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Symphonyeel!(シンフォニエール!)

ようこそ。閲覧者の皆さんとのメッセージが響き合う場となってほしいナ―という想いで綴ってます

41th Movement「『体 口 心』で感じた、古いモノと新しいモノの共存」

2010-09-22 00:14:56 | SWEET SWEET SUITE

【「体 口 心」(たいこうしん)て言葉があるわけよ
坊さんが法事のときとかによく使う・・
仏さんの前に自分の「体」を持っていって 「口」に出して拝む
その時「心」は無とする・・
それがいちばん届くらしい
つまり 本気で人に物を頼むときは
自分の「体」で会いに行って 自分の「口」で言葉を伝えて
その時よこしまな「下心」は持たない
メールや電話で 人が本気で動くかよ】

(『湾岸Midnight C1ランナー』より 本会議の前に「ロビー」=控え室で段取りを決める・根回しという効率について、「メールや電話ならもっと効率よく回せる気がするんですが」、という荻島に対してキムスクが語った言葉)

私の勤務する児童クラブは、市内地区の社会福祉協議会が運営する私営の団体。市からは補助金が出るだけである。あくまでも経営は保護者からの保育料。
しかしながら、建物は校区内の借家。毎月の家賃を払うだけでもべらぼうな額になる。
児童クラブ・学童保育の経営が大変なのは、どこも同じだろうけれど、自他(保護者)共に認める貧乏児童クラブである。
蛇足ながら、兄弟児童クラブに当たるもうひとつの学童は、市が建てた児童館・公民館を兼ねる建物の中に入っており、当然家賃の徴収はない。職員はベテランの域の人が多いし、体育館や図書室などの設備も充実し、ネット環境が整った立派な指導員室もある。正規指導員二人だけの私たちに対し、パート職員も数人始業時から雇っているから、子どもの人数こそ多けれど、同じ量の業務を同時にこなすとなれば、やはりこちらはマンパワー不足は否めない。
同じ法人の児童クラブ、同じ保育料を徴収している児童クラブなのに、行って帰ってくるほどの差がある。

そんな中、バザーなどの活動で稼いだお金で、保護者会と職員で話し合って、備品を新調しようということに決まり、手始めに、いたずらや落書き・乱暴な扱いで、板も足もぼろぼろ・・・これは何とかしようということで子どもが宿題や活動に使う座卓を10本買おう、ということになった。
インターネットで買おうかという案もあったが、とりあえずホームセンターを片っ端からあたってみようと思い、自分の買い物のついでに価格調査をした。
長さは180cm、幅は、子どもが真正面に向かい合って宿題を広げてできるような幅を求めて60cmのものをチョイス。
店頭価格6950円と9850円の二種類があった。

なんとかもう少し安くならないかと思い、出勤前に立ち寄って担当の方にお願いしようとしたところ、その方はまだ出社しておらず、パートのおばさんが対応してくれて、
「まとめて買ってくださるんだったら、こちらは6500円くらいにはできると思いますよ」
と言ってくれた。
その後、担当の方からクラブに電話が入り、やはり値段は「1本6500円で」ということだった。
主任との協議の末、子どもが持ち運びすることも考慮して、多少強度は弱くても軽い、安い方を選んだ。
その結果を保護者会会長さんに報告したところ、「オーケー、わかったよ。10本で10万円くらいかかると思ってたから。机のことはすべて先生に任せるから。あともう一押しすれば、もう少し『勉強』してくれるかもネ」

かくして、またまた仕事が休みの19日。
在庫があるのか、ない場合はどのくらいの日数で揃うのか、配送量はいくらかなどを含めて聞いてみることにした。
ここのところの疲れがたまっていて、本当は出歩きたくなかった。
電話で済ませたかった。
しかし、「ここは動いてみよう」と勇気を出してお店に行った。といっても、読み聞かせの本を借りに図書館へ行ったついでなのだけど。

かくして担当の方は、初めて私にお会いして、その座卓のあるコーナーに行って、詳しく内容を教えてくれた。
「1本6500円に、市内だったら配送量は何本頼んでも550円なんですよね・・・」
その後、店員さんはぽつりと言った。
「そうです。・・・あの・・・ご予算はいくらくらいなんですか?」
私は少し考えて、「6万円ちょっとなんです・・・」と答えたところ、店員さんはにこっと笑って、
「わかりました。じゃあ、今回に限り、6000円で結構ですよ」と更なる値引きに応じてくれたのである。
私は迷わず見積書をもらい、嬉しい気持ちをこらえて家に帰った。
その時に、上記の言葉を思い出した。

私は、モノを買ったことは数限りなくあるけれど、モノを売る仕事や、不特定多数の人に合う仕事、商談をするなどの営業をしたことがまったくない。私が世間知らずなだけかもしれないが、販売や営業の人は、「原価がここまでだったら、ここまでの値引きはOKとしようか」などちゃんと決まっているだろうし、上司との相談もあるだろう。
問題は、その前後のプロセスだと思うのだ。

以前、バザーでおにぎりを出すときに、初めてお願いしたお米の会社の営業さんは、足しげくクラブに通ってくれたし、「これ以上ない」という値段で用意してくれる代わりに、商品のPRを兼ねて販売をするからという条件で、コマーシャルソングのCDと販促のためのシールやポスターも用意してくれた。
結果、夏休みの子どもたちの昼食で、保護者のお弁当の負担を減らすためにクラブ内で昼食を用意するとなったときのおにぎりも、そのときの価格のままで売ってもらった。

そうすることで、
「嬉しいよ、こんなに安い値段で売ってくれて。この次もよろしくね」
「ありがとうございます、こんなにサービスしてくれて。またお願いしますね」
という付き合いが広がっていき、深まっていくのだろう。


この言葉を見事に表現しきっているCMがある。サントリーの缶コーヒー「BOSS レインボーマウンテンブレンド」のテレビCMシリーズ。トミー・リー・ジョーンズ扮する宇宙人・ジョーンズが、地球を調査する中で、さまざまな人間模様に出会っていくもの。
その中のひとつ、「宇宙人ジョーンズ・二つのタワー編」がそれだ。 

空から撮影された、建設中の東京スカイツリーと東京タワー。

ナレーション(ジョーンズ):「この惑星には、常に新旧の戦いがある」

東京タワーの展望台にある双眼鏡で、とある会社のビルを覗いている宇宙人・ジョーンズ。

上司(杉本哲太):「直接会ったほうがいいだろう」
部下:「メールのほうがいいと思います。資料も送れますし」
上司:「メールな…」
(「宇宙人ジョーンズ 地球調査中」のテロップ。耳が大きくなり、会話が聞こえているらしい)

夕暮れの東京タワー。
エレベーターには、上司とエレベーターボーイ(?)のジョーンズ。

ジョーンズ:「上ヘ参リマス」

展望台から、建設中の東京スカイツリーを眺める上司。
上司:「あんなにできてるんだ・・・」

そこへ、資料入れを持った部下が駆け寄ってきて、
部下:「すいません・・・、やっぱり、会いに来て欲しいって・・・」
上司:「あぁ、そうなの・・・!」

それを横目で見ながら、心でつぶやくジョーンズ。
ナレーション:「ただ・・・この惑星の二つのタワーは、どちらもアリだ」
再び映し出される、東京スカイツリーと東京タワー。
缶コーヒーを一口飲み、スカイツリーに目をやるジョーンズ。


