Bourree=(仏)ブレー(ブーレー)。
舞曲の一種。17世紀のフランスの舞曲で、おそらくオヴェルニュ地方から出たものと思われる。通常、速い2拍子で、1拍の上拍を持つ。
Bourree1
「悪魔ってつまり追放された天使ってコトでもあるわけだしな 神に反逆して天から堕ちた天使=悪魔 外国ではよくその考えをする 考えてみればチューニングもどこか反逆の証・・似てるじゃないか
『明けの明星』ってあるだろ つまり金星(ヴィーナス)のことなんだが・・実はそれはルチフェル(悪魔)という呼び名もあるんだよ
ルチフェルは追放された最高位の天使であり孤高の天使・・そして永遠の反逆の天使だ」
「明けの明星は別名ルチフェル 神に反逆した堕天使だ 【ルチフェルは堕天使の頭領(ドン)だけど孤高の堕天使なんだ
だから 東の空にひとりで輝く
簡単に言えば天は教会 教会は社会だ 天使は信者であり信者は市民
逆らったものは追放される」
(「反逆者は追放か・・」とSPEED FACTORY RGOの代表・大田和夫)
「そうなる じゃあ反逆ってなんだろうと思ったわけよ 結局自分の意見を言った者なのか 自分の意思を示した者は反逆者か・・と】」
「若い頃よく違反キップを切られたよな マフラーひとつ換えただけでも捕まった(☆1)
【なんでダメだといつも思ったのよ 車の性能を追求するコトはすべて悪なのか
日本の車社会にはチューニングの精神は永遠に生まれない オレはそう思った ・・だけどそれは違うと今になってわかったよ
切られても切られても走っていた あの反逆の心 あれこそがチューニングの基本精神だと】」
(コミック「湾岸ミッドナイト」より アキオの悪魔のZを見た後RGOを訪れた、宣教師の父を持つ吉井のコトバ)
☆1:この時代は1970年代前半にあたり、車の改造に関してあまり寛容ではなかった時代だった
明けの明星(または宵の明星)は、金星の別名である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で検索してみるとこのようなことが書かれていた。
『公転軌道が地球より内側の金星は、天球上では太陽の近くに位置することが多く、最大離角は約47度・最も見かけ上の明るさが明るくなるときの離角は約40度である。普通はそれでも太陽の強い光に紛れて金星を肉眼で確認することは簡単ではないが、夜明けや夕暮れ時など、太陽が地平線の下に隠れて空が暗くなっている間に、金星が地平線上に現れていることがある。その最大光度は、1等星の約170倍にもなり、まだ明るさの残る空にあってもひときわ明るく輝いて見える。その夕方の西天に見えるものを「宵の明星」、明け方の東天に見えるものを「明けの明星」という。(ここの所は理科の授業で習ったはずなので思い出してほしい)
その神秘的な明るい輝きは、古代より人々の心に強い印象を残していたようで、それぞれの民族における神話の中で象徴的な存在の名が与えられていることが多い。また地域によっては早くから、金星と同一の星であることも認識されていた。
ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを美と愛の女神アプロディテにたとえ、そのローマ名ウェヌス(ヴィーナス)が明けの明星すなわち金星を指す名となった。
キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer=ルシファー・ルチフェル)は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使(そして後に地獄の闇に堕とされる堕天使の総帥)の名として与えられた』
また、堕天使(だてんし)とは、もともとは天使の身でありながら、『高慢』(☆1)、『嫉妬』(☆2)、自由意志などの理由で、主である神に反逆した結果、天界を追放された者のことを指す。
ちなみに、堕天使は悪魔と同一視されることが多いが、厳密に言えば意味は違ってくる。 堕天使は前述したように天使の身でありながら、神に反逆し天界を追放された存在という直接的な意味。一方の悪魔は神に反逆したモノ、人を悪の道へ導く者・地獄に存在する者、という、神へのアンチテーゼ自体を示したような意味を持つらしい。
☆1:強大な権威と力をもつルチフェルに「自分は神をも凌ぐ力を持っているのではないか」という驕りが出てしまったがため、味方となる天使を集め神に対して反旗を翻した。が、敗北しルチフェルとその仲間は堕天されてしまう、というもの
☆2:神は森羅万象すべての物を創造したとされるが、その中には人間もあった。
人間は天使の姿を模して作られたとされていて、神は人間に天使以上の愛情を注いだ。当然の如く、それに反発したのは神から最も信頼を得ているとされる大天使ルシファーだった。天使は炎から生み出され人間は土塊から創造される。人間は天使ほどの権威も無ければ力も無いのだ。ルシファーは明らかに自分達より下位な存在であるのに神から寵愛を受けている人間に怒りを覚えた。そして神により強い愛情を抱いていた彼はその怒りを嫉妬心に変えた。
