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Symphonyeel!(シンフォニエール!)

ようこそ。閲覧者の皆さんとのメッセージが響き合う場となってほしいナ―という想いで綴ってます

今週のHibiki―っ 8 「2007」

2007-12-31 20:52:16 | Stream of Tears 心の手帳
(BGM:ルートヴィッヒ・ヴァン=ベートーヴェン作曲 交響曲第9番 ニ短調 『合唱つき』)


今年の1月1日は、トロンボーンアンサンブルという自分の大事な、大好きなモノで幕を開けたのを、まるでついこの間のことのように思い出す。

2007年カウントダウンの数日前、「紡」というひとつの漢字が浮かんだ。
いろいろな出来事があり、それの大半が自分にとってはプラスのベクトルになるもので、糸を紡ぐように「人との出会いやふれあいの喜び、幸せを『紡いで』いった」そんな2006年を振り返って、「もっといい年になればいいな」と希望を抱いていた。

福祉の世界に身をおいていた私は、それから先の未来予想図は何も描けないまま、今目の前にいる施設利用者と自分のため、そして、家に住まわせてもらっている家族のために働き、社会人としての日々を過ごしていた。そして、自分の大好きなものをもっともっとあたためていこう、そう思っていた。


だが、私の人生という航海は、予想だにしない波に乗って、思惑とまったくといっていいほど違う方向に推移していった。

春、夏・・・体は次第に弱まっていった。
持ちの病が次第に悪化し、私は彷徨った。

私の周りにいた人が、いつの間にかどんどん見えなくなってしまった。

このまま私は、波の中に力尽き消えるのか―


だが、そんな中にでも、私は誰かに救われた。
ふとしたきっかけから、さまざまな人にめぐり合い、その中からさまざまなきっかけをつかみ、そのきっかけから私という人間を見つめなおす時間を作ることができた。
今年、私を救ってくれた事柄は数え上げればきりがない。
今年私に出会い、直接的に救ってくれた人には、それが最後の出会いだったとしても、今この瞬間にありがとうが言える。



そして、私は再び動き出した。

起動―
そういった方がいいかもしれない。

みんなが働いている間「自分は何をしているんだ」とばかり思っていたが、実はそうじゃなかった。
何もしていなかったんじゃない。
自分の気づかないところで、『次の動きの準備をしていた』んだ、と。


秋が深まる頃、私は新たな職を得、再出発を果たした。
奏でることを忘れていた音楽も前とは違ったスタンスで、少しずつではあるけれど「楽しく」演奏できるようになってきている。


変わっていくのが当たり前のこの世界だけれど
今はどうか私をこのままこの世界にいさせてほしい―
もう少しだけ、もう少しだけ―


2007年は、私の厄年ではないけれど、決していい年ではなかった。
でも、自分自身、あるいは誰かの力を借りて何かしら起こしたモノ・・・ムーブメント、と洒落ていった方がいいかもしれない、それが多かった、大きかったのは確かだ。

それらは、今の私を作っているもの。活かされたもの。
それらが私の「活動」を与える、積み重ねてきたモノを「活かす」ところへと導いてくれたものだから・・・


今年の私の漢字は「活」。


これからも、HibikiはHibikiでいます。
自分の音程を自分の耳でしっかり聴いて確かめながら、自分の音質をより高めながら、音量の差を躍動あるものにしながら・・・
少しずつ、少しずつ・・・。


やっと、「年末なんだ」という気持ちになってきたカナ、と思います。

そういう私だけの時間がこうして過ぎていくことにひそやかな幸せを感じているから・・・


23th Movement 「感じて動く」

2007-12-30 11:41:54 | SWEET SWEET SUITE
【感動とは
感じて動くと
書くんだなぁ】
(相田みつを)


感動する―

これに勝る胸のときめき、心が揺り動かされるというキモチ、捉え方によっては「幸せ」と呼べることが、人間として生きているうちのどこに・どれくらいあるだろうか。

最近は両親の影響と、夜自宅にいるコトが多いこともあって、テレビでスポーツの競技模様を観戦することが多い。
スポーツだけに限ったことではないが、モノゴトは結果だけじゃない。そこへ向けての過程(プロセス)、競技直前へのテンション(集中力)の高め方、競技中ひた向きに努力する姿勢がある。
だから感動する。
だから教えられる。
その「ドラマ」に気づくか気づかないか、だ。

プロフェッショナルの競技だけでなく、夏の高校野球、ウォーターボーイズ選手権、箱根の駅伝、果ては小学生の30人31脚競争まで。

「人間」「ヒト」の行う、なしとげるコトだからこそ、直接受ける「小さな優しさ・親切」とは違う感動がある。
そーゆうことも含めて、・・・たとえばテレビでフィギュアスケートの演技を観る。
結果はネットなどで見れば解る。でも私は「演技が観たい」のだ。演技そのものや、あのリンクに降り立つまでの選手の努力、精神力の保ち方、全てに教えられる。

