八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「善勇猛般若経」を読む(34)[知恵の完成の住まい 1]

2008-10-31 04:04:18 | Weblog

七 讃嘆 ・ 菩薩の心がまえと行ない

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 さらにまた、善勇猛よ、このうえなく正しいさとりに向かって心を起していないときでも、菩薩というものは、最初から、さとりへの材料となる多くのよい行為を完成したものであり、多くの仏たちに仕えたもの、多くの仏たちにお尋ねしたもの、諸仏世尊に対してなすべきことをなし終えたものである。

また、深い意欲をそなえたものであり、施しを分かち与えることを喜びとするものであり、清浄な戒を保つことを尊ぶものであり、忍耐と柔和とを身にそなえたものであり、勤勉であって清浄な勤勉を尊重し、清浄な精神統一を尊重し、知恵をそなえて清浄な知恵を尊重するものである。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p265)

私の解釈

 ここでの述べられていることは、菩薩たちが達している心境(知恵の完成の住まい)についてです。彼らの心境は、当に,空の境地として最大・最高の住まいといえます。

そこには六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)も六境(色・声・香・味・触・法)も六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)もなく、四聖諦(苦・集・滅・道)も八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)もありません。

  菩薩たちは、何もない「空の境地」から必要に応じて最高の知恵を取り出しているのです。それはまるで、”鏡に映像を映し出す”かの如くにです。

 菩薩たちは知恵の完成に向って修行中であるとはいっても、既に完全な知恵の蔵ともいえる「空の境地」を確立しているのです。しかも、菩薩と「空の境地」とは一体に成りきっているのです。

 ここでは菩薩たちが、どのようにしてこのような「空の境地」を確立されたかの一端が説明されています。

  引用文で述べられているように、菩薩たちは過去において、長い年月をかけて多くのよい行為を完成され、諸仏世尊に対してなすべきことを成し終えられたのです。そのような修行を積み重ねられた結果として、菩薩たちはそれぞれに自らの知恵の蔵を建造されたのです。

 しかもそのような「空の境地」という住居に住まわれる菩薩たちは、本文で説かれているように、 ”深い意欲をそなえ、施しを分かち与えることを喜びとし、清浄な戒を尊び、忍耐と柔和を身にそなえ、清浄な勤勉を尊重し、精神統一を尊重し、知恵を尊重し”という生活をされています。

  私たち凡人はそのような「空の境地」を確立させることはできません。何故なら、私たちの心の中は様々な先入観や煩悩で覆い尽くされているからです。

 しかし、私たちは仏典の教えに従うことによって、一時的にではありますが、心の中に「空の境地」を作り出すことができます。

 たとえば、私たちが予期しない苦しみや不安を感じるときです。その時、私たちは、その対処法として、意識的に自分の心をふるい立たせて、別の考え方とか行動を起すのです。しかも、その考え方とか行動は苦しみや不安とは全く無関係な、楽しく明るいものとします。

 その結果、心の中は陰気な暗い雰囲気から陽気な明るい気持ちへと変化していることに気づきます。

 しかも、このような体験は私たちを前向きに努力することを促し私たちを成長させてくれるのです。

 この体験こそが、当に、「般若心経」で説かれている「色即是空・空即是色」の実践であると私は思います。

(「般若心経」については、いつか私の解釈の仕方を投稿したいと考えています)


「善勇猛般若経」を読む(33)[魔に打ち勝つ 2]

2008-10-27 03:43:35 | Weblog

六 実践 ・ 菩薩は何ものにも依存することがない

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 善勇猛よ、知恵の力をそなえ、鋭利な知恵の剣を帯びるにいたった彼らは、だれであろうと(もはや)何ものに対しても依存することなく、また(現に)依存していない。

それはなぜであるか。実に善勇猛よ、もし依存することがあるならば、(心も)動くし、(心が)動くときは、思い迷いも生じるし、思い迷いがあるときは、ことばのもてあそびも生じるからである。

善勇猛よ、だれであっても、もし依存することがあり、(心を)動かし、思い迷い、ことばをもてあそぶことがあるならば、そのようなものたちは、悪魔の支配するところとなる。彼らは、悪魔の領域から解放されない。

