goo blog サービス終了のお知らせ 

Symphonyeel!(シンフォニエール!)

ようこそ。閲覧者の皆さんとのメッセージが響き合う場となってほしいナ―という想いで綴ってます

28th Movement 「『結果』~見えるモノ・情報とその過程~」

2008-07-08 22:18:03 | SWEET SWEET SUITE
(Ⅰ)車の運転は いかに多くの情報を取り入れるか・・
そして その情報は80%が目から入るという
目に見えるスピード目に見える周りの状況目で見た80%の情報に対応する 速い運転はそれだと思う・・
でも だからこそオレは考えたい
【人は見た目で判断するなら 見えないモノはどうなんだ
目に見えない20%に意味はないのか・・
人は目で判断する  見たモノは結果であり そして事実
それはそれで正しいけど
でもオレは残りの20%を見たい】

飲み込もう すべて―  彼らのように

(Ⅱ)オレは今日 自分の考えがはっきりとわかるんだ
何かを新しく教えてもらうワケじゃない
今までの自分の考えでイイんだとわかるんだ

【すべては結果で判断される
結果とは 目に見える今の形だ
泣く人 笑う人 成功した人 失敗した人
目に見える形は事実だろう でもオレは それだけで決めない―
結果がすべてなんてウソだ
それは結局― 近道をしているだけだろう
そこにくる過程をはぶいて・・ ただ楽に考えたいだけだろう
見たまま評価するのは楽だからだ
オレは 見えるモノで判断などしない―
見えないから見たい 隠れているから知りたい
結果ではなく そこにくるプロセスを知りたい

面倒くさい奴ははぶかれる 嫌われる
でもオレはそれでいい
近道はしない
見えるモノは見えるモノとして―  いつもその向こうを大事にしたい】


(Ⅲ)【人は情報で生き方や考え方が左右される
その情報のほとんどは目から入る形で決まる見た形 そのままが結果だ
(中略)そう・・人生も結果がすべてと人はよく言う
言ったもん勝ち やったもん勝ち 食ったもん勝ち きっとそうだろう
・・でも オレはそうじゃあない
見える結果そのままじゃあ納得しない】
大学のときからチューニング雑誌「GTカーズ」の制作に参加した 理想を求めても結局売れず廃刊したそれが事実だ
・・でもオレはそれでも言う

【結果がすべて 99%の人がそう言っても オレはちがうという
結果はすべてを教えてはくれない――】

(週刊ヤングマガジン 平成20年6月24日発売号、6月30日発売号、並びに年7月7日発売号より)

萩島とFD3SRX-7を主軸にした湾岸ミッドナイトの物語も、名言が多く登場した。
悪魔のZ、ブラックバードと共に走った間に登場した荻島の独白は、コメントの隙間もないくらい完成されていると思う。
そしてそれは、学生時代の自分の頭では解る事はおろか、考えることもしなかったであろう内容である。「どうせ結果しか見ないんだろう、結果こそ全て」だと思っていた。
対人関係でも、「見た目でしか判断されない、中身を真剣に見よう、考えようとする人間は少ないだろう」と決め込んでいた。

スポーツでも技術革新でも何でもそうだが、「勝たなければ意味がナイ」「『良い結果』を出さなければ意味がナイ」というのは大きな事実だ。でもそれは、その全体における多くを占める「条件付け」のひとつでしかない。
そこに至るまでに、どれだけの積み重ねをしてきたのだろうか?どれだけの努力をしてきたのだろうか?
そして積み重ねを経てもなお成しえなかった原因はなんだったのか?
その「努力の過程を見た」時に、そして「推測した」時に心が動く。「困難などにも耐え、必死になってがんばってここまで来たんだね」「いろんな人に支えられてここまで来たんだろうね」・・・私の母はよく言う。
そういった、人の行いや気持ちその他を、ノートに書かれた字を読むように、あるいは教科書や参考書を読んで理解するように、簡単には目で見るコトはできない。それはたとえば、映画のメイキング映像やドキュメントなど、知られざる部分を垣間見ることができたときなどだろう。それを見て「『ネタバラし』はつまらない」と取る人もいるが、私はそう思わない。大なり小なり心が揺り動かされる。目に見えないものに触れる、直視することだけがすべてじゃない、意識するだけでもぜんぜん違う。
そしてそれはその「結果」に至るまでの核心が詰まっているものを見ることになる。それを見た時にこそ初めて、その事実が理解できるのではないだろうか。
「結果を出す」前の、一番初めのスタート地点でもそうだ。「言ったもん勝ち やったもん勝ち」とよく言う、言い出さなければ、やりださなければ始まらない。でもそこで考えたい。始まる前にどこまで議論をしたのか、メリット・デメリットは考えたか?そこに至るまでのプロセス、過程が大事なのだ。そういったことがちゃんと成っていてこそ初めて結果を生み出すために動き出すのだ。

もうひとつ例を挙げてみよう。「現実感覚が希薄になりやすい」という指摘がたびたびあるネットの世界。新聞のコラムで、「ブログを始めようかな」とマネージャーに提案した際に「やめたほうがいい」と窘められた女優・東ちづるさんがこう語っている。
「ネット上となると感情に任せて勢いや思いつきでの発信となる。(中略)確かにブログの仲には、独りよがりの独り言じゃん、浅い、と感じるものも。嫌なことがあっても誰かに相談することで回避し、不平不満をネットの世界で発散。自虐的な表現に自己満足感も漂う。非難のレスは即消去、という人もいるらしいと。
その上で「ブログは日記と同じという人もいるが違う」という東さん。「日記は誰の目にも触れないからこそ、自分の心の奥底を探り、自分を見つめることになる」と。確かにそれは大当たりだ。「アンネの日記」や「わたしのいじめられ日記」(土屋玲さん著)がいい例だろう。

「奇跡体験!アンビリーバボー」という番組で紹介されていた、落ちこぼれクラスを希望に満ちた温かなクラスに変えた一人のアメリカの女性の先生は、上記の「アンネの日記」を教育題材にし、生徒たちにはノートを渡して日記を書き綴るようにしたところ、生徒たちの本当の気持ちが書き綴られ、その現実に直視した先生は、心を痛めたという。そう、【見えない何かも大事だけど、見えない部分を無理して見て、自他の心が傷ついてしまわないように注意しなくてはならない】のも事実である。
しかし、先生はあきらめなかった。生徒たちと本気で向かい合い、直接のコミュニケーションが取れるようになって、彼らの心は開かれていった。
東ちづるさんの文章は「わかってほしいことがあるなら、体温を感じるコミュニケーションを。ため息も笑いも涙も、実際に見せてこそ、発散されるのだ」と文章は締めくくられている。秋葉原の無差別殺傷事件の容疑者を思い描いて綴った文章であろう。
確かに、不特定多数の人が、顔も見ていない、何を考えているかわからない、知らない人間の書き綴ったことを見るブログやネット上の書き込みなどは、真の気持ちは見えにくい、伝わりにくい。
また、この無言化社会の中で、他人に対して真に気持ちを打ち明けようとする人、そうできる環境は数少ない。
しかし、それだけで判断していいものだろうか。本当にブログと日記は違うのだろうか。
上記の女性の先生が生徒に渡したノート。最初のうちは殆どの生徒が提出せず、先生の悪口ばかりが書き綴られていた。悲痛な叫びなど何も感じられないモノばかりだった。それこそ、ブログに書かれた発散のための文章のように。
しかし、「体温を感じる直接的コミュニケーションに至るまでの過程」はどうすればいいのか?それを欠落させていては、すべての言葉が独りよがりの独り言になってしまう。
ネットの世界でも現実の世界でも孤独になってしまった人が起こしてしまった「結果」だけを見て判断していいものだろうか。結果にいたるまでの過程を、プロセスを見ることができる目はなかったのか?その目の数をもっと増やせば結果だけではわからないものを教えてもらうことができたのではないか?解ったのではないか?


