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Symphonyeel!(シンフォニエール!)

ようこそ。閲覧者の皆さんとのメッセージが響き合う場となってほしいナ―という想いで綴ってます

ガソリンスタンドにて ~こどもの笑顔は天下無敵~

2009-10-29 22:48:52 | Stream of Tears 心の手帳
バイト先のガソリンスタンドには、更衣室のない小さな事務所があって、壁には色々な張り紙がしてあるのだが、その中のひとつに
「お客様が喜ぶ接客」
という張り紙がある。

1 笑顔
2 言葉づかいが丁寧である
3 身だしなみ(綺麗なユニホーム)
4 テキパキと行動する
5 ハキハキとした受注
6 お客様の名前を覚え名前で呼ぶ
7 接客はアイコンタクト
8 元気な声
9 均一フリーサービス(接客)
10 時節の挨拶
11 会話
12 子供に挨拶する

の12項目が書かれている。
サービス業や接客業などを中心に、こーゆう「心がけ」の箇条書きはよく目にするだろう。
ただ、ここで私が「おっ?」と思ったのは、最後の項目。
「子供に挨拶する」だ。
なかなか書かれている項目ではないな、と個人的に思った。
ガソリンを入れに来るのは、ドライバーである親御さんではあるけれど、車単位で見れば、乗っている人皆がお客さんなのである。
だから、当然といえば当然か。


働き始めてまだ日は浅いが、特徴ある車や、会話を交わしたお客さんなどは、なんとなくではあるけれど、それなりに覚えている。
「あ、また来て下さった」とわかる方や、先輩スタッフに「このお客さん、時々来るよ」というお客様には、「いつもありがとうございます」とご挨拶し、時々会話をする。
子供連れのお客さんもよくいて、中にはお手洗いに行くために降りてくる子もいるけれど、お父さんお母さんにくっついていって、給油口や給油ガンの近くに行ったり、車が少ないことをいいことに走り回ろうとする子もいるから、そこはやんわりと注意する(中には、給油ガンの操作を幼い子供にさせている親もいるのだ!これは恐くて見ていられないが、なかなか声をかけづらい)。
「車来るしあぶないから、中に入って待っていよっか?お母さん、車にガソリン入れたら戻るから、ね?」
「機械やホースとか触ったら油がこぼれて付いちゃったりして危ないから、車の後ろの方で離れて見ててね?」
といった風に。

そんな中、子供さんに挨拶(降りてきている子には視線を合わせて)し、「いくつ?」などと訊いてみると、ある子は恥ずかしそうに、またある子は元気いっぱいに応えてくれる。

この間も、元気いっぱいの男の子が、
「いくつになったんだっけ」とお母さんに言われて
「4さい~!」と答えてくれた。
だけどすぐに
「もうすぐ5さいになるの!」
と付け加え。そこへすかさずお母さんが
「ちがうでしょ、昨日4さいになったばっかりでしょ?」
とつっこみ。
小さい頃って、誕生日が来ると、来年の誕生日はどんなだろうって思ったものだなあと思い出しつつも、
「そうかー、4さいの誕生日だったんだ、おめでとう~。プレゼントにお菓子、とか思ったんだけど、持ってなくってごめんな?」
というと
「あのね、仮面ライダーW(ダブル)のおもちゃ・・ベルト、もらったもん」
と得意げに話す男の子。
「そう、よかったね~。『サイクロン!』『ジョーカー!』ってやつだよね~」
などと話しかける。
お父さんが給油をすませ、お母さんが男の子を抱きかかえ車に乗せた。
「おにいちゃんに、『バイバイ』って」
お母さんが言うと、チャイルドシートに座った男の子は、「バイバイ」と言って笑顔で手を振っていた。


