夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2014年 8月10日(日)「0か1か脳」

2014年08月10日 22時17分47秒 | 「思うこと」
朝日新聞はいかに放射能デマを拡散してきたか田上長崎市長は集団的自衛権を言うなら国会議員になったほうが良いという二つの記事を読んだ。
今の社会はデジタル化が進んでアナログ人間などというと古い人間のように見られかねない。
白か黒か、1か0かを瞬時に結論付けるにはデジタルのほうがよいが、1か0かでは決められないで1か0のどちらに可能性があるかなどといった判断にはアナログ的な結論付けが必要である。階段を登るか坂道を上るかの違いといわれるが。
こういったデジタル的かアナログ的かを見るときに思考方法もまたこの両者に分かれてくる。
ネット(ツイッター)などを見ているとどうもやはりデジタル的です。テレビというのも同じかもしれない。書物や新聞などはやはり思考的にもアナログ的です。
もちろん1か0かの結論はデジタル的思考でもアナログ的思考でも出します。しかしその結論は一つの今現在の帰結点であり、その先には修正された形での結論が連鎖していきます。これは人間の科学をはじめとした学問というものすべてが過去からの修正を含めた連鎖の中で形作られて現在があります。この歴史はやはりアナろう的思考から生まれるものでしょう。デジタル式に1か0かかといった結論付けをした場合、0(間違い)と判断した場合はそれが最終的な結論とされてしまう危険がはらんでいます。アナログ的思考ならば、現段階としては0(間違い)に近いから一応0と判断されますが、しかし完全な0ではないことを見ますので現段階の結論を修正する思考方法が残ります。その中で1に近いものが出てくれば修正がききます。
この思考方法の違いが上の二つのリンクした記事にみられるのではないでしょうか?
原発事故での健康への影響はデジタル思考ではあるかないかという1か0で結論付けされてしまう。朝日新聞の記事のように健康への影響が1か0かの間におかれている場合それは批判対象になってしまう。このあいまいさを批判する中でデマだという結論付けもされてしまう。朝日新聞の慰安婦問題の一部撤回というものを1か0かで判断してしまい0という結論に導く。
長崎市長の集団的自衛権に関する発言も核兵器根絶の趣旨から外れるから批判する中で0(否定)にしてしまう。しかし今現在も核の先制使用を放棄していないし核の傘で同盟国を守り、イラクでは劣化ウラン弾という核兵器を使用したのではないかといわれるアメリカとの同盟をさらに深くして日本も参戦してしまう可能性のあるものですから長崎市長としても発言できる中身なわけで、それは1か0かではなくて1に近い発言ということになります。
この両記事は、朝日新聞の0という全面否定でもあり、市長が集団的自衛権に言及してはならないとという面での0を求めるものでしかない。
しかし問題なのは朝日新聞なり市長発言を0にしたうえで自己の考えを完ぺきな1にしてしまうことである。これもまた0か1か脳(デジタル脳)の陥りやすい論理の組み方となってしまうことにある。

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