国宝のこの絵を描いたとき(天保8年)
崋山は田原藩の家老職にあって民衆の救済に奔走していたときだったそうで
びっくりする
天保の飢饉について調べたら
WIKIにも出てる
大塩平八郎の乱はこれを契機に起こったのだそうで
全国で餓死者が大量に出たが
田原藩は一人も犠牲者を出さなかったそうだ
そういう政治的な重責と絵画制作を並行していたって
どんなふうだったのだろうか?
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