また別の日。
「カスタム」グレードの軽自動車に、3人の子供を乗せ、若いお母さんが給油にやってきた。前回の給油時、新しく発行した現金会員カードをお渡しし、使い方を教えたお母さんだった。よく覚えている。
すると、車が給油位置で止まるなり、中の子供たちも目をキランキランさせてこっちを見ている。
お母さんが、
「この間下さったこのカード、持って来ました」と私に挨拶してくれたのを皮切りに、みんな笑顔で私の方を見てくれた。
私のことを覚えていてくれたのか、助手席に座っていた長男と思しき男の子が
「あっ、昨日の人~」
と言う。
お母さんは、ガンを握りながら
「違うでしょ、『このあいだの』でしょう?昨日来てないよ?」
と笑って言う。
仕事上がりの車も多数来店して店内が騒々しくなってきた。
発進時、左右確認し、GOサインをだして送り出しをすると、子供たちは窓に手のひらをくっつけ、
「またねー、バイバーイ」と手を振っていた。


子供は本当に正直、とはよくいうが、
これほどストレートに子供の笑顔に励まされた経験は今までなかったかもしれない。
ボランティアの中などで、幼い子供たちと過ごすことはあっても、単に親の運転する車のガソリン給油において、子供と触れ合い、会話を交わす機会というのは、心がけていなければなかなかできないと思う。
実際私は子供が好きで、努めて実施しなければ挨拶できない、てことはないけれど、あくまでも自分の自然な姿で、お父さんお母さんの車に乗ってきた子供たちに挨拶し、
その中で、挨拶を返してもらったり、笑顔をもらえたり、顔を覚えてもらえる子までいるというのは、ある意味誇りに思いたい。


「普段会わない大人」に対しても、ちゃんとお話しする・コミュニケーションをとっている、とってくれる子供がいる―
子供を持たない私にとって、これほど幸せなことはない。
そんな子供たちが行ってしまった後は、強面のアンチャンがいても、給油中にエンジンを停止しない地球にも安全にも優しくない人たちがいても、まだ勤務時間が半分以上残っていたとしても、気持ちがスーッとなって、体が軽くなる。


そういえば、自分が子供のときも、よく行くお店のおばちゃんなんかは、お母さんと一緒でも自分にも挨拶してくれたっけ。

スタンド内に流れるFMラジオで、AC公共広告機構のCMに「人は人から育てられる」というのがあった。
近所の子供たちにしょっちゅう会うわけではないし、ましてや悪さしてる子供たちを叱ったりしたことはないけれど、
本来のお客さんである「子供を持つ親」、その子供に挨拶するというのは、
「お互いの幸せのために」とってもいい事なのだ、
だから「喜ばれること」なのだ、と胸深くわかる。


スーパーの店員さん、おもちゃ屋さん、ファーストフードの店員さんなど、子供が消費するものを一緒に買いに来る販売・接客でなくても
「子供に挨拶」、してみよう。

普段生まれない何かが生まれ、何かが変わる。
私は、半ば確信に近い思いでそう言える。


ガソリンスタンドにて ~あんやと、のおばちゃん~

2009-10-26 23:38:12 | Stream of Tears 心の手帳
(タイトルの「あんやと」は「ありがとう」の訛)


人間、体が動くようになる・動かしたくなるようになれば、何とかしなくちゃと思って動き出すのは
どうやら頭からの「命令」ではなく心からの「動き」らしい。
頭が命令する「should be」だとかいうのではなく、心が思う「want to」というカタチで現れるモノ。

9月中旬、それまでじわじわと押し寄せていた私の心へのマイナスの波動が一気に頂点に達し
波にあおられてひっくり返ったボートのようになって
私は「行く方法」を失ってしまった。
3ヶ月前、「今度こそ大丈夫」と思って再出発を果たし、来るべき道を信じて進んでいた。
だが、うまくいかなかった。
私を知る中で「また?」という人は確かに居るかもしれない。
でも、過程はどーあれ結果はこうなってしまったのだ。