また、彼の嫉妬心は神への怒りにも変わった。そのため、同志である他の天使と共に神に挑んだが、結局は敗北し堕天されてしまう。その後、地上へ堕ちたルシファーは寵愛の対象となっていた人間に挑戦するようになった、というもの。
さて、前置きが長くなったが、反逆とは「主君や仲間に背くこと」である。「独自の考えを固く持っていて、世間一般の風習に従おうとしない人・わざと一般にそむいた態度をとる人間」をさして〔反逆児〕という言葉もある。
わたしは、「悪意で以って人を困らせるためにわざと人と違ったことをすること」は好まない。だが、自他共に言われるコトなのだが、往々にして人と違ったこと…「時間が少し余っているから他の人がやっていなかった、出来なかったところを仕上げよう」とか「型通りやらなくちゃいけないのは確かだけど、その過程においては『もっとこうすればいい』という我流を少し入れてみよう」とか、こと福祉の世界で生きていたときは「同じ『やる』なら本腰いれて、習ったとおり丁寧にやろう」とか、そういう想いが強い。〔反逆児〕だ。
また「こうありたい、そうありたいという最良・最高の状態」「こうあるべきだという、『すべき思考』」も強い、ある種の『理想主義者』だと思う。もちろん、全ての事に・全ての場合において、ではないけれど、こと就労の場面においてはその思いが強い。「やりゃぁいい」「すればいい」「まぁいっか」というのはどちらかといえば好まないタイプの人間なのだ。
でもそれは「出る杭は打たれる」ということわざどおり、反逆者として叩かれる・バッシングを受けることが多い。
それに対し、「生身の人間とのお付き合い・相手があることにおける『気持ちのかけひき』」や「人生を大きく左右すること」など、別な部分においては、いつもマイナスの状態を心に描いてしまう。ちょっとしたことで根拠もないのに悲観的な結論を出したり、何かよくないことが起こったときに自分に責任がないようなときでも自分のせいにしてしまったり、自分の失敗を過大に考えてしまったり、たった一つのよくないコトにこだわってそればかりくよくよ考えて現実を見る目が暗くなってしまったり…そういう気持ちがよく現れる。そして、人を、世の中の流れをどんどん避けていき、結果「反逆する」というコトになる。
上記の二重の意味での「反逆」―こういう私のような考えを持つ人間は得てして「認められない」「この世では生きていきにくい」人間だととられがちだろう。
文中に登場するRGOの大田和夫は過去にこう語っている。
【チューンドカーはレースカーじゃない。モータースポーツなんかじゃないのヨ。
絶対に認められない・・―いや 認められることさえ拒否する非合法な公道上の行為なんだ】
(湾岸ミッドナイト コミックスvol.10より)
大田は、チューニングショップ運営のサーキットでの走行会などを「理解しつつも完全に受け入れることは出来ない」のだ。チューンドカーとその乗り手は「公道上でこそ真価を発揮しなければ意味がない・非合法なのは承知の上で、命をのせられるマシンに車を仕上げ、命を掛けて走ることこそ、特別な世界が見えてくるのだ」と考えているのだ。
単純にパワーをあげるだけでなく、広い意味で「純正状態と味を変える」「自分に合う姿に調律する」という車のチューニングは、「よりよいものを追求しようと、粛々と挑む」姿勢に似ている。それが、所属する集団・社会において「反逆行為」「悪魔となってしまう」ことであっても、その中から天使のいる世界で通用する小さな大切なものがある、きっと見つかる、と信じてやる行為なのだ。
天使のいる世界でそれなりに流れにあわせつつも、自分の秘めたる想いをどこかで信じ、貫き通し、悪魔になる。
だから、悪魔と天使は、本当に広い意味で、どこの世界においても紙一重なのかも知れない。
潤滑円満な流れだけを重視しがちな現代社会においても、悪魔が居たから・悪魔の行いがあったからといって単純に追放せず、その中に、隠れた真価を見つけることこそが大切なのである。
キップを切られても切られても=バッシングにあってもあっても、追い求める。私はその堕天使の姿の「孤高」というコトバ、意味が好きだ。シネマレビューのとあるところにも書いたが、「『孤高』=周囲から一人かけ離れて高尚な理想を持つ事」ってゆーコトバがあるように、流儀とかそういったものが俗っぽくなくて、それを理想として、大切にして生きる・・・認められることは簡単ではないが、地道に努力し、実力を磨いていればきっと気づいてもらえるはずだ、と信じたい。
そういう人材はいつかどこかで…認められる、最高の潜在能力を発揮する、そういう世の中になって欲しいと願う。
【光ったナイフは草原の中に捨てられても、いつか人が見だすものだ】