善勇猛よ、なおまた、最高の天界(有頂天)に生まれていても、(何かに)依存し、その依存にとらわれ、その依存によりかかる衆生たちは、再び魔の領域にもどるであろう。彼らは魔の罠から解放されていず、魔の罠の縄をつけたまま引きずって歩いているのである。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p261-262)

私の解釈

 ここでいう彼らとは「知恵の完成を実践する菩薩たち」であり、一般人ではありません。

 しかし、私たちは誰しも、本文で説かれているような心境に達したいという希望を持っていると思います。

 つまり、私たちは心が堅固で知恵もあり、何ものにも依存せず、何があっても心が動揺せず、思い迷うこともなく、如何なる悪魔の誘惑にも屈しないという心境に達したいと思います。 このような境地は私たち凡人の理想像です。

  菩薩たちは私たちに想像も出来ないような厳しい修行をされた結果として、このような境地に達せられたのです。仏典によりますと、菩薩たちは過去に何千万年にも相当する修行と思索と実践を重ねられた結果として、知恵の完成の実践が自由自在にできるようになったとのことです。その菩薩たちがお釈迦さまと共に、巧みな方便を使って知恵の完成へ向うための教えを説いて下さっているのです。

  ここで紹介した教えも、そのうちの一つであると思います。

  しかし、考えてみれば私たちは「何ものにも依存せず、思い迷わず、悪魔に支配されず」というような経験は、時々していることです。ただ、私たちの場合は持続的に、このような境地に居住することができません。

 何故なら私たちは常に因縁という宿命的な条件の下で生活をしていますので、特定の心境を何時までも保持することができないからです。

 むしろ私たちは日常生活の中で、何かに依存し、心を動揺させ、思い迷い、悪魔に支配され、その都度、反省するという体験を繰り返しながら人間として成長しているのです。

  私たちは凡人として、「ことばをつかい、教えに依存し、思い迷う」ことも、また、その逆の心境を経験することも必要です。

 ただし、私たちは「何ものにも依存せず、思い迷わず、ことばをもてあそばない」という心境になるためには、微妙な心の働きを制御しなければなりません。

 その心の働きについて私は、喩えて言えば次のようなものであると考えています。

 音が極めて聞きづらい大嵐のなかで、離れた場所から発せられるコトバを聞き分けるようなものです。

 私たちは、仏教の教えがかすかに聞こえてくるような煩悩の中で、教えのコトバを我慢強く忍耐強く努力しながら聞き取り、その教えに従わなければならないと思うのです。

 有り難いことに、仏教の教えは、実践できるかできないは別として、私たちの日常生活に密着していることばかりです。

ですから私たちは仏典を読みながら、教えに併せて先祖代々受け継がれて来た道徳を再認識することができるのです。


「善勇猛般若経」を読む(32)[魔に打ち勝つ 1]

2008-10-19 04:01:19 | Weblog

六 実践 ・ 魔に打ち勝つ

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 また、彼は仏の教えにおいて光明を得たものとなり、一切を知るものであることに最も近いものとなる。たとえ悪魔が彼を害そうとして近よってきても、その魔の大軍を灰燼 カイジン に帰し、魔の弁説を封じ、魔の罠をすべて断ち切り、あらゆる魔族の群れ、千万の魔によっても征服されない。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p258)

私の解釈

 ここでいう彼とは「知恵の完成を修行している偉大な菩薩」を指します。

仏の教えを受けた偉大な菩薩は知恵の光明によって私たち凡人のすべてを平等に照らして下さっているのだと思います。

 しかも、その知恵の光明は悪知恵が働く如何なる悪魔でさえも遮ることができないというのです。

 ですから私たちは仏や菩薩の教えをそのまま、素直に信じて、それらを受け入れれば良いのです。

 しかし、何よりも肝要なことは、それらの教えを書き写し、覚え、記憶し、繰り返し読誦し、実践することであると思います。


「善勇猛般若経」を読む(31)[知恵の完成の修行 3]

2008-10-16 03:48:41 | Weblog

六 実践 ・ 無知と苦の原因としての思考

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 しかし、善勇猛よ、思考がなく、思考しないこともないとき、そのばあい、思考を正しく断つことになる。

 善勇猛よ、思考を断つといっても、そこに何かが断たれるわけではない。それはなぜであるか。善勇猛よ、実に、思考するのも思考しないのも、いずれも転倒に起因するものとして非存在であるからである。それら (思考したり、しなかったりすること) の寂滅、それが無転倒である。その無転倒においては、(何かを) 断つというようなことはなんらないのである。

