人生旅路

タイトル変えてみました。
青森~茨城~濠州~石垣(沖縄)・・・
次はどこでしょう・・・というかそろそろ落ち着け,私。

地震の記録⑧ 3月14日

2011-03-14 23:10:00 | 徒然

2011年 3月14日 月曜日


今日から仕事…のはずだったが、輪番停電の影響で休みになった。

電車も動かないし、あまり変化は期待できないが、女川町の情報を集めることに。

 

昨日手に入れた情報は以下の通り。

・ 地震発生時、弟は浦宿にある社員寮にいた

・ 13日の朝に原発施設についた

・ 最初は車で向かおうと思ったが、途中までしか行けず徒歩で向かった

・ 津波は浦宿寮を避けたので無事

・ 食糧は底を尽きかけているが、とりあえずはまだ大丈夫

・ 女川原発の原子炉は確かに停止していて問題なし

・ 他の職員も元気にしている

・ 外部に流れている情報の通り、衛星電話はバッテリーが少ないのであまり使えない

 

これらの事と、今まで調べた情報を合わせると、

寮がある浦宿が面する万石浦は内海のようになってるため、津波の影響は少なかったのでは。

もし、津波が寮の建物自体を襲ったのなら、寮に停めてあった車がすぐ動くとは考えられないので、浦宿を津波が通ったとしても建物を避けたというのは本当だろう。

車で向かおうとしてが無理で、徒歩で向かったということは
原発施設が孤立しているという情報から
寮から原発までの道のりの間を津波が通り、道が寸断されているのでは。
他の被災地の水が中々ひかない事をみても、ある程度まで水が引くのを待って、
それから同じ寮の仲間と一緒に13日の朝、歩いて原発に向かったのではないか。

大体寮から施設まで車で30分かかるので、歩いて3~4時間だと考えると
13日の朝6~7時に出発し、弟が施設について休んだりしている間に社員の方が父に連絡を入れたのでは。

 

弟は救助を待つ身であるのに、

「早いとこ炉の点検と復旧をして、電力回復に努めますよ~」

と、笑いながら言っていた。

 

たぶん、普段の私達姉弟の会話がふざけたものばかりなのに
真面目に心配していた私へ対する照れ隠しだったかもしれない。

食糧も少ない中で不安なはずなのに、明るい声を出していた。

 

声が聴けたから大丈夫。

 

報道はされていないけど、救助活動は行われていると信じています。

きっと、道路が寸断されているから、救出経路を確保するのに時間がかかっているだけ。

 

そうこうしている間にmixi情報で、寮母さんが無事だという知らせが届く。
浦宿寮も避難場所のひとつになっているとのこと。

続々と無事確認の情報が出てきている。

 

報道されないのは、マスコミが入れないだけ。

それよりも、大きな事故だったり起こってしまっているから。
福島も本当に心配。
同じように現場で作業している方々にだって家族がいる。
その家族の気持ちを思うと、やるせない。

本人たちだって、自分の危険を省みずに作業してくれている。
家族だって、本当はそばにいたいだろうに、ぐっとこらえてる。

弟の声を聴けた、そしてみんな無事だった、たくさんの人が気にかけてくれた私は幸せ者だ。

 

情報をさがしていると、周りの不安を煽りたいのか女川原発も危ないというツイートが流れる。
原発サイトで見れる放射線濃度の値が高すぎるとか。

女川原発のサイトで逐一更新される放射線濃度を見てみる。

数だけ見ると6000とかだけど、単位はナノだ。
つまり6マイクロってこと。

どうみても福島の影響や、天候・地形による増幅などの影響が出ただけに過ぎない。
自然界では気温や湿度・太陽光・反射光など、様々な要因があるのだから。

レントゲンで用いる放射線濃度の1000分の1以下の間で増減したからって、
女川原発が危険になってたまるか!