そこから数日間、海の上に浮いているだけのような私は
体調を崩し、外にも出ず
ただ食べているだけ―
半ば暴飲暴食気味のときもあった。



それから数日が経ち、私は「つなぎ」に身を包んでいた。
「当面の稼ぎは何とかしなくちゃ」
そう思い、学生時代で慣れていたガソリンスタンドで、アルバイトを始めたからだ。
セルフ給油方式で、動き回っていた大学時代のフルサービススタンドと違うとはいえ、
混んでくる時などは、誘導したり、給油機の使い方がわからないお客様にはご説明したり…
間違って、給油口の反対側に車を停車させてしまった人や、腰痛で降りられない、などというお客様には、お車に戻っていただいて代わりに給油したりもする。
その他の色々な仕事は社員やベテランの方にお任せしてよい、とのことで、基本的に、その日の閉店時間までの8時間シフトを組んでもらい、働き始めた。

10月の3連休には、給油機が一新し、リニューアルのイベントも開催した。
ガソリンはリッター10円引き。セルフではなくスタッフ給油。その他プレゼント進呈なども含め、三日三晩、開店から閉店までずーっと働きづめの大忙しだった。

そんなこんなで、ちょっとガソリン臭くはなるけれど、楽しんで働けるアルバイトなので、入れる日はできる限り入っている。

あの日に比べて体はだいぶ動くようになった。
決まり事はちゃんとあるけれど、ノルマや気負う事は何一つなく、店長さんも、とあることがきっかけで深く打ち解け、優しくしてくれるだけでなく、学生のバイト君と2人だけで閉店まで任せてくれるまでになった。

近くに安価のセルフ給油スタンドが数店あるにも関わらず、地元のお客さんだけでなく、通りすがりの県外ナンバーのお客さんも「安いよね~」と言ってよくやってくる。

25日(日曜日)のアルバイトの時、おばあちゃん2人の乗る軽自動車がやってきた。
3連休のリニューアルイベントの時にもご来店下さったそうで
「こないだも来たのよ。安くていいわぁ、ここ。けどアンタ、こないだは従業員さん入れてくれたけど、わたしらこの機械初めてでわからんの、ちょっと教えて」
一般のクレジットカードを使っても看板価格からの値引きが発生しない私のスタンド。
そこを、現金でお支払いということでおまけのリッター2円引き。
フィールド内にお客さんがいないのを見計らって、翌日から単価値上げのお知らせを聞いていたので、私の手で追加給油を行い、淵までキッチリ満タンに。
遠く離れた市まで今から帰るというおばあちゃん2人。
周りはもうすっかり暗くなっているし、ハイペースで飛ばしても2時間はかかる。
「ありがとうございます、お気をつけて」
とお声かけするとともに、母方の祖父母の家が、通り道の町にあるということを会話の中でお教えしたところ、
「元気なあんちゃん、ちょっと」
と手招きされ、
「コレ、食べて」
と、栗おこわのおにぎりと柿を1個くれた。
一度はお断りしたが、無下に断り続けるわけにも行かず、ありがたく頂いた。
「がんばってや、ありがと」
そういって、おばあちゃんの乗った軽自動車は、ナイトランへと走り出していったのである。

そして1分もしないうちに、隣の給油機でも近所に住むというおばちゃんが給油機の使い方がわからず立ち往生。
そのおばちゃんもまた、
「ほい、差し入れ。おまんじゅう」
と紙袋に入ったお饅頭をくれて、
「ごくろうさんっ、またね」と走り去った。

ひとしきりついてから、学生のアルバイト君が
「どうしたんスか、ソレ。いろいろもらっちゃいましたね」
と声をかけてきた。
「まぁ…お客さんから頂き物するってのはあまりよくないことかもしれないんだけど、ありがたく頂戴しよう、とご好意に甘えちゃった。福祉施設とかだったら『ぜったいダメ』って断ったけどサ」
「ま、いいんじゃないですか。なんかいいっすよね、そーゆうのって」

