八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

『八千頌般若経』を読む(1)

2006-04-27 04:55:01 | Weblog
 私は、仏教で説く「知恵の完成」とはどのようなものなのかを知るため、『八千頌般若経』を読むことにしました。

 読むテキストは中央公論社刊・大乗仏典2「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳)と同・大乗仏典3「八千頌般若経Ⅱ」(梶山雄一・丹治昭義訳)です。

 仏典を読むといっても、私は、常に「八正道」を念頭に置いた上で、自分流に解釈したり納得しながら読み進むことしかできません。しかし、仏典は人間の心の営みについての教えを示していますから、凡夫にとっては実現不可能なことであっても、真実の目標がはっきりして、なんとなく安心感が湧いてきます。

 今後、私の解釈とか考え方について、読者の皆様からのご指導とかご助言を頂くことが、何よりの楽しみでもありますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

 「第一章 あらゆる様相に通じる仏知の追求」の中に次の訳文があります。

 ・ 知恵の完成への道を追求し、知恵の完成を修習する菩薩大士は物質的存在(色)にとらわれてはならないし、感覚(受)、表象(想)、意欲(行)、思惟(識)のいずれにもとらわれてはならない。

 ・ これが菩薩大士の ”すべてのものを取得しないという精神集中(三昧)”であって、それは広大で高貴、決定的に無量であり、声聞や独覚と共通しないものなのです。
  
(「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳・中央公論親社刊・大乗仏典2 ,p15) 

私の解釈

 凡人は、このような「すべてのものを取得しない精神集中」なと゜という心境に達することは不可能です。
 また「すべてのことにとらわれない」という意味は、すべての物事は因縁によって起こり、因縁がなくなれば、その後には何も残らない、だから、とらわれるなということで、納得はできますがこれを実行することは非常に困難です。

 「知恵の完成」を成就された菩薩の方々は、「すべて物事は幻のようなものであるから、それらにこだわる必要はない」という考え方を実践されるているのだと思います。

 しかし、凡人たちは物事にとらわれ、こだわり、対策を考えることによって学習効果を蓄積しながら成長する必要があります。

 また場合によっては、私たちは苦しい問題に遭遇したときの対処方法として、社会生活上において支障のない限り、「すべては幻である、こだわることもとらわれることもない」という考え方で処理する方法もあるということだと思うのです。


追記
 明日から旅に出ますので次の記事は5月4日以降となります。
 急いだため今日の記事は推敲不十分で読みにくい文章となりましたが、お許しください。今後ともよろしくお願いします。


『日本大蔵経』

2006-04-11 05:10:26 | Weblog
『日本大蔵経 第三十三巻』を借りました

 借用期間は地元図書館の規約により二周間限定で、隣県の愛知県立図書館から『日本大蔵経 第三十三巻』(日本大蔵経編纂会・大正七年五月二十九日発行)を借りました。
 
 目的は、「勧誘同法記」をもっと詳しく読むためでした。

 残念ですが、本巻は「成唯識論」、「唯識論」、「五蘊論」等に関するもので、「勧誘同法記」は見当たりませんでした。

しかし、『日本大蔵経』は私にとって始めて手にする書物です。折角の機会ですので一般の解説書にはない記事が随処にありますので、時間の許す限り、読む予定です。

 漢文の読解力は殆どありませんので自己流に解釈するのみとなりますが、それで良しとして読み進みたいと考えています。

「正法眼蔵」の拾い読み(23)[正法の功徳〕 

2006-04-08 04:06:52 | Weblog
「弁童話」の巻に次の文(訳文)があります。

 如来の正法は、もともと不思議なおおきな功徳の力をそなえているものであって、時がいたればかならずその国土にひろまるのであり、人もまたちゃんと正しい信をもって修行すれば、利根と鈍根とをわかつことなく、ひとしくみな仏道を悟ることを得るのである。だからして、わが国は、仁・智の国でもなく、人々も知解にすぐれていないからとて、それで仏法を会得することはできないと思ってはならない。ましてや、人々はみな智慧の正しい種子にゆたかである。

 ただよくそれについて承(ウケタマ)まわることが稀であり、したがってまた、よくそれを味わうこともまだできぬということであろう。

(『正法眼蔵』(八)「弁童話」巻 P330・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

私の解釈

 本文によりますと、人間はみんな心の中に「智慧の正しい種子」をもっている。
だから、人々はだれでも正しい考え方をもって仏教を学習すれば、心の中には必ず如来の正法が植え付けられる、というのです。

 まことに心強い説得文です。

 仏教は本来、決して難解なものではなく、誰でも味わうことができるものであるというのです。

 私はこの引用文を拠り所としてこれからも仏教を学んで行こうと決意を新たにしました。


終わります

 これで私の「「正法眼蔵」の拾い読み」を終了します。

 この読書を勧めて頂き、またいろいろと貴重な助言を与えてくださいましたtenjin95様には心から感謝申しあげます。また、長い間私の駄文を読んでくださった読者の皆様にも感謝致します。 ありがとうございました。

