9日・ おばさん二人(長女・次女)です。
今年の花見会には兄弟5人プラス付き添い人で賑やかなひとときを過ごしました。
私にとってはイトコ会にもあたります。
元気で長生きはとてもうれしい事です。
小中学校の入学式があり、ちょこっとの顔出しでした。
9日・ おばさん二人(長女・次女)です。
今年の花見会には兄弟5人プラス付き添い人で賑やかなひとときを過ごしました。
私にとってはイトコ会にもあたります。
元気で長生きはとてもうれしい事です。
小中学校の入学式があり、ちょこっとの顔出しでした。
チラシが入り母と二人で見に行った。渡りに舟だったので 即購入契約と進んだ。・・・・本当に月日のたつのは早い。けれど悲しみはなかなか消えない。もっと何々してあげればよかった ということが多いのかもしれない。「こんな仏壇入りたない・いややって言やーすやろうか?」「何にも文句は言やーへんて」「そうやね」老いた母との会話も悲しい。もう1周忌。・・・一年前 まだ誰も癌だと知らなかった どこら辺がどういう痛みなのか必死に訴えていたけど、医者で診てもらっているのだからと親身にならなかった私。何かわからない痛み苦しみに ひとりで耐えていたかと思うと 本当に切ない。ごめんねとしか言えない今。
愛知医大から 父の手術の追跡調査の手紙がきました。
父は亡くなっておりますから返事には死亡日を記入するのみです。が「 I 先生の手術は素晴らしかったと父(故人)は常々言っておりました。胆石の手術も先生に執刀してもらえたら、術後の苦しみはなかったと・・・・(このあとずっと腹痛が続いたので)何度も口にしておりました。7/27発見時には手遅れで、自宅療養しわずか10日間の入院でこの世を去りました。けれど I 先生には日頃から感謝の言葉ばかりでした。ありがとうございました。」と添えました。
12月議会が近づいています。9月議会の私の一般質問の日死んでしまった父。原稿がなかなか書けなくて・・・あんなに早く逝ってしまうなんて まだ信じられない時がある。
「お母さん、星がすっごく大きくてきれいやよ。」との娘の声に外に出てみる。半そでの私には空気が冷たすぎたが 見上げると澄み切った満天の星。手が届く程に近くにあるたくさんの星。オリオン座の三ツ星が東のそこにある。秋も深まって 紅葉ももうすぐ見頃になる。・・・それにしても肌寒くて早々に家に入ってしまった。
ひときわ大きく光る星がいくつもあり、金子みすずの詩が頭をよぎる。そうなんだ昼も夜も星はそこにあって 見守ってくれているのを改めて感じる。
心が尾を引いている。父の七七日で皆さんが集まってくださり法要も滞りなく終了しました。今日は旧暦の9月1日・・・この新月の闇の中に、はてしなく高く、父の魂が遠ざかると思うと、また涙があふれてくる。
何といっても発見が遅すぎたのだ・・・もう手遅れだったんだ。あとせめて一月早かったらNK細胞療法は効いたに違いない。それほど点滴の次の日は調子がよかった。その顔が忘れられない。そして何回も言っていた。「これが(点滴)一週間に2回打てるようにならんか?」そうだね そう出来たらよかったね。「ほんとやね でも普通は2週間に一回なんやと。それを縮めて1週間に一回にしてもらっとるんやよ。」「そおかぁ・・・・」あきらめが心をかけめぐり、また絶望の淵に一歩近づいたであろう・・・ごめんね。私もいろいろ悔やむことばかり浮かんでくる。他に治療はなかったのか。病院でもあれだけ不調を訴えていたのに、父は本当に無念であっただろう。
この日まではよく泣いた・・・。でも思い直して気持ちを強くと心がけている。今よりさらに前向きに生きるため。逃避するには十分すぎる忙しさだが、自分は自分で作るものということを言い聞かせている。涙ともさよならしなければいけない。
おじさんの容態が悪くなりお見舞いに行きました。病気が違うから父とは様子が違うけど、10ヶ月以上の入院で、寝たきりの状態ながら、まだ耳もよく聞こえるし、話しかけに表情が変わるからまだしっかりしているようでした。おしっこもおむつでした。
病室にいると父のときと重なってくる。・・・・・そそうをしてはいけないと自分から積極的にオムツを当て、おしっこがしたくなるとオムツを外し立って尿瓶にしていました。いよいよモルヒネを点滴しなければならなくなり、管をつけることになって、ものすごく嫌がり、看護婦さんにも抵抗しました。「俺はこんなところにはおれん」と言って何回もベッドから降りようとしました。逝ってしまう三日ほど前だったか、交代の合間で私一人の時だった。降りようとする父を抱きかかえとどめること15分くらいか・・・父の力がすっと抜け目を閉じ、ベッドに横たわった。涙があふれて止まらなかった。まるで子どものようだった。もう食べることがほとんど出来ないのに、私のおかゆも無理して食べてくれた。三分の一も食べれたよと喜んでしまった私。あとで全部胃に溜まっていて たいへんだったと聞いた。遺言も何もないけど、私にははっきりしっかり伝わっている。
どんなによぼよぼでも、寝たきりでも生きていてくれたら・・・・よかったのにと思い出してしまいました。
9月6日 21時 父は他界しました。「もう頑張らなくていいよ。楽に息して・・・」そういったとたん、すーっと何かも下がっていきました。赤いランプが点滅し、脈拍が一直線になり・・・目を突然かっと見開き 臨終を迎えました。あわただしい中での、お通夜とお葬式。落ち度はなかったか気遣い、どうにか済ませました。お世話になった葬儀屋さんは 本当に行き届いていて、ありがたかったです。私が一度二度意見を言ったときも、ちゃんと聞いてくださったし、娘の手紙や、父の言葉を 思ったとおりに入れてくださいました。弔電の順序とか読み方について、いろいろ言ったけど本当によく聞いてくださいました。
感謝の気持ちでいっぱいです。いい看取り方もできたし よかったのではないでしょうか。
月並みな結婚式をと思っていました。ドレス2着だけで、人前結婚式、和服も着ない質素にと、抑えて抑えてお願いした結婚式でしたが 本当にすごくいい結婚式になりました。よく行き届いて、もてなしていただき、ありがたかったです。また一番お安いお料理でしたが、とてもおいしくて評判よかったので、うれしくなりました。(坂祝・M結婚式場)
普通なら母親の涙なのでしょうが、父へのかなしみの涙を流しすぎて、この喜びの涙は、なかなかあふれくることはありませんでした。代わりに夫が泣いていました・・・。私には選挙の前に 父の葬式が待っています。こんなにわかっているのに そのときの自分がどうなのかわかりません。この9月は山を3っつ越えなければなりません。
耐えられなくても越えねばならない山。そのとき私自身が大きく成長するためにがんばるんだ!!誰にでも私にだって、死は必ず訪れるものなのです。心を強く!
