(Ⅰ)車の運転は いかに多くの情報を取り入れるか・・
そして その情報は80%が目から入るという
目に見えるスピード目に見える周りの状況目で見た80%の情報に対応する 速い運転はそれだと思う・・
でも だからこそオレは考えたい
【人は見た目で判断するなら 見えないモノはどうなんだ
目に見えない20%に意味はないのか・・
人は目で判断する 見たモノは結果であり そして事実
それはそれで正しいけど
でもオレは残りの20%を見たい】
飲み込もう すべて― 彼らのように
(Ⅱ)オレは今日 自分の考えがはっきりとわかるんだ
何かを新しく教えてもらうワケじゃない
今までの自分の考えでイイんだとわかるんだ
【すべては結果で判断される
結果とは 目に見える今の形だ
泣く人 笑う人 成功した人 失敗した人
目に見える形は事実だろう でもオレは それだけで決めない―
結果がすべてなんてウソだ
それは結局― 近道をしているだけだろう
そこにくる過程をはぶいて・・ ただ楽に考えたいだけだろう
見たまま評価するのは楽だからだ
オレは 見えるモノで判断などしない―
見えないから見たい 隠れているから知りたい
結果ではなく そこにくるプロセスを知りたい
面倒くさい奴ははぶかれる 嫌われる
でもオレはそれでいい
近道はしない
見えるモノは見えるモノとして― いつもその向こうを大事にしたい】
(Ⅲ)【人は情報で生き方や考え方が左右される
その情報のほとんどは目から入る形で決まる見た形 そのままが結果だ
(中略)そう・・人生も結果がすべてと人はよく言う
言ったもん勝ち やったもん勝ち 食ったもん勝ち きっとそうだろう
・・でも オレはそうじゃあない
見える結果そのままじゃあ納得しない】
大学のときからチューニング雑誌「GTカーズ」の制作に参加した 理想を求めても結局売れず廃刊したそれが事実だ
・・でもオレはそれでも言う
【結果がすべて 99%の人がそう言っても オレはちがうという
結果はすべてを教えてはくれない――】
(週刊ヤングマガジン 平成20年6月24日発売号、6月30日発売号、並びに年7月7日発売号より)
萩島とFD3SRX-7を主軸にした湾岸ミッドナイトの物語も、名言が多く登場した。
悪魔のZ、ブラックバードと共に走った間に登場した荻島の独白は、コメントの隙間もないくらい完成されていると思う。
そしてそれは、学生時代の自分の頭では解る事はおろか、考えることもしなかったであろう内容である。「どうせ結果しか見ないんだろう、結果こそ全て」だと思っていた。
対人関係でも、「見た目でしか判断されない、中身を真剣に見よう、考えようとする人間は少ないだろう」と決め込んでいた。
スポーツでも技術革新でも何でもそうだが、「勝たなければ意味がナイ」「『良い結果』を出さなければ意味がナイ」というのは大きな事実だ。でもそれは、その全体における多くを占める「条件付け」のひとつでしかない。
そこに至るまでに、どれだけの積み重ねをしてきたのだろうか?どれだけの努力をしてきたのだろうか?
そして積み重ねを経てもなお成しえなかった原因はなんだったのか?
その「努力の過程を見た」時に、そして「推測した」時に心が動く。「困難などにも耐え、必死になってがんばってここまで来たんだね」「いろんな人に支えられてここまで来たんだろうね」・・・私の母はよく言う。
そういった、人の行いや気持ちその他を、ノートに書かれた字を読むように、あるいは教科書や参考書を読んで理解するように、簡単には目で見るコトはできない。それはたとえば、映画のメイキング映像やドキュメントなど、知られざる部分を垣間見ることができたときなどだろう。それを見て「『ネタバラし』はつまらない」と取る人もいるが、私はそう思わない。大なり小なり心が揺り動かされる。目に見えないものに触れる、直視することだけがすべてじゃない、意識するだけでもぜんぜん違う。
そしてそれはその「結果」に至るまでの核心が詰まっているものを見ることになる。それを見た時にこそ初めて、その事実が理解できるのではないだろうか。
「結果を出す」前の、一番初めのスタート地点でもそうだ。「言ったもん勝ち やったもん勝ち」とよく言う、言い出さなければ、やりださなければ始まらない。でもそこで考えたい。始まる前にどこまで議論をしたのか、メリット・デメリットは考えたか?そこに至るまでのプロセス、過程が大事なのだ。そういったことがちゃんと成っていてこそ初めて結果を生み出すために動き出すのだ。
