「人ってホラ、ただ生きてるだけじゃ辛いだろ 意味とゆーか、そーゆうの。
金持ちになりたいとか、女にモテたいとか、正直に生きたいとか
それぞれ 求めるモノ あるだろ、人って。
で、【オレは何かなって考えた時、わかって欲しいってコトかな・・と】
【チューニングという行為を介してオレという人間をわかってほしい―と】
金も欲しい、有名にもなりたい、だけどそれよりもわかって欲しいなんだ。
【それも ただ誰でもってワケじゃない。誰にわかって欲しいのか、それが大事だとこの年でやっと気づいたんだ】」
(「湾岸ミッドナイト」より 富永公のセリフ)
「仕事としてもうまくいなかなった。借金だらけで工場もツブれ 家族も逃げた・・・
でも そんなコトはどうでもいい オレは 本当にオレの作った車をわかってくれる奴がいればそれでいいんだ」
【愛してくれ オレの作った車を 愛してやってくれ その悪魔のZを
お前ならできる・・・走るために生まれてきた とびきりのヤツなんだ】
(「湾岸ミッドナイト」より 北見淳のセリフ)
【オレが20代でアメリカにいった時・・
オレは多くの人に 自分の技術を認めてほしいと思っていた
一人でも多く認めてもらう それが正しく 成功と思った
でも・・その考えにはムリがあるとすぐ気づいた
・・たとえば 広く理解を求めていくと やはり妥協が出る
でも「わかる奴がわかればイイ」 その考えもイヤだ
アレコレと考えて出た答え・・それが「誰にわかってほしいか」だったんだ
誰にわかってほしいのか
誰に認めてほしいのか
そう考えれば 自分の行動 進む方向は見えてくる】
(週刊ヤングマガジン 平成20年4月21日発売号 「湾岸ミッドナイト」より 吉井の台詞)
今回は、「SWEET SWEET SUITE」の楽章に初の補筆を行った。
かなり前の第7楽章―
一つ目の富永のセリフは、RGO代表大田和夫の娘、リカコが、チューニングの際、富永に仕事を通じた人生観を問うシーンで語られるもの。
二つ目の北見のセリフは、アキオの手によって走り出した悪魔のZを見て、自分の作ったZに選ばれた唯一の存在―「悪魔」に心を許され、愛された男―なのだと確信するシーンで語られるものである。
三つ目は今回の補筆版。首都高バトルという非合法なバトルの中で、「誰にわかって欲しいのか」を掴むために、荻島のFD3SRX-7を完成させた吉井が、彼に「走りきってみろ」という言葉の前に語られるものである。同作品の中で、これだけ似たようなニュアンスの言葉が、異なる人物によって語られる漫画も少ないのではないだろうか。
さて―
自分は幼い頃、たくさん友達がいる人、いろんな人に好かれている人をうらやましく思っていた。人から認められ、慕われることこそ最高だと思っていたのだ。認められる人数が少なければ少ないほど、自分は「程度の低い人間なのか」と思っていくようになっていった。
いつからか、私の他人に対する想いは「好かれたい」「理解してもらいたい」「気持ちを受け止めてほしい」というものになっていった。
小中高校と、友達が極端に少なく、人に好かれたことなどもない私は、とにかく「誰でもいいからわかってほしい」というサインを送り続けていたように思う。とりわけ、異性への想いは強かった。幼い頃からいじめられたり嫌がらせをされたりするのは男子よりも女子のほうが多かったから。
しかし、それは次第に、同級生や後輩から避けられ、私自身も彼らを避けていき、それよりも、心が広く、私の心を―痛みも悲しみも全部一緒に―受け入れてくれる、先生など大人(の心を持った人)を欲するようになっていった。いずれにせよ、「ただ、わかってほしい」「受け止めて」の一本槍だった。
若き頃の吉井と同じ考えだ。
こと大学生時代は「自己顕示欲のカタマリのようなヤツ」「変わり者」「ウザい」という評価だけで通ってきた。
先生をはじめ、周りの大人たちは、私のことを受け止めてくれた、ように思う。大人の心を持った、教養・包容力のある人達がそうだ。
それはもちろんうれしいし、自分が多大な影響を受けることになるすばらしい方たちばかりだ。