【たとえばの話 もしオレが南極に行ったとする
その時 オレの心に響くのは 南極の自然そのものではなく 南極に造られた施設だと思う
(「こんな場所にこんなモノ・・・」とレイナ)
そう 人の手によって造られたモノに感じるんだ
機械でも服でも料理でもいい 全ての中でクルマが一番なだけだ
いい形やスゴい性能に人生を教えられるわけじゃない それを考え 造った人間に教えられるんだ
複雑なメカはどうやって整備するんだとハラが立つし ブランド系外車の高価な値付けのあいまいさにも教えられる
どうしてそうなった?
どうしてそうした?
造る奴 売る奴 直す奴 走らす奴 車に関わる人間すべてに教えられる
確かに自然はいいと思うよ 海に沈む夕陽は理屈抜きでキレイと思う
でもオレは 人の手が入ったモノに心が動く
車は人が考え 造る だから教えられる】
(湾岸ミッドナイト 山本和彦の台詞)

基地があれば南極に行ったとしても生きて行ける でもその基地は自動的に造られたワケじゃない
南極を知りたい、というヒトの想いが篭っているんだ、南極を目指した全てのヒトの・・・。
しかしながら 『人も自然の一部なんだ』というコトを忘れちゃいけない、私はそう解釈する。


フィギュアスケートの話に戻るが、演奏家の端くれである私は、選手がセレクトした、演技のための曲にも感動する。

彼等彼女等は、曲のリズムにすべてピタリと合わせて跳ぶワケではない。
ただ、その曲に合わせて「舞う」のだ。
端から見れば「競い合う」「スポーツ」なのだけど、選手が持つ力に加え、「曲が持つ力」にも心が感じ、動く。

そういった、視点を変えるコトで見えてくる様々なモノに触れるコトで、自分の生きざまや趣味―(私なら演奏活動など)、相手に伝えたいメッセージの原動力、となる感受性を磨く―


そのチャンスは、自分で探すだけでは限界がある。
ヒトから何気なく教えて貰うことから広がる、様々な視点―

感受性を敏感にするには、「感じて動く」
それが大事だと、感じたときがある。
ただしまっておくだけじゃあナイ 自分の体も動かして初めて気がつくんだ―

たとえば、カラオケの歌はは上手なのに、楽器演奏になると「歌い方・歌いっぷり、表情豊かさ」に関してはまるでダメ、という人間が、いっぱいいるような気がする―

楽器は立派
それを扱う技術もいい感じ
けど、何か違う―

「『楽器で』歌えていない」のだ。

「感じて動く」
それを何かしらの糧にして、自分の本腰入れて取り組んでいるモノや、生き方そのものに活かす―
今年の12月15日(土)に本番を共にした、出身大学吹奏楽部定期演奏会に出演したメンバーには、私より年上年下関係なく、そう言いたいプレイヤーが何人もいたのが事実。

文字にしてしまえば簡単なように聞こえてしまうこと。そしてそういう私は、「人のこといえねーだろ」という突っ込みがくるであろうことは百も千も承知。

そう、だからこそ負けられない。
たくさん感じて考えたい。
これまで以上に。

追い付けばさらに突き放す―

感動の追求、感受性の研磨に終わりはない。
たとえて言うなら
まるで、大切に木々を育てるように―


【人は感情を引きずりやすい。
いい感情だけを引きずって生きよう】
(斉藤茂太)

宮沢賢治の作品に『ツェねずみ』という作品がある。古い家の真っ暗な天井裏に住み、〈償う(まどう)てください〉を口癖にするねずみの話だ。いたちから金平糖がこぼれている場所を教えてもらい、お礼も言わずに一目散に走っていく。ところが蟻の兵隊が先に到着していて追い返される▼ねずみは、〈私のような弱いものをだますなんて、償うてください〉といたちを責め立てるが、いたちはもちろん怒る。〈ひとの親切をさかさまにうらむとは〉と。こんなことの連続で、最後はねずみ捕りにかかってしまう▼東京都世田谷区で一家四人が殺害されて今日で丸九年になる。犯人は捕まっていない。隣家に住んでいた被害者の姉、入江杏さん(ペンネーム)が自著『この悲しみの意味を知ることができるなら』で、ツェねずみの話を取り上げている▼事件後、何度も「償ってください」と叫びたくなった。奪われたのは愛する妹一家であり、心にぽっかりと大きな穴が開いた。だが、〈誰に償ってもらえるはずもないのだから〉と、ツェねずみにはならないと誓ったという▼悲しみが消えることはおそらくない。毎朝カーテンを開けるときが、一日のうちで一番寂しい。朝の光が、「もう妹たちがいないんだ」と告げてくるからだ。それでも喪失を学びとし、〈敢えて人生を肯定的に捉えていきたい〉のである▼どうしたらツェねずみにならなくてすむのだろう。【〈ささやかなことに目を見張って、ただごとに感動し、一瞬一瞬をいとおしんでいきたい〉】。入江さんの言葉が心に染みる。
(平成19年12月30日 北陸中日新聞)