もうひとつ例を挙げてみよう。「現実感覚が希薄になりやすい」という指摘がたびたびあるネットの世界。新聞のコラムで、「ブログを始めようかな」とマネージャーに提案した際に「やめたほうがいい」と窘められた女優・東ちづるさんがこう語っている。
「ネット上となると感情に任せて勢いや思いつきでの発信となる。(中略)確かにブログの仲には、独りよがりの独り言じゃん、浅い、と感じるものも。嫌なことがあっても誰かに相談することで回避し、不平不満をネットの世界で発散。自虐的な表現に自己満足感も漂う。非難のレスは即消去、という人もいるらしい」と。
その上で「ブログは日記と同じという人もいるが違う」という東さん。「日記は誰の目にも触れないからこそ、自分の心の奥底を探り、自分を見つめることになる」と。確かにそれは大当たりだ。「アンネの日記」や「わたしのいじめられ日記」(土屋玲さん著)がいい例だろう。
「奇跡体験!アンビリーバボー」という番組で紹介されていた、落ちこぼれクラスを希望に満ちた温かなクラスに変えた一人のアメリカの女性の先生は、上記の「アンネの日記」を教育題材にし、生徒たちにはノートを渡して日記を書き綴るようにしたところ、生徒たちの本当の気持ちが書き綴られ、その現実に直視した先生は、心を痛めたという。そう、【見えない何かも大事だけど、見えない部分を無理して見て、自他の心が傷ついてしまわないように注意しなくてはならない】のも事実である。
しかし、先生はあきらめなかった。生徒たちと本気で向かい合い、直接のコミュニケーションが取れるようになって、彼らの心は開かれていった。
東ちづるさんの文章は「わかってほしいことがあるなら、体温を感じるコミュニケーションを。ため息も笑いも涙も、実際に見せてこそ、発散されるのだ」と文章は締めくくられている。秋葉原の無差別殺傷事件の容疑者を思い描いて綴った文章であろう。
確かに、不特定多数の人が、顔も見ていない、何を考えているかわからない、知らない人間の書き綴ったことを見るブログやネット上の書き込みなどは、真の気持ちは見えにくい、伝わりにくい。
また、この無言化社会の中で、他人に対して真に気持ちを打ち明けようとする人、そうできる環境は数少ない。
しかし、それだけで判断していいものだろうか。本当にブログと日記は違うのだろうか。
上記の女性の先生が生徒に渡したノート。最初のうちは殆どの生徒が提出せず、先生の悪口ばかりが書き綴られていた。悲痛な叫びなど何も感じられないモノばかりだった。それこそ、ブログに書かれた発散のための文章のように。
しかし、「体温を感じる直接的コミュニケーションに至るまでの過程」はどうすればいいのか?それを欠落させていては、すべての言葉が独りよがりの独り言になってしまう。
ネットの世界でも現実の世界でも孤独になってしまった人が起こしてしまった「結果」だけを見て判断していいものだろうか。結果にいたるまでの過程を、プロセスを見ることができる目はなかったのか?その目の数をもっと増やせば結果だけではわからないものを教えてもらうことができたのではないか?解ったのではないか?
そう、結果がすべてではない。どんなコトも過程を大切に―
それは、ほとんどが不可視。表面上では見ることができない、非常に難しいものなのである。
目に見える80%と目に見えない20%。
大事なのは、その20%で、そこを中心にて初めて100%なのだ。念のため、私のブログは―特に「SWEET SWEET SUITE」は―誤字脱字乱文多々あれど、一度Wordで文章をすべて書き綴って読み返してから投稿している。新聞の原稿のように、とまではいかないが、これでも読み手を考えて書いているということを主張しておきたい。
【オレはどんくさいオトコだ
カタくて教科書的な考え方しかできない 納得ができるまで次へ進めなかった
それは 自分を押し通していただけだ】
という荻島。私もそれに近い性格なだけに、今回の楽章に綴った言葉は永久保存版として残しておきたい。
最後に、日本一有名な(?)犬が登場する、SoftbankのCMの台詞を掲載しておこう。最後はふふっと笑いを誘う、よくできたCMだ。シリーズの中にある学校編でのやり取りを見てほしい。今回の楽章の大部分を物語っている。
(ガラガラガラ・・・たったったった・・・)
女生徒「先生・・・!」
先生(お父さん)「喧嘩はやめろ!」
男子生徒B「犬のいうことなんか聞けるかよ」
女生徒「先生になんてこと言うのよ」
男子生徒B「だって犬は犬でしょ」
先生「見た目で決めるな」
男子生徒B「じゃあ何で決めるんすか」
先生「心の目だ」