佐藤直紀「ALWAYS 三丁目の夕日」オープニング曲がBGMとして流れ、「くすっ」と笑ってしまう演出が多かった今までのシリーズとは一線を画したこのヴァージョン。

「このCMを見て、我を顧みて、お互いにわかり合えて、通じ合うことができるようになった人々もいたかも…」というコメントが寄せられていた。


メールの良さも、直接会いに行く良さも、「どちらもアリ」。
電子書籍と、紙の本、「どちらもアリ」。

【「たとえば エリは気に入った音楽があればどーするの?いちいちCDショップに出かけていって CD買う?」
「行かない とりあえず配信かな・・ でも本当に気に入った曲は・・」
「そう CDで買うよね それはなんでかな?」
「うーん やっぱちゃんと手にしてみたいし・・」
「そう 手にしたい
人はね 気に入ったものは手で触って確かめたいのよ
なんでメールの『好き』が 心の奥まで届きにくいか・・
それはやっぱり 『画面』の中だからなのよ
世の中は間違いなく よりデジタルな方向へ行く・・
でも 古いモノと新しいモノは意外と長く共存すると思うよ」】

(『湾岸Midnight C1ランナー』より エリと良美の会話) 上記の言葉は、「これからは雑誌って全部デジタルになっていくのか」というエリの問いに対し、「そうカンタンにはいかないと思うな」という良美の回答である。


サントリーBOSSのCMは、「体口心」と「新旧の共存」を15秒で上手く表現しきっている。

それと同時に、CDの演奏より生の音楽が、人の魂を揺さぶるように、本気で人の心を動かすのは、自分の体を相手のところに持っていき、自分の口でモノをいい、邪な心は持たず・・・
そこまではむつかしいにしても、あるところ真摯に、あるところ丁寧に対応すれば、人の心は動くのだろう。


小さな積み重ね~さまざまな人物の見方や言葉で見る・序章~

2010-07-20 23:45:36 | SWEET SWEET SUITE
【小売業で成功したかったら、『満塁ホームランを狙う!』というヤツは失敗する。
小さな改善を毎日積み重ねるしか手はないんだ】
(日本マクドナルド創業者・藤田田=ふじた でん)

今日(7月20日)は、月面着陸の日・人呼んで「ムーンサルトの日」(アポロ11号の『静かの海』着陸の日)だ。

ニール・アームストロング船長の、

【“That's one small step for a man, one giant leap for mankind.”】
(一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類のためには大きな飛躍である)

という名言が残っている。



今日は同時に、マクドナルド国内一号店がオープンした日でもあった。
貿易会社の藤田商店社長・藤田田氏がマクドナルドに着目し、フランチャイズ権を獲得。
子会社・日本マクドナルド株式会社を設立し、1971年(昭和46年)7月20日、1号店である銀座店が銀座三越店内に開店したのだそうだ。

同じ日にあった歴史上の出来事ながら、そこから似たような名語が生まれていたとは誰が思ったことだろう。


たとえば
世の中を生きる多くの人が
夢や目標を持っているのになぜ達成できないのか・・・

単に目標が大きすぎるから?
大きすぎて逆に一歩も踏み出していないから?

それじゃあ

確実な一歩を踏み出すということはどういうことなのか?

それが知りたくて
それを感じたくて

私は沈みゆく月を見ながら思う。

単に「今できることだけをすればいい」というカンタンな言葉で片付けちゃいけない世界なのかもしれない、と。

これを気に考えてみようと思う。

小さな積み重ねってどういうことなんだろう、と。



琴線に触れた言葉たちを集め、この組曲のなかにいれることによって
何か得られるものがあるかもしれない―

そして、児童クラブの子どもたちは、21日から夏休み。

子どもたちともに、自分も何か掴んでみよう

いや、掴んでみたい

40th Movement 「愛しい日々、大切なもの」

2010-04-05 23:30:36 | SWEET SWEET SUITE
アリス:「いつか・・・いつの日か私たちにもそういう日が来るんですね。一人前のウンディーネになったら、今のように灯里先輩や藍華先輩と、毎日練習で顔を合わせることもできなくなるんですね」
アテナ:「たしかに・・・今のままではいられないと思う。時間は時には優しく、時には残酷に、すべてを変えていくものだから・・・」
アリス:「そうですよね・・・。わかってます」
アテナ:「でも・・・少なくとも私には、今だってまんざらじゃないわよ。お仕事は楽しいし・・・それに、かわいい後輩たちもできたし・・・とか」
アリシア:【うん、アテナちゃんの言うとおり。あの頃の楽しさに囚われて、今の楽しさが見えなくなっちゃったら・・・、もったいないものね】
:【“あの頃は楽しかった”・・・じゃなくて、“あの頃も楽しかった”、だな】
アテナ:【きっと、本当に楽しいことって、比べるものじゃないのよね・・・。あの頃も、今も、これからも・・・。一緒にいる人の過ごす時間の中に、いくつもの小さな楽しいことが、生まれては消えてゆく・・・。その一つ一つをつかまえることができたら、楽しいことは尽きることがないのよ。いつまでも・・・ずっとね】
アリシア:「それとワンポイントアドヴァイス。今楽しいと思えることは、今が一番楽しめるのよ」
(「ARIA the ANIMATION」 第13話 『その、オレンジ色の日々を…』より)

アニメ「ARIA the ANIMATION」 第13話は、灯里・藍華・アリスの三人娘が、冬、寒い中のゴンドラ漕ぎの合同練習を終えてARIAカンパニーに戻ってきたところから始まる。
それぞれの先輩プリマウンディーネである、アリシア・晃・アテナの3人に、仕事の予約のない日が重なり、晃の提案で3人揃って会おうということでARIAカンパニーへ集まっていたのだ。
アリシアの話によると、シングル時代の3人もまた、会社の垣根を越えて、毎日のように合同練習をしていたという。
その頃の思い出話に思いをはせる面々―

アリシア:「あの頃は楽しかったわね・・・。毎日いつも3人一緒だった」
アテナ:「忙しくてたまにしか会えない今が・・・、なんだか嘘みたいに思えるわよね」
晃:「たしかにな・・・。こうしてアリシアの生クリームのせココアを一緒に飲むのも、どれくらいぶりだか」
アテナ:「私・・・3人で合同練習をする日がずっと続くような気がしてたな・・・」

そして、シングルからプリマに昇格し、3人出会える時間がどんどん少なくなっていった今を思い、3人の会話に耳を傾けていたアリスがぽつりとつぶやいた言葉から、これらの素敵な名言は生まれている。

新年度を迎えたこの春―
新生活を迎えた人も多いことだろう。
有り余る時間を一緒に浪費した学生時代と、次第に忙しくなり、過ぎてゆく時間も自分のためだけくらいになる社会人生活との違い・・・。
距離はさほど離れていないのに、心は遠くなって、時に流されるまま、楽しいことも見つけられず・・・
そしてついには会えなくなり、会わなくなってしまう・・・。
時の流れや、それに伴う環境の変化は、楽しかった日々を少しずつ、まるでセピア色に染めるように換えてゆく物・・・。

人と人との関係や、楽しい時間を大切にすることは、「少しばかりの努力」が大事なのかもしれない。その努力をどうすればいいのか、その回答のサンプルを、この言葉たちは教えてくれるようだ。

その晩、藍華とアリスを見送って戻った灯里が、夜になっても楽しそうに会話を続けている先輩たち3人を見て、心の中でささやく。

【時間が経つと、色々変わってしまう・・・。でも、絶対に変わらないものもある。
変わっていくから大切なもの、変わらないから大切なもの・・・。どちらも同じくらい大切】