【たくさん考えろ
いろんなコトを そして 自分のことを
空はなぜ青いか
なぜあのコが好きか
なんでもいい・・
人生は楽しい 考えるコトがたくさんある】
(湾岸ミッドナイトより ユージの父親の言葉)

今週のHibiki―っ 7 「奏者である以上『音楽』は自分たちで演ってナンボでしょ!」

2007-12-21 22:37:14 | Stream of Tears 心の手帳
(BGM:「ウィンターラブ」 栗林みな実)


Hibikiでごわす(笑)。

先週の土曜の話になってしまうが、出身大学の吹奏楽部の演奏会にOBとして、そして、最低人数しかいないトロンボーンの3番パートとして出演した。
オリジナル曲、ニューサウンズ・イン・ブラスをはじめとしたポップス、そして古今のクラシック曲(オーケストラ曲)アレンジ、などなど、さまざまなレパートリーがあって、楽しめた。
大学の先輩の誘いで入った吹奏楽団は、結婚その他の理由でかつての先輩や仲間たちが次々と離れていく中、私は一人離れ、職を失ってからというもの楽器そのものもそうだが「ウィンドバンド」の世界からは遠ざかっていた。
今年は、現役の人数はどうなのかな、私は聴き手として・あるいはステージマネージャーとしての裏方カナと思っていたときに、トロンボーンの現役生が体調を崩してしまうという事態が発生。よりにもよってその子は私と同じバストロンボーン吹きだった。

久しぶりに訪れる吹奏楽部の練習棟。
メンバーがかなり増えていて、去年の演奏会や卒業式の式典演奏を共にしてきた現役生は、かなりのレヴェルアップを果たしている子もいて驚いた。
最初は猫1000匹くらい被って「今回はエキストラだから―」と慎ましやかにいよう、と思ったけれど、エキストラ自体は「『楽器が演奏できるなら誰でも』できる」ものだ。「自分という奏者を選んで呼んでもらえたからには「しょーがね~、乗ってやるか」というような気持ちじゃあなくて、「OK、一緒に頑張ろう」という気持ちで行かなくちゃ、と思ったのだ。
練習にはできるだけ参加し、リハもゲネも本気だった。
日に日に感覚を取り戻してくる自分がうれしかった。
基礎練習すらも楽しかった。


そしてやはり「よりよいモノにしたい」という気持ちは、幾つになっても変わらないし、県内に残る数少ないOBとして、今いる後輩たちよりも少し先に吹奏楽人生を走り出した者として、教えてあげたいところ・「『自分らで気づけヨ』というところ以外の部分」は教え、アドヴァイスし、時にはタクトを振ることもした。

それが楽団全体のレヴェルアップに繋がると思ったからだ。
そして、この吹奏楽団の恩返しになれば・・・と思ったからだ。

もちろん、そのアドヴァイスのタイミング、対象、言い方(イントネーション含む)、すべてにおいて「完璧」と言えない。
でも、言っていることそのものは100歩譲って正しいとはいえ、言いたいことを「え?今この瞬間そのタイミングでそんな口調でそれを言う?しかも全員に向かって?」という感じで、バーっとモノを言って、「ハイ、終しまい」みたいな、吐き捨てるような言い方(をしていたOBが実際にいた。その後しばらく全員絶句)だけはしなかった。現役の子達のやっているさまを見つつ、「ン―なんか詰まってるナ」と思った頃合を見計らって、一呼吸置いて、マイナスの波動をできるだけ与えないようにして、なおかつ自分の持てるモノは総動員して取り組んだつもりだ。


かくして本番はフル出演となったが、「たとえアマチュアでも、金とって客に聴かせるからには『俺たちゃプロだ』。その意識を忘れるんじゃーねーゾ」というのが口癖の、元顧問「マエストロ」の下、最後まで精一杯楽しむことができた。

舞台を降りたとき、お客として来てくださっていた先輩に、
「お前何年現役やってるんだよ?!」
といわれたが、私は構わず
「一生ですヨ」
と答えていた。
できそのものはともかくとして、「奏者として舞台に立たなかった年」を作らない記録を更新し続けている自分が嬉しかったし、そこから見えてくるものも数々あった。
また、かつて同じ楽器を吹いていた先輩と(現在は別の楽器)演奏会後のひと時を過ごしながら、いろいろなものに触れることでまた違った世界が見えてくることを重ねて教えてもらった。


その先輩がコピーをとってくださった「第九」は、今車の中でガンガンかかっている。


あの舞台から今日までの日々は、それまでの自分から、まるで薄皮がはがれていくように、自分という人間の中身そのものの大きな変化ではなく、いい意味での表面的な変化・深化がなされていくような、そんな気がした。