 私は購入して未読のものや再読したい仏教解説書をたくさん持っていますが、やはりもう一度『八千頌般若経』(梶山雄一・丹治昭義訳・大乗仏典 3,4・ 中公文庫)を読むことにします。
 
 この本は4回目となりますが「智慧の完成」が理解できるまで、何度でも読みたい私の愛読書なのです。


「正法眼蔵」の拾い読み(22)[智慧の修得〕

2006-04-05 04:59:50 | Weblog
「弁童話」の巻に次の文(訳文)があります。

 問うていう。
 この坐禅をつとめる人は、また真言や止観の行をかね修しても、また差支えないもので
 あろうか。
 示していう。
 中国にあった時、老師にその秘訣をきいた折、西の方天竺や東の方中国においては、いまもむかしも、仏の心印を正伝した祖師方にして、そのような行を兼ね修したものは、まだ聞いたことがないとの仰せであった。

 まことに、一事をもっぱらにしなくては、一智に達することはできないものである。

〈 注解 〉
 真言: 秘密語であって、それを唱えるのである。
 止観: 天台の行法であって、一種の精神集中である。天台では止観を説いて、
   「法性寂然名止、寂而常照名観」(法性寂然を止と名づけ、寂にして常に照すを観と名づく)とある。分別を断って心を一処におき(止)正智をもって諸法を照見する(観)のである。

(『正法眼蔵』(八)「弁童話」巻 P312・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

私の解釈

 本文には、坐善に徹すれば、真言も止観も修する必要はない、ということが述べられています。

しかし、私たち凡人が仏教を学習する場合、一事に徹するだけでは不十分であると思います。

私たちは多くの仏教関係の解説書を読み、教えを学び、修行し、思索を深めなければなりません。何故なら、私たちは仏道を修行しようとする発心も基盤も貧弱であるからです。

 解説書の中には難解な文章のために、頭が混乱するだけというものもありますが、書物によっては、当にこれこそが、お釈迦様の教えに違いない、と心から感服するような句や文章に出会うこともあります。

このような経験を積み重ねることによって、私たちは「心の智慧」というものが少しずつ磨かれていくのだ、と思うのです。

 今の私は、少ない時間の中で、読書と思索のみの学習ですが、いつか必ず毎日十分間でもよいから「坐禅」に打ち込む時間を確保したいと考えています。

「正法眼蔵」の拾い読み(21)[問題対処法〕

2006-04-01 04:48:51 | Weblog
「唯仏与仏」の巻に次の文(訳文)があります。
 そのむかし、一人の僧があって、古徳に問うたことがあった。
 「いろんなことがいっぺんにおこってきた時には、どうすれば宜しゅうございましょうか」
 古徳はいった。
 「そんなものは構(カマ)わんどけ」
 そのいう意味は、なにがおころうとも、ともかく慌ててはいけないというのである。
 これはもうずばりと仏教というものである。問題はもう外のことではないのである。
 このことばは、けっして、そとにあらわれたきらびやかな教えではなくて、
 むしろじっとうちにひめて味わうべき真理だと承知するがよろしい。

 どうしようかと思っても、どうにもならないのである。

(『正法眼蔵』(八)「唯仏与仏」巻 P219・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

私の解釈

 本文は仏法で説く真理を味わう方法を述べていると思います。
つまり、煩わしい問題が起こっても、慌てず、何もせず「構わんどけ」つまり、ほっとけばよい、その結果として、何事が起こっても、これは因果の法則に従っているのだと考え、ありのままを受けとめ、八正道の実践を続けなさい、そうすれば真理が解明される、という教えです。(以下、わたしは本文の「構わんどけ」を「ほっとく」という言葉に読み替えて述べさせていただきます。)

(八正道=正見 ・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

 しかし凡人は、起こってくる問題の性格によっては、決して「ほっとく」ようなことはできません。何故なら、凡人が自分にふりかかってきた問題をほっといて何もしなければ、その後の活動や生活に支障となることさえ起こりうるからです。
 
 多くの煩わしい問題が起こってきた場合には、決して中途半端にせず、できることから一つづつ片づけることが肝要である、という助言もあります。

 ですから凡人の心掛けとしては、仏道に従うことも、常識的な生活習慣に従うことも大切なことですから、問題に対しては臨機応変に対処することが肝要である、と私は思います。

 私たちは、実際に、問題を「構わず、ほっとく」ことによって、かえって混乱もなく自然に解決され、まさに、その「うちにひめて味わうべき真理」を体験することもあります。

 たとえば、「黙養」とか「静黙不言」という仏教の教えは「ほっとく」と同様の考え方が含まれている思いますが、会話中にはあまりしゃべり過ぎないようにすれば、対人関係がスムースに進むといわれます。

 更に、この「ほっとく」という考え方の奥では、いわゆる各個人のアーラヤ識という潜在意識や社会的な集合的無意識の営みが期待されている、と私は思います。

 「ほっとく」は決して無責任な言葉ではない、と思います。