けど、それだけじゃだめなのかも・・・、そうじゃないのかも・・・ということに、私も少しずつ気がついてきた。
ただ誰でもってわけじゃない―
数々の出会いと別れ、その他もろもろの中で、私という人間をこれからもずっと見守っていてほしい、わかってほしいという人は、欲せずとも自分の近くに(身体的にも心理的にも)自然と居てくれるんだ、ということをまず感じたのである。それは、私が「わかって、お願い!」という言葉・気持ちを発せずとも、わかってくれる人はしっかりとわかってくれる―そういう人が何人かでも私のそばにいてくれる―と確信したからである。
また、その人たちの受け止め方、私という人間の「わかりかた」「わかろうとする姿勢」は、私が今までやってきたのとは明らかに違う。「この人がいれば私はそれでいい」そういう大きな安心感がある。
長所も悪癖も、みんなひっくるめて「わかってくれる」人―
「誰にわかって欲しいのか、それが大事だ」、という富永のセリフは、深く私の心に刻まれる言葉となっている。
わかってくれる存在の人は「自分が自分であるために必要な、本当に捜し求めている」モノ・ヒトであるのだと思う。そういうヒトに出会い、支えあって生きていくことこそ、私が求めているものだと思う。「誰にわかって欲しいのか」ということ、それはここにあったのだ。
その人に、「私のいろいろな行為を通じて私という人間をわかってほしい」と欲するならば、私も、わかってほしい相手のことを、言葉からではなく、生き様から相手のことを理解していかなくてはならないと思う。
自分の行動のベクトルをどこへ向けるかは、人の中で生きている以上、誰かしらの
相手が居てこそのモノ。広い理解は望まないし、「妥協」よりも先に、変わり者の私の意見・言動は受け入れられにくい、と思う。
「わかるヤツだけわかればいい」という、ほぼ受けの体制で居るよりも、「わかって欲しい人には自分の言葉で、自分の心の底から願う」、という自分から少しでも向かっていく姿勢が大切なのである。
【大切なことは言葉にできないから 自らの生き様でもって人に語ろう】
(コミック「SS」より)
金持ちになりたいとか、女にモテたいとか、正直に生きたいとか
それぞれ 求めるモノ あるだろ、人って。
で、【オレは何かなって考えた時、わかって欲しいってコトかな・・と】
【チューニングという行為を介してオレという人間をわかってほしい―と】
金も欲しい、有名にもなりたい、だけどそれよりもわかって欲しいなんだ。
【それも ただ誰でもってワケじゃない。誰にわかって欲しいのか、それが大事だとこの年でやっと気づいたんだ】」
(「湾岸ミッドナイト」より 富永公のセリフ)
「仕事としてもうまくいなかなった。借金だらけで工場もツブれ 家族も逃げた・・・
でも そんなコトはどうでもいい オレは 本当にオレの作った車をわかってくれる奴がいればそれでいいんだ」
【愛してくれ オレの作った車を 愛してやってくれ その悪魔のZを
お前ならできる・・・走るために生まれてきた とびきりのヤツなんだ】
(「湾岸ミッドナイト」より 北見淳のセリフ)
【オレが20代でアメリカにいった時・・
オレは多くの人に 自分の技術を認めてほしいと思っていた
一人でも多く認めてもらう それが正しく 成功と思った
でも・・その考えにはムリがあるとすぐ気づいた
・・たとえば 広く理解を求めていくと やはり妥協が出る
でも「わかる奴がわかればイイ」 その考えもイヤだ
アレコレと考えて出た答え・・それが「誰にわかってほしいか」だったんだ
誰にわかってほしいのか
誰に認めてほしいのか
そう考えれば 自分の行動 進む方向は見えてくる】
(週刊ヤングマガジン 平成20年4月21日発売号 「湾岸ミッドナイト」より 吉井の台詞)
今回は、「SWEET SWEET SUITE」の楽章に初の補筆を行った。
かなり前の第7楽章―
一つ目の富永のセリフは、RGO代表大田和夫の娘、リカコが、チューニングの際、富永に仕事を通じた人生観を問うシーンで語られるもの。