22th Movement 「自分という名の車」

2007-12-18 00:31:10 | SWEET SWEET SUITE
【アノネ
どんな車よりもね
構造が複雑で
運転が難しい車はね
じぶんという名の
この車なんだな
そして
一生の運転手は
じぶん】
(相田みつを作:「車」)


私は自分の心身を「自動車」に例えている。
ある時は丁寧に、慎重に、またある時には軽快に、時に激しく走ってきた。


某公共施設に勤務する女性、Kさんは、今の職場に就職する前に会った際、こう言ってくれた。

【紙でできた箱があるとして、それをクシャッと潰してみる、そしてそれを広げて同じ箱に組み立てなおしたとしても元の状態には戻らない、でも、そのゆがみ加減っていうのは、車だったらいろんなところに影響するかもしれないけど、見た目は綺麗に直して、目に見えない部分の傷は、自分だけの傷なんだから、無理に綺麗に直そうとする必要はないのよ、それがあなただから。オンリーワンなんだから】
「あなたは、感受性が豊か過ぎて、そして生真面目なものだから、ただただ只管に走り続けてきたのよ。これからは薄皮をはがすような感じで、少しずつでいいのヨ」

Kさんがそう言った時、ひらめくものがあった。

私は、自分の心身をただ走らせる「ドライバー」だけしかしていなかった。
「車の管理も自分で行う『マイカーのドライバー』」じゃなく、「ほぼ全開、レーサーのような走らせ方」しかしていなかったように思う。
また、メンテナンスの部分では、自分の所有するマイカーには注意を向けてそこそこなされていたとしても、「自分という名の車」の方は、「していたようで、出来ていなかった」
もちろん、自分だけで出来ないメンテナンスは数え切れないほどあるし、それを他人にお願いすることはあっても、十分仕切れていなかった・・・

そう、最後は自分。


エンジンブロー・・・という言葉を聞いた事があるだろうか。
あるいは、ブローそのものを実車で体感したことがある方はおいでるだろうか。
エンジン内部を構成する部品が折れるなどして破片がエンジン内を動き回るなどして壊れる、排気ガスを送り込んでエンジンにモアパワーを与えるターボのタービンがおかしくなって上手く作動していない状態でエンジンを酷使し続ける、などして、エンジンそのものが使えなくなるほどダメになってしまう、という事態だ。
コミック「湾岸ミッドナイト」のバトルシーンでは時々見られるし、アニメ・頭文字Dで、AE86スプリンタートレノを操る主人公藤原拓海が、ランサーエヴォリューションⅢを駆る須藤京一と赤城山でバトルした際、エンジンそのものがオイルを吹いてブローしてしまった場面がそれにあたる。
大体は、オーバーホール(分解し、点検、修理、調整などを行うこと)で済まされるのだが、使えるパーツがほとんど無い場合、あるいは、補記類以外のエンジンの基本構成部品そのものがダメになっている場合は、新しい部品を組み込んでも治らないということが多い。そうなると、全く別物の新しいエンジンを持ってきて載せかえるというコトになる。これを専門用語で「エンジンスワップ」という(その車に搭載されていたものと同じモノを載せる場合もあれば、他メーカーのものも含め全く別物のエンジンを、エンジンを載せるためのマウントや配管等の部品をその車のためにワンオフで作って載せる場合も指す)。

肉体的に、だけでなく、精神面も含め「壊れてしまって走れなくなった人間」は、言ってしまえば「エンジンブロー」だ。

だから、今の自分や「とことん堕ちるところまで堕ちてしまった後、何かのきっかけを掴み再び走り始めようとする人間」は、生産中止になってしまって長い間放っておいた車種の、あちこちヨレてしまったドンガラボディに新しいエンジンをスワップしたばかりのようなものだ、と。
今、この楽章を綴っている自分は、(ことチューンドカーに関して言えば、車体を仕上げてから車検を通すと色々面倒くさいこともあるので)とりあえず車検は通して、さぁこれからどうしようか、という状況なのだ。

「いきなりの全開はダメよ」とKさんは言った。

とびっきりのエンジン・自分にぴったりのエンジン―上から下までキッチリ回る、ターボもつけるコトだって可能、イイ感じのベースエンジン―が乗っかった・・・。でも、走れば、ガソリンは減り、オイルや各種フィルターは汚れ、ボディには飛び石が当たったり、汚れたり、タイヤは磨り減り、パワーがあるのにボディがヨレたまま走り出せばあちこち補強が必要になってくる・・・、そういう意味でのメンテナンスからチューニングまで、エンジン以外の部分も大切に、そして丹念に仕上げていくというコトが必要となってくる。