(真宗大学学長 清沢満之〔きよさわまんし〕)
舞曲の一種。17世紀のフランスの舞曲で、おそらくオヴェルニュ地方から出たものと思われる。通常、速い2拍子で、1拍の上拍を持つ。
Bourree1
「悪魔ってつまり追放された天使ってコトでもあるわけだしな 神に反逆して天から堕ちた天使=悪魔 外国ではよくその考えをする 考えてみればチューニングもどこか反逆の証・・似てるじゃないか
『明けの明星』ってあるだろ つまり金星(ヴィーナス)のことなんだが・・実はそれはルチフェル(悪魔)という呼び名もあるんだよ
ルチフェルは追放された最高位の天使であり孤高の天使・・そして永遠の反逆の天使だ」
「明けの明星は別名ルチフェル 神に反逆した堕天使だ 【ルチフェルは堕天使の頭領(ドン)だけど孤高の堕天使なんだ
だから 東の空にひとりで輝く
簡単に言えば天は教会 教会は社会だ 天使は信者であり信者は市民
逆らったものは追放される」
(「反逆者は追放か・・」とSPEED FACTORY RGOの代表・大田和夫)
「そうなる じゃあ反逆ってなんだろうと思ったわけよ 結局自分の意見を言った者なのか 自分の意思を示した者は反逆者か・・と】」
「若い頃よく違反キップを切られたよな マフラーひとつ換えただけでも捕まった(☆1)
【なんでダメだといつも思ったのよ 車の性能を追求するコトはすべて悪なのか
日本の車社会にはチューニングの精神は永遠に生まれない オレはそう思った ・・だけどそれは違うと今になってわかったよ
切られても切られても走っていた あの反逆の心 あれこそがチューニングの基本精神だと】」
(コミック「湾岸ミッドナイト」より アキオの悪魔のZを見た後RGOを訪れた、宣教師の父を持つ吉井のコトバ)
☆1:この時代は1970年代前半にあたり、車の改造に関してあまり寛容ではなかった時代だった
明けの明星(または宵の明星)は、金星の別名である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で検索してみるとこのようなことが書かれていた。
『公転軌道が地球より内側の金星は、天球上では太陽の近くに位置することが多く、最大離角は約47度・最も見かけ上の明るさが明るくなるときの離角は約40度である。普通はそれでも太陽の強い光に紛れて金星を肉眼で確認することは簡単ではないが、夜明けや夕暮れ時など、太陽が地平線の下に隠れて空が暗くなっている間に、金星が地平線上に現れていることがある。その最大光度は、1等星の約170倍にもなり、まだ明るさの残る空にあってもひときわ明るく輝いて見える。その夕方の西天に見えるものを「宵の明星」、明け方の東天に見えるものを「明けの明星」という。(ここの所は理科の授業で習ったはずなので思い出してほしい)
その神秘的な明るい輝きは、古代より人々の心に強い印象を残していたようで、それぞれの民族における神話の中で象徴的な存在の名が与えられていることが多い。また地域によっては早くから、金星と同一の星であることも認識されていた。
ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを美と愛の女神アプロディテにたとえ、そのローマ名ウェヌス(ヴィーナス)が明けの明星すなわち金星を指す名となった。
キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer=ルシファー・ルチフェル)は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使(そして後に地獄の闇に堕とされる堕天使の総帥)の名として与えられた』
また、堕天使(だてんし)とは、もともとは天使の身でありながら、『高慢』(☆1)、『嫉妬』(☆2)、自由意志などの理由で、主である神に反逆した結果、天界を追放された者のことを指す。
ちなみに、堕天使は悪魔と同一視されることが多いが、厳密に言えば意味は違ってくる。 堕天使は前述したように天使の身でありながら、神に反逆し天界を追放された存在という直接的な意味。一方の悪魔は神に反逆したモノ、人を悪の道へ導く者・地獄に存在する者、という、神へのアンチテーゼ自体を示したような意味を持つらしい。
☆1:強大な権威と力をもつルチフェルに「自分は神をも凌ぐ力を持っているのではないか」という驕りが出てしまったがため、味方となる天使を集め神に対して反旗を翻した。が、敗北しルチフェルとその仲間は堕天されてしまう、というもの
☆2:神は森羅万象すべての物を創造したとされるが、その中には人間もあった。
人間は天使の姿を模して作られたとされていて、神は人間に天使以上の愛情を注いだ。当然の如く、それに反発したのは神から最も信頼を得ているとされる大天使ルシファーだった。天使は炎から生み出され人間は土塊から創造される。人間は天使ほどの権威も無ければ力も無いのだ。ルシファーは明らかに自分達より下位な存在であるのに神から寵愛を受けている人間に怒りを覚えた。そして神により強い愛情を抱いていた彼はその怒りを嫉妬心に変えた。