この灯里の言葉がすべてをうまくまとめているといっていい。
過去の楽しさは大切にしつつ、今、このすぐ前にある楽しさを大切にする気持ち。
周りの状況は、いつでもどんな時でも生々流転・いつかは必ず変わる。
そのことをしっかりと受け止めた上で、変わらないでほしいと思うものがあるのなら、それは自分の強い気持ちが大事なのだということが言えるだろう。それが「少しばかりの努力」の中身である。
それらは、彼女たちが、出会いや仕事や、その他すべてを通して皆で共有してきた中で教えられたひとつの結論なのだ。
それを、後輩たちに身を以って教えている。

最後にもうひとつ、私が好きな名言を紹介しておこう。

【今は当たり前に会えることが当たり前でなくなるとゆーか 
人は変わると思うんですよその心とかじゃなくて おかれている状況というか そういうのが
かわっていくのが当然のその中でそれでも変わらずにいて欲しい それって 強い気持ちじゃなきゃムリだと思うんですヨ
いつまでも会っていたいと またいつでも会える それはやっぱり違いますよね
今は同じように見えるかもしれないけど 先にいくほどその差は大きいと思うんですよ】
【変わらぬ状況を望むのなら それはお前の気持ちだけ 人も そして他のことも すべてお前しだい それだけだろうって】

(「湾岸ミッドナイト」 コミックVol.27 113P)

小さな楽しいことを 一つ一つつかまえれば、普通の毎日が、愛おしく思えるようになる―
そういう気がする。

Concertino(コンチェルティーノ) 第3番 「『褒める』から『内なる力へ』」後編

2010-02-13 00:28:27 | SWEET SWEET SUITE
「ヒトの関わり」において、欠かすことのできない、「よく話すこと」「よく聴くこと」。
携帯電話等の普及で、「他人のおうちへ電話をかける」といったマナーも薄れ、セルフ方式スタンドなど自動音声に従って操作すれば目的が果たせるという「無言化社会」がますます加速する昨今、関わりの中から「心の中の内なる力に働きかける」ということについて、考えがよくまとめられた講演を聴く機会に恵まれ、その内容を絡ませながら、「褒めること」の利点を分析してみよう。

その前に、「褒める」という言葉の意味から分析する必要がある。

「褒める」=すぐれている、よくやった、という。たたえる。

しかし、これにはひとつの側面があり、「褒める」とは「『褒めるヒトの価値観に基づいた』行為」なのである。
相手の価値観によって評価され、相手の評価が高いときの言葉や態度などによるご褒美のことなのである。
言い方を換えれば、褒美を与えるヒトの思い通りの反応をするように、条件反射として行動パターンを固定化しようとするもの、となるのだ。
つまりは、子どもにとっては「しつけ」、大人にとっては「意識の強制」のための行為だと言い換えられる。
ここで注目すべきは、褒美を受け取るヒトの価値観は考慮されていないということ。
しかりつけても褒めても、究極のところは、相手の心に、その人の本心とは別の、不自由な枠をつけさせてしまうことに変わりはない。
「気持ち悪い」という表現をしているヒトは、そこばかりに感づいてしまっているからなのだろう。
だが、「褒める」という行為の主軸は、過剰なプラス評価などではない。正当な評価を適切に行うことだ。


私が仕事をしながら、いつも感じていることがある。
子供時代を誰しも経験して大人になっていく。社会情勢など時代の背景はヌキにして―
子供のころのあの頃の気持ちは、思い出すことはできても、大人になってしまった今の心では、キッチリと再現するのは不可能なのだ。
経験、知識、その他が邪魔をして、「何も知らない」「見たものすべてが新しい」「どうしてコレがいいことで、どうしてソレがダメなのかと疑問に思う」など、さまざまなことが、子供の心とは違う。
どうがんばっても、「子供の心」に自分の心を戻すことは不可能なのだ。
だが、子どもは褒めても叱っても「育てる」ことにはかわらない。だから両方うまく使って育てるのが一番いい。
いつも叱られてばかりいては、自身も失ってのびのびと行動することができなくなる。
だから、褒めてあげることによって、
「『自分のことちゃんと見ててくれてるんだ』、と安心する」
「『やればできる』という自身が増える」
「『もっと伸びたい』という意志が生まれる」など、さまざまなことが期待できる。

かといって、同じコトを何度も褒めればいいってものではなく、効果的に・視点を見据えて褒めることが求められる。
ちゃんとできてなかったら叱り、それがきちんと直っていたり、できたりしたら褒める。何が大切なのかをきちんと踏まえている褒め方。
つまりはスジが通っているか・一貫性があるかだ。
また、「~できたからいい子ね」というのは、単なる評価に過ぎない。取り組んできた過程を評価してこそ初めて「褒める」ことにつながるのである。


では、ちょっと考察と実践を。
まず、グループになって、「自己紹介」と「仕事の中で嬉しかったコト」と「最近ハマっているコト」を話し合ってみてほしい。
これをするだけで、見ず知らずの人間でもだいぶ肩の荷は降りるはずだ。
つまり、この作業だけで、「聴いてもらうと嬉しくなる」効果を生むためのきっかけができてしまうのである。

では、子どもにターゲットを絞って考えてみよう。
まず、子どもは、いろいろなところで生きている。
「家庭」「学校」「児童クラブ」「地域」…
その中で、降りかかる、「否定的なかかわり」「マイナスの波動」について列挙してみよう。
たとえば…
「『早くしなさい!』とせがまれる」
「宿題が多い」
「授業が長い」
「貧困」
「遊ぶ場所が少ない」
「新しいきょうだいが生まれて自分はほうっておかれる・・・」
「親の精神疾患・DV」…
これらをまとめて「A」としよう。

このようなマイナス波動は、「マイナスのレッテル」を生み、「どうせ自分なんか・・・」という自己否定感が生まれ、そこからさまざまな問題が発生する。また、「親の前ではイイ子でいなくちゃ」と思いつつも、そうしなくちゃいけない現実から離れられない事情も重なる。
こういう状況の中で彼らはさまざまな「気持ち」がうまれ、そこから「サイン」を出す。
「さびしい」
「うらやましい」
「見てほしい」
「~なのに」
「交わりたい」
「独占欲」
「イライラ」
「無力感」
「自己肯定感がもてない」等等。
この気持ちをまとめて「B」とし、

「頭痛」
「泣く」
「表情の変異」
「暴力」
「スキンシップをせがむ」
「接触拒否」
「物を隠す」
「火遊び」
「万引き」等等。
これらのサインを「C」としよう。

この「A」「B」「C」を今度は大人の世界で考えてみてほしい。
どうだろうか。大人も子どもも「否定的なかかわり」というものに、普段からさらされていることがわかるだろう。
本来の心の流れは「A」→「B」→「C」のはずなのに、周りは間逆の「C」→「B」→「A」と見てしまうことに注目したい。
サインの裏に何が隠されているかに気付いてあげるのは、難しいことなのだ。

人が本来持っている力―たとえば「生命力」「人と関わろうとする力」「さまざまな個性」「自己回復力」など。
これらの力に、外から加わる「暴力」や「さまざまなダメージ」は『外的抑圧』と呼ばれる。抑圧は、ある程度は防ぐことができるが、大きくなったり多くなったりすると、はじき返せなくなって中に入り込んでしまう。これを『内的抑圧』という。
そこで、この中に入り込んでしまった『内的抑圧』に働きかけるのが『empowerment(エンパワメント)』の考え方である。