出来るだけ重量を増さずに補強をドコにしていけばいいのか。どこにスポット増しを施せばいいのか。
サスペンションの伸び縮み、バネの硬さはどうしようか。
どこのパーツを軽くして運動性能を上げてやればいいのか。
燃料調節をはじめ、ECU(Engine Control Unit=車のコンピューター制御が詰まっている部分のこと)の調整はどうすればいいか。
そして、ナラシ→ペースアップまでの段階はどうすればいいのか。
その一つ一つの要素が、自分という車のドライバーとして、もっともっとメカニック面からも関わっていかなければいけないということに。



そして気がついた。

「自分という名のこの車」=人間というモノはそーゆう世界で生きている車なんだ、と。
常々、自分という車からちゃんと降りて、まわりをぐるっと見渡して、メカニックとして・あるいはチューナーとしての立場で自分という車のメンテナンス・チューニングをしっかり行い、調子が上がってきたら、よりいい物へを仕上げていく。
それもゆっくり、ゆっくりとだ。

そしてその車を駆って走るのは、きちんと路面が整備されていて思う存分走らせることができながら、「『目的地へと続いていない』、サーキット」だけじゃあない
複雑な地形を持ち、さまざまなカーブがあり、対向車をはじめ様々な要素も絡まる「公道」がメインだ。
簡単に言えば、サーキットは「趣味や仲間との交流といった『限られた世界』」、公道は言わば「職場」や「社会全体」だ。
それぞれの走る道に、それぞれの「ヤクソクゴト」はあるけれど、こと人間の中での社会生活は複雑で、何かとトラブルが生じやすい。また、傷も少なからずついてしまう。


【走れば傷はつく それがイヤならずっとガレージにしまっておくしかない・・
速く走れば走るほど傷はつくし ダメージはさらに深く刻まれてゆく
なのに速く走らせなければ生まれてきた意味がない そうゆう世界で生きている車なんだ・・】
(コミック『湾岸ミッドナイト』 第8巻 高木優一のセリフ)
悪魔のZが、マサキのFD3SRX-7&ブラックバードとのバトル後ボディを破損させてしまった際に、ボディ製作に携わった高木のショップ内に持ち込まれたZを見つめるアキオをみて高木は「心が痛むか?」と尋ねた後、こう言うのだ。

「公道」という社会を自分という名の車が走る際の、「走りのダメージ」、それは、「宿命付けられた逃れようのない代償」なのだ。ましてや、尋常ではない速度域で走っている(公道300km/h代)悪魔のZは他の車よりもダメージは深くなってしまう。でもそれは仕方のないことなのだ、宿命なのだ、ということを、ドライバーの朝倉アキオは胸深くわかっているのだ。

私が、どうなるか先の見えない中、また走り出した社会生活。
引きこもりやニートになってしまわずにこうしていることができる。

私も、少しずつ向き合い、わかりたい―
自分という名のこの車をちゃんと走らせるコトの難しさと大切さを。

★ホラーバトン★

2007-12-16 15:57:00 | バトン集
gooブログ仲間のしのさんからネタをいただきました。


よっしゃー、いきますヨ―

Q1:恐いのは平気な方?
  恐怖症が二つあります。だからダメダメ。

Q2:幽霊を見た事がある?
  ない、ですね・・・。それっぽいぼや~としたモノならあるんですけど、アレは幽霊とはいわないですね

Q3:お化け屋敷に行くのとホラー映画を見るのとどっちが恐怖?
  比較対象の差がデカイですよ、コレは。だって、(遊園地などのお化け屋敷を前提にして)お化け屋敷はものの数分で済むけれど、映画は長いぞ!だから映画のほうが恐怖!
  あ、でも、怖いシーンじゃないときもあるしなぁ・・・

Q4:死後の世界を信じる?また、死んでもし幽霊になってしまったら何をする?
  死後の世界は信じないですね。幽霊になったら?ン―「地球の行く末を見つめる」。

Q5:死んだらキレイなお花畑が出てくると思う?
  出てきてくれたらうれしいですね。でもただ出てくるだけじゃなくて、そこにずーっといたいです

Q6:death noteを拾いました。どうする?
  とりあえず本物かどうか試すタメに「20~30人」(ここ注目。しのさんは2~3人)書いてみる(極悪人)。

Q7:幽霊が目の前に!!でも、その幽霊は自分の理想の人だった!! さぁどうする?
  いつまでも、死ぬまで一緒にいてほしい。幽霊が「自分の一番の人」だったらサイコーぢゃないですか(笑)

Q8:自分の部屋に幽霊が住みだした!!でも引っ越すお金はない!どうしよう!
  「悪さしなければいっしょにいてもいーヨ」って言います

Q9:自分ちに実はずっと使われてない井戸があったら?!
  今でもおいしい井戸水でないかな~と桶を垂らしてみる・・・

Q10:着信アリのように自分にもその着信が来た・・!!!
  現実に起こるのなら起こってもいいけれど・・・怖いとは思わないですね

Q11:あ、あなたの後ろに何かいますよ。
  あ、センパイ、そろそろ合奏ですか?(笑)