また、彼の嫉妬心は神への怒りにも変わった。そのため、同志である他の天使と共に神に挑んだが、結局は敗北し堕天されてしまう。その後、地上へ堕ちたルシファーは寵愛の対象となっていた人間に挑戦するようになった、というもの。
さて、前置きが長くなったが、反逆とは「主君や仲間に背くこと」である。「独自の考えを固く持っていて、世間一般の風習に従おうとしない人・わざと一般にそむいた態度をとる人間」をさして〔反逆児〕という言葉もある。
わたしは、「悪意で以って人を困らせるためにわざと人と違ったことをすること」は好まない。だが、自他共に言われるコトなのだが、往々にして人と違ったこと…「時間が少し余っているから他の人がやっていなかった、出来なかったところを仕上げよう」とか「型通りやらなくちゃいけないのは確かだけど、その過程においては『もっとこうすればいい』という我流を少し入れてみよう」とか、こと福祉の世界で生きていたときは「同じ『やる』なら本腰いれて、習ったとおり丁寧にやろう」とか、そういう想いが強い。〔反逆児〕だ。
また「こうありたい、そうありたいという最良・最高の状態」「こうあるべきだという、『すべき思考』」も強い、ある種の『理想主義者』だと思う。もちろん、全ての事に・全ての場合において、ではないけれど、こと就労の場面においてはその思いが強い。「やりゃぁいい」「すればいい」「まぁいっか」というのはどちらかといえば好まないタイプの人間なのだ。
でもそれは「出る杭は打たれる」ということわざどおり、反逆者として叩かれる・バッシングを受けることが多い。
それに対し、「生身の人間とのお付き合い・相手があることにおける『気持ちのかけひき』」や「人生を大きく左右すること」など、別な部分においては、いつもマイナスの状態を心に描いてしまう。ちょっとしたことで根拠もないのに悲観的な結論を出したり、何かよくないことが起こったときに自分に責任がないようなときでも自分のせいにしてしまったり、自分の失敗を過大に考えてしまったり、たった一つのよくないコトにこだわってそればかりくよくよ考えて現実を見る目が暗くなってしまったり…そういう気持ちがよく現れる。そして、人を、世の中の流れをどんどん避けていき、結果「反逆する」というコトになる。
上記の二重の意味での「反逆」―こういう私のような考えを持つ人間は得てして「認められない」「この世では生きていきにくい」人間だととられがちだろう。
文中に登場するRGOの大田和夫は過去にこう語っている。
【チューンドカーはレースカーじゃない。モータースポーツなんかじゃないのヨ。
絶対に認められない・・―いや 認められることさえ拒否する非合法な公道上の行為なんだ】
(湾岸ミッドナイト コミックスvol.10より)
大田は、チューニングショップ運営のサーキットでの走行会などを「理解しつつも完全に受け入れることは出来ない」のだ。チューンドカーとその乗り手は「公道上でこそ真価を発揮しなければ意味がない・非合法なのは承知の上で、命をのせられるマシンに車を仕上げ、命を掛けて走ることこそ、特別な世界が見えてくるのだ」と考えているのだ。
単純にパワーをあげるだけでなく、広い意味で「純正状態と味を変える」「自分に合う姿に調律する」という車のチューニングは、「よりよいものを追求しようと、粛々と挑む」姿勢に似ている。それが、所属する集団・社会において「反逆行為」「悪魔となってしまう」ことであっても、その中から天使のいる世界で通用する小さな大切なものがある、きっと見つかる、と信じてやる行為なのだ。
天使のいる世界でそれなりに流れにあわせつつも、自分の秘めたる想いをどこかで信じ、貫き通し、悪魔になる。
だから、悪魔と天使は、本当に広い意味で、どこの世界においても紙一重なのかも知れない。
潤滑円満な流れだけを重視しがちな現代社会においても、悪魔が居たから・悪魔の行いがあったからといって単純に追放せず、その中に、隠れた真価を見つけることこそが大切なのである。
キップを切られても切られても=バッシングにあってもあっても、追い求める。私はその堕天使の姿の「孤高」というコトバ、意味が好きだ。シネマレビューのとあるところにも書いたが、「『孤高』=周囲から一人かけ離れて高尚な理想を持つ事」ってゆーコトバがあるように、流儀とかそういったものが俗っぽくなくて、それを理想として、大切にして生きる・・・認められることは簡単ではないが、地道に努力し、実力を磨いていればきっと気づいてもらえるはずだ、と信じたい。
そういう人材はいつかどこかで…認められる、最高の潜在能力を発揮する、そういう世の中になって欲しいと願う。
【光ったナイフは草原の中に捨てられても、いつか人が見だすものだ】
(真宗大学学長 清沢満之〔きよさわまんし〕)