この考え方で一番大切なのが、「サインを『観る』ことができるか」「相手の気持ちをどれだけ聴けるか」だ。
これは、「心から褒めること」においても同じくらい大切なことである。
さらに踏み込んで、「何が正しくて何が正しくないのか」ということをはじめとした『伝える力』を身につける。
たとえば―
「お前は××だ!」という、自分の視点のみで捉えた言い方ではなく、「私は△△してほしいんだ」という言い方に切り替える―
コレを「I message(アイ・メッセージ)」という。
「あっ、そうだったんだ、△△すれば良かったんだ」
そうやって、相手と言葉を合わせていくうちに、心や気持ちも重なり合っていく。

そしてサインだけでなく、目に付きにくい努力を見逃さず認める、ということも「効果的に『褒める』」上で大切なことである。
そうしていくうちに「~してえらい」ではなく、「~してくれてありがとう、とっても助かった」という「感謝の意」を示す褒め方に変わっていく。

さらに効果的なのは、第三者を使って褒めること。
A部長さんが「Bさん、C課長が、『いつも早くに出社して、業務に加え雪かきまでがんばっていたね、すばらしいよ』と言っていたよ」といった風にだ。
「Qちゃん」こと高橋尚子選手を育て上げた小出監督も、褒め上手だったという。高橋選手を直接褒めて伸ばしただけでなく、マスメディアで彼女を褒めることによって、直接褒める以上に本人に勇気を与えることを、小出監督は知っていたのだろう。


仕事だけでなく、人が生きる上で、「誰かの役に立つ」「感謝される」ほど生きがいを感じる・生き生きとする瞬間はないと言われる。
褒めまくりすぎて尊重しすぎると、「褒められてトーゼンさ」「認められて当たり前さ」と、自己主張が強いわがままな人間になりかねないか、というのは、わからないでもないが、そこから先は、理論立てて意見を述べるとともに、相手の言い分もちゃんと聴く、というキャパシティが求められる。
その部分をお互いに育てながらも、褒めることで、できるだけ相手の良い部分を見つけ、そこを伸ばしていく。


【取説ってあるだろ 取扱説明書ナ
オレは機械の人間だから それを頭に入れて そして動くのよ
人間にも取説はついている オレはそう思って接してきたのよ
言ってわかることや わかんねえこと していいことや しちゃダメなこと 他いろいろ
話のわからねえバカも困るが 中途半端な知恵のついた奴も また困る
取説どおりに扱わねえと スネたりゴネたり そんな奴ばっかでよ
でもやっぱ 人に取説はついてないわけでさ
人はみんな違うわけだから】
(湾岸ミッドナイト VOL.28より)

北見淳がタービン職人“木村のとっつあん”を訪ねた際、北見の生き様から学んだことを、とっつあんが語るシーン。少し知識があったり、自分の思い(=取説)通りに他者が動かないと不愉快になったりして、そこからマイナスの波動が心に生まれてしまう、なんてことも。
ついつい取説扱いしがちな、人の個性。
自己の周囲の多種多様なありさまをちゃんと理解する。それはその本人の心の容量次第である。

言うは易く、行うは難し―かもしれない「褒める」という行為。
「聴いてもらうと嬉しくなる」から、「わかってもらうと嬉しくなる」へ―
相手を褒めれば自分も嬉しくなる。
褒めるという行為は、プラスの波動を生みやすくするための良い習慣なのだといえないだろうか。


拙い文章ですみません。

Concertino(コンチェルティーノ) 第3番 「『褒める』から『内なる力へ』」前編

2010-02-12 23:19:17 | SWEET SWEET SUITE
NHK番組「クローズアップ現代」を題材に、興味深い記事が載っていた。
今回は、この記事を主軸に、「褒める」ことから人間の内なる力に働きかけるということについて考えてみた。

「ほめて褒めてほめまくれ! ほめられて伸びる定着率・業績…」
http://www.j-cast.com/tv/2010/01/27058860.html?p=all
(J-CAST テレビウォッチより)

褒められて伸びればいいけど、世の中甘い(そうかな?)

褒める練習をしているけれど正直メンドウだ。

褒めすぎってよくないことなんじゃないの?

褒められることを待っている人間は伸びない。

都合の好いときだけ褒めまくる…変なおべんちゃらなんてイラナイ?

傷の舐めあいばかりする、甘い人間・精神年齢が低い大人ばかりが増える?

気持ち悪い?

私ははっきり申し上げたい。
私が部下を複数持つ上司なら、「100回叱るより5回褒める」。

【やってみせ いってきかせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ】
(連合艦隊司令長官 山本五十六)


まず勘違いしてはならないのは、「褒める」と「世辞をいう」のは、紙一重のところで違うということだろう。

【人にお世辞を云うのは、云う人が考えるほど効果的ではない】
(野上弥生子 『断章』より)

何かを期待してお世辞を言っても、こちらの顔を見透かされてしまったり、真意を汲み取ってもらえなかったりする。お世辞は、せいぜい人間関係を円滑にするぐらいに考えておいたほうがいい。
褒めることをただ「気持ち悪い」ととっている人は、ただのお世辞と本当の褒め言葉との区別が、心の中でできていないのではないかと推測される。
褒められて、「照れくさい」人は居るけれど「イヤな」顔(心)をする人は居ない。イヤな顔をするというコトは、恥ずかしいか、その人と、多面的に「イイ関係」が築かれていないからだろうと思う。

会社などで、「褒めるくらいならカネをくれ」って言う人も居るだろうけれど、「褒めて・褒められて」という人間関係が築かれていき、そこから信頼関係が生まれ、
さらにそこから、仕事の能率が上がり、部署や会社全体で大きくなっていける―

さらには、周りの人間関係もよりよいものになっていく―
それらは、「お金じゃあ買えない」。

それがわかるのは、もしかすると定年近くになるまでわからないかもしれないが―

また、相手を素直に褒められるようになると、自分も元気になる。
テレビ番組で、よく海外の家族の様子を収めた映像が流れて、夫婦がお互いのことを褒めあったりしている様子が出ている。そんな雰囲気が、互いの人間関係をよい状態にするのではないだろうか。

母も言う。自分は長男だからなおのことかもしれないが、私を育てている間は、子育てそのものだけでなく、家計のやりくり、心配事がいっぱいで、褒めるなんて余裕がなかった、と。
年齢と経験を重ねるにつれ、父に悪口も冗談も言えるようになり、お互いを敬愛しているからこそ、良い仲になっていく―
率直に褒めあうことはしないけれど、はっきりいって、理想の夫婦のサンプルといっていいと思う。
だから、会社の人間関係だとか云々の前に、身の回りにいる人たちを褒めてみることからはじめてみてはどうだろうか。
私は異性の縁がないのであえて強く言いたいのだが、地球にはたくさんの人がいるというのに、たった一人目の前に自分が選び・あるいは選ばれたパートナーがいる、それだけで幸せなはずだから、もっと率直に、素直に褒めあう関係になってもいいと思う。

褒めることの根底に必要なのは「心の余裕」と「観察力」―
心にどれだけの余裕があるかどうかで決まる、と私は思う。

この、「余裕」ということと、人の気持ちを受け止めることから始まる、聴いてもらうと嬉しくなる効果を生むためのきっかけから「褒めること」について考察してみたいと思う。