 善勇猛よ、断たないというのは、これは苦を断つことをあらわすことばである。しかし、苦を断つということが、なんらかのかたちであるのではない。もし苦を断つことがあるならば、苦の完成もなんらかのかたちとしてあって当然である。しかし苦を断つとは、そのような完成が見られないことなのである。つまり、苦を断つとは、苦を完全に知ることにほかならない。まさに、苦を思考もせず、思考しないこともないとき、彼は苦を滅したものであり、苦の生起がないものであり、苦のあらわれることがないものである。

 善勇猛よ、このように見る菩薩は、どのようなものも思考せず、思考しないこともない。善勇猛よ、知恵の完成を実践する菩薩には、あらゆる思考することや思考しないことについて、このような完全な知があるのである。

 菩薩がこのように実践するとき、善勇猛よ、彼の知恵の完成の修行は完全なものになる。 (「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p255)

 私の解釈

 先ず、引用文の主要点を次のようにまとめました。

  ・ "あらゆる思考することや思考しないことについて、完全な知がある"

  ・ "あらゆるものについて思考がなく、思考しないこともないということは、 思考を正しく断つことになる"

  ・ "思考を断つといっても、何かが断たれるわけではない。なぜなら、思考するのも思考しないのも、いずれも転倒に起因するものとして非存在であるからである"

  ・ 非存在であるものには「苦」もない。

  はじめに、「思考する」、「思考しない」ということについて、私は次のように解釈します。

「思考する」ということについて、

 思考するという場合は、なんらかの対象が必要となります。私たちの対象となる事象はすべて因縁によって生起したものです。因縁によって生起したものは、すべて本体ではないということから、それは転倒したものであるということができます。(すべてのものは本体として「空」ですから、本来、ものの本体は対象とすることも、ことばで表現することもできません)

  つまり、対象とは因縁によって生起したものであるという理由で、幻のようなもの、つまり、非存在であるということができる、と思います。ですから、「思考する」といっても、それは因縁によって生起した対象について思考するのであり、本体についての思考ではないという意味で「思考は思考を断つ」というのであると考えます。本体についての思考が断たれるのですから、本体には「苦」が存在しないということになります。

 次に、「思考しない」ということについて、

 この場合は思考の対象となる事象が存在しないということです。つまり、本性が「空」である本体に対して因縁が働いていない、ということです。ですから、対象としては何もなく、思考もありません。思考がないから、「苦」も存在しないことになります。

 事例

  私の解釈について、一つの事例を挙げて補足説明します。

 たとえば、不安を引き起こすような大きな問題が発生したとします。このようなとき、私たちの心の中は不安や苦しみのために自由が奪われたような状態になります。しかしそこで、私たちは意を決して考え方を変え、問題を別の面から観たり、問題から一旦、離れるという方策を採ることができます。

 その結果、私たちは問題の存在を意識しながらも、問題について思考せず思考しないこともないという心の働きを体験することができます。

  この「思考しないこともない」という心の働きの中で、望ましく正しい考え方や行動をすれば、やがて不安も苦しみも消えてなくなってしまいます。

 このとき、大切なこととして、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の実践を心がけ、陰徳を積むよう努力することが必要であると思います。

 仏教の教えに従えば、すべてのものの「本体」は「空」であり、「清浄・寂滅」であり、「無顛倒なもの」であるのです。そのようなものについて「思考もなく、思考しないこともない」という体験ができれば、「苦」を無くすることができると思います。

 そこで心の中に、「苦」が存在しないということをイメージ的にいえば、

「白雲を浮かべる青い大空に、嵐を起こす原因は何もない」というようなことではないかと思うのですが・・・。 (以上、私の補足説明)

 つまり、仏教でいう「空」とは、寂滅・無転倒であり、「思考もなく、思考しないこともない」ということです。そして、そのような「空」の中に、「苦」は存在しないのです。

 知恵の完成を実践する菩薩たちは、完全な知によって「思考がなく、思考しないこともない」という修行をされているのである、私は思います。


「善勇猛般若経」を読む(30)[知恵の完成の修行 2]

