前回からの続きです。
観自在菩薩。 行深般若波羅蜜多時。照見 五蘊皆空 度一切苦厄。
この経文によりますと、私たちは「空の世界」で生きており、生活のすべては「因縁」の働きによって営まれているということが完全に理解できれば、一切の不安や苦しみを取り除くことが出来る、ということです。
以下、順を追って解釈します。
「観自在菩薩」とは、いわゆる観音さまのことで、私たちが困ったときに念ずれば、いつでも私たちを助けてくださる、と言い伝えられている菩薩です。すなわち、観音さまは条件さえ整えば、私たちの心の中に現れて下さると考えられます。(この場合の条件については今後の研究課題です)
観音さまは、常に、知恵の完成にとどまっておられますから、私たちが求めれば、いつでも私たちを正しい方向へと導いてくださる菩薩です。
次の経文によって観音さまの導き方が説明されています。
「行深般若波羅蜜多時。照見 五蘊皆空。度一切苦厄。」
知恵の完成に熟達された観音さまが人間の心身について深く考察された結果、五蘊はすべて「空」であることをはっきり認識された。この認識を働かせることによって、人間は一切の苦しみを取り除くことが出来るということを実証された、というのです。
五蘊とは、つまり色・受・想・行・識であり、それぞれに物質的現象・感覚・想念・行為・認識が対応します。また、これらは人間の心身に具わる諸要素であるとも言われています。これら心身の緒要素は、すべて「空」であるというわけです。
私たちが生活の中で関わる五蘊(色・受・想・行・識)とは、それぞれに「空」の中から小さな一部分のみが、因縁の働きによって現出するものである、と考えられます。
たとえば、感覚作用を例に挙げて確認します。私たちは怪我をすると「痛い」と感じます。これは五蘊の中の「受」という感覚作用によって「痛い」と感じるわけです。しかし、この「受」の本性は「空」であり、通常はなにもありません。何故、「痛い」と感じるかといえば、その原因があるからです。つまり因縁の働きがあるからです。因縁の働きによって「痛い」と感じるのであれば、私たちは「痛さ」を消滅させるような因縁を働かせば、痛さから解放されるはずです。
五蘊の中の「想」における「苦しみ」についても同様に考えることができます。つまり、「苦しみ」は因縁を変えることによって、取り除くことができるということです。
「度一切苦厄」とは、一切の苦しみのない境地に達することができる、という意味です。
どういうことかといいますと、事象のすべては、その本性が「空」であるということと、因縁の働きを知り尽くせば「苦」を「楽」に転換することができるという教えです。 だから、因縁の働きが自由自在に制御できるようになれば、「苦」を取り除くことができるというわけです。
もともと「苦しみ」を意識する想念とは、想念自体の本性が「空」であり、「苦しみ」は因縁の働きによる一時的な現象にしか過ぎない、と考えることが出来ます。
なお、ここでいう「度」とは、
"迷いの生存の海をわたり、迷いの世界(此岸)からさとりの世界(彼岸)に達すること" という意味です (「新版 仏教学辞典・(株)宝藏観」による)。