39th Movement 「楽しみの達人」

2010-01-16 23:25:54 | SWEET SWEET SUITE
「あなたたちから見て、アリシアはどう?」
「軽やかな舵捌き、変幻自在な操船術、・・本当に何から何まで超一流な、当代随一のウンディーネだと思います。
きっと、グランマの一番弟子として、血のにじむような努力を重ねたから、アリシアさんは、アクアのウンディーネの、一番の星になれたんですよね!?」
「あらあら・・。確かに指導はしたけれど、あの子が今日の地位を築けた理由は、別にあるわね」
「え・・?」
【「あの子は、何でも、楽しんでしまう名人なのよ」】
「楽しむ・・・?」
「そう」
「たったの・・・それだけなんですか?」
「そう、たったのそれだけ」
「でも、それだけじゃ・・・苦しいときや、悲しいときはどうすれば・・・?」
【「おほほ・・・そうねぇ・・・。そんなものは、より人生を楽しむための隠し味だと思えばいいんじゃなぁい?自分の中で変えてしまえばいいのよ。何でも楽しんでしまいなさいな。
とっても素敵なことなのよ・・日々を生きているってことは。
頑張っている自分を素直にほめてあげて、見るもの、聴くもの、触れるもの・・・この世界が暮れる全ての物を楽しむことができれば、このアクアで、数多輝くウンディーネの一番の星になることも夢じゃないわ。
とっても簡単なことなのに、みんな、忘れがちなのね」】

(『ARIA the ANIMATION』 より“グランドマザー”こと天地秋乃)

「ARIA the ANIMATION(※1)」第9話『その、星のような妖精は・・・』は、ウンディーネの頂点を目指して練習に励む灯里、藍華、アリスの三人娘のうち、藍華が練習のマンネリ化を感じ「私たちコレでいいのかな・・・」ともらすところからはじまる。
負けず嫌いで勝気な性格の藍華は、「『水の三大妖精(※2)』を越え、『伝説の大妖精』をも越えて、歴史に名を刻むウンディーネになりたい」、と夢を語る。
その「伝説の大妖精」とは、30年間、ウンディーネ業界のトップに君臨し続け、その業績から「グランドマザー(以下:グランマ)」と呼ばれており、その人はなんと、灯里の会社・ARIAカンパニーの創設者だというのだ。
すなわち、アリシアのお師匠ということになる。
仕事が終わり戻ってきたアリシアに、藍華は思い切って切り出した。
「どうか、伝説の大妖精直伝の、立派なウンディーネになるための教えを私たちに!」と。
「じゃあ、直接本人に訊いてみれば?」というアリシアの言葉に驚きつつも、三人は、隠居生活を送っているグランマの家を訪ねる。

しかし・・・グランマに言われてやったのは、栗拾いや芋掘り・・・夜にはたくさんのご馳走を食べ、薪で焚いた木のお風呂に入り、畳の部屋で布団を引いて寝る―
立派なプリマになる秘訣を聞き出すどころか、ただ遊びに来ただけの旅行になっちゃったような・・・。
「私たち・・・修行に来たはずなのに・・・」と不安な藍華。

その夜、寝付けずに、街よりもきれいに見える田舎の星空を、縁側で眺めていた3人の元へグランマがやってきた。
藍華はたまらず言った。
「あの・・グランマ、お願いがあります!」
「はぁい?」
「どうか、私たちが立派なプリマになれるよう、グランマの貴重な助言をお与えくださいっ」

35th Movementの内容とも少しかぶるかもしれないが、「『物事を楽しむ』というのは高度な感性なしにはできない精神活動」である。
「できること」が増えていくよりも「楽しめること」が増えていくのが、素敵な人間になっていく過程においては大切なこと・・・。
けど、現代社会は忙しい。仕事の疲れの殆どは、体よりも心にクることが多いだろう。
その中で、成功を収めるには、熱意ややり遂げようとする意気込みが大事だろう。
それに励むには、楽しみがなければ難しい。
けど、楽しいことだけをやって生きるわけにも行かない。

結局、物事を本当に楽しむことができる人は、その過程で努力した苦労を知っている人だけだろう、と思っていた。

【楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ】
(ウィリアム・シェイクスピア)
苦労は、不幸とかそーゆうものでは必ずしもない、多少の苦労は「まぁ当たり前」として、苦痛が大きくならないように苦労を大きくしない・・・。
「苦労を楽しむ」というと、あまりに難しいことのように感じるが、工夫次第でうまくできるようになってゆく、その喜びが楽しみになる、といえる。

グランマは三人に訊く。
「あなたたち、ゴンドラをこぐのは楽しい?」
はい、と答える3人に、
「それなら・・・私が教えることは何にもないわ」というグランマ。

グランマも、その弟子であるアリシアも、プロフェッショナルとしてこの心がけを忘れず、そこからあらゆるものを楽しむ工夫を自分で凝らすことによって・何をどう楽しむかによって、感じ方をその場に応じて変えることができ、心に余裕が生まれ、一人前になれたのだろう。
具体的なイロハを教えてもらうコトだけ・・・そこからの苦労の反動だけがよい結果を生むとは限らない、ということを教えられる。

【総じて、人は分相応の楽しみなければ、また精も出し難し。これに依って、楽しみもすべし、精も出すべし】
(江戸中期の藩政改革者・恩田木工)

【人生でいちばん大切なのは、自分にとって心地よさを感じること】
(チェリスト ヨー=ヨー・マ)

【楽しめるときには楽しめ。 耐えなければならないときに耐えろ】
(ヨハン・ヴォルフガンク・フォン=ゲーテ)

【真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治家とは政治を楽しむ人である】
(アリストテレス)

「やっぱりすごい人だね、グランマって」
「私もいつか、ああいう素敵な女性になりたいであります」

私も・・・なりたい。
素敵な「なんでも楽しむ達人」に。


「注釈」
※1:「ARIA」がアニメーション化された際の最初のシリーズタイトル。全13話。
※2:抜きん出た実力を持つ現在トップクラスのウンディーネ3人の総称。ARIAカンパニーのアリシア、姫屋の晃、オレンジぷらねっとのアテナの3人。

38th Movement 「鏡を見て、笑ってごらん」

2010-01-08 23:25:37 | SWEET SWEET SUITE
「鏡・・・アリスちゃんが映ってる」

「当たり前です。鏡は自分の姿を映すものです」(中略)

「みんなが自分を嫌ってると感じるのは、自分がみんなを嫌ってるから・・・。
ううん、アリスちゃんの場合は、『恐がってる』・・・かな」

「ぁ・・・」

【「笑っている人の前では自分も楽しくなるし、萎縮している人の前では自分もつい緊張してしまうのよねぇ・・・。
鏡が自分の姿を映す様に、人もまた自分の心を映すのよ。
・・・笑ってごらん。そしたら、アリスちゃんの前にいる人も、きっと笑い返してくれるわ」】
(アニメーション「ARIA the NATURAL」 アテナ・グローリィの言葉)

ARIA the NATURAL 第6話は、「オレンジぷらねっと(※1)」のウンディーネ(水先案内人)のアリスに、彼女と同じく「ペア」(※2)と呼ばれる階級従業員たちだけの、パーティのお誘いが届く・・・というお話。
だが、アリスは「欠席」のところに丸をつけてしまう。
もともと、無口で無愛想で人付き合いが苦手のアリスは、
「あからさまな馴れ合いは好きくありません」
と言って、その日オレンジぷらねっとに泊まりに来ていた灯里や藍華の、「もったいないよ」「いかないの?」という言葉にも耳を貸さなかった。

同じく「オレンジぷらねっと」にて働く、プリマウンディーネのアテナは言う。
「別に、会社で嫌われてるわけじゃないのよ。むしろその逆。あの歳(※3)でオレンジぷらねっとにスカウトされたアリスちゃんの力量を、みんな認めているの。でも、その羨望のまなざしが、あの子には敵意に映ってしまうのね」と。

「いいんです。同僚といってもみんな年上ですし、きっと話したって合わないです。それにあの人たち、私を嫌ってますから」と言い、
さらに、「(自分と一緒にいて気疲れしない)灯里や藍華がいるからいい」、と言い放つ。