Q12:ジェイソンとフレディ。どっちを味方にしたい?
  ジェイソンかなぁ・・・強そう&凶悪そうだから。

Q13: 幽霊と生身の人間。どっちが恐い?
  本当に怖いのは生身の人間だって―

Q14:最後にバトンを回す人を。
  だれか読んでくだされば。まわしてみて下さい



素敵な再会―運と縁は違う―

2007-12-11 23:55:28 | Stream of Tears 心の手帳
朝起きて、仕事に行き、日中働いて、定時刻に帰途につき、他を回って家についても20時くらい、というサイクルが久しぶりに戻ってきた。
それまでは研修だの、月末の書類整理だのでばたばたとしていたが、今日は退勤後完全オフにして、いきつけの駅のショッピングモールに立ち寄ってみることにした。

冬物のセールをやっていたので、服を2着買い、買い物分のレシートで駐車場の無料申請をしようとカウンターに足を運んだところ、どこかで見た老夫婦が。
9月14日付けの「心の手帳」に書き記した、バイト先の映画館で出会った老夫婦だった。
こちらから「こんばんは」と声をかけると、奥様もだんな様もとても晴れやかな笑顔を私にくれた。覚えていてくださったのだ。

「お辞めになってからどうしているかしら、とずっと気にはしていたのよ」
という奥様に対して、就職が決まったこと、業務そのものは結構変わったものの、資格と知識がそれなりに活かせて楽しい、ということを簡単にお話した。
会社の名刺はまだできていなかったので、プライベートで作成した名刺をお渡しして、「今まで休んでいた音楽活動も再会しました。公私共に落ち着いています」というと、とても喜んでくれた。
そして、「素敵なお名前なのね」「今の仕事はあなたにはまさにぴったりよ。無理しないでがんばってね。今『がんばらなくていい』って言葉もあるくらいだから、体だけは大切にしてね」と言ってくださった。


「世の中って狭いんだ」という言葉をよく耳にするけれど、元アルバイト先のお客様にプライベートでこうして会うことができて、そこそこ突っ込んだ話ができて、優しいお言葉をかけてもらえる、こんな幸せがどこにあるだろうか。

必ず返ってくる―
リターンってのがある―
人も、車も、仕事も、何もかも同じ
やったコトは必ず返ってくる―

あの時、映画館の中でお客様として接していた人に、こうして再会できた・・・
そして、これから先へ進もうとする私の背中を押してくれた―


今日の退勤後、その洋服屋へ行って買い物をして、インフォメーションカウンターの方へ行かなかったらその老夫婦とは再会できなかった。
これは「運(UN)」じゃなく「縁(EN)」なのかもしれない・・・と心から思った。
ひらがなひとつ違うだけ、似ているようなのに、この差はとても大きいように感じられる。


今度は、一緒に同じスクリーンで同じ映画を見ることができたらなぁ、というひそかな思いを抱いて、今遠くで生活している母方の祖父母が少し恋しくなった自分がいた。

今週のHibiki―っ 6 「ぱんぱんな日々」

2007-12-09 23:38:21 | Stream of Tears 心の手帳
(BGM:Song by 栗林みな実 『ウィンターラブ』)

冷たい水がおいしい季節になってきた。
真夏も確かにおいしいのだが、冬の水もおいしい。
朝一杯の水なんかは最高だ。体の機能の目覚め・起動開始が早くなる感じがする。
水分はちゃんと摂らなくては。特に、乾燥しやすいこの時期は。

そして、私は予防のためにマスクも使用する。本番が近いときや、巷で流行っている時などは特に気をつけるようにしている。
マスクをして呼吸していると、かけているメガネのレンズ下方が曇ってくる・・・
といっても、私は風邪引かず。頭痛と口内炎だけは、インフルエンザ予防接種後から治らなくて困っているのだが

よく、「馬鹿は風邪を引かない」というが、それにはいくつかの解釈があるらしい。
①「馬鹿は『風邪の予防方法を知らない』くらいに馬鹿」だから「風邪を引いてしまう」=その説は間違っている
②「馬鹿は風邪を引いたことに『気づかない』」くらいに馬鹿=その説は間違っているようで、本質的には当たっている
なんだかな

大丈夫、風邪は引いたら素直に休んで治せばいいのだ。変なジンクスなど信じる必要はない



この一週間は本当にばたばたした日々が続いた。
特に、5、6、7の3日間は、朝から夕方までずっと研修という、社会人人生初めてのことをしたので、余計に疲れた。
とある独立行政法人主催の基礎講習で、国家試験受験資格が付与されると同時に役に立つことをたくさん学べた。大学の講義場のようなところで受けたその講習はまさに大学時代受けた大講義室での講義のようで、内容も法律の条文や心理学が多かったのとで結構楽しかった。時々居眠りしてしまったけれど

