづけるのでもなく、生じたのでもなく、滅したのでもない。

虚空と同じようであるから、区別されないのである。

(「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 P70)

 私の解釈

 世尊つまりお釈迦様は、五蘊をはじめすべてのものは、虚空を拠り所としている、と教えられています。

この教えに従いますと、私は虚空を拠り所として生活している、ということになります。

以下に、私は、先人哲学者の助けを借りて、私が理解しているところを述べます。

先ず、哲学者・西谷啓治はその著「宗教とはなにか」の中で次のように述べています。

「自己は単に自己に意識された自己というものではない。真に自己自身のもとにある自己、本来の自己自体としては、自己のその「もと」に、世界と「もの」が可能になる空の場が開かれているのである。」(p170)

 つまり、本当の「自己」というものは自分の中にある「空の場」にあるというのです。

しかし、私たちはこれを認識も自覚もできません。何故なら、私たちの本当の自己は「空の場」にありますが、それが煩悩によって覆い隠されているからです。

私たちが現実に顕わしている自己というものは、すべて因縁によって、この「空の場」から感性や理性の場に映し出されたもの、しかも、その内の特定の一面のみが表面化したものを、これが私であると思い込んでいるだけなのです。

それは、自己の全てではないのです。

更に、このことは自己についてだけではなく、私たちが見たり聞いたり考えたりする物事すべてについても同じように言えます。

つまり、物事というものは物体も精神作用もすべて、因縁によって「空の場」から浮かび挙がってきたともいえる部分的な映像にすぎないのだと思います。

因縁が変わればその映像も変わります。また、同じ物事に対してもそれを見る人によって、観方も考え方も対処の仕方も違うわけです。

 このことについて、少し極端な言い方をすれば、

例えば、私の頭には将来、何等かのきっかけによって革命的な「ひらめき」が起こるかもしれません。或はまた、突発的な事故が起こり、苦しい生活に突入してしまう事態が発生するかも知れません。これら突発的に発生することも含めて、全ての事象は「空の場」を経由して感性や理性の場に顕されて来た形相であると考えられます。

 このように「空の場」から映し出され、現実に顕れてくるものは、その時の外的条件(因縁)に従いますので、事前には全く予測できません。

 私達は普段、感性や理性の場で言葉によっていろいろと考えて行動しますが、本来の形相は、このような「空の場」(そこには言葉はない)から映し出される現実によって生活している。即ち、全ての生活は因縁に基づいて営まれているのです。

このことはまた、生活が「虚空」を拠り所としているということにもなります。

私達は、このことを常に念頭に置く必要があるのではないでしょうか。

 又、私たちの「空の場」は、感性や理性の場とか、或は思索の領域とも密接な関連と交流がある、と考えられます。

このことは、私たちが時々体験する「直観」とか「ひらめき」が証明していると私は思います。

つまり、「直観」とか「ひらめき」は思索の領域で深く考えて印象付けたことが「空の場」に於て、その事象が映し出されて表面化する場合に強力な作用力となって働いていると思うのです。

 私は、このような営みの中に生きるヒントが有ると思います。つまり、日常生活は明るく楽しく正しく積極的でありたいものであると思います。

 (別の般若経典のなかでお釈迦様が説かれている言葉を真似ていえば、

 「自己でないから自己である」とか、「自己が実在するとすれば、それは自己ではなくなり、自己という言葉では言い表せないであろう」などといえます。

 当に、「空の場」とは「空」と「有」とが一つになっている「世界」なのです。)