その日の入浴後、会社の共同入浴場の脱衣場で、鏡を見ていたアリスの髪の毛を、優しく乾かしてあげながら、アテナが語りかける言葉が上記の台詞である。

※1:「ARIA」の世界観の中心である、観光案内専門の女性ゴンドラ漕ぎ会社のひとつ。
※2:「ペア」「シングル」「プリマ」という順に階級が上がってゆく。手袋が二つか、片方か、無しか、で判別される。腕のいいウンディーネほど無駄な力を使って漕ぐことなく、手に肉刺を作らないという理由から。
※3:14歳。アリスはまだ学生で学業とウンディーネの修行とを両立中。

この言葉は、「笑い」や「笑うこと」がもたらすモノについて、大切なことを教えてくれる名言である。
道徳の教科書にも載せてほしい、と思った名シーンであり、「人間関係を難しく考えすぎないようにね」というアテナのやさしい気持ちがいっぱいの言葉である。

正直、人間関係を形成するのが器用でないヒトや、人間関係でよくないことが立て続けにあると、怖がってしまう傾向に至るのは私自身経験が多いことからも認める。
蛇足ながら、メガネをかけているせいもあるだろうが、私は目つきの悪いほうだと言われる。
だが、笑っていると、「いつもニコニコしてて、朗らかで人当たりもいいよね」とも言われる。
私だって、感情を持つ人間だ。いやな事もあれば、ムカッとすることもあれば、ワーッと泣きたいことだってある。
心の中で泣いたり怒ったりしていても顔は笑う・・・無理に笑顔を作るのは、本当は賛否両論だ。内部にストレスを溜め込んでしまう可能性も否定できないからである。
それに、笑って悩みを追っ払うなんてできっこない!と思っているからである。
また、愛想笑いがいちばん私の苦手とするところだ。
面白くもないのに笑うなんて―
まったくできないわけではないけれど、同じ笑うなら、心から笑いたい。

【 「愛想笑いは世界共通でばれてしまうんです。本当に心から笑うと、笑い顔が普通の顔に戻るとき、時間がかかる。でも、作り笑いや愛想笑いはすぐ戻る」】
(村上龍/テレビ番組「カンブリア宮殿」より)

だが同時に、笑顔は、相手を快く、気持ち良くさせることもまた否定できない。
それだけでなく、自分自身の心も多少なりとも解れてくるものだ。
無職時代、ハローワークの担当の方からも、幾度となく言われた。
「笑顔を忘れるんじゃないぞ」と。

「笑い」には、脳の活動を高める効果があるということは生理的にも立証されていると聞く。
その事実を、鏡に映った自分の顔を見ながら発せられたこの言葉は、本当に心に響くものがあった。

パーティといえば、本田技研創業者・本田宗一郎氏は、パーティを良く開く人だったという。毎回、さまざまな業界の友人知人がやってきて、大賑わい。
その宗一郎氏が、人脈作りに関して、こういう発言をしている。

【「人に興味を持つことだね。女に惚れれば相手のことを何でも知りたくなる。恋人同士がよく言うじゃないか、『あなたのすべてが知りたい』と。人脈も同じだよ」 】

パーティとは、知らないもの同士が自由に話し合い、談笑し、情報交換をする場だと言い換えることができる。せっかくパーティに行っても、誰ともろくに話しもせず、ご馳走をちょっと食べて帰ってきてしまった・・・のでは意味がない。互いの知人を通じて知り合って新しい人脈を広げることもできる。
残念ながら、私個人は、合コンなどはさすがに一歩引いてしまう感があり、見知らぬ人と話すのは正直億劫な場合が多い。
だが、ぽつねんと立ち尽くす人がいても、少しでも笑っていればさりげなく声をかけたくはなるはずだ。それが思いがけない出会いになれば「めっけもん」である。

【「表面をつくるということは、内部を改良する一種の方法である」】
(夏目漱石)

【「泣くときは一人だが、笑えば世界も一緒に笑う」】
(エラ・ウィラー・ウィルコックス)

【「好い笑いは、暖かい冬の日差しのようなものだ。誰でも親しめる」】
(島崎藤村作 『笑』より)

【「ひとつの顔は神が与えて下さった。もうひとつの顔は自分で造るのだ」】
(ウィリアム・シェイクスピア)

【「病気や悲しみも人にうつるが、笑いと上機嫌ほどうつりやすいものもこの世にないのだから、物事は正しく立派に調整されているものである」】
(チャールズ・ディケンズ作『クリスマスキャロル』より)

【「『笑い』は、相手がいて初めて生まれるんだよ。相手を信用しないと笑えないよ」】
(コメディアン・萩本欽一)


鏡に映った自分を信用し、信頼し、信じるからこそ笑いが生まれる―
自分の目の前にいる人に笑いかけるより、自分自身に笑いかけられるか・・・そこからが始まりなのよ、とアテナはそっとささやいたように感じた。

あなたは・・・「上手に」「良く」「好く」笑えるだろうか?

37th Movement 「面倒なコトの奥にあるもの」

2010-01-02 22:56:06 | SWEET SWEET SUITE

【「あらためて気がついたんですけど、ネオ・ヴェネツィアって、ポストの数が多いんですねぇ。」
「あぁ。この街の連中は、いまだに手紙にこだわってっかんなァ。わざわざ面倒なことをやりたがるんだよ。まったく、不便でなんねえ」
「本当ですねぇ。どうしてでしょう?」

「たぶん、あんまり急ぐと、心がおっつかねぇからじゃねえかなァ。
手紙ってヤツは、受け取ったときは嬉しくて、開けるときは宝箱みてぇでよ。
心が子どもみてぇにはしゃぐんだ。
でもって、中に入ってるのが、手紙という形をした、相手の心なんだよなァ。
そいつは内容によっちゃ、宝物にもなりやがる・・・。一生手で触れる事のできる心、っていう宝物になぁ。
それによ?手紙は時間とか場所を飛び越えて、書いた人を連れてくることもできるんだからなぁ」】

(アニメーション「ARIA the NATURAL」第4話より、郵便屋のおじさん)

「ネオ・ヴェネツィアも、手紙と似ていますよね。この街を造った人たちの心には、いつでも手で触れられますから。私・・・わざわざ面倒なことをしたがるこの街が好きみたいです」

アニメーション・「ARIA the NATURAL」(アニメーションの詳しい背景設定、登場人物紹介などは、Wikipediaなどでご覧あれ!)。第4話は、ヒロイン・水無灯里(みずなしあかり)と知り合いになった郵便屋さんのゴンドラ(船)に穴があいてしまい、修理する間、ARIAカンパニーのゴンドラを貸しきりにさせてほしいと頼みに来るところから始まる。
あいにくアリシアは予約でいっぱい・・・。そこで、「ゴンドラ漕ぎの練習を見てもらう」という名目の下、おじさんと共に、灯里は、郵便の仕事をお手伝いするのである。
ネオ・ヴェネツィアにはポストが多く、人々が手紙という通信方法に拘っている理由を灯里が郵便屋のおじさんに訊いたところ、おじさんは上記のように返すのだ。

アニメーション「ARIA」の舞台は、西暦2300年台、火星(の氷を溶かして地球化した結果、惑星表面の大半を水が埋め尽くしてしまったため、水の惑星となり、「アクア」と呼ばれている)に人々が移住し、暮らしているという設定。だから、時代はいちおう"近未来"だ。
でも、ハイパーテクノロジーなど何一つ登場せず、未来であることを忘れさせてしまうような街の雰囲気が広がるネオ・ヴェネツィアにあって、郵便という手段を大切にしている人たちの間には、まるで、携帯電話や電子メールが最初から無いように感じさせてしまう。
だからこそ、高速の通信手段や、多くのコミュニケーションツールが存在する現実世界に生きる私たちにとって、おじさんの言っていた事の意味が胸深く伝わるのだと思うし、この言葉には、より一層の「含蓄の深さ」という物を感じるのだろう。