そして今日は家族の所有車いっせいにタイヤ交換。
フロアジャッキと電動レンチがあれば文句ないのだけど(職場にはちゃんとある)、パンタジャッキと十字レンチではさすがに手間隙がかかった。腰は仕事柄大事にする心構え―(ボディメカニクス、とゆーヤツですな)ができているのでぜんぜん問題なかったのだが、SUVクラスのタイヤを抱えるときとかにに背筋に無駄な力をかけてしまったらしく、少し痛みがキたので、すぐ湿布で対応。

とにかく体が資本。
あちこち弱っていたり、傷んでいるところはまぁ仕方がないにしても、元気な部分の継続的なケアはちゃんとしておかなくては。


次の「音楽の時間」は15日の土曜日。
がんばるぞっ


そんな感じです

「楽しい『音楽の時間』」

2007-12-03 23:21:43 | Stream of Tears 心の手帳
2日の日曜日。
私は、県内一のコンサートホールだと思う会場で、学生オーケストラの演奏会の賛助出演をしてきた。

それまで半年間トロンボーンを構えるどころか、楽器ケースも開けていなかった私。
怖かった。辛かった。見るのもいやだった。
クラシック音楽や吹奏楽曲なども全く聴いていなかった。
だが、少しずつ「私のところに戻ってきた声」の中にあった、私の今の使用楽器にめぐり合わせてくれた方からのメール。
「学生オーケストラのエキストラ出演の依頼が来ているんだ、一緒に出よう」と―

残響秒数は普通のコンサートホールの倍くらいあり、背後にはドイツ製の立派なパイプオルガン。
座席はオペラ劇場のような3階建て。

半年間、音を奏でることを忘れてしまった私が踏む、久しぶりのステージ。
その会場がこんな最高の場所とは―
初めて客席に入ったのは、シャルル=デュトワ指揮・チェコフィルハーモニー管弦楽団の演奏会。
初めて舞台に上がって演奏したのは、コンチェルト(エドゥワール=ラロ作曲:『スペイン交響曲』)の伴奏。
その後は、世界の名だたるオーケストラの演奏会で、何度もステキな時間を体感した。
そして・・・ここはいつまでも声を聴いていたかった、傍に痛かった人との出会いの場所でありながら、ちょっと、・・・いやかなり、・・・ううんもっとだ、「非常にハードな『失恋の場所』」でもある。
いやがおうでも緊張する。しないワケがない。

ところで・・・よく「テンション高い」というコトバを聞く。NHKの「ことばおじさん」はなんというか知らないけれど、私からしてみれば、それは間違った使い方をしているんじゃないカナという気がしてならない。というか、私自身は「テンション高いなー!」とか「テンション低いなぁ~」というこの表現や言い方そのものが好きではない。

「テンション=tension」は邦訳は「精神的な緊張」だ。「ピンと張った、張り詰めた」「不安」という意味あいが強い言葉(のハズ)だ。
英語で、巷で言われているところの、「テンションが『上がる』」は「grow tence」または「become tence」と表現する、という。
だから、「しゃべりまくって騒がしいヤツ」とか「朝っぱらから元気のいいヤツ」とかの「テンションが『高い』」=「ハイテンション(High Tension)」というコトバは存在しないのでは?(実際に辞書にもないから、誰かが勝手に作った言葉としか思えない)
百万歩譲って、「テンション高いね」っていわれるような人間が、心理的な極度の「緊張」・「アタフタさ」からその様な状態になることを指して「『テンションが高い』、ということにしよう」となったとしても、やはり使い方としてはふさわしくないんじゃないの?という気がする。
どうせなら「高揚している(=精神や気分が高まること)」っていえばいいんじゃないの?と。
逆もそう。テンションが低い、というのは「言葉数が少なくダルそうな感じ」だけをさしているのではないと思う。緊張が解けて、ホッとリラックスした状態も「テンションが低い」に入るんじゃないの?と思う。



現実の私を知っている人において、Hibiki=「テンション高いヤツ」、そこから「ウザい」という思い、果ては「自己顕示欲のカタマリ」という認識をする人が圧倒的に多いかもしれない。
しかし、実際に「テンションが高い」というのはまさに昨日のような状態をいうのだろう。ピンと張り詰めた緊張―本当の意味での「テンションが上がった」状態だった。
事実、色々なことが心の中で渦を巻いて、私に立ちはだかってきた。
良い意味で「期待感」「わくわく感」「楽しみ」などが含まれるモノからくる『心地よい緊張感』もあるけれど、リハーサルの最中は極度の緊張だった。