私は、接客業って、得意じゃないけど苦手じゃあない。
行き過ぎない、やりすぎないという(自己)判断で以って、お声かけし、ちょこっとサービスしているだけ。
自分の得意な領域だからこそなせることなのかもしれないが。

ただやはり私は、母親によく言われるのだが
「格段年上の女性にはモテる」らしい。
それは自分も「そうかもしれない」と思える。
高齢者介護の世界でのおばあちゃんたち。
仕事先・アルバイト先での、自分と同年代よりひとまわり以上年上のお客様、上司。
もちろん、全部が全部ではないが、前記のようになんかかんかあたたかい行為(ご「好意」)がかえってくることが多い。
特別なことなんて何もしてないと思うんだけど―

ちょっとしたおすそわけをいただいた、てだけのお話だけど
バイト先の、心温まるお話。

自分はもちろん嬉しかったし、これからもがんばろうって思えて励みになったけど
これを読んで下さった方におすそ分け。


拙い文章ですみません。

ながれぼしをひろいに

2009-10-22 12:42:05 | Stream of Tears 心の手帳
話題の、「オリオン座流星群」。

天体観測なさった方、多いのではないだろうか。
2009年は、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を夜空に向け、宇宙への扉を開いてから400年経った節目の年として、国際連合・ユネスコ・国際天文学連合によって「世界天文年」と定めらた年でもあるので、こんなチャンスはめったにないと思う。

この流星群は、私の幼少期…1986年話題になった、ハレー彗星を起源としている、と知ったのは、気になってネットで調べたのがきっかけ。

さらに調べてみると、オリオン座流星群が観測しやすい空だからといって、全ての流星がオリオン座流星群ではないという情報もGet。


オリオン座流星群など、流星群に属する流星を「群流星」と呼びます。
しかし、極大期で群流星がたくさん流れる時期であっても、流星群ではない「散在流星」と呼ばれる流星も、もちろん流れるのです。
オリオン座流星群の活動を調べるためには、「群流星」と「散在流星」を区別して数える必要があります。
では、どのように区別すればよいのでしょうか。
まずは流星が、「放射点」から流れてくるように見えるかどうかを、チェックします。
放射点は、地球から見て流星群の元になるチリの粒が、地球に飛び込んでくるおよその方向を表しています。流星群のチリの粒は平行に飛び込んできますので、地上から見上げてみると、放射点を中心に、四方八方へ放射状に広がるように流れるのです。
したがって、流星が流れたとき、これを流れた元の方向へたどってみてください。
もし、オリオン座にある放射点を通るようだったら、群流星である可能性が高いです。
また、一般的に放射点に近い場所に現れた流星は、経路が短く、放射点から遠い場所では、経路が長く見えます。もし放射点に近いのに、とても経路が長い場合は、群流星ではないことになります。
また逆に放射点から離れているのに、とても経路が短い場合も、群流星ではないことになります。
(国立天文台公式HPより。詳細はこちら。http://www.nao.ac.jp/phenomena/20091019/radiant.html)

そんなこんなで、私も観察。
たまたま、23時頃にまで外にいた昨日、月極駐車場に車を止めて、オリオン座を探す。
目を暗闇にならしはしたものの、街灯などの反射でなかなかオリオン座の形がはっきりわからない。ベテルギウスの位置はわかったけれど―

さぁ、いくつ現れるかなっ、と思っていたその時。
2009年10月21日 手元の電波時計で23時24分。
おそらく放射点、と思われる位置からオリオンの右脇腹を通過するかのようにひとつの流星―

「よしっ!」「いただき!」と心の中で叫んだのはここだけの話。
群流星か否かはさておき
夕方の曇り空もあって、みられるかどうか不安だったけれど、
なんとか一つ、見つけることができた。