2008-10-06 04:10:42 | Weblog

六 実践 ・ 菩薩には対象的認識がない

 世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 そのばあい、善勇猛よ、菩薩は、これらのあやまちを見るから、どんなものも対象として認識しない。

どんなものも対象として認識しないから、どんなものも把握しない。彼はあらゆる存在をつかまえようとしているのでもなく、とらえようとしているのでもない。彼は、対象が無であること、空虚であることさえ、(把握したり)考えたりしない。

 善勇猛よ、このように実践する偉大な菩薩は、何かあるものに執着するのでもなく、敬意を払うわけでもなく、愛着するのでもない。善勇猛よ、知恵の完成を実践する偉大な菩薩にとって、あらゆるものは、このように対象であることを離れている。 - 菩薩がこのように実践するとき、善勇猛よ、彼の知恵の完成の修行は完全なものとなる。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p251)

 ( この前の文章で、世尊は次のような内容のことを仰せです。

 "対象があるかぎり、愛着、妄執、苦、憂悩、深い苦悩、惑乱、悲嘆、束縛、 みだりに考えること、思い迷い、ことばのもてあそび、争論、いさかい、口論、迷いの暗闇、 愚かさ、心配、恐怖、魔の罠、魔による破滅、などがある"と。続けて、 "対象があるかぎり、そのかぎり苦に悩み、安楽を探し求めることもある。" ( 同書 p251) と。

 私の解釈

  菩薩は、"どんなものも対象として認識しない"とのことです。

   このことは、 本来、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)には、正しく認識する基準はなく、入る情報はすべて「無記」であるという仏教の教えから、分かるような気がします。

  しかし、私たちは、菩薩と違って物事を対象として認識しながら生活を営んでいます。私たちは、先ず物事を対象として認識したうえで、その物事の本体は「空」であり、本体の一面あるいは一部が因縁によって現出したものを対象としているという仏教の教えを受け入れています。

さらに私たちは、この教えによって不愉快なことや苦しみから解放される方策を見つけることができます。つまり、不愉快なことや苦しみを取り除くために、私たちは考え方とか行動を変える( 因縁を変える ) という手法を取ればよいのです。

  あらゆることについて、私たちはたとえ物事の様相が因縁によって変転するということを承知しているとしても、常に、その物事にとらわれ、認識し、執着し、愛着しているのです。しかし、仏教の教えによりますと、私たち凡人の行為はすべて「顛倒」であり、真実でないものを対象としている、ということです。

  引用文によりますと、菩薩が実践する知恵の完成の修行においては、あらゆるものが対象であることを離れている、というのです。

 修行が対象から離れているということについて、私は正しく理解することができません。しかし、私はあこがれの気持ちを込めて次のようなものではないかと勝手に解釈しています。

 菩薩は虚空のなかで生活している。菩薩の対象はすべて「空」であるから、菩薩は自由自在に考えたり行動したりすることが出来るのである。

 (この時、私は上空の雲を想像します。大空に浮かぶ一辺の白い雲は発生したり消えたり、あるいは、時々刻々と形が変わります。私たちは雲がどのような姿に変化するのかということを全く予測できませんが、菩薩はすべての場合が事前にわかるのです。

丁度そのように、菩薩は凡人が生活のなかで体験することについて、過去も未来も現在もすべて分かっておられるのです。何しろ、菩薩は何千万劫 カルパ という年数にも相当する修行を積み重ねてこられた方ですから、私たち凡人には不可解な能力を持っているのです)

  だから、菩薩は私たちの求めに応じて、どのような問題に対しても対機説法という巧みな方便を使って、自由自在に私たちを"正しく導くこと"ができるのである、と。私はこのように解釈しています。


「善勇猛般若経」を読む(29)[知恵の完成の修行 1]

2008-10-01 04:39:19 | Weblog

六 実践 ・ 修行もなく無修行もない

世尊の仰せ「・・・・・・(省略)

 さらにまた、善勇猛よ、知恵の完成を実践する菩薩は、あらゆる存在の、因と出現と没と滅を洞察するのである。

(しかし彼は)どんな存在でも、それが知恵の完成に結びつかないようには(洞察し)ない。(菩薩は)あらゆる存在の因や出現や滅や道の相を明確に知る。

それらの因や出現や滅や道の相を明確に知る彼は、物に関して修行するのでもなく、修行をしないのでもない。 (投稿者注 : 以下、五蘊を初めとして多くの事例を挙げて、菩薩はそれらに関して修行する のでもなく、修行しないのでもない、と述べられている。 P239-p241)