面倒な手段をとって、得られるものはほんの少しでも、あるいは、人によってはまったく無意味なものでも、そこから得られるものに本当の価値があり、その「ほんの少し」に、そのモノの本質が隠れていることが往々にしてある、ということを、
さらには、変にあくせくせず、遅くても着実にすべきことを成せばよいんじゃあないカナ?と優しく教えてくれる名言である。

この記事をアップしている今、2010年が明けたばかり。
年賀状をもらった人、送った人、たくさんいるのではないだろうか。
今では、年賀状作成ソフトなどもあって便利だけれど、やはりもらうと嬉しいもの。「年賀状は贈り物」とはよく言ったものだ。

メールや掲示板の書き込みなどで済ませてしまう人も多く見られるし、それは私も否定はしないけれど、私は年賀状や手紙を送りたい。

そして、郵便屋さんの言っていた「手紙」のもうひとつの大きな特長―「手で触れることのできる心」になる、ということの暖かさを、一番大切にしたい。

大学一年生のとき、京都の予備校で浪人していた同級生との手紙も、
吹奏楽人同士、さまざまな思いを交換し合った手紙も、
恩師の先生の手紙も、
そして、一生に一度もらえるかもらえないかわからない、遠くは小笠原諸島に住む(音楽の)先生からの手紙も、
みんなみんな、心が詰まった大切な宝物―


手紙・・・あなたは最近書いただろうか?
最近、手紙もらったことあるだろうか?
受け取ったとき、どんな気持ちだっただろうか?

そしてもし、小学校の国語の授業を覚えている人は、アーノルド=ローベル作の「お手紙」というお話を思い出してみてほしい。

手紙って、こんなにいいものだったんだ―というコトが、胸深くわかるはず。
郵便屋さんが、仕事や灯里との出会いを通じて語った言葉の本当の意味も・・・


36th Movement 「上を見よう、星を見よう」

2009-11-02 00:31:27 | SWEET SWEET SUITE

【「(前略)とりあえず、上を見ておこうかなって」
 「上?」
 「ホラ、横を見ると誰かに嫉妬して 自分も欲しくなるだろう?
  下を見ると、今の自分で助けてあげられる人が居て
  彼らに必要とされてりゃ気持ちはいいけど
  もし、自分より弱い者がいなかったら・・て思う
  その時、自分は何をやるんだろうって
  だから、上を向いている自分を確保しておこうと思ってね」】

【「ねえ、『401』じゃ、AIに失礼なんじゃない?」
 「・・・?」
 「エドモンドが言ってたよね。
  『上を見て進め。横を見たり下を見てたら 嫉妬したり脅えたりするから』って
  上を見る者 その上にある星を見る者―『スターゲイザー』」】

(OVA「機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER」より)

一つ目の会話は、前述OVA内で、ヒロインの「セレーネ・マクグリフ」と、「エドモンド・デュクロ」の会話。元軍人のエドモンドが天下りして深宇宙探査開発機構=DSSDになぜ入ったのかをセレーネが問いた際に彼が答えとして語った言葉。
二つ目の会話は、惑星探査のためのガンダム・型式番号「GSX-401FW」の稼動テストの際、同じくDSSD技術員の「ソル・リューネ・ランジュ」が、セレーネに語りかける言葉である。

世の中、上を見ればきりがなく、下を見てもきりがない、とはよく言われることだ。
過去を見れば、戦後の日本から昭和が終わり平成へと進み、豊かな国になって(という言葉で片付けていいのかわからないが)、常に「より豊かに、より大きく」と高く目標を持ち、望みの器が拡大していった。
だが周りを見れば、戦乱や貧困なども実際にある。飢餓にさらされていたり、治安が劣悪な国もある。
しかし、家族や住んでいる人はどうだろう。テレビで見るだけで、実際に会ったことはないのでわからないが、多少物がない貧困国でも、安全に安心して暮らしているならば、美しい顔をしている人は本当に多い。


かのヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルトは言った。
【望みをもちましょう。 でも望みは多すぎてはいけません】

最初からあまりに高い望みをもち過ぎるから不満、不安、その他が大きくなってしまう。
融通無碍な生き方を自分のものにするには―。

とある書籍からの引用であるが、
「そうあって欲しい100パーセントの世界から少し引いた60パーセントや80パーセントで生きていこう。『足りない』という焦燥感や不満がなくなり、ゆとりや柔軟性を生まれてくる」
と記されていた。

【「山本さん、280km/hまでだって それ以上は保証できない、無理だって」
「フフフ それがヤツらしいところヨ
600馬力出せるEg(エンジン)なら500までにしておく
300km/hで走れるなら280km/hでやめておく
腹八分目 身の程を知る やりすぎない ・・だから」
「だから・・?」
「ヤツの客は誰一人死んでいない コイツは立派なことだぜ なかなかできるコトじゃねえ」】

(アニメ「湾岸ミッドナイト・ACT.10」より 秋川レイナと北見淳の会話)

誰も乗りこなせないパワーを車に与えるため、「地獄のチューナー」と呼ばれ、客が廃れ廃業になってしまった北見とは対照的に、チューニングカーは一切断っている山本和彦が唯一面倒を見ているレイナのチューンドGT-R。彼女のGT-Rをはじめ、山本の経営するショップのクルマは、カネさえあればなんでもやるショップとは一線を画しており、安全性を重視した誠実な職人肌の仕事。バランスが取れたリスクの少ない走りを追求し、過剰なパワーは意図的に押さえ込んでいく。
しかし、「誰一人死んでいない」という事実があって、工場は大きくなっていったのだ。


ここで私はとある反論が思い浮かんだ。
「60%や80%でOK ていう生き方では、大きな目標は達成できないんじゃないの?」
と。

上記書物から再び引用するが
「高度馴化」という言葉がある。
登山で、「最初から一番高い地点を目指そうものなら高山病にやられ、ひどい場合は生命にも関わる。本格的な登攀を目指す人も、低いところから徐々に高いところへと高度馴化をして体をならしながら頂上を目指していく。人生も高山を登るごとし、だ」
その上で「60%のところで満足していれば、やがて自然にその少し上に登りたくなる。そうなったときに少し高度を上げるのは、無理でも危険でもない」
と述べられているのである。

成る程、高度馴化をしながら次第にレベルアップを図ることが
「上を見て進め」ということなのかもしれない。
やや高等なテクニックかもしれないが、これからの私にとっては半ば使命。

ただ、私は、坂本九さんの歌う「上を向いて歩こう」の歌が一時期嫌いだった。
「涙がこぼれないように♪」
阪神淡路大震災のときも、瀬戸内寂聴さんが「笑いましょう笑いましょう」って言って回っていたのを思い出す。
それって「取り繕い」じゃないか!と思ったのである。
悲しいことがあったのに、泣かずにいられるか、笑ってなんかいられるか!と反論した。
取り繕うよりも、泣くときは思い切り泣いて、次の一歩にすればいいじゃないか!