そう、結果がすべてではない。どんなコトも過程を大切に―
それは、ほとんどが不可視。表面上では見ることができない、非常に難しいものなのである。
目に見える80%と目に見えない20%。
大事なのは、その20%で、そこを中心にて初めて100%なのだ。念のため、私のブログは―特に「SWEET SWEET SUITE」は―誤字脱字乱文多々あれど、一度Wordで文章をすべて書き綴って読み返してから投稿している。新聞の原稿のように、とまではいかないが、これでも読み手を考えて書いているということを主張しておきたい。

【オレはどんくさいオトコだ
カタくて教科書的な考え方しかできない 納得ができるまで次へ進めなかった
それは 自分を押し通していただけだ】


という荻島。私もそれに近い性格なだけに、今回の楽章に綴った言葉は永久保存版として残しておきたい。
最後に、日本一有名な(?)犬が登場する、SoftbankのCMの台詞を掲載しておこう。最後はふふっと笑いを誘う、よくできたCMだ。シリーズの中にある学校編でのやり取りを見てほしい。今回の楽章の大部分を物語っている。

(ガラガラガラ・・・たったったった・・・)
女生徒「先生・・・!」
先生(お父さん)「喧嘩はやめろ!」
男子生徒B「犬のいうことなんか聞けるかよ」
女生徒「先生になんてこと言うのよ」
男子生徒B「だって犬は犬でしょ」
先生「見た目で決めるな」
男子生徒B「じゃあ何で決めるんすか」
先生「心の目だ」

大事なのは 心の目だ―

27th Movement 「cool, or hot?」―感情のコントロール―

2008-05-11 20:45:16 | SWEET SWEET SUITE
【そうですね・・小学生のときはクラスで一番のお調子者です
朝 学校に着いてから放課後までハイテンション 帰りはいつもグッタリとしてました
ハイとロー・・ 中学になってもその繰り返し
ハシャいだあとに気持ちが落ち込み 落ち込むコトにまた落ち込む
いつも・・心に言葉が追いつかないカンジでしたね
感情をコントロールしなければツブれてしまう
考えて考えて出した答えが「人とカラむのを極力さける」・・しかなくて】
(でも全然人ギライじゃあないですよね、という大田リカコに対し)
【そうですね・・今でもウマく喋りたいと思ってますから
たとえば あなたたちチューナーという人種も・・
言葉では伝えられないモノを技術にして託してるわけでしょう
響くんですよ そうゆう感覚の人は】
(平成20年4月28日発売 週刊ヤングマガジン「湾岸ミッドナイト」内 島達也の言葉)

「見かけとは逆で実はスゴく熱くなりやすい人ですよね? はしゃいだり興奮したりしやすいタイプとゆーか・・」
という大田リカコに対してこう答える島達也。
島達也は湾岸ミッドナイトのメインキャラクターの一人である。メス捌きも優れたエリート外科医でありながら、免許を取ってからずっとポルシェ911ターボとともにストイックな速さで湾岸を走り続ける、通称「ブラックバード」。
「とにかくクール!」そして、序盤に登場する朝倉えりこは、「誰も愛さないし誰にも愛されようとしない」「ずっと一人ぼっちの人」と語っており、他人との接触をできるだけ避け、「走り」「愛車であるポルシェ」に全てをかけ、そしてそのための「仕事」(物語にはあまり登場しないが)だけに生きている人間のように見えていた。
しかし、主人公のアキオとは、「ライバル」といった簡単な言葉を超越し、「惹かれながらも馴れ合わない」という非常に不思議な関係が形成されている。アキオが走ればブラックバードも走る・・・。そして、時々は走りを通じて、首都高やそれ以外のスポットで心を通わせている。

【医者という職業柄からもこーいう観念的ないい方はしたくないんですが
呼び合うというかそういうのはあるかもしれないと
時がたてば仲間はかわる ―だけど走り続けていれば 新しい仲間の声が 必ず聞こえる】

と、時々人間味がある言葉を発している島の姿もあり、一見クールな様でありながら、人間との係わり合い・触れあいの暖かさを感じる。「言葉では伝えられないものを技術にして託している」という人間が心に「響く」という言葉を出す島も、クールでありながら、それを「誰が見てもわかるくらいの感情表現」で以って表すのではなく、静かに語る―それが彼らしさなのだろう。

あの世界を知っている人は、彼がどのような人物かは今までのストーリーの中で見て来たとおりだと思うが、今回私は一番初めの島の言葉にとても共感をおぼえた。
過去の私と今の私、それが、島の言葉と不思議なほど似ており、繋がっているからだ。
島が、医者になり、現在の島があるまでにはさまざまな出来事があったであろうが、私も小学校中学校のときは―「ハイテンション」でもなかったが―みんなと楽しくいるのが大好きだった。でも、次第に感情のコントロールが自分ひとりでは利かなくなり、落ち込んだり、気分の浮き沈みが激しかったりして「扱いにくい人間」というレッテル張りもされた。
だからあれこれと考えた。
今でも正直、たくさんの人と群れるのは好きじゃあナイし、一人で生き抜く力も正直常人に比べれば極端に弱い。


これより少し前、同じく「湾岸ミッドナイト」内で、こういうシーンがある。
登場人物の一人、高木優一が、島を見て「見かけとは違いますよね あれほど体温の高い男だったとは・・」という言葉に対し、
【ちがうな・・ 奴はいつも体温を維持しているだけだ
つまり・・上がった熱はそのまま平熱には戻らないんだよ
1回下がってから元に戻る つまりリバウンドだ
そしてそのときに調子を崩しやすい
フロのあとの湯ざめもそうだし 
グラウンドで選手がウインドブレーカーをすぐ着るのも 体温が下がったときが一番コワイからだ
すべてのコトにコレは当てはまる
ハシャいだあと 意味もなく落ち込むのも実は当然だ
下がった時がコワい
体の体温も そして気持ちの体温も
そこに落ちないよう 奴はいつも維持している】
と、北見淳が語っている。
島がリカコに対して語った「ハシャいだあとに気持ちが落ち込み 落ち込むコトにまた落ち込む」状態である。
見た目とは裏腹に人情に厚く、人間観察力もある北見らしい言葉だ。

クール:感情的にならず、常に冷静な態度を失わないようす
ホット:熱いこと、激しいこと、強烈なこと
辞書的な意味はこうなるが、ホットというよりもむしろ「warm」=ウォームがいい。グラウンドで選手が行う準備運動のことを「ウォームアップ」と言うのと同じだ。「cool」の英単語の意味の一つである「冷たい」の日本語的な意味の一つである「人情が薄く冷淡な」というのには決してなりたくない。
上記の北見の言葉は「一見クール(cool)にモノを言い放つようで、実は自分の感情をコントロールしながら人の温かさ(warm)、自分自身・人との交流の中での熱さ(hot)を持っている」島の人間模様を上手く表現している。

感情のコントロールというのは本当に難しい。
島自身は「オレはいつもクールに振舞っているぜ」という見かけだけ・素振りではなく、本当に冷静沈着でいるのは、実は幼い頃のハイテンションや、走りに対する熱さ、時折見せる人間らしさなどのホットな感情を、心の奥底で維持させるための「『ある種の』適応規制(=欲求不満や不快な緊張感・不安から自分を守り、心理的満足を得ようとする無意識的な解決方法)」なのかもしれない。
見るからに人情味あふれる人、「あ、この人とは仲良くなれそうだ」という直感を抱く人ももちろん大好きだし、そんな人にもなりたい、と憧れるけれど、私はクールな中に暖かさがある、そういう人間になりたい。
この言葉の中には、自己を見つめ、ギリギリまで落ちないように自分をコントロールする「もう一人の自分」の設定、そして、上手くいかなかったときの対処法を考えておく―要するに「自分の出し入れ」というのを作っておくことを示唆している明言である。
そして、言葉じゃなくても、伝えようとせずとも「わかる人・行為が響く人は必ずいるのだ」ということがわかる、それには、自分の心のバランスをとっておかないとわからないのだ。そのときに初めてわかる。


【あなたがコントロールすべき人間の中で もっとも手ごわい人間 それはあなただ】
(J・ベックレー)

7th Movement 「わかって欲しいという欲求」(一部補筆)

2008-04-21 23:39:09 | SWEET SWEET SUITE
「人ってホラ、ただ生きてるだけじゃ辛いだろ 意味とゆーか、そーゆうの。
金持ちになりたいとか、女にモテたいとか、正直に生きたいとか
それぞれ 求めるモノ あるだろ、人って。
で、【オレは何かなって考えた時、わかって欲しいってコトかな・・と】
【チューニングという行為を介してオレという人間をわかってほしい―と】
金も欲しい、有名にもなりたい、だけどそれよりもわかって欲しいなんだ。
【それも ただ誰でもってワケじゃない。誰にわかって欲しいのか、それが大事だとこの年でやっと気づいたんだ】」
(「湾岸ミッドナイト」より 富永公のセリフ)


「仕事としてもうまくいなかなった。借金だらけで工場もツブれ 家族も逃げた・・・
でも そんなコトはどうでもいい オレは 本当にオレの作った車をわかってくれる奴がいればそれでいいんだ」
【愛してくれ オレの作った車を 愛してやってくれ その悪魔のZを
お前ならできる・・・走るために生まれてきた とびきりのヤツなんだ】
(「湾岸ミッドナイト」より 北見淳のセリフ)


【オレが20代でアメリカにいった時・・
オレは多くの人に 自分の技術を認めてほしいと思っていた
一人でも多く認めてもらう それが正しく 成功と思った
でも・・その考えにはムリがあるとすぐ気づいた
・・たとえば 広く理解を求めていくと やはり妥協が出る
でも「わかる奴がわかればイイ」 その考えもイヤだ
アレコレと考えて出た答え・・それが「誰にわかってほしいか」だったんだ
誰にわかってほしいのか
誰に認めてほしいのか
そう考えれば 自分の行動 進む方向は見えてくる】
(週刊ヤングマガジン 平成20年4月21日発売号 「湾岸ミッドナイト」より 吉井の台詞)