防寒対策その他をしていなかったので、その後しばらく夜空を眺めて家に戻ったけれど、これは実にうれしい。

TOYOTAのSUV、「VANGUARD」のCMで、伊原剛志さんが流れ星に手をかざすと宝石のティアラが…という洒落た演出があったが、
それくらいに、いやそれ以上にロマンティックな光景で、
きっちりと流れ星をみたのは本当に久しぶりで、宝石並みの価値は十分にあるものだった。


秋元康さん作詞の、アニメ「蒼き流星 SPTレイズナー」オープニングテーマ
『メロスのように Lonely Way』が頭の中をよぎった。

空に蒼い流星
夜の運河をすべるようだね

という歌いだし。

まさに昨日の夜空だった。



35th Movement 「知識に近づくその前後に得られる人生の面白さ」

2009-10-07 23:20:30 | SWEET SWEET SUITE

【たとえば
「悪銭身につかず」という言葉がありますよね・・
辞書で引くと
「良くないコトで得た金は すぐ遣ってしまう」
まあそんなコトが出てるわけですが

では・・
なぜ良くないことで得た金は すぐ使ってしまうか?
その理由は辞書には出ていないわけです
辞書は答え・・
答えはそのまま覚えるのが いちばんいい
「なんで?」と疑問を持ったら
いくらあっても時間は足らない
でも その疑問が人生の面白さでもある
悪銭は身につかない・・?なんで?
もしかしたら つく人もいるのでは?
・・などなど そーゆう考え】
(「湾岸ミッドナイト C1ランナー」より 荒井の言葉)

幼い頃、私はいつも両親に
「なんで?」「どうして?」と訊きたがる方だった。
懇切丁寧に教えてくれた幼少時代から、大人になるにつれて
「図鑑で調べてご覧」
「辞書を引いてご覧」
というふうに変わっていった。
図鑑は、絵本やお話を読むのと同じように、調べ物があろうがなかろうが暇さえあれば見ていたし、
学校で習うよりも先に、国語辞典の引き方を知っていたくらいだから。

「学研の科学」の雑誌や「学研まんがひみつシリーズ」なども、
バックナンバーだろうとなんだろうと隅々まで読んだ。
知ることによって嬉しくなり、得た答えからまた別の疑問が沸いたり、もっとこうしたらいいのかな、などと考えたりする。

電球や蓄音機の発明者、トーマス・アルバ・エジソンも、幼少期は好奇心旺盛で、何でも人に訊くききたがり屋だった、と伝記に書いてあったのを思い出す。
それが、彼の楽しみであり、発明・発見の意欲に繋がっていったのかもしれない。

最近よく、NHKの「ことばおじさん」のコーナーをはじめとした日本語の言葉のルーツや、さまざまな知識番組が多い。
私はたまに両親と見て、学ぶことによって楽しんでいる。
ただ「ふーん、そうなんだぁ」と思うこともあれば
「えっ、ホントに?どうしてそうなのかな、じゃあちょっと掘り下げて調べてみようか」と思うこともあったりする。
もっとも、私とエジソンでは月とすっぽんだが(苦笑)。


年齢や経験を重ね、モノがわかってくると、
学校で習ったことや、世の中のことには、さまざまな矛盾があったり、
「それってホントなの?」ということなどがあったり
さまざまな疑問や想いが生まれてくる。
それは誰しもあることだろう。

たとえば
「三度目の正直」という諺があったかと思えば
「二度あることは三度ある」という諺があるし
なんて昔の人は無責任なんだ!などと思った人も多いかもしれない。

その言葉の意味は辞書で調べれば載っているけれど、
「どうして?」「なぜ?」=WHYを知ろうとする人は少ない。
学校(の授業)では先生も教えてくれない。
で、それを知ったからどうなる、という単純なことではない。
「何ができるか」「何を知っているか」ということだけではなく、
そこからさらに近づこうとする楽しみを持つということの方が大切なのではないか、ということである。

色々なパターンを連想する、空想する、思いを馳せる―
それを楽しみにして生きていくことに人間の価値(というと大げさか)があるのかもしれない。


【花を愛するのに植物学は不要である】
(稲垣足穂 『横寺日記』より)