今だから、正直に書き連ねよう。

平成20年10月から、私は3回職場を変わっている。それまで勤めていた、ヘルパーステーションの管理下にある、福祉有償運送の運行管理部は、客が少なくなり、事業はそのままに部署は閉鎖され、新たに大借金をして別事業に動き出したのを見た私は、「先がないかもしれない」と判断して自主退社。
次の重心身障害者施設も、仕事がなかなかスムーズにできず、看護師長に「解雇文書」を出され、形の上で自主退社。
3月から勤めだしたデイケアも、通院継続が発覚した後、理事長兼施設長に、「心身ともに健康でなければここの仕事は務まらない。これ以上黄身の面倒を見ることはできない」と言われ、自主退社だが事実上の解雇。
6月から勤めだした葬祭業も、些細なミスが続き、仕事が思うように体になじまず、試用期間終了とともに退職を余儀なくされた。
この一年間、まさに私は「試用期間だけで」生きてきた。


腕を組んで「少ない正社員の枠、経験豊富なデキるやつを採るからな―」という「雇ってやるんだからな」的な会社に「採用が決まりました」といわれるのではなく、
給料が安くても「ぜひ、来て下さい」と言ってくれる会社の方がいいだろう。
大きな組織の中で、やり方の統一感がなく人間関係なども含めもみくちゃにされるよりも、ちいさな会社でのびのびやったほうが自分にとっていいだろう―
ハローワークの数名の職員の方は、申し訳ないくらいに私の求職活動にとことん相談に乗ってくれた。


「お金があれば 世の中の悩みの8割はなくなるって 
お金があれば家も服も買えるし 嫌な仕事なんかしなくていいじゃん
確かにお金で買えないモノとかあるよね
生きがいとか夢とか友情・・・ なんかそういうの
でもそれって 8割の悩みがなくなった上でさらにあればいい
どこか霞みたいなもんでしょ」
(コミック「湾岸ミッドナイト」 Vol.25より」)

夢や理想は確かに追いかけることはとても大事だ。
長渕剛さんの歌『親知らず』 には
「銭はよォ 銭はよォ そりゃ欲しいけどよォ
なんぼ積んでも なんぼ積んでも 譲れねぇものがある」
という歌詞もある。
けれども、その一方で日々の生活費を稼がなくては。
二律背反の関係にある理想と現実を、なんとか、同時・並行的に継続することが、夢をかなえる手段なのだろう。


そして私は、新たな職に就いた。
小学校の教員免許を保持しない私だが、一番自然に、肩肘張らずにやりたかった仕事。
「学童保育の指導員」である。
夢をかなえよう、夢を持っていってほしい、というメッセージをお互いに持ち、共有できる仕事。
成功、失敗はどうあれ、新たな素材が用意されたのだ、と思った。
私も、教員免許という種は持っている。
だから、与えてくれた幸運でもなんでもなく、そのまま受け入れたい。
今なら「上を向いて歩こう」の本当の意味もわかる気がする。

高度馴化―

上を向いている自分を確保しておこう―
ずっと向き続けるんじゃない、部分確保でいいんだ―



35th Movement 「知識に近づくその前後に得られる人生の面白さ」

2009-10-07 23:20:30 | SWEET SWEET SUITE

【たとえば
「悪銭身につかず」という言葉がありますよね・・
辞書で引くと
「良くないコトで得た金は すぐ遣ってしまう」
まあそんなコトが出てるわけですが

では・・
なぜ良くないことで得た金は すぐ使ってしまうか?
その理由は辞書には出ていないわけです
辞書は答え・・
答えはそのまま覚えるのが いちばんいい
「なんで?」と疑問を持ったら
いくらあっても時間は足らない
でも その疑問が人生の面白さでもある
悪銭は身につかない・・?なんで?
もしかしたら つく人もいるのでは?
・・などなど そーゆう考え】
(「湾岸ミッドナイト C1ランナー」より 荒井の言葉)

幼い頃、私はいつも両親に
「なんで?」「どうして?」と訊きたがる方だった。
懇切丁寧に教えてくれた幼少時代から、大人になるにつれて
「図鑑で調べてご覧」
「辞書を引いてご覧」
というふうに変わっていった。
図鑑は、絵本やお話を読むのと同じように、調べ物があろうがなかろうが暇さえあれば見ていたし、
学校で習うよりも先に、国語辞典の引き方を知っていたくらいだから。

「学研の科学」の雑誌や「学研まんがひみつシリーズ」なども、
バックナンバーだろうとなんだろうと隅々まで読んだ。
知ることによって嬉しくなり、得た答えからまた別の疑問が沸いたり、もっとこうしたらいいのかな、などと考えたりする。

電球や蓄音機の発明者、トーマス・アルバ・エジソンも、幼少期は好奇心旺盛で、何でも人に訊くききたがり屋だった、と伝記に書いてあったのを思い出す。
それが、彼の楽しみであり、発明・発見の意欲に繋がっていったのかもしれない。

最近よく、NHKの「ことばおじさん」のコーナーをはじめとした日本語の言葉のルーツや、さまざまな知識番組が多い。
私はたまに両親と見て、学ぶことによって楽しんでいる。
ただ「ふーん、そうなんだぁ」と思うこともあれば
「えっ、ホントに?どうしてそうなのかな、じゃあちょっと掘り下げて調べてみようか」と思うこともあったりする。
もっとも、私とエジソンでは月とすっぽんだが(苦笑)。


年齢や経験を重ね、モノがわかってくると、
学校で習ったことや、世の中のことには、さまざまな矛盾があったり、
「それってホントなの?」ということなどがあったり
さまざまな疑問や想いが生まれてくる。
それは誰しもあることだろう。

たとえば
「三度目の正直」という諺があったかと思えば
「二度あることは三度ある」という諺があるし
なんて昔の人は無責任なんだ!などと思った人も多いかもしれない。

その言葉の意味は辞書で調べれば載っているけれど、
「どうして?」「なぜ?」=WHYを知ろうとする人は少ない。
学校(の授業)では先生も教えてくれない。
で、それを知ったからどうなる、という単純なことではない。
「何ができるか」「何を知っているか」ということだけではなく、
そこからさらに近づこうとする楽しみを持つということの方が大切なのではないか、ということである。

色々なパターンを連想する、空想する、思いを馳せる―
それを楽しみにして生きていくことに人間の価値(というと大げさか)があるのかもしれない。


【花を愛するのに植物学は不要である】
(稲垣足穂 『横寺日記』より)

某著書からの引用だが―
「たとえば、昔はそろばんが上手だときわめて重宝されたものだ。だが、いまではコンピューターが(中略)たちどころに計算してくれる。
だが、それを楽しむことはコンピューターにはできない。コンピューターは、人間が指示したことだけを実行する機械であり、計算を楽しんだり、指示を心待ちにするような高等な芸当はこなせない」

なにか楽しいことを空想したり、目の前の出来事からさまざまに自分の心情を託したりするのは、面倒くさいことでもあるかもしれないが、
「人間だけに許された生の醍醐味」と記されており、
それを楽しむというのは「高度な感性なしにはできない精神活動」なのである。

その感性を如何に磨くかは、前述の荒井のような考えに、どういうアプローチで、きっかけで近づくか、気づくかではないだろうか。
「仕事を抱え、多忙に過ごしてきて、本もろく読めない・・」と私も含め、そう言う人は多いだろう。
それが、良いとか悪いとかではなく、
普段誰もが素通りするようなところや「当たり前とされる事実」に少しだけ目を向け、
「そこになにもない」のではなく「そこにあるものが見えていない」んじゃないか
という疑問を持ち、モノをみてみる―
現実離れしていても、夢物語でもいいではないか。
それだけで「人生の面白さ」となるきっかけは掴める。

物理学者 アルバート・アインシュタインは言った。
【空想は知識より重要である】