大事なのは 心の目だ―
そして その情報は80%が目から入るという
目に見えるスピード目に見える周りの状況目で見た80%の情報に対応する 速い運転はそれだと思う・・
でも だからこそオレは考えたい
【人は見た目で判断するなら 見えないモノはどうなんだ
目に見えない20%に意味はないのか・・
人は目で判断する 見たモノは結果であり そして事実
それはそれで正しいけど
でもオレは残りの20%を見たい】
飲み込もう すべて― 彼らのように
(Ⅱ)オレは今日 自分の考えがはっきりとわかるんだ
何かを新しく教えてもらうワケじゃない
今までの自分の考えでイイんだとわかるんだ
【すべては結果で判断される
結果とは 目に見える今の形だ
泣く人 笑う人 成功した人 失敗した人
目に見える形は事実だろう でもオレは それだけで決めない―
結果がすべてなんてウソだ
それは結局― 近道をしているだけだろう
そこにくる過程をはぶいて・・ ただ楽に考えたいだけだろう
見たまま評価するのは楽だからだ
オレは 見えるモノで判断などしない―
見えないから見たい 隠れているから知りたい
結果ではなく そこにくるプロセスを知りたい
面倒くさい奴ははぶかれる 嫌われる
でもオレはそれでいい
近道はしない
見えるモノは見えるモノとして― いつもその向こうを大事にしたい】
(Ⅲ)【人は情報で生き方や考え方が左右される
その情報のほとんどは目から入る形で決まる見た形 そのままが結果だ
(中略)そう・・人生も結果がすべてと人はよく言う
言ったもん勝ち やったもん勝ち 食ったもん勝ち きっとそうだろう
・・でも オレはそうじゃあない
見える結果そのままじゃあ納得しない】
大学のときからチューニング雑誌「GTカーズ」の制作に参加した 理想を求めても結局売れず廃刊したそれが事実だ
・・でもオレはそれでも言う
【結果がすべて 99%の人がそう言っても オレはちがうという
結果はすべてを教えてはくれない――】
(週刊ヤングマガジン 平成20年6月24日発売号、6月30日発売号、並びに年7月7日発売号より)
萩島とFD3SRX-7を主軸にした湾岸ミッドナイトの物語も、名言が多く登場した。
悪魔のZ、ブラックバードと共に走った間に登場した荻島の独白は、コメントの隙間もないくらい完成されていると思う。
そしてそれは、学生時代の自分の頭では解る事はおろか、考えることもしなかったであろう内容である。「どうせ結果しか見ないんだろう、結果こそ全て」だと思っていた。
対人関係でも、「見た目でしか判断されない、中身を真剣に見よう、考えようとする人間は少ないだろう」と決め込んでいた。
スポーツでも技術革新でも何でもそうだが、「勝たなければ意味がナイ」「『良い結果』を出さなければ意味がナイ」というのは大きな事実だ。でもそれは、その全体における多くを占める「条件付け」のひとつでしかない。
そこに至るまでに、どれだけの積み重ねをしてきたのだろうか?どれだけの努力をしてきたのだろうか?
そして積み重ねを経てもなお成しえなかった原因はなんだったのか?
その「努力の過程を見た」時に、そして「推測した」時に心が動く。「困難などにも耐え、必死になってがんばってここまで来たんだね」「いろんな人に支えられてここまで来たんだろうね」・・・私の母はよく言う。
そういった、人の行いや気持ちその他を、ノートに書かれた字を読むように、あるいは教科書や参考書を読んで理解するように、簡単には目で見るコトはできない。それはたとえば、映画のメイキング映像やドキュメントなど、知られざる部分を垣間見ることができたときなどだろう。それを見て「『ネタバラし』はつまらない」と取る人もいるが、私はそう思わない。大なり小なり心が揺り動かされる。目に見えないものに触れる、直視することだけがすべてじゃない、意識するだけでもぜんぜん違う。
そしてそれはその「結果」に至るまでの核心が詰まっているものを見ることになる。それを見た時にこそ初めて、その事実が理解できるのではないだろうか。
「結果を出す」前の、一番初めのスタート地点でもそうだ。「言ったもん勝ち やったもん勝ち」とよく言う、言い出さなければ、やりださなければ始まらない。でもそこで考えたい。始まる前にどこまで議論をしたのか、メリット・デメリットは考えたか?そこに至るまでのプロセス、過程が大事なのだ。そういったことがちゃんと成っていてこそ初めて結果を生み出すために動き出すのだ。