もっと早く発見できてたら・・・。NK細胞療法だけは そう言える。絶対効果はあると思える。ただ発見が遅すぎたとも思う。奇跡を信じる葛藤の中で、日々の些細なできごとに一喜一憂してしまう。でも発見が早くても手術や抗がん剤で苦しむだろう。その最後の時でさえ、人生の決まりごとなのだろうと思うと心も落ち着く。それにしても我慢強いことには驚く。人間の尊厳性を精一杯保っている。大声で泣きたいだろう。「今のうちに言い残したいことがあったら言やあよ。」そんな事さえ言ってもいいような雰囲気で すべてを知りながら、余命いくばくもないことを感じながら、励ましの言葉ばかり捜してしまう。看るも看られるも せつない・・・・。
そのくらいの状態だということで、あと2週間だと言われた。兄弟姉妹が駆けつけてきて、病室はとてもにぎやかです。返ってそれで元気が出たのだろうか・・・。次の日の火曜日、NK細胞療法で点滴を受け、麻薬のパッチのようなものを貼ったが 痛みがおさまり水曜日は顔色もよく、食事も進んで食べ とても状況がいいように思える。苦痛がない分人相もよくなってきました。本人もだめだとわかっていても、自分の治療法は これしかないというすさまじい気力が伝わってくる。もう1ヶ月でも早く発見できたらという気持ちを胸の奥にしまっておこう。
私のほうは 母や家族の世話になりながら、父の兄弟姉妹との交信を絶やさないで、私の姉妹にもつなぎ・・・いろいろな感情をぶつけられ・・・・・少し大変。
そして私は 一般質問の原稿 全然はかどりませんが 原稿書きに四苦八苦しつつ、心も四苦八苦 顔は笑顔で明るくさわやかに!娘の結婚式・(父の葬式)・選挙 この9月は誰も経験できないような月になりそうです。( )が少しでも先に伸びるようにも、全力投球です!。
父の痛みがひどくなり、食事が極端に少なくなったので O病院に連れて行き 入院となった。本当を言うとすったあもんだで、入院とあいなったのだが 安心感からかまた言葉が荒くなって 回りの人を傷つけている・・・。意識・気持ちがはっきりしていて「自分はあと一ヶ月くらいだろう。自分の治療は名古屋のあれしかない・・・」点滴の日を指を折って待っている。そのために自宅でのつらい日々を耐えたのです。私の言葉を信じて・・・私を信じて。K病院では断られた。きっとO病院もと思いました。私は家に帰ってから「あきらめ」の決心をして 泣きました。一般質問の通告書を書いて 朝方空が白むのを見、議会初日を迎えました。心が研ぎすまってくるのを感じました。
ところが先生は NK細胞の点滴OKでびっくりしました。一番喜んだのは本人です。OK出して下さった先生も もう最終段階?のようなことをおっしゃるのですが、この段階ではもう治療と呼べるものは何もないのです。気分が明るくなったせいか 食も進み、あるはずのない希望もわいてくるのです。ありがたいことです。
岐阜県内ではホスピスをしている病院が1つしかありません。末期がんの父に希望を持たせNK細胞療法を試みましたが、体の衰弱(病気の進行)が早く・・・看病する私たちはかなりあきらめの気持ちが大きくなっています。なんとか痛みだけでもと思っても ホスピスの病院が少なすぎます!県立病院にホスピス診療 ぜひ設けてほしいと思い、私は署名運動を始めるかもしれません。
近所の田んぼに うしがえるが生息している。 う~ う~とうるさいもんだから 父が眠れない・・・と言い出し 昨夜家族で一掃作戦が始めました。長靴に懐中電灯のスタイルで夜中に 田んぼの中を 耳をすませたり、追っかけたりして・・・・でも退治できませんでした。
捕まえるいい方法ありませんかね。
「電気バリカンの操作がわからないから頼むわぁ。」との突然のお呼び・・・・・。父が「頭を刈ってくれ。」と言い出したのです。母も妹も「わからんでぇ」と逃げ腰の様子。持たされたバリカンは子どもたちが小さい頃 床屋さんをしてあげた古いバリカンでした。「まだ使えるんやねぇ。」つぶやきながら父の首から頭に向かって当ててみた。白髪としわで あてにくい・・・・。体も痩せ細って弱々しいし、左手で抑える頭も小さく感じる。母や妹には文句を言っていたけど、私には何も言わず、「そうやそうや。」と目を瞑っている。笑いながら「むらむらになってても わからへんような頭やでいいわあ。」と終了。次はもうちょっと上手にやってあげるから・・・そう思う目に涙があふれてくる。