八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「善勇猛般若経」を読む (3) 〔知恵とは 2〕

2008-01-24 04:00:05 | Weblog

 一 序 ・ 仏陀の説法はじまる

  「善勇猛よ、”知恵”といわれるが、これはあらゆるものについて理解することがなく、あらゆるものについて知ることがない。

それゆえに、知恵と称せられる。

 善勇猛よ、あらゆるものについて知ることがないとは、どういうことか。

 (それは、その人にとって)これらあらゆるものの存在の仕方と、それらが語られることとは相違し、しかもあらゆるものは、語られることを離れてあるものでもないということである。

 また、(このような意味で)あらゆるものについて理解せず、あらゆるものについて知らない(ところの知恵)は、ことばによって語ることができない。

 しかしながら、無知である衆生に順応し、それゆえに、(あえてそれが)知恵と呼ばれる。

 これは概念的に設定することといわれ、それによって知恵と呼ばれるのである。

 しかもまた善勇猛よ、ものはすべて(究極の意味においては)概念的に設定されるべきものでもなく、存在させられるものでもなく、説かれることもなく、見られることもない。このようにして知ることがない。

 この意味で、”知らない”といわれるのである。

 善勇猛よ、知恵というこれは”理解しない”のでもなく、”理解しないのでない”のでもない。

 また、”理解せずかつ理解しないのでもない”のでもない。

 それゆえに、知恵と称せられる。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1  p91)

 私の解釈

  例えば、私たちはあるものごとに対して集中的に取り組んでいるときに、知恵が湧き出てきます。あるいは、あるものごとに関心を持つと、直観的に過去の体験から得られた知恵が湧き出てくることもあります。

  このとき私たちは知恵が働くからといって、そのものごとを理解しているからであるとか、知っているからであるとかということは言い切れません。

 本文の前半は、この辺の事情を説いているのだと思います。

 いずれにしても、私たちは、このような知恵を働かせながらものごとを処理し、実生活を営んでいます。

 本文では、知恵はものごとを深く理解しなくとも、また知らなくとも生み出されるのであり、ことばでは語ることができない、と説かれています。さらに、知恵とは私たちが概念的に設定するものであるというのです。

 また本文では、すべてのものごとは、究極の意味において、概念的に設定されるべきものではなく、存在させられるものでもなく、説かれることもなく、見られることもない。だから知らない、と説かれています。(この一文は私にとって難解のため解釈を省略します)

  以上のことから、知恵とはものごとを理解しないから生み出されるものでもなく、また、理解したから生み出されたものでもないということになります。

 私たちが複数の人々と共に同じ体験をする時に生み出す知恵は、必ずしも全員に通用するとは限らないということです。

 本文の教えは、知恵の完成(般若心経)を解釈する心がけとしても適用できるのではないでしょうか。


「善勇猛般若経」を読む (2) 〔知恵とは 1〕

2008-01-15 04:42:06 | Weblog

 一 序 ・ 仏陀の説法はじまる

  世尊はいわれた。

 「善勇猛よ、お前は(さきに)尋ねた - 世尊よ、知恵の完成、知恵の完成というが、偉大な菩薩の知恵の完成とは、世尊よ、どんなものをいうのか、と。

 実に善勇猛よ、知恵の完成はどんな言い方をしても表現できないものである。なぜならば、知恵の完成は、すべてのことばを超越しているからである。

実に善勇猛よ、

”かの知恵の完成はこれこれである”とか

”知恵の完成はこれこれに属する”とか、

”知恵の完成はこれこれによる”とか、

”知恵の完成はこれこれに由来する”とかいうように、

知恵の完成を語ることは不可能なのである。

 善勇猛よ、あらゆるものに、この完成はない。それゆえに知恵の完成といわれる。

 善勇猛よ、如来はまさしく知恵を見ることなく、獲得することがない。

 まして知恵の完成を獲得することがどうしてあろうか。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1  p90)

 私の解釈

  世尊によりますと、「知恵の完成」はことばで表現することができない。なぜなら、それはことばを超越しているからである、というのです。

  たとえば、「般若心経」(これは「知恵の完成」を示すものです)の教えにしても、その経文の奥には秘められた真実の教えがあると考えられます。

そのことばの奥にある真実の教えを学び取らなければ、私たちはこの経典を理解したことにはならないのです。

 いわば、「般若心経」の経文は知恵の完成を追求するための一つの方便であると考えられるのではないでしょうか。

 ですから、私たちは「般若心経」を何度も何度も読誦することによって、ことばの内奥に秘められた真実の教えを学びとらなければなりません。

 「法華経」の中に次のことばがあります。

「この最高に寂静な境地をさとった仏陀たちは巧みな方便を説き、さまざまに異なった道(乗)を明らかにするが、同時にまた一乗を輝かしいものとされるのである。」(大乗仏典4 法華経Ⅰ 松涛誠廉・長尾雅人・丹治昭義共訳 p71)