今回は、「SWEET SWEET SUITE」の楽章に初の補筆を行った。
かなり前の第7楽章―


一つ目の富永のセリフは、RGO代表大田和夫の娘、リカコが、チューニングの際、富永に仕事を通じた人生観を問うシーンで語られるもの。
二つ目の北見のセリフは、アキオの手によって走り出した悪魔のZを見て、自分の作ったZに選ばれた唯一の存在―「悪魔」に心を許され、愛された男―なのだと確信するシーンで語られるものである。
三つ目は今回の補筆版。首都高バトルという非合法なバトルの中で、「誰にわかって欲しいのか」を掴むために、荻島のFD3SRX-7を完成させた吉井が、彼に「走りきってみろ」という言葉の前に語られるものである。同作品の中で、これだけ似たようなニュアンスの言葉が、異なる人物によって語られる漫画も少ないのではないだろうか。


さて―
自分は幼い頃、たくさん友達がいる人、いろんな人に好かれている人をうらやましく思っていた。人から認められ、慕われることこそ最高だと思っていたのだ。認められる人数が少なければ少ないほど、自分は「程度の低い人間なのか」と思っていくようになっていった。
いつからか、私の他人に対する想いは「好かれたい」「理解してもらいたい」「気持ちを受け止めてほしい」というものになっていった。
小中高校と、友達が極端に少なく、人に好かれたことなどもない私は、とにかく「誰でもいいからわかってほしい」というサインを送り続けていたように思う。とりわけ、異性への想いは強かった。幼い頃からいじめられたり嫌がらせをされたりするのは男子よりも女子のほうが多かったから。
しかし、それは次第に、同級生や後輩から避けられ、私自身も彼らを避けていき、それよりも、心が広く、私の心を―痛みも悲しみも全部一緒に―受け入れてくれる、先生など大人(の心を持った人)を欲するようになっていった。いずれにせよ、「ただ、わかってほしい」「受け止めて」の一本槍だった。
若き頃の吉井と同じ考えだ。
こと大学生時代は「自己顕示欲のカタマリのようなヤツ」「変わり者」「ウザい」という評価だけで通ってきた。


先生をはじめ、周りの大人たちは、私のことを受け止めてくれた、ように思う。大人の心を持った、教養・包容力のある人達がそうだ。
それはもちろんうれしいし、自分が多大な影響を受けることになるすばらしい方たちばかりだ。


けど、それだけじゃだめなのかも・・・、そうじゃないのかも・・・ということに、私も少しずつ気がついてきた。
ただ誰でもってわけじゃない―
数々の出会いと別れ、その他もろもろの中で、私という人間をこれからもずっと見守っていてほしい、わかってほしいという人は、欲せずとも自分の近くに(身体的にも心理的にも)自然と居てくれるんだ、ということをまず感じたのである。それは、私が「わかって、お願い!」という言葉・気持ちを発せずとも、わかってくれる人はしっかりとわかってくれる―そういう人が何人かでも私のそばにいてくれる―と確信したからである。

また、その人たちの受け止め方、私という人間の「わかりかた」「わかろうとする姿勢」は、私が今までやってきたのとは明らかに違う。「この人がいれば私はそれでいい」そういう大きな安心感がある。

長所も悪癖も、みんなひっくるめて「わかってくれる」人―

「誰にわかって欲しいのか、それが大事だ」、という富永のセリフは、深く私の心に刻まれる言葉となっている。
わかってくれる存在の人は「自分が自分であるために必要な、本当に捜し求めている」モノ・ヒトであるのだと思う。そういうヒトに出会い、支えあって生きていくことこそ、私が求めているものだと思う。「誰にわかって欲しいのか」ということ、それはここにあったのだ。
その人に、「私のいろいろな行為を通じて私という人間をわかってほしい」と欲するならば、私も、わかってほしい相手のことを、言葉からではなく、生き様から相手のことを理解していかなくてはならないと思う。
自分の行動のベクトルをどこへ向けるかは、人の中で生きている以上、誰かしらの
相手が居てこそのモノ。広い理解は望まないし、「妥協」よりも先に、変わり者の私の意見・言動は受け入れられにくい、と思う。
「わかるヤツだけわかればいい」という、ほぼ受けの体制で居るよりも、「わかって欲しい人には自分の言葉で、自分の心の底から願う」、という自分から少しでも向かっていく姿勢が大切なのである。


【大切なことは言葉にできないから 自らの生き様でもって人に語ろう】
(コミック「SS」より)

26th Movement  「かえられるコト かえられないコト」

2008-04-18 21:56:18 | SWEET SWEET SUITE
【・・たとえば
かえたいコトとかえられないコトがある
かえられるコトはかえてゆく それが努力であり進化だ
では かえられないコトは・・?
それは認めるしかない
それが かえられないコトならば 認めるしかない
認めれば その先の答えは出てくる
かえられるコトとかえられないコト
アキオは「走り」の中でそれを学んでいったんだろう】
(週刊ヤングマガジン 平成20年4月14日発売号 「湾岸ミッドナイト」内 吉井のコトバ)

絶対性能ではインジェクションシステムにかなわないキャブ(キャブレター燃料供給方式)をあえて使う悪魔のZ。
その悪魔のZのセッティングを自ら願い出て、一週間でセッティングを完了させ、「それ(キャブ)を捨ててしまえば得られるメリットは数え切れないほど多くなり 対し失うものはほんの少し・・ でもそのほんの少しにZの命もある」と語る、RGOの大田リカコ。
一方、アキオの悪魔のZを思い、萩島が「キャブにこだわる理由」を吉井に問う。
その吉井が、70年代初頭、ツーリングカーレースにおいて、キャブレターからインジェクションを採用したハコスカGT-Rの『牙を抜かれて穏やかになったのにGT-Rは速くなった』という、とあるレーサーのコメントの引用し、そのあと、上記のように続けるのだ。

ちょっと話がそれるが―
AMラジオを聞いていると、昼前の時間帯に「テレフォン人生相談」なる番組が放送されていて、そのレギュラーパーソナリティの一人に「加藤諦三」という人がいる。経歴・プロフィールは公式サイト等に委ねるが、その人は番組の冒頭でこう言っている。
「こんにちは 加藤諦三です
変えられることは変える努力をしましょう
変えられないことはそのまま受け入れましょう
起きてしまったことを嘆いているよりも これからできることをみんなで一緒に考えましょう」

この人の著作は、人を惹きつけるような題名を持っており、私はパラ読み程度ではあるが見たことがある。当然内容などはあまり覚えていないが、「結構ためになるコト、鋭いコトを書いてあるな」と思ってみていた。
ところが、ラジオのトークとなると、イントネーションや活舌、速度等をひっくるめた「しゃべり方」に説得力があまり感じられない。また、番組が終了した後(私の個人的な見解だが)、さも「自分は何かの宗教の教祖で、『これを胸に刻んで信じて生きなさい』」と言わんばかりの言い方で格言じみたコトをいう。「なんだこの人は?!」と思った。電波に乗せて全国のリスナーに届けるメッセージなのに、そんな軽々しい(と私には聞こえる)言い方で?!という物言いで、だ。
取り方によっては100歩譲って「今日の相談の内容まとめ」的なモノ・あくまでも参考に」、という見方もあるだろうが、他の曜日のパーソナリティは誰も言わないのに、この人だけがそんなことを言う事実がそれに拍車を掛けた。
私の心には、加藤氏が番組冒頭で言う、上記の言葉が一切響かなくなった。
しかし、だ。これは、吉井の言葉と内容は「ほぼ」同じではないか。
どこに中心軸があるか―
どうして私の心には今まで響かなかったのか―


さて、「ヒトが何か思わぬことに遭遇したとき」「今直面していることから別の方向へ変更する、せざるを得なくなった、となったとき」ということについて考えてみよう。
「かえたい」・・・「○○したい」と、願望を表す言葉だ。その中で「かえられるコト」イコール「=何かしらの動きを(上手に)とればかえることができる、可能であるコト」となる。
ところが、「かえられないコト」・・・となると、これにはいくつかの側面がある。
交通事故のような、「どうがんばってもどうしようもない、時間を巻き戻すとかそんなことでもおきない限り、100%無理と、誰もが言える」完全なる不可を表す場合と、ヒトの気持ちや何か行動を起こそうとするときに踏み切れずにいるなど、「かえようとする人間、対象にその気がない、何らかの理由で気持ちが動かない、無欲求の状態」、つまり、気持ちしだいであらゆる可能性に向くことができるかもしれないのに、そのチャンスを逃そうとしているさまをさす場合、そして「既存の技術では変えられない」という技術的側面もある。

たとえば 「どれに(どちらに)しようかな かみさまのいうとおり・・・♪」という遊び歌のヨウナモノがある。しかしながら、「本当は心の中では、どちらにするかもう決まっているんだよね」と言う見方をするヒト、「指差しをどれからはじめるかによって、歌が終わる前に結果はもう決まっているから、『鉄砲撃ってバンバンバン』『いち にー さん、しー・・・』などと付け足したりする」と言うヒトもいる。
でも、やっぱりヒトは悩む。
変えようか、変えないでおこうか―
変えるべきか変えざるべきか―

【人生はすべて次の二つから成り立っている。
したいけど、できない。 できるけど、したくない】
(ヨハン・ヴォルフガンク・フォン=ゲーテ)

物事の選択は、究極をいえば自分が決める。
決める、をもっと突き詰めれば「見極める」「うまく振り分ける」ということになるだろう。
【かえられるコトとかえられないコト・・ その二つを見極めるのは自分だけ・・】