でも、それを乗り越えなくては先がない、と思った。
こんなところで飲み込まれちゃあいけない、と思った。
「そんな緊張、全部吹き飛ばしてやる―ッ」

久しぶりの本番―
様々な思いが詰まったホール―
魔物が潜んでいそうな、ことアマチュアな奏者には挑戦的な、でも、「思いっきり演奏しなさいね」と語りかけてくれる天使もどこかにいそうな、そんなホールの客席奥に向かって、リハーサル直後、私は、『機動戦士ガンダム0083』に登場する「アナベル=ガトー」のセリフよろしく、胸中で叫んだ。


「石川県立音楽堂よ!オレは帰ってきたぁ―ッ」


本番5分前。
待っている間もどきどきがまだ続いていた。
しかし、「アガリ」の緊張は、ステージに上り、音を出した瞬間に吹き飛んだ。

「いつもの私」が少しずつ戻ってくる―

今でもオーケストラや吹奏楽、そのほかなんでもいい、今でも楽器をやっている人たちは、小中学校の音楽の時間は大なり小なり好きな時間だった人が多いだろう。
学校の勉強の中での「音楽の授業」は嫌いだったとしても、何かしらの音楽をやっている人は、その時間は「楽しい音楽の時間」なんだ。
私は、ピンと張り詰めたいいテンションの中、精一杯演奏した。


楽しい「音楽の時間」が終わり、緊張がほぐれ、そして今、楽しいひと時を振り返っている。

ステージを降りるとき、同じくエキストラのオトナの方々と、気持ちのよい「お疲れ様ッ!」「やったな!」の握手が出来た。
音楽仲間や私を知る人が、「お疲れ様」とメールをくれた。

「完全復活」とは言えないけれど、この本番は、自分にとっては貴重な大切な1ページとなった。

実は、この演奏会にはエキストラ出演とはいえ両親が聴きに来てくれて「よかったよ」といってくれたのも嬉しかった。



次の楽しい音楽の時間まで、しっかり練習しよう。

今週のHibiki―っ 5 「12月 『あなた』と初めて過ごす季節」

2007-12-02 01:47:02 | Stream of Tears 心の手帳
冬はどんよりした日々が多い中、たまに晴れた時は透き通る空を見上げる―

寒い日の朝、雲間からの光=「天使の梯子」を見つけたり、綺麗な朝焼けを見たりするだけで心が和む―

卓上カレンダーの写真では、ふかふかのお布団の上で、子猫がくーかくーかと寝ている(かわいいぞ~ッ!)

12月だ。


12月というコトがいまいち実感できないのは、クリスマスや忘年会をはじめとした年末恒例イベントに疎いか、そーゆうモノを目にしたり耳にしたりしていないだけかな、と思うのはここだけの話。
でも、あとひと月で今年が終わるんだ―
小さな頃は、こんな気持ちを感じたことなんて無かったのに、なんだか不思議。


いろいろな気持ちが渦巻く中、私は今こうして生きている。
タイトルの『あなた』というのは、不特定多数の「新たに出会った人たち」だけでなく、「今の状態の私」というモノも含まれている。
「自分と向き合って」という意味だ。
両親をはじめ周囲のサポートこそあれど、今までにない新たな自分の仕事がちゃんとあり、自分の趣味がそれなりにちゃんとカタチになって戻ってきて、色々な苦労の中に色々なことを知って・・・
そんな私がここにいる。

それなりに「自分らしく」いられてる、のかな、と思うと、先々の不安を考えてしまう以上に、「現状維持」「モチベーションを保つ」という難しさを知った。
NHK番組「プロフェッショナル」に出演している茂木健一郎さんも、某人気番組で言っていた。
「人間は年齢を重ねる毎に頭・思考がカチカチに、硬くなってしまうんです」と。
過去の記憶、体験してきたことを自分のディレクトリ(いわゆる「フォルダ」ね)
から引っ張り出してモノを考えようとしてしまう。

でも、それじゃあダメなんだ、と。
柔軟にモノを考えるのがイイんだと。

じゃあ、ボクネンジンで鈍感で馬鹿真面目・馬鹿正直でウスラトンカチな私はもっと意識しなきゃぢゃん―!




「やわらかく」「柔軟に」あり続ける、ということは簡単そうで難しい。
でも、何かに対しては敏感になっていたい。自分の「タメになる」と思ったものを吸収できる感受性のアンテナを張っておく。
そうするコトが、心の糧になる。何もかも。

楽しいときもつらいときも一緒。
無理して合わせたくはないし、あわせない。そんなコトしても息苦しいだけだから。

「同じ、あるいは似たようなフィーリング」でいられる人・空間だ、と思ったら、「同じ言葉で話し合える」「自分の自然体でいられる」と思ったのならそうすればいい。自分のやり方で、コミュニケーションを図ればいい。心を通わせていけばいい。


今までにない今年の12月最初の心の手帳。
いろいろ思い出したらやっぱり泣いちゃいそう。