七 讃嘆 ・ 菩薩の心がまえと行ない
世尊の仰せ「・・・・・・(省略)
さらにまた、善勇猛よ、このうえなく正しいさとりに向かって心を起していないときでも、菩薩というものは、最初から、さとりへの材料となる多くのよい行為を完成したものであり、多くの仏たちに仕えたもの、多くの仏たちにお尋ねしたもの、諸仏世尊に対してなすべきことをなし終えたものである。
また、深い意欲をそなえたものであり、施しを分かち与えることを喜びとするものであり、清浄な戒を保つことを尊ぶものであり、忍耐と柔和とを身にそなえたものであり、勤勉であって清浄な勤勉を尊重し、清浄な精神統一を尊重し、知恵をそなえて清浄な知恵を尊重するものである。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p265)
私の解釈
ここでの述べられていることは、菩薩たちが達している心境(知恵の完成の住まい)についてです。彼らの心境は、当に,空の境地として最大・最高の住まいといえます。
そこには六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)も六境(色・声・香・味・触・法)も六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)もなく、四聖諦(苦・集・滅・道)も八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)もありません。
菩薩たちは、何もない「空の境地」から必要に応じて最高の知恵を取り出しているのです。それはまるで、”鏡に映像を映し出す”かの如くにです。
菩薩たちは知恵の完成に向って修行中であるとはいっても、既に完全な知恵の蔵ともいえる「空の境地」を確立しているのです。しかも、菩薩と「空の境地」とは一体に成りきっているのです。
ここでは菩薩たちが、どのようにしてこのような「空の境地」を確立されたかの一端が説明されています。
引用文で述べられているように、菩薩たちは過去において、長い年月をかけて多くのよい行為を完成され、諸仏世尊に対してなすべきことを成し終えられたのです。そのような修行を積み重ねられた結果として、菩薩たちはそれぞれに自らの知恵の蔵を建造されたのです。
しかもそのような「空の境地」という住居に住まわれる菩薩たちは、本文で説かれているように、 ”深い意欲をそなえ、施しを分かち与えることを喜びとし、清浄な戒を尊び、忍耐と柔和を身にそなえ、清浄な勤勉を尊重し、精神統一を尊重し、知恵を尊重し”という生活をされています。
私たち凡人はそのような「空の境地」を確立させることはできません。何故なら、私たちの心の中は様々な先入観や煩悩で覆い尽くされているからです。
しかし、私たちは仏典の教えに従うことによって、一時的にではありますが、心の中に「空の境地」を作り出すことができます。
たとえば、私たちが予期しない苦しみや不安を感じるときです。その時、私たちは、その対処法として、意識的に自分の心をふるい立たせて、別の考え方とか行動を起すのです。しかも、その考え方とか行動は苦しみや不安とは全く無関係な、楽しく明るいものとします。
その結果、心の中は陰気な暗い雰囲気から陽気な明るい気持ちへと変化していることに気づきます。
しかも、このような体験は私たちを前向きに努力することを促し私たちを成長させてくれるのです。
この体験こそが、当に、「般若心経」で説かれている「色即是空・空即是色」の実践であると私は思います。
(「般若心経」については、いつか私の解釈の仕方を投稿したいと考えています)