しかしここで思うのは、物事を決める手助けとなるもの、心の持っていき方を支えるモノによって、変えられなかったことが変えられるようになるときがあるのだ、ということだ。
一人で悶々と考えてしまうより、さまざまな要素を盛り込むことで、判断材料にする。その上でかえるか、かえないかを決める―
キーとなる第一は、「受け入れる」か「認めるか」の微妙な違いではないか、と私は思っている。
受け入れる=うけとっておさめる
認める=見て、知る(判断)。承認する、許可する、高く評価する
「そのまま丸呑み」というニュアンスのある「受け入れる」、と「噛み砕いて自分のものにする」というニュアンスのある「認める」とは違いがあるような気がする。24th MOVEMENTでも綴ったが、「ちゃんと今の自分を認めろ」という基盤があって初めて、「その先が見えてくる」のだ。
自分を認めるのは弱いコトではなく、強いこと。でもその強くあるためには、自分の力だけではどうしようもないことだってある。それがヒトだから―
朝倉アキオは、これまでにさまざまな人物と出会い、共に走り、ライバルマシンと戦い、Z自身と向き合い成長してきた。
そういう美点が強く現れているといえるだろう。
もう一つは、人でもモノでも相手のポイント、要所、そして弱点を掴むことだろう。これを掴むにはかなりの努力が要るだろうが、掴んでしまえばもうこっちのものだ。シチュエーションによって、自分の出方を変えることができるからだ。そして、何でもかんでも手をつけたりしない。中途半端なままで完成させないようにしてしまう、踏み出せずにいるよりは、思い切って噛み砕いて認める―そうすると先が見えてくる、そういう気がする。
これまでも、似たような言葉・アドヴァイスをされたコトがある。でも、胸深く解ったのは、この文章を綴った今だ。
実行に移すのはまだまだ力が足りないが、少しずつできるようにしていきたいと思う。

それと同時に、ヒトが声というものをしてヒトにメッセージを伝え、対面であるならば表情を交え、時には身振り手振りも交えて語るものと、文章で以って語る言葉では、さまざまな面で差が生まれることを実感した言葉である。
それらを承知の上で、以下の名言も参考にしてほしい。

【自分の力でどうにもならないことは 心配しても意味がない】
(アップルコンピュータ 元会長兼CEO ギル・アメリオ)

【もしそれがうまくいかなくても きっとほかのなにかがうまくいきますわ】
(蒸気機関の発明者ジェームス・ワットの妻)

【あなたができること あるいは夢見られることは何でも始めよ 毎日を生きよ あなたの人生が始まったときのように】
(ヨハン・ヴォルフガンク・フォン=ゲーテ)

【常に行為の動機のみを重んじて帰着する結果を思うな 報酬への期待を行為のばねとする人々の一人となるな】
(ルートヴィッヒ・ヴァン=ベートーヴェン)

【馬で行くことも 車で行くことも 二人で行くことも 三人でいくこともできる。だが 最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない】
(ヘルマン=ヘッセ)

【事を遂げるものは愚直であらねばならぬ 才走ってはうまくいかない】
(勝海舟)

25th Movement  ラメント「空気を読むよりも先に読むモノ」

2008-02-16 00:03:50 | SWEET SWEET SUITE
lament[英] lamento[伊] =ラメント
〔1〕死者を悼む音楽の総称。〔2〕嘆きの音楽。

今回の楽章は後者の方である。音楽に例えるなら、嘆き悲しむ音楽=ラメントだろう、と思って使わせてもらった。
テーマは、ローマ字略語の一つ、「KY」。
「空気を読めよ」、「空気が読めない奴だな」の頭文字。周囲の状況にふさわしい言動ができない人への警告。もともとインターネットの掲示板のやりとりで使用されてきた表現だが、それがメールや会話にも登場するようになった。掲示板の表記では「空気嫁」という表現も見られる。


〈周囲の状況やとりまく人々の思惑など、そこにある暗黙の了解をまったく意に介さないような言動や考え方をすること。また、その人〉。『KY式日本語』(北原保雄著)に載っているローマ字略語KY(空気読めない)の語義である。▼語源をたどると、〈インターネットなどの掲示板では「空気嫁(空気読め)」の表記で以前から広く使われていた〉という。昨年夏の参院選で敗北したあとの安倍改造内閣が「KY内閣」と評されたことで、認知度が一気に上昇したらしい▼若者言葉ではない。中高年の人も最近は使っている。数人が和気あいあいと雑談している席で、「KYと言われるかもしれないが・・・」と前置きし、異論が出そうな話題に切り替えた人がいた。空気を読めないのではなく、あえて問題を提起しているのだと言いたいようだが、KYと思われたくない強い気持ちの表れでもある▼本紙の文化欄で、法政大学の鈴木晶教授が【KYを〈「空気」という見えないルールを振りかざして、他人を排除する呪文〉だ】と分析している。前置きをした人も呪文の怖さに恐らく気づいている▼【空気がまったく読めないようでは困るが、日本人は何にでも過剰に反応しやすい。呪文に振り回されては、社会は気力を失っていくだろう】
▼作家の故城山三郎さんが『打たれ強く生きる』で、停滞期の大企業がある条件で、幹部の求人を行い、勢いを取り戻した話を紹介している。今ならKYな人を募集と解釈する人もいよう。「夢見る男、虻のように口うるさい男、異端者を求む」である。
(平成20年2月10日 中日新聞 「中日春秋」より)

【悪いものを悪いと言ったところで それが何の役にたつか】
(エッカーマン・作 『ゲーテとの会話』より)

まず、KYというコトバそのもの、そして文字について考えてみよう。
私は、最初の方はこの略語が生まれたことそのものには「抵抗」を通り越して何も感じなかった。会話の中で流行(?)するようになってからも、その内容・意味を知らず、実際に言われたことがあったときも「?…?!」としか感じなかった。
そもそも、日本語を、それもマイナスの波動を人に与えかねない言葉を「アルファベットで略すなんて」というのが率直な意見である。なんだってそんなことをするのか、と。
またこの2文字、KとYの間に「中点=・」がはいるか入らないかの差だが、どこか「イニシャル」―名前をローマ字表記にしたときの頭文字―に似ていなくもないと感じる。役所広司(Kouji Yakusyo)さん、柳原可奈子(Kanako Yanagihara)さんなど、有名人を例にあげさせてもらったが、頭文字が「K・Y」という人が怖い。小中学生などにおいて、相手の心に対するレベルの低い連中においてはそれだけで、「空気読めないヤツ」だといじめたりしないか、と。しかも使い方は本人に直接言う場合よりも、本人がいない第三者同士の会話で「あいつKYだよね」というパターンが多い。噂や陰口をいうのが好きな人だからなのかもしれないけれど、冷静に考えてみると「それもどうかな―」と思う。
「空気嫁」の漢字の当て方にしても、何も知らない人が普通に読んだら、「空気の嫁?なんだそりゃあ?!私は人間の嫁さんが欲しいってば!」となるだろうが、「空気読め」をその漢字にわざわざ当てなおすというコトは、何かしらのマイナス波動を当人さらには不特定多数の人間に与えかねないだろうと思ってやったことなのだろう?と。

同じようなモノを見たことがある。
「電車男」のドラマでクローズアップされるようにもなった、「2ちゃんねる」という掲示板。インターネットに多く触れている方はご存知の方も多いだろう。2ちゃんねるそのものは、興味本位で覗いてみたことがあるだけだが、まあすごい。「インターネット上の落書き帳」という言葉がぴったりだ。
中でも強烈なのは「氏ね」「師ね」である。率直に「死ね」という意味を成すのだが、回答に「氏ね」と書かれた人の中では、「死ね」と確実に受け止めてしまったらしく、相当にショックを受けたという例もある。「死」という漢字がNGだからといって、他の漢字を当てるという手段を選んでまでもそう言いたいのか?!と首を傾げてしまう。「お前師ねと『書かれた』」時、「シ」にアクセントを置いて読んで、「師=師匠、マエストロってコト?!すんげー嬉しいじゃん!」といい意味での勘違い(ある種の天然ボケ?)、で済むヒトならいいけれど・・・。
「2ちゃんねる」に限ったことではないのかもしれないが、顔も見えないネット上ではただの八つ当たりや場当たり的に人を傷つける言葉を書く人間が本当に多い。ネット暦の長い私でも、「慣れ」という言葉で片付けてしまっているが、そういうのが「当たり前」であることを前提としてネットを利用し、その中で危険な言葉を書き連ねることそのものが、不安に思うのだ。
「会話」ということに限定してみると、会話そのものは「キャッチボールのような感じでありたい」というのが私の考えだ。上手に受けたり、「うんうん」と相槌をうったり、時には反対意見を述べたり・・・その「流れ」だ。だから良識ある人は、その流れに別の路線から入ってきて合流する・・・言ってみれば「離れるような質問をする」ときには「つかぬことを伺いますが」と前置きを置く。「つかぬこと」は「『後に付かない』こと」。だから『話の流れにつき従わないことではありますが、と断ること』をさす。だから、「KYと言われるかもしれないが」なんて言う必要はないのじゃあないか、と思う。