某著書からの引用だが―
「たとえば、昔はそろばんが上手だときわめて重宝されたものだ。だが、いまではコンピューターが(中略)たちどころに計算してくれる。
だが、それを楽しむことはコンピューターにはできない。コンピューターは、人間が指示したことだけを実行する機械であり、計算を楽しんだり、指示を心待ちにするような高等な芸当はこなせない」

なにか楽しいことを空想したり、目の前の出来事からさまざまに自分の心情を託したりするのは、面倒くさいことでもあるかもしれないが、
「人間だけに許された生の醍醐味」と記されており、
それを楽しむというのは「高度な感性なしにはできない精神活動」なのである。

その感性を如何に磨くかは、前述の荒井のような考えに、どういうアプローチで、きっかけで近づくか、気づくかではないだろうか。
「仕事を抱え、多忙に過ごしてきて、本もろく読めない・・」と私も含め、そう言う人は多いだろう。
それが、良いとか悪いとかではなく、
普段誰もが素通りするようなところや「当たり前とされる事実」に少しだけ目を向け、
「そこになにもない」のではなく「そこにあるものが見えていない」んじゃないか
という疑問を持ち、モノをみてみる―
現実離れしていても、夢物語でもいいではないか。
それだけで「人生の面白さ」となるきっかけは掴める。

物理学者 アルバート・アインシュタインは言った。
【空想は知識より重要である】




「しっかりするとはどういうこと?」

2009-10-04 23:36:23 | Stream of Tears 心の手帳
『おしいれのぼうけん』などで有名な古田足日氏の童話に
『大きい一年生と小さな二年生』という作品がある。

幼少の頃読書好きだった私は、今でもこの童話のストーリーをはっきりと覚えている。

体が大きいのに弱虫な一年生の「まさや」と
まさやの家の近所に住む、背が小さいけれど勝気な二年生の女の子「あきよ」
あきよの同級生で団地に住んでいるのんびり屋のまりこの3人が織り成す、成長と冒険の物語。

まさやのことを「一年生のくせに私より体が大きいなんて生意気!」と思っていたあきよだけれど、学校への通学路である暗い森の中の道が恐くて学校に行きたくないと泣いていたまさやを誘って学校へ登校するようになり、次第に3人で遊ぶようにもなっていく。

ある日3人で、あきよの好きな花「ホタルブクロ」を遠くの古い神社まで取りに行った帰り道、いじめっ子に遭遇。せっかく取ってきたホタルブクロを折られてしまう。
今まで、けんかしてもどんなときでも泣かなかったあきよが、目の前で涙を見せた―
そして、お母さんからさまざまな事で叱られっぱなしだったまさやの思いが頂点に達し、
まさやは、あきよに「持ちきれないくらいのホタルブクロを取ってあげる」ために、
わずかなお小遣いとあきよとの思い出の品を持って、家出(という名の冒険)をする。

かなり前に書かれた作品で、カラーテレビが(登場していたものの)まだ普及していなかったり、パンが5円で買えたりする時代背景だが、
思春期を迎える前の幼少時代は女の子の方がおてんばだけど強気だった頃―
男の子が泣き虫だった頃を懐かしがりながら、
まさやが作中に出会う人たちから学ぶことや、彼の成長ぶりなど
さまざまなことに感動して読める本である。

自分は、弱虫で泣き虫だったし、特に小学校低学年の頃は友達がいなかったこともあり、まさや・あきよ・まりこの関係がとても羨ましかった。
歯を食いしばり、強気にけんかする(というより、悪いことは悪いことと面と向かって立ち向かう)あきよ。
のんびりやだけどまさやのこともあきよのことも大切に思うまりこ。
まさやのクラスメイトにみどりという名の妹を持つあきよの同級生に、教室内でのまさやの一件(失敗談)を聞いたときも、あきよもまりこもまさやの味方だった。