二つ目の北見のセリフは、アキオの手によって走り出した悪魔のZを見て、自分の作ったZに選ばれた唯一の存在―「悪魔」に心を許され、愛された男―なのだと確信するシーンで語られるものである。
三つ目は今回の補筆版。首都高バトルという非合法なバトルの中で、「誰にわかって欲しいのか」を掴むために、荻島のFD3SRX-7を完成させた吉井が、彼に「走りきってみろ」という言葉の前に語られるものである。同作品の中で、これだけ似たようなニュアンスの言葉が、異なる人物によって語られる漫画も少ないのではないだろうか。
さて―
自分は幼い頃、たくさん友達がいる人、いろんな人に好かれている人をうらやましく思っていた。人から認められ、慕われることこそ最高だと思っていたのだ。認められる人数が少なければ少ないほど、自分は「程度の低い人間なのか」と思っていくようになっていった。
いつからか、私の他人に対する想いは「好かれたい」「理解してもらいたい」「気持ちを受け止めてほしい」というものになっていった。
小中高校と、友達が極端に少なく、人に好かれたことなどもない私は、とにかく「誰でもいいからわかってほしい」というサインを送り続けていたように思う。とりわけ、異性への想いは強かった。幼い頃からいじめられたり嫌がらせをされたりするのは男子よりも女子のほうが多かったから。
しかし、それは次第に、同級生や後輩から避けられ、私自身も彼らを避けていき、それよりも、心が広く、私の心を―痛みも悲しみも全部一緒に―受け入れてくれる、先生など大人(の心を持った人)を欲するようになっていった。いずれにせよ、「ただ、わかってほしい」「受け止めて」の一本槍だった。
若き頃の吉井と同じ考えだ。
こと大学生時代は「自己顕示欲のカタマリのようなヤツ」「変わり者」「ウザい」という評価だけで通ってきた。
先生をはじめ、周りの大人たちは、私のことを受け止めてくれた、ように思う。大人の心を持った、教養・包容力のある人達がそうだ。
それはもちろんうれしいし、自分が多大な影響を受けることになるすばらしい方たちばかりだ。
けど、それだけじゃだめなのかも・・・、そうじゃないのかも・・・ということに、私も少しずつ気がついてきた。
ただ誰でもってわけじゃない―
数々の出会いと別れ、その他もろもろの中で、私という人間をこれからもずっと見守っていてほしい、わかってほしいという人は、欲せずとも自分の近くに(身体的にも心理的にも)自然と居てくれるんだ、ということをまず感じたのである。それは、私が「わかって、お願い!」という言葉・気持ちを発せずとも、わかってくれる人はしっかりとわかってくれる―そういう人が何人かでも私のそばにいてくれる―と確信したからである。
また、その人たちの受け止め方、私という人間の「わかりかた」「わかろうとする姿勢」は、私が今までやってきたのとは明らかに違う。「この人がいれば私はそれでいい」そういう大きな安心感がある。
長所も悪癖も、みんなひっくるめて「わかってくれる」人―
「誰にわかって欲しいのか、それが大事だ」、という富永のセリフは、深く私の心に刻まれる言葉となっている。
わかってくれる存在の人は「自分が自分であるために必要な、本当に捜し求めている」モノ・ヒトであるのだと思う。そういうヒトに出会い、支えあって生きていくことこそ、私が求めているものだと思う。「誰にわかって欲しいのか」ということ、それはここにあったのだ。
その人に、「私のいろいろな行為を通じて私という人間をわかってほしい」と欲するならば、私も、わかってほしい相手のことを、言葉からではなく、生き様から相手のことを理解していかなくてはならないと思う。
自分の行動のベクトルをどこへ向けるかは、人の中で生きている以上、誰かしらの
相手が居てこそのモノ。広い理解は望まないし、「妥協」よりも先に、変わり者の私の意見・言動は受け入れられにくい、と思う。
「わかるヤツだけわかればいい」という、ほぼ受けの体制で居るよりも、「わかって欲しい人には自分の言葉で、自分の心の底から願う」、という自分から少しでも向かっていく姿勢が大切なのである。
【大切なことは言葉にできないから 自らの生き様でもって人に語ろう】
(コミック「SS」より)