「空気」は、「流れ」があるだけでなく、辺りの気分・周りの雰囲気のコト―いわゆる「アトモスフィア(atmosphere)」もあると解釈できる。
空気が読めないって、どこまでのコトを言うのだろう。
たとえば、オーケストラの演奏中、ちゃんとみんなが集中して指揮者の合図を待っている瞬間に、いきなり勝手に「キャン」とかいう音を出したり、集中力を乱すような行為をしたり、とか・・・
真摯に真面目な話をしているのに、周りでふざけてみたりするヤツとか・・・
例を挙げるなら様々あるが、その集団に単になじめないコトだけを取り上げて「あいつ空気読めてない」って言う人が昨今多いような気がするナ、と思うのは私だけだろうか。先の新聞のコラム欄にもあるように、「恐ろしい呪文」だ。
お付き合いの期間の長さとか心を通わせた長さ・深さ、それぞれ違いはあると思うが、人の心やその場の雰囲気というのは千差万別、表面上においてはそれこそクルクル変わるものだと思う。「KYだよね」って言われた人・「『KY扱い』された人」も、本当の心の奥底では必死で空気を読もうとしていたのかもしれないし、ただ分別がなく、鈍感なだけかもしれないし―それはやっぱりわからない、伝わりにくい。だから軽々しく、「空気読めない」と、ましてや「KY」というヘンなコトバで片付けてイイのかな、と私は思う。


【社交の秘訣は、真実を語らないということではない。真実を語ることによってさえも相手を怒らせないようにすることの技術である】
(萩原朔太郎・作 『港にて』より)

【いい人間だと思われている間はダメなんだ】
(元F1レーサー、ARTA社長・鈴木亜久里)

【人間、馬鹿はかまいません。 だが、義理を知らないのはいけません】
(久保田万太郎・作 『末枯』より)


KYについての新聞のコラム欄に載っていた、「KYな人、求む」という内容。これもある意味頷ける部分がある。企業でも「雁首揃えてイエスマンだけ」ではダメだし、「やることなすこと自分勝手な社員ばかり」でも困る。ちょうどいいところがあるのかもしれない。
㈱ミサワホームの創設者、三澤千代治氏の著書にこんなことが紹介されていると聞いた。
「採用のときに、ワザと会社のカラーにはあわない数名の人間を採用することにしている。それはとある漁師から聞いたエピソードからだという。そのエピソードとは『沖でカツオやブリ等の魚を獲ると、漁師たちはそれぞれの魚が苦手とする魚を生簀の中に数匹投げ込む』というもの。『そんなことをしたらせっかくの魚が食い荒らされてしまうのではないか』と思うかもしれないが、実はそうではない。同じ種類の魚だけだと、魚は緊張感を失い、港に着くまでに少しぐんにゃりとなってしまうらしい。ところが、自分に敵意がある魚がいると、いつ食われてしまうかわからない、という緊張感が出るためか、捉えたままの元気よさを保つからだそうだ」と。

まずは、個人レベルにおいてはマナーやエチケットとか、そーゆうことは基本の基本。そこから目を向けて広げていくのは、例え集団の中でひと暴れしたとしても、その後をうまく切り抜ける(ずる賢くなるというわけではなく)社交上手になる相応のテクニックを身に着けるのがいいのでは?思う。そして万が一失敗したら、その部分だけでなく、普段自分が生きているテリトリー全てにおいて当てはめてみて「これからはこうしたほうがいいかな」「あの場所ではあれでよかったんだよ」などと学んでゆく、のがいいのかな・・・と思う。
なかなか簡単にはいかないけれど―
そして、理想のカタチは、その集団やその場で、「あ、あの人大丈夫カナ、ついて来られているのかな」と感じることが出来る、心配してあげることが出来る心を持てる余裕こそが大事なんだと思う。
要は、心の器の問題だろう、と。


【一番大事なコトは教えてくれないって
それはもちろんクルマのコトに関してだったけど
僕はそのコトをずっと考えていたんです
大事なコトは教えてくれない 教えられない
いちばん最後の大事なコトは 見えにくいし わかりにくい
わかろうとするその気がなければ 気づくコトさえむつかしい(中略)
今何をしていいのか 何をしちゃいけないのか
教えられないその一番大事なコトを自分で判断していく 自分でわかっていく 
あまりにもあたり前のコト】
(「湾岸ミッドナイト」 Vol.28 p123~125より)

Concertino(コンチェルティーノ) 第1番 「せつぶんのおに」

2008-02-03 11:24:56 | SWEET SWEET SUITE
「Intermezzo」=インターメッツオ=間奏曲に続く、SWEET SWEET SUITEの新カテゴリー「Concertino」。
コンチェルト=協奏曲のコト。「協奏曲」=「主として一つまたは複数の独奏楽器(群)と管弦楽によって演奏される多楽章からなる楽曲」を指すのが一般的だが、単一楽章のコンチェルトも存在する。それを「小協奏曲」=コンチェルティーノという。
具体的には、自分が心に響いた童話、昔話、神話、伝説、そういったモノを主体に、自分がコメント・感想などを綴るといった型式をとる。
心に響いた「コトバ」ではなく、「おはなし」。だから、私の思いが大部分を占める通常の楽章と違って、「ソリスト」=「お話」が主体。
そーいった、心に響いたお話を、いつまでも大切に残すべく、そしてこのブログを愛読してくださっている方々にも伝えたくて書き加えることにした。

今回は「まんが日本昔ばなし」より、「せつぶんのおに」の話。書いている今日がちょうど節分なので、「Steram of Tears~心の手帳~」につづってもいいかと思ったが、やはりここがいいだろうと判断。
半分以上うろ覚えなので、語り口調は「まんが日本昔ばなし」をマネてみたが、ホンモノのテレビアニメの語り・内容との多少のズレはご容赦を。
でも、節分になると毎年思い出す昔話で、幼い頃持っていた「まんが日本昔ばなし」の本に載っていて挿絵も覚えているし、グループホームなどにお住まいの高齢者の方々に語りたくなるいいお話。



むかし、あるところに、ひとりのじいさまがすんでおった。
じいさまは、ばあさまとこどもたちをさきになくしてしまい、まいにちまいにち、さびしいながらもたったひとりで、はたけしごとにせいをだしておったそうな。

そして、節分の日がことしもやってきた。村のあちこちから「おにはーそと!ふくはーうち!」とこどもたちのげんきなこえがきこえてくる。でもじいさまはやはり一人ぼっち。
と、おしいれのなかをみてみると、こどもがつくってくれたおにのお面と、豆まきにつかった木のます(枡)がでてきた。
じいさまはなつかしくなってそれをじっとみつめた。
「むすこがおったころの節分はたのしかったなぁ、おらぁもう福の神にみはなされてしもうとるんじゃ」
じいさまはそのうち目になみだがうかび、「おにはそと ふくはうち」といおうとしたんじゃが、かなしさのあまり「おにはーうち!ふくはーそと!」といって豆をまいたそうな。

すると・・・

「おばんでーす、おばんでーす」
いえのそとからこえがして、とをたたくおとがした。じいさまがふしぎにおもってとをあけてみると・・・
「う、うゎああ、お、おにだ~~!!」
そこにいたのはおに。しかもいっぴきやにひきではない、たーくさんたっておった。
しかもみんなにこにこしとる。
「こ、こんなじかんに、こんなわしに、おにどんがなんのようじゃあ?」
とじいさまがたずねると、
「いやぁ、きょうは節分で、あっちでもこっちでも『おにはそと ふくはうち』ってきらわれてのう、だけどじいさまは『おにはうち ふくはそと』って呼んでくれたでのう」
「んだんだ、こんなうれしいことはねぇ」

じいさまはおにたちを家にまねきいれた。
たったひとりだったじいさまはたくさんのおににかこまれ、それからはのめやうたえのおおさわぎ。たのしく節分のよるをすごしたのだそうな。

そしてあさになると、おにたちは「またらいねんもくるから」といって山へかえっていったそうな。
じいさまは、ばあさまやこどもたちのはかにまいりにいって「おらぁ、もう少し長生きせねばな、らいねんもおにたちをおまねきするってやくそくをしたから」
それからじいさまは、さびしさをわすれてげんきにくらすようになったんだと。


長生きして・・・いいコト、嬉しいコト、自分にプラスになることも、何かしら見つかるかも、知れないよネ―

さて、「まんが日本昔ばなし」。
本当にあったとされる、日本の物語、語り継がれる昔話や童話からは本当に学ぶことが多い。いったんは放送が中止されたが、最近は再放送で「日本昔話から学ぶことが多い」とされ、人気が出てきている。
「おすすめBooks」のカテゴリーにもある、「ないたあかおに」など、「悪さしない鬼の話」のひとつにも数えられる心温まるお話。

実は、「まんが日本昔ばなし」のテーマ曲、『ぼうや~良い子だねんねしな・・・』を聞くと、幼い頃の私はなぜか泣き出したという。で、お話が始まると食い入るように見ていたという(笑)

そして、エンディングテーマ「にんげんっていいな」は、最近、NISSANのミニバンのCMで「ガガガDX」がカヴァーし、人気を呼んでいる。
本当に「にんげんっていいな」と思えるのは、こんなハートウォーミングなお話にふっと触れたとき、心が温かくなるときではないだろうか。

24th Movement 「自己嫌悪、自己を見つめるというコト、そして自己愛」

2008-01-10 22:49:38 | SWEET SWEET SUITE
自己嫌悪=自分で自分がいやになること

【自己嫌悪がないといふ事は其人が自己を熱愛することの無い証拠である】
(志賀直哉 『青臭帳』より)
自分を真剣に愛すれば、自分のことを知ろうとして自分の欠点もよくわかるから自己嫌悪にも陥るが、自分と対峙することがないと、嫌悪することも無い、という。
本当にそうだろうか・・・?