 ・・・・・・・

 善勇猛よ、衆生は、転倒に起因しているから、修行したり、修行しなかったりする。しかし(実際には)そこには、修行されるべき何ものもないのである。それはなぜであるか。善勇猛よ、実にあらゆるものは、非存在を本質としているからである。すなわち、実在として存在しないから存在を離れており、そこには、修行されるべき何ものもないからである。

 善勇猛よ、このように存在について存在に即した見解をもち、知恵の完成を実践する菩薩は、どんなものに関しても修行するのでもなく、修行しないのでもない。これが知恵の完成の修行と呼ばれる。 (p241) (「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p238-p241)

 私の解釈

 ここでは、菩薩の修行について説かれています。

 まず、知恵の完成を実践する菩薩は、あらゆる存在の因と出現と滅を洞察します。

  その結果、菩薩は、あらゆる存在の因と出現と滅と道の相を明確に知るとのことです。これは、いわゆる四聖諦(苦・集・滅・道)の夫々の相を明確に知るということであり、このうちの道とは苦を滅する修行方法としての八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のことです。

 四聖諦は五蘊(色・受・想・行・識)のすべてについて生起するものです。

一つの例として五蘊の中の「色」について考えて見ます。この「色」とは広い概念をもつものであり、物質的なもの精神的なものが含まれます。ここでは、私たちの対象となる「事象」として取りあげます。

 私たちが対象とする事象は因縁(原因)によって生じ、事象が存在するために苦しみ(苦) が生じます。いろいろな原因が重なって(集)、苦しみは増大したり、深刻になったりします。 そこで仏教では苦しみを滅するために(滅)、八正道(道)を修行する必要がある、と説いています。

 つまり、五蘊のすべてについて、苦しみを滅するためには八正道を実践することである、という教えです。

 引用文によりますと、知恵の完成を修行する菩薩は五蘊(色・受・想・行・識)の夫々に関して、「修行するのでもなく、修行しないのでもない」というのです。この教えについて、私は次のように解釈しています。

 先ず、「修行するのでもない」ということについて、

 仏教の教えによりますと、あらゆるものは本体が「空」であり、虚空のごとくに清浄である、つまり、本体は存在しない、ということでです。しかし、私たちが日常生活の中で対象とする事象は、すべて「事象」として存在します。この「事象」は因縁によって生起したものです。つまり、本体が「空」なるものに因縁が働いて、その一面あるいは一部が「事象」として現出した、と考えることができます。

このことは、因縁が変われば「もの」は無にもなりますし、また全く別のものとして現出されるという事実からも納得できることです。 当然、五蘊(色・受・想・行・識)のそれぞれについても本体は「空」であります。

本体が「空」なのですから、"そこには修行されるべき何ものもない" ということです。 つまり、事象の本体に関して修行するのではない、というわけです。

 次に、「修行しないのでもない」ということについて、

この意味は、因縁によって現出した事象に限って修行するということであると思います。

 ものの本体は「空」であるといっても、そのものの一面、または一部が因縁を介して存在する事象として現出することは厳然たる事実です。

 知恵の完成に向かって修行する菩薩は、この眼前に現出した幻の如き事象に関して修行するのであると思います。

  このような「修行するのでもなく、修行しないのでもない」というような修行の仕方は、私たち凡人としても見習わなければならないと思います。

  なお、あらゆるものの本体が「空」であることと因縁と八正道の関係について、私は次のように考えています。

 本体が「空」なるものに対して、因縁が働くために、本体の一面、または一部が事象として現出します。また、多くの因縁が集まることによって苦しみが生まれます。苦しみを滅するためには八正道を実践することが最良の方法であると仏教は教えています。

 この八正道の実践については、日頃から意識的に心掛けておれば、因縁を起こす心が浄化されることによって、生起する苦しみを少なくすることができる、と私は考えています。

 仏教の教えによりますと、発生した苦しみは八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を実践することによって消滅させることができるとのことです。それが、四聖諦(苦・集・滅・道)の教えの基であり、私はこの教えを信じています。