ある日あきよは言う。
「まさやくんがしっかりしないんだったら、もういっしょに学校にいってあげないから」
まさやは答える。
「ぼく、しっかりするよ」
あきよはうれしくなった。

しかし、あきよにしっかりする、と答えたまさやは困ってしまう。
「しっかりする」とはどういうことか?
それがまさやにはわからなかったのだ。
机の上に座ってずーっとずーっと考えたまさやが導き出した答え―
『あきよちゃんはほんとうにしっかりしてるわね』というお母さんの言葉からひらめいた。
「わかった!あきよちゃんのようになればいいんだ!」
それからあとはかんたんだった。あきよのようになるには、あきよのしていることを見ていればいい、と。

けど、やはりまさやは困惑する。
強気な態度の男の子にも面と向かって言いたいことをはっきりと言い、時にけんかする。
「しっかりするっていうのはけんかするってことなのかなぁ」
前述の、ホタルブクロの花を取りに行った日の帰りまで、涙を見せなかったあきよのことを思い出し
「しっかりするっていうのは泣かないことなのかなぁ」

親の教育と愛情をまだまだ沢山注がれる幼少時代には、学校の内外で出会う子供たちが交流の中心であり、近所やさまざまなところで出会い、ほんの少しだけど心を通わせる大人たちは、見方を変えれば子供とは別の世界の人間である。
そんな中、大人ではなく、「あの子みたいにしっかりした子になりたい!」という、目指す姿があるというのはとても意味深いものであると思う。

30歳を越えた大人の私でも、今まで出会った人の中で、忘れられない人、こんな風なモノの考え方ができる人になりたい、もっとしっかりしたい、という欲求はある。
しかし、私はまさやのような小学生ではない。
「30歳にもなるんだから・いいオトナなんだから、それなりに社会経験してきているだろう」=「もっとしっかりしろ!」
と言われてしまうのが常だ。
それに、今目指すべき人が居ない。
もちろん、まったくのゼロという意味ではない。生き方や考え方において、参考になる人は沢山いる。
問題は、すぐ近くに居ないこと。
まさやにとって、生活のメインの場である学校や放課後に会うあきよのように、生活のメインの場=仕事において、そーゆう人が居ない、ということである。
今は仕事も失ってしまったから、居る・いない以前の問題なのだが…
仕事の中において、「この人についていけばいいんだ」というキーパーソンのような、かけがえのない存在となる人が居るということは、本当に幸福なことだと思う。
もちろんそれは普段の生活全般においても言えることで、
たとえば結婚して家庭を持つことや、好きな人と一緒に居ること―それはもちろん幸せなことだけどそれは私にとっては不可能に近いことで、私はそれを望まない―「この人と生きていける」「この人がそばに居るだけで、自分が自分になれる」という人。
単なる甘えや寄りかかりではなく、もっと高い次元において
そーゆう人の存在がとても大きな意味を持つのではないかと思う。

今の私は、まさやと同じ気持ちを胸に抱いている。
「しっかりするとはどういうこと?」

まさやのように、「しっかりするために『このひとこそ!』と参考になる人」が近くに居ればいいが―
自分でどれだけ考えてもわからないのなら、一緒に仕事していく中で・一緒に何かを成し遂げる中で、そんな人が近くに居て、自分にないものを見て盗める・教えてもらえる、そして切磋琢磨できることができたら、これほど幸せなことはない。

久しぶりに、この童話のことを思い出すきっかけがあり
お話の内容のことよりも、自分にとって「親以外の」大切な人のありがたさを考え、思い出したきっかけになった。

繰り返し問い続ける
「しっかりするとはどういうこと?」
時々質問が変わる
「私、ただノンベンダラリと年齢を重ねてしまったダメ男?」


そんなことを未だに考えているようじゃ
私は社会人として赤店満点ってことだナ―



(童話は今でも注文可能。興味のある方は読んでみてほしい)


拙い文章ですみません。