【どんなに幸運な人間でも 一度は死にたい程悲しくて辛いことがある】
(井上靖 『月光』より)
「誰でも時々は気分が落ち込むものだよ」「自分だけじゃない、世の中にはあなたよりもっと困っている人がいるのだから元気を出して乗り越えよう!」「と、単純に思えない、人にも軽々しく言えないのが現代社会の難しいところだ。
メールなど、言葉なき会話が氾濫している現代においては特にそう。「『言葉』に対して重きを置かない人間が多くなってきているように見受けられる、かも」と、私より年齢を重ねている人々が口を揃えて言う。それはある意味当たっているのかもしれない。
愛情を求めている一方で相手から拒絶されはしないか心配だという思いが強い人や、感情的な言葉に弱い人、びびってしまう人もいる。私も含め、その様な人間は相手の言葉を大方ネガティブに受け止めてしまい、頑張りたくても頑張れないのだ。
そんな中で、自己を愛することなどできるだろうか―?!

そんな中、自分を愛するということについていろいろ考えてみた。
私は自分がとにかく大嫌いだ。愛してなどいない。でも、真剣に愛してもいないのに自己嫌悪だらけの人間だ。
だから上記の志賀直哉の言葉には疑問を感じたのだ。
他人を愛するのは美徳だが、自分を愛するのは「変なヤツ」「ナルシスト」「罪(に近いレベル)」になる、とすら思う。
自分に対する愛は「利己主義」(自分の利益や幸福ばかり考えて他人のことは考えない立場のこと。いわゆるエゴイズム)と同じコトなのではないか?と。
しかし、エーリッヒ・フロム著・『愛するということ』にはそれをうまく論じている箇所がある。

【誰かを愛することとは、愛する能力を集中し、実現することである。愛とは本質的に人間的な特質が具体化されたものとしての愛する人を、根本において肯定することである。一人の人間を愛するということは人間そのものを愛することでもある。(中略)人間そのものを愛するというのは特定の個人を愛することの後からくる抽象的なものだと、しばしば考えられているがそうではない。確かに現実には、特定の個人を愛するときに初めて人間そのものを愛することになるが、人間そのものを愛することはあくまで特定の人間を愛することの前提なのである。
以上のようなことから、「私自身」も他人と同じく愛の対象になりうるということになる。自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気遣い・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている】
その上で、利己主義(者)は「他人に対する純粋な関心を一切排除しており、なんでも自分のものにしたがって、与えることに喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。他人の欲求に対する関心も、他者の尊厳や個性に対する尊敬の念も持たない」と捉え、「利己主義と自己愛はまったく正反対だ」という解釈をしているのである。

たとえば、子供をかまいすぎる母親がいるとする。意識の上では子供を愛していると思い込んでいるが、実は関心の対象に対して深く抑圧された憎悪を抱いている。その母親が子供をかまいすぎるのは、子供を愛しすぎているからではなく、子供をぜんぜん愛することができず、それを償おうとしているのだ、という。
これを神経症的な「非利己主義」といい、彼らはこの症候に直接苦しんでいるのではなく、それと関連した他の症候(例えば、抑うつ、疲労、労働意欲の欠如、恋愛関係の失敗)に悩まされている、という。
そしてここからがすごい。非利己主義者は「自分のためには何も欲しがらない」「他人のためだけに生きる」「自分自身を重要視していない」。それを誇りに思う人も多いという。しかし、それにもかかわらず幸福にはなれず、ごく親しい人との関係にすら満足できないので当惑してしまう。そういう人を分析してみると、愛する能力や何かを楽しむ能力が麻痺しており、人生に対する憎悪に満ちている。見かけの利己主義のすぐ後ろには、かすかな自己中心主義が隠れている、と解釈しているのだ。


【ちゃんと今の自分を認めろって 今の自分をちゃんと知ってそれから高みを見ろって
今の自分を受け入れられないからお前はいつも落ち込むんだと
今の低い自分を受け入れるのは弱いことか?いや、逆だろうって(中略)
人を認める 自分を認める 今の事実を受け入れる
で、否定するならそこから
認めろよ その上で否定しろ  話はそこからだろう そこから動くだろうと】
(コミック「湾岸ミッドナイト」VOL.32 p28~29)
今や「湾岸ミッドナイト」の重要人物に定着している、エンジンセッティングのスペシャリスト・富永公は、「エンジンを組んでも一流だが、本人曰く、『超一流ではない』上に、『凝り性すぎる』ため、経営が危うくなってきた頃から、CPUをはじめとするエンジンチューニングの仕事をバリバリこなすようになっていった」という。彼のエンジンチューナーとしての才能を認めながら、なぜCPUにこだわり続けてきたかを、北見淳に問われ、富永が返答するシーンで語られる言葉である。これは、富永がストーリー時点での年齢より若い頃、北見淳に言われた言葉である。

自分のありのままを受け入れ、自分を好きになれると、他者にも優しくなる。
多くの人は「自己意識の反省」をすることをあまりしようとせず、雑然と日々を過ごしているが故に、自分という人間を案外知らないものだ。人と張り合うよりは自分の向上心が大切なのだ、といえる。
「愛する」とはいかないまでも、「受け入れる」「認める」「肯定する」ことから始めてみる―
そうすることから「生きる」意味が生まれる―
自分の生の尊さ、それに付随するものを「徐々に『愛していく』」に変える、それを自覚することが大事なのだ。
上記、ならびに以下の名言はまさにその例であろう。


【ひとが
 ひとでなくなるときは
 自分を愛することを
 やめるときだ】
(詩人・吉野弘 『奈々子に』より)

【汝を高むる者はただ汝自身の中にあり】
(阿部次郎 『三太郎の日記』より)

23th Movement 「感じて動く」

2007-12-30 11:41:54 | SWEET SWEET SUITE
【感動とは
感じて動くと
書くんだなぁ】
(相田みつを)


感動する―

これに勝る胸のときめき、心が揺り動かされるというキモチ、捉え方によっては「幸せ」と呼べることが、人間として生きているうちのどこに・どれくらいあるだろうか。

最近は両親の影響と、夜自宅にいるコトが多いこともあって、テレビでスポーツの競技模様を観戦することが多い。
スポーツだけに限ったことではないが、モノゴトは結果だけじゃない。そこへ向けての過程(プロセス)、競技直前へのテンション(集中力)の高め方、競技中ひた向きに努力する姿勢がある。
だから感動する。
だから教えられる。
その「ドラマ」に気づくか気づかないか、だ。

プロフェッショナルの競技だけでなく、夏の高校野球、ウォーターボーイズ選手権、箱根の駅伝、果ては小学生の30人31脚競争まで。

「人間」「ヒト」の行う、なしとげるコトだからこそ、直接受ける「小さな優しさ・親切」とは違う感動がある。
そーゆうことも含めて、・・・たとえばテレビでフィギュアスケートの演技を観る。
結果はネットなどで見れば解る。でも私は「演技が観たい」のだ。演技そのものや、あのリンクに降り立つまでの選手の努力、精神力の保ち方、全てに教えられる。

【たとえばの話 もしオレが南極に行ったとする
その時 オレの心に響くのは 南極の自然そのものではなく 南極に造られた施設だと思う
(「こんな場所にこんなモノ・・・」とレイナ)
そう 人の手によって造られたモノに感じるんだ
機械でも服でも料理でもいい 全ての中でクルマが一番なだけだ
いい形やスゴい性能に人生を教えられるわけじゃない それを考え 造った人間に教えられるんだ
複雑なメカはどうやって整備するんだとハラが立つし ブランド系外車の高価な値付けのあいまいさにも教えられる
どうしてそうなった?
どうしてそうした?
造る奴 売る奴 直す奴 走らす奴 車に関わる人間すべてに教えられる
確かに自然はいいと思うよ 海に沈む夕陽は理屈抜きでキレイと思う
でもオレは 人の手が入ったモノに心が動く
車は人が考え 造る だから教えられる】
(湾岸ミッドナイト 山本和彦の台詞)

基地があれば南極に行ったとしても生きて行ける でもその基地は自動的に造られたワケじゃない
南極を知りたい、というヒトの想いが篭っているんだ、南極を目指した全てのヒトの・・・。
しかしながら 『人も自然の一部なんだ』というコトを忘れちゃいけない、私はそう解釈する。