もうひとつ例を挙げてみよう。「現実感覚が希薄になりやすい」という指摘がたびたびあるネットの世界。新聞のコラムで、「ブログを始めようかな」とマネージャーに提案した際に「やめたほうがいい」と窘められた女優・東ちづるさんがこう語っている。
「ネット上となると感情に任せて勢いや思いつきでの発信となる。(中略)確かにブログの仲には、独りよがりの独り言じゃん、浅い、と感じるものも。嫌なことがあっても誰かに相談することで回避し、不平不満をネットの世界で発散。自虐的な表現に自己満足感も漂う。非難のレスは即消去、という人もいるらしい」と。
その上で「ブログは日記と同じという人もいるが違う」という東さん。「日記は誰の目にも触れないからこそ、自分の心の奥底を探り、自分を見つめることになる」と。確かにそれは大当たりだ。「アンネの日記」や「わたしのいじめられ日記」(土屋玲さん著)がいい例だろう。
「奇跡体験!アンビリーバボー」という番組で紹介されていた、落ちこぼれクラスを希望に満ちた温かなクラスに変えた一人のアメリカの女性の先生は、上記の「アンネの日記」を教育題材にし、生徒たちにはノートを渡して日記を書き綴るようにしたところ、生徒たちの本当の気持ちが書き綴られ、その現実に直視した先生は、心を痛めたという。そう、【見えない何かも大事だけど、見えない部分を無理して見て、自他の心が傷ついてしまわないように注意しなくてはならない】のも事実である。
しかし、先生はあきらめなかった。生徒たちと本気で向かい合い、直接のコミュニケーションが取れるようになって、彼らの心は開かれていった。
東ちづるさんの文章は「わかってほしいことがあるなら、体温を感じるコミュニケーションを。ため息も笑いも涙も、実際に見せてこそ、発散されるのだ」と文章は締めくくられている。秋葉原の無差別殺傷事件の容疑者を思い描いて綴った文章であろう。
確かに、不特定多数の人が、顔も見ていない、何を考えているかわからない、知らない人間の書き綴ったことを見るブログやネット上の書き込みなどは、真の気持ちは見えにくい、伝わりにくい。
また、この無言化社会の中で、他人に対して真に気持ちを打ち明けようとする人、そうできる環境は数少ない。
しかし、それだけで判断していいものだろうか。本当にブログと日記は違うのだろうか。
上記の女性の先生が生徒に渡したノート。最初のうちは殆どの生徒が提出せず、先生の悪口ばかりが書き綴られていた。悲痛な叫びなど何も感じられないモノばかりだった。それこそ、ブログに書かれた発散のための文章のように。
しかし、「体温を感じる直接的コミュニケーションに至るまでの過程」はどうすればいいのか?それを欠落させていては、すべての言葉が独りよがりの独り言になってしまう。
ネットの世界でも現実の世界でも孤独になってしまった人が起こしてしまった「結果」だけを見て判断していいものだろうか。結果にいたるまでの過程を、プロセスを見ることができる目はなかったのか?その目の数をもっと増やせば結果だけではわからないものを教えてもらうことができたのではないか?解ったのではないか?
そう、結果がすべてではない。どんなコトも過程を大切に―
それは、ほとんどが不可視。表面上では見ることができない、非常に難しいものなのである。
目に見える80%と目に見えない20%。
大事なのは、その20%で、そこを中心にて初めて100%なのだ。念のため、私のブログは―特に「SWEET SWEET SUITE」は―誤字脱字乱文多々あれど、一度Wordで文章をすべて書き綴って読み返してから投稿している。新聞の原稿のように、とまではいかないが、これでも読み手を考えて書いているということを主張しておきたい。
【オレはどんくさいオトコだ
カタくて教科書的な考え方しかできない 納得ができるまで次へ進めなかった
それは 自分を押し通していただけだ】
という荻島。私もそれに近い性格なだけに、今回の楽章に綴った言葉は永久保存版として残しておきたい。
最後に、日本一有名な(?)犬が登場する、SoftbankのCMの台詞を掲載しておこう。最後はふふっと笑いを誘う、よくできたCMだ。シリーズの中にある学校編でのやり取りを見てほしい。今回の楽章の大部分を物語っている。
(ガラガラガラ・・・たったったった・・・)
女生徒「先生・・・!」
先生(お父さん)「喧嘩はやめろ!」
男子生徒B「犬のいうことなんか聞けるかよ」
女生徒「先生になんてこと言うのよ」
男子生徒B「だって犬は犬でしょ」
先生「見た目で決めるな」
男子生徒B「じゃあ何で決めるんすか」
先生「心の目だ」
大事なのは 心の目だ―