  たとえば、「般若心経」について考えれば、これを読む人によって、あるいは同じ人でもこれを読む年齢によって、その受け止め方や解釈の仕方が違います。

何故かといいますと、長年にわたって「般若心経」を読むことによって私たちが少しずつ知恵の完成へ向かって成長しているからであると思うのです。

 しかし、私たち凡人が達成することは不可能であるにしても、私たちの目標は知恵の完成、つまり輝かしい一乗の境地なのです。

 このことは登山路が無数にある巨大な山の斜面を登るようなものであると言えるのではないでしょうか。登山の途中には、小さな山や谷、急斜面や平坦な道などが有り、様々な場面を体験をします。

「般若心経」の解釈が私たちの成長に応じて変化する有様は、そのような山登りの体験に似ているのではないでしょうか。

 私たちは知恵の完成へ向かうためにいろいろな解釈や体験をしながら「般若心経」を読み続けているのです。

 「般若心経」だけではなく、いろいろな仏典を読む場合にも私たちは自分自身の成長に応じて、その教えを解釈し、体験を交えながら理解を深め、少しずつ知恵の完成へ向かっているのだと思います。

 冒頭で取り上げた世尊の仰せについて私は仏教を学ぶということは、知恵の完成へと向かうための方便であるという教えであると解釈しています。

 また、西島和夫氏(寺の住職)はその著「般若心経 参同契 宝鏡三昧 提唱」のなかで、 ”「四諦の教え」さえあれば、仏道は完全に解ける。”(p147)と述べられています。

 四諦とは「苦集滅道」の教えのことですが、つまり、この教えを方便として受け止めて、思索を深めれば仏道は解けるというわけです。同じような考え方が八正道や六波羅蜜についても適用できるのではないでしょうか。

 まだまだ続けて書きたいのですが、駄文はこの辺で止めます。失礼しました。


「善勇猛般若経」を読む (1) 〔はじめに〕 

2008-01-05 04:11:37 | Weblog

        

新年明けましておめでとうございます。

本年も何卒よろしくお願いします。

 ・ 平成20年・私のブログ投稿予定

  1月から8月末頃までの予定で、「善勇猛般若経」(戸崎宏正訳 中公文庫・ 大乗仏典1 p84~p320)を読み、学んだことや考えたことを記事にし、9月頃から年末までは 『凡夫が読む「般若心経」』と題して、私の解釈文をブログ記事として投稿する予定です。

 私にとりましては、読者の皆様からのコメントを頂くことがなによりも励みになります。 何卒よろしくお願い申し上げます。

・ 「善勇猛般若経」について

 1.はじめに 

     訳者の戸崎宏正氏は次ぎのように解説されています。

  「数多い般若経典のなかで、この経典は比較的後期に属し、その内容も般若思想の最も完成した段階にほぼ達していると思われる。その成立年は、

 ・・・・・・(省略)

五世紀後半あるいは六世紀前半をくだることはないであろう。」 (p334の解説)

 ちなみに、「般若心経」(「摩訶般若波羅蜜多心経」)は2~3世紀頃に編纂されたものとされています。(「岩波 仏教辞典」から)

  2.「善勇猛般若経」を読む

  この仏典は世尊が幾百千人の大集会のなかで説法をしておられた席に、座を占めていた善勇猛(ゼンユウミョウ)と呼ばれる偉大な菩薩の質問に対して、世尊が答えるという構成になっています。(p83による)

 まず、最初に善勇猛の質問事項のすべてが挙げられています。

 一 序 

 偉大な菩薩、善勇猛は世尊にお尋ねした。

 「世尊よ、知恵の完成(般若波羅蜜)、知恵の完成といわれますが、世尊よ偉大な菩薩たちの知恵の完成、知恵の完成とは、どんなものをいわれるのですか。

世尊よ、どのようようにして偉大な菩薩は知恵の完成を実践するのですか。

世尊よ、知恵の完成を実践するとき、偉大な菩薩の知恵の完成の修行(修習)は、どのようにして完全になるのですか。

世尊よ、知恵の完成を修行している偉大な菩薩には、悪魔(天魔波旬・ハジュン)のつけこむ隙間がなく、(彼の)悪だくみがすべて見破られるのはなぜですか。

世尊よ、偉大な菩薩は、どのようなかたちの知恵の完成を住まいとすることによって、すべてを知るものの教え(一切智法)をすみやかにそなえることになるのですか」

(「善勇猛般若経」(戸崎宏正訳 中公文庫・ 大乗仏典1 p84)

・ 

  上記のように善勇猛菩薩が世尊に質問します。これに対して世尊は、これらの質問の一つ一つを確認しながら答えます。

 このとき世尊の説教を拝聴するのは、深遠な修行を続けながら知恵の完成への道を進んでいる多くの菩薩大士です。このため、私たち凡人には理解できないような教えも随処に出てきます。しかし、その内容は人間の心の問題についての教説ですから、私たちは自らの心の修養レベルに応じた解釈をすることにより、その教えを役立てることができる、と私は考えています。

  私は以上のような考え方で、この仏典を読み、次回以降で紹介していこうと思います。