フィギュアスケートの話に戻るが、演奏家の端くれである私は、選手がセレクトした、演技のための曲にも感動する。

彼等彼女等は、曲のリズムにすべてピタリと合わせて跳ぶワケではない。
ただ、その曲に合わせて「舞う」のだ。
端から見れば「競い合う」「スポーツ」なのだけど、選手が持つ力に加え、「曲が持つ力」にも心が感じ、動く。

そういった、視点を変えるコトで見えてくる様々なモノに触れるコトで、自分の生きざまや趣味―(私なら演奏活動など)、相手に伝えたいメッセージの原動力、となる感受性を磨く―


そのチャンスは、自分で探すだけでは限界がある。
ヒトから何気なく教えて貰うことから広がる、様々な視点―

感受性を敏感にするには、「感じて動く」
それが大事だと、感じたときがある。
ただしまっておくだけじゃあナイ 自分の体も動かして初めて気がつくんだ―

たとえば、カラオケの歌はは上手なのに、楽器演奏になると「歌い方・歌いっぷり、表情豊かさ」に関してはまるでダメ、という人間が、いっぱいいるような気がする―

楽器は立派
それを扱う技術もいい感じ
けど、何か違う―

「『楽器で』歌えていない」のだ。

「感じて動く」
それを何かしらの糧にして、自分の本腰入れて取り組んでいるモノや、生き方そのものに活かす―
今年の12月15日(土)に本番を共にした、出身大学吹奏楽部定期演奏会に出演したメンバーには、私より年上年下関係なく、そう言いたいプレイヤーが何人もいたのが事実。

文字にしてしまえば簡単なように聞こえてしまうこと。そしてそういう私は、「人のこといえねーだろ」という突っ込みがくるであろうことは百も千も承知。

そう、だからこそ負けられない。
たくさん感じて考えたい。
これまで以上に。

追い付けばさらに突き放す―

感動の追求、感受性の研磨に終わりはない。
たとえて言うなら
まるで、大切に木々を育てるように―


【人は感情を引きずりやすい。
いい感情だけを引きずって生きよう】
(斉藤茂太)

宮沢賢治の作品に『ツェねずみ』という作品がある。古い家の真っ暗な天井裏に住み、〈償う(まどう)てください〉を口癖にするねずみの話だ。いたちから金平糖がこぼれている場所を教えてもらい、お礼も言わずに一目散に走っていく。ところが蟻の兵隊が先に到着していて追い返される▼ねずみは、〈私のような弱いものをだますなんて、償うてください〉といたちを責め立てるが、いたちはもちろん怒る。〈ひとの親切をさかさまにうらむとは〉と。こんなことの連続で、最後はねずみ捕りにかかってしまう▼東京都世田谷区で一家四人が殺害されて今日で丸九年になる。犯人は捕まっていない。隣家に住んでいた被害者の姉、入江杏さん(ペンネーム)が自著『この悲しみの意味を知ることができるなら』で、ツェねずみの話を取り上げている▼事件後、何度も「償ってください」と叫びたくなった。奪われたのは愛する妹一家であり、心にぽっかりと大きな穴が開いた。だが、〈誰に償ってもらえるはずもないのだから〉と、ツェねずみにはならないと誓ったという▼悲しみが消えることはおそらくない。毎朝カーテンを開けるときが、一日のうちで一番寂しい。朝の光が、「もう妹たちがいないんだ」と告げてくるからだ。それでも喪失を学びとし、〈敢えて人生を肯定的に捉えていきたい〉のである▼どうしたらツェねずみにならなくてすむのだろう。【〈ささやかなことに目を見張って、ただごとに感動し、一瞬一瞬をいとおしんでいきたい〉】。入江さんの言葉が心に染みる。
(平成19年12月30日 北陸中日新聞)

【たくさん考えろ
いろんなコトを そして 自分のことを
空はなぜ青いか
なぜあのコが好きか
なんでもいい・・
人生は楽しい 考えるコトがたくさんある】
(湾岸ミッドナイトより ユージの父親の言葉)

22th Movement 「自分という名の車」

2007-12-18 00:31:10 | SWEET SWEET SUITE
【アノネ
どんな車よりもね
構造が複雑で
運転が難しい車はね
じぶんという名の
この車なんだな
そして
一生の運転手は
じぶん】
(相田みつを作:「車」)


私は自分の心身を「自動車」に例えている。
ある時は丁寧に、慎重に、またある時には軽快に、時に激しく走ってきた。


某公共施設に勤務する女性、Kさんは、今の職場に就職する前に会った際、こう言ってくれた。

【紙でできた箱があるとして、それをクシャッと潰してみる、そしてそれを広げて同じ箱に組み立てなおしたとしても元の状態には戻らない、でも、そのゆがみ加減っていうのは、車だったらいろんなところに影響するかもしれないけど、見た目は綺麗に直して、目に見えない部分の傷は、自分だけの傷なんだから、無理に綺麗に直そうとする必要はないのよ、それがあなただから。オンリーワンなんだから】
「あなたは、感受性が豊か過ぎて、そして生真面目なものだから、ただただ只管に走り続けてきたのよ。これからは薄皮をはがすような感じで、少しずつでいいのヨ」

Kさんがそう言った時、ひらめくものがあった。

私は、自分の心身をただ走らせる「ドライバー」だけしかしていなかった。
「車の管理も自分で行う『マイカーのドライバー』」じゃなく、「ほぼ全開、レーサーのような走らせ方」しかしていなかったように思う。
また、メンテナンスの部分では、自分の所有するマイカーには注意を向けてそこそこなされていたとしても、「自分という名の車」の方は、「していたようで、出来ていなかった」
もちろん、自分だけで出来ないメンテナンスは数え切れないほどあるし、それを他人にお願いすることはあっても、十分仕切れていなかった・・・

そう、最後は自分。


エンジンブロー・・・という言葉を聞いた事があるだろうか。
あるいは、ブローそのものを実車で体感したことがある方はおいでるだろうか。
エンジン内部を構成する部品が折れるなどして破片がエンジン内を動き回るなどして壊れる、排気ガスを送り込んでエンジンにモアパワーを与えるターボのタービンがおかしくなって上手く作動していない状態でエンジンを酷使し続ける、などして、エンジンそのものが使えなくなるほどダメになってしまう、という事態だ。
コミック「湾岸ミッドナイト」のバトルシーンでは時々見られるし、アニメ・頭文字Dで、AE86スプリンタートレノを操る主人公藤原拓海が、ランサーエヴォリューションⅢを駆る須藤京一と赤城山でバトルした際、エンジンそのものがオイルを吹いてブローしてしまった場面がそれにあたる。
大体は、オーバーホール(分解し、点検、修理、調整などを行うこと)で済まされるのだが、使えるパーツがほとんど無い場合、あるいは、補記類以外のエンジンの基本構成部品そのものがダメになっている場合は、新しい部品を組み込んでも治らないということが多い。そうなると、全く別物の新しいエンジンを持ってきて載せかえるというコトになる。これを専門用語で「エンジンスワップ」という(その車に搭載されていたものと同じモノを載せる場合もあれば、他メーカーのものも含め全く別物のエンジンを、エンジンを載せるためのマウントや配管等の部品をその車のためにワンオフで作って載せる場合も指す)。

肉体的に、だけでなく、精神面も含め「壊れてしまって走れなくなった人間」は、言ってしまえば「エンジンブロー」だ。

だから、今の自分や「とことん堕ちるところまで堕ちてしまった後、何かのきっかけを掴み再び走り始めようとする人間」は、生産中止になってしまって長い間放っておいた車種の、あちこちヨレてしまったドンガラボディに新しいエンジンをスワップしたばかりのようなものだ、と。
今、この楽章を綴っている自分は、(ことチューンドカーに関して言えば、車体を仕上げてから車検を通すと色々面倒くさいこともあるので)とりあえず車検は通して、さぁこれからどうしようか、という状況なのだ。

「いきなりの全開はダメよ」とKさんは言った。

とびっきりのエンジン・自分にぴったりのエンジン―上から下までキッチリ回る、ターボもつけるコトだって可能、イイ感じのベースエンジン―が乗っかった・・・。でも、走れば、ガソリンは減り、オイルや各種フィルターは汚れ、ボディには飛び石が当たったり、汚れたり、タイヤは磨り減り、パワーがあるのにボディがヨレたまま走り出せばあちこち補強が必要になってくる・・・、そういう意味でのメンテナンスからチューニングまで、エンジン以外の部分も大切に、そして丹念に仕上げていくというコトが必要となってくる。

出来るだけ重量を増さずに補強をドコにしていけばいいのか。どこにスポット増しを施せばいいのか。
サスペンションの伸び縮み、バネの硬さはどうしようか。
どこのパーツを軽くして運動性能を上げてやればいいのか。
燃料調節をはじめ、ECU(Engine Control Unit=車のコンピューター制御が詰まっている部分のこと)の調整はどうすればいいか。
そして、ナラシ→ペースアップまでの段階はどうすればいいのか。
その一つ一つの要素が、自分という車のドライバーとして、もっともっとメカニック面からも関わっていかなければいけないということに。



