一 序 ・ 仏陀の説法はじまる
「善勇猛よ、”知恵”といわれるが、これはあらゆるものについて理解することがなく、あらゆるものについて知ることがない。
それゆえに、知恵と称せられる。
善勇猛よ、あらゆるものについて知ることがないとは、どういうことか。
(それは、その人にとって)これらあらゆるものの存在の仕方と、それらが語られることとは相違し、しかもあらゆるものは、語られることを離れてあるものでもないということである。
また、(このような意味で)あらゆるものについて理解せず、あらゆるものについて知らない(ところの知恵)は、ことばによって語ることができない。
しかしながら、無知である衆生に順応し、それゆえに、(あえてそれが)知恵と呼ばれる。
これは概念的に設定することといわれ、それによって知恵と呼ばれるのである。
しかもまた善勇猛よ、ものはすべて(究極の意味においては)概念的に設定されるべきものでもなく、存在させられるものでもなく、説かれることもなく、見られることもない。このようにして知ることがない。
この意味で、”知らない”といわれるのである。
善勇猛よ、知恵というこれは”理解しない”のでもなく、”理解しないのでない”のでもない。
また、”理解せずかつ理解しないのでもない”のでもない。
それゆえに、知恵と称せられる。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p91)
私の解釈
例えば、私たちはあるものごとに対して集中的に取り組んでいるときに、知恵が湧き出てきます。あるいは、あるものごとに関心を持つと、直観的に過去の体験から得られた知恵が湧き出てくることもあります。
このとき私たちは知恵が働くからといって、そのものごとを理解しているからであるとか、知っているからであるとかということは言い切れません。
本文の前半は、この辺の事情を説いているのだと思います。
いずれにしても、私たちは、このような知恵を働かせながらものごとを処理し、実生活を営んでいます。
本文では、知恵はものごとを深く理解しなくとも、また知らなくとも生み出されるのであり、ことばでは語ることができない、と説かれています。さらに、知恵とは私たちが概念的に設定するものであるというのです。
また本文では、すべてのものごとは、究極の意味において、概念的に設定されるべきものではなく、存在させられるものでもなく、説かれることもなく、見られることもない。だから知らない、と説かれています。(この一文は私にとって難解のため解釈を省略します)
以上のことから、知恵とはものごとを理解しないから生み出されるものでもなく、また、理解したから生み出されたものでもないということになります。
私たちが複数の人々と共に同じ体験をする時に生み出す知恵は、必ずしも全員に通用するとは限らないということです。
本文の教えは、知恵の完成(般若心経)を解釈する心がけとしても適用できるのではないでしょうか。