そして気がついた。

「自分という名のこの車」=人間というモノはそーゆう世界で生きている車なんだ、と。
常々、自分という車からちゃんと降りて、まわりをぐるっと見渡して、メカニックとして・あるいはチューナーとしての立場で自分という車のメンテナンス・チューニングをしっかり行い、調子が上がってきたら、よりいい物へを仕上げていく。
それもゆっくり、ゆっくりとだ。

そしてその車を駆って走るのは、きちんと路面が整備されていて思う存分走らせることができながら、「『目的地へと続いていない』、サーキット」だけじゃあない
複雑な地形を持ち、さまざまなカーブがあり、対向車をはじめ様々な要素も絡まる「公道」がメインだ。
簡単に言えば、サーキットは「趣味や仲間との交流といった『限られた世界』」、公道は言わば「職場」や「社会全体」だ。
それぞれの走る道に、それぞれの「ヤクソクゴト」はあるけれど、こと人間の中での社会生活は複雑で、何かとトラブルが生じやすい。また、傷も少なからずついてしまう。


【走れば傷はつく それがイヤならずっとガレージにしまっておくしかない・・
速く走れば走るほど傷はつくし ダメージはさらに深く刻まれてゆく
なのに速く走らせなければ生まれてきた意味がない そうゆう世界で生きている車なんだ・・】
(コミック『湾岸ミッドナイト』 第8巻 高木優一のセリフ)
悪魔のZが、マサキのFD3SRX-7&ブラックバードとのバトル後ボディを破損させてしまった際に、ボディ製作に携わった高木のショップ内に持ち込まれたZを見つめるアキオをみて高木は「心が痛むか?」と尋ねた後、こう言うのだ。

「公道」という社会を自分という名の車が走る際の、「走りのダメージ」、それは、「宿命付けられた逃れようのない代償」なのだ。ましてや、尋常ではない速度域で走っている(公道300km/h代)悪魔のZは他の車よりもダメージは深くなってしまう。でもそれは仕方のないことなのだ、宿命なのだ、ということを、ドライバーの朝倉アキオは胸深くわかっているのだ。

私が、どうなるか先の見えない中、また走り出した社会生活。
引きこもりやニートになってしまわずにこうしていることができる。

私も、少しずつ向き合い、わかりたい―
自分という名のこの車をちゃんと走らせるコトの難しさと大切さを。

20th Movement 「天使と悪魔のブレー」 ②

2007-08-17 10:49:42 | SWEET SWEET SUITE
Bourree2
【今は素直に彼らをイイなと思っている・・
でもこの気持ちは必ず変わるんだ
羨望は嫉妬に変わり そして嫌悪になる
オレはある そーゆうの 嫌うコトでなかったものにしてしまう
本当は一番望む場所なのに 拒否するコトでその気持ちを相殺するんだ】
(湾岸ミッドナイトより 萩島のセリフ)

羨望:うらやましく思うこと
嫉妬:愛情や幸せなどが、他に向くのを妬み恨む感情。やきもち。
嫌悪:きらい、憎むこと

ブレー①に記した「ルシファーの嫉妬」を改めて引用しよう。
「神は森羅万象すべての物を創造したとされるが、その中には人間もあった。人間は天使の姿を模して作られたとされていて、神は人間に天使以上の愛情を注いだ。当然の如く、それに反発したのは神から最も信頼を得ているとされる大天使ルシファーだった。天使は炎から生み出され人間は土塊から創造される。人間は天使ほどの権威も無ければ力も無いのだ。ルシファーは明らかに自分達より下位な存在であるのに神から寵愛を受けている人間に怒りを覚えた。そして神により強い愛情を抱いていた彼はその怒りを嫉妬心に変えた。また、彼の嫉妬心は神への怒りにも変わった。そのため、同志である他の天使と共に神に挑んだが、結局は敗北し堕天されてしまう。その後、地上へ堕ちたルシファーは寵愛の対象となっていた人間に挑戦するようになった」とされている。
私の奥底にも似たような心理がときどきある。
「自分はまだいいか」とプラスに捉えるのではなく、「自分よりも上の人の方がいいに決まっている」ととる。常に自分を下において、風下にたっていよう、そう考えてしまう。


恋を例に挙げてみよう。密かに想いを寄せている人が別な人と仲よさそうに話をしているとする、気になったりもするだろうし、それだけで胸が切なくなったりも・・そういった「嫉妬の感情」が生まれる。そんな瞬間は多くの人にあることだろう。
でもどうしたらいいかわからない・・・
また、その人が相手のことを好きだということがもうわかってしまっていれば、あるいは、結婚を前提にお付き合いをしているのであれば、もうはっきりとわかる。「失恋」という文字が浮かんでしまうのだ。
どうがんばったって変わらない、あきらめるしかない―と。

【たとえば 人は・・・  より高く より遠く より速く 
つまり もっともっとという欲求がある
それは動物にはない 人間だけが持つ 何かを追い求める気持ち・・・つまり欲望だ
一歩間違えれば 全て失ってしまうのに・・・(以下略)】
(湾岸ミッドナイトより)

「失う」というコト・・・失恋、失業、失望、そう、一歩間違えれば失ってしまうのだ。
特に、失恋に関しては恋そのものに含まれる、淡く、ロマンティックなイメージも少しはあるかもしれないが、当人の中にあるのは嫉妬から来る虚しさ、悔しさ、怒り、絶望・・・そういったマイナスの波動が押し寄せてくる。
とある楽章にも書いたが、「世の中のあらゆることは相対的」なのだ。
得るものと失うもの、「表と裏がある」のだ。

そして、追い求めていたもの、望んでいたものを失う、無くす、という局面になった時に、人は考える。
―自分はいったいどうしたいのか、どうすればいいのか―と
―私の存在意義って何―?と
その気持ち・考えを上手くカヴァーしきっているヒトや、どことなく醸し出されるすばらしい雰囲気を持ったヒトは「存在に対する『適度な自信』」が備わっているからだという。
しかし、あまりのつらさを背負ったとき、ヒトという動物はその持っている思考能力を失う、ほとんど全てなくしてしまうことだってある。そしてその不安を一度心に覚えてしまうと「自分はこの世に居ていいのだろうか」という域にまで達してしまう。
そんな理由も重なって、今私は、音楽を奏でることを忘れてしまっている。
それまでは、決められたルールや約束事なんてなくても、互いがそれなりに上手く噛み合い、仲間となり、高め合い、そして同じ音楽を奏でる大切な仲間、だった。しかし私は、とあることがきっかけで、その集団を離れてしまった。退職というカタチで離れてしまった今までの職場も、だ。
本当はもっともっと、みんなに近づいて、愛し、愛されたいのにそれを忘れようとするがために、別な方向に「努力のベクトル」を向ける。何も知らない相手は「そうすることがお前の望みなのか―?」と聴いてくるかもしれないが、私は一概に「No」と言えない。
心を偽ることが実は本当のコトの様に思えてくるようになる。
何かに夢中になっているときなどはその不安はまったく出てこない。不安から抜け出すには自分が夢中になれる何かを探せばいいのだが、それには何かとお金がかかるものなのだ。悲しいかな、人間は車と同じように、生きれば生きるだけ、何かをすればするだけお金がかかる動物であるから。

「羨望→嫉妬→嫌悪→拒否」の流れに乗るのは、単純に自分を大事にするがためにすることではなく、ましてやヒトを愛することを完全に忘れるためにする行為ではない。
まずは・・・そうならないように、つらくても自分の気持ちで「昇華」させなくてはならないとは思う。

しかし、だ。
ある一方でこういう捕らえ方も出来る。
拒否することで相殺するのは『その人なりの防御方法なのだ』いう見方だ。
そうするコトで心のバランスをとる―
登校拒否やストライキがいい例だ。問題が複雑すぎて、簡単に解決できない場合はつらさに耐えているがために起こる心身の疲れを癒し、その間に真相究明や対応を考える―
これだけ人間関係が複雑化してしまい、稚拙な対応も目立つ世の中だ。
もちろん、相手に心配を掛けることにはなってしまうが、迷惑は掛けない。
そして、それはそれで「大切なこと」なのだ。
単純にルシファーが堕天した有様だけを見る限りでは「あ~ぁ、ナニやってるんだか」という目で見るヒトが多いかもしれないけれど、その「心の中身まで推測してみると、単純にそういえるの?そう思えるの?」と逆に問いかけてみたい。
ルシファーは神に挑んでいるそのとき、どう思っていたんだろう―?と。

【基本的に 人は人 自分は自分、が大事なんだ
結果としてはぐれるときがあっても まぁいいじゃないか
人の中で較べて違う自分でいたい じゃあなく ただ素直に私でいたい それが大事だ
「人は人 自分は自分」 自分の尺度で人を判断するな、と】
【例えば 目の前の人を正し、押しのける
大事なことは自分を通すことなのか・・
大事なモノはいつでも その向こう側にあるんじゃないのか―】
(湾岸ミッドナイトより 山本和彦とユージの父の言葉)

その行為の中で「自分が何を学ぶべきなのか」ということを考えるということが必要なのだ。
上記の萩島の想いを単純に「逃げ」「弱いヤツ、情けないヤツ」などのマイナスイメージでとった人は、私のとった別な視点で考えてみて欲しいと思う。
「大事なモノ」がなんなのかを探すために―その手でつかむために―