 

今日も救助されたという報告は無かった。

でも大丈夫。

あのあたりは地形も入り組んでいるし、避難場所も分散されてしまってる。

携帯が使えないから、それぞれ孤立してしまった避難場所をひとつにまとめることは困難。

それに、やはり被害が大きいのは確かであって、
救助する人数だって限りがあって。

それにそれに、津波で倒壊した建物の下で今でも救助を待っている生存者がいるかもしれないから、下手に車両乗り入れや重機は使えないわけで。

 

だから、今日じゃなくても大丈夫。

人間は思ってるより強いもん。

特に逆境に強いもん。

 

でも、出来れば早めに

「出てきたー」って声と「今ご飯食ってる」っていう呑気な声を聴きたい。

 


地震の記録⑦ 3月13日

2011-03-14 23:09:29 | 徒然

2011年 3月13日 時間不明 昼


ある程度弟の安否が確認できたので、あとは女川町の現状について調べることにした。

被害の度合いのせいなのか、女川町や女川原発についてはほとんど報道されない。

たまに出るテレビのテロップには
【女川町 壊滅状態】
だけ。

もういい。
知ってるから。
津波がきたんだもん。
そりゃ家だって壊れるよ。

せっかく少し奮い立った気持ちを潰さないで。
簡単に【壊滅】って言わないで。

生きてるんだ。
映ってないだけで、生きてるんだもん。


集中すると太陽が動くのが早い。

また暗くなった。

 

変わらず情報集めと情報提供を続ける。

あまり変化のない情報だとしても検索せずにはいられない。

推測で女川原発は本当はやばいから報道されないんじゃないかというツイートが流れる。

あくまでそっちは推測だ。

本当は安全だもの。

電話来たって父が言ってたもん。

 

携帯の着信音が鳴り、父かと思って画面を見ると02から始まる番号。

もしかしたら! と思い、急いで通話ボタンを押した。

「あー、もしもし?姉ちゃん?」

懐かしい声。

一番、今一番聞きたかった声。

 

不思議と涙は出なかったが、全身が震えてうまく言葉を話すことが出来なかった。

喜びで身体が震える、というのはこの事かな。

 

無事を喜び、ついでと思っていくつか聞いていた他の原発職員や関係者について尋ねる。
尋ねた人が無事でいると聞き、私と同じように喜んでくれる人が増えると思って嬉しかった。

弟は会社の衛星電話を使って連絡をとってきた。
たぶん、順番がまわってきたのか、
家族に直接声を聞かせてやりたいと上司が気にかけてくれたのか。 

他からの情報によると衛星電話は数少なく、バッテリーも危ういらしい。

弟に確認すると、その通りだとのこと。

他にも外部に連絡したい人は大勢いるだろうし、電力もあまり使えないだろう。

短い時間に出来るだけの情報を入手し、またこちらが手に入れていた外部の状況を伝えた。

向こうは外がどうなっているのか知らないから。

 

13日09時の時点で救助隊が女川・石巻を中心に救助活動開始。

その情報を伝え、ねーちゃんも頑張って情報集めたりして待ってるから
頑張れと伝えて電話を終えた。

 

震えの止まらない手に握られたままの携帯から再び着信音が鳴る。
地震直後から交代時間の度に連絡をくれる相方。

あれから4時間交代・缶詰状態で連日勤務なのに、心配までかけてしまった。

しかし、毎回ものすごい良いタイミングで電話をくれるけど、見てんのか??

 

弟と直接話せた事を伝えると喜んでくれた。

きっとこれで向こうも安心して仕事が出来るだろう。

 

Twitterで協力してくれた人に弟の無事と感謝を伝え、
mixiの、同じように原発職員をご家族・ご友人に持つ方々に弟の安否と手に入れた情報を伝えた。

 

その後は久しぶりに眠った。

まともに眠った。 

 


地震の記録⑥ 3月13日

2011-03-14 23:08:49 | 徒然

2011年 3月13日 日曜日 未明


何時か忘れたけど、Twitterで知り合った、女川町で医療活動をする人の事を思い出した。

連絡が来ていた。


『自分は原発施設までは行けなかったが、女川町役場の人からの情報で
 原発職員は全員無事でいるとのこと。確定情報ではないですが。』


それだけでも嬉しかった。

弟本人がそこにいるかどうかはまだわからないけど、
どんな形であれ、弟に関する良い情報が聞けると勇気が出る。


朝になったら実家に連絡しよう。

情報集めを続けていると、
何人か原発施設内に避難している人と連絡がとれたという人が出てきた。

方法は衛星電話かPCメール。

4、5年前に弟がホットメールを利用していたことを思い出し、
無駄だと思いながらホットメールのアドレスに送る。

無精な弟だから、十中八九ホットメールの存在を忘れているだろうけれど。


そうしていたら朝10時30分くらいにまた大きめの余震。
あの後からちょくちょくあるけど、慣れない。

心配したのか父からのメールが届く。

『しんど4がでたけど、大丈夫か、たった今、東北電力から、連絡かきて
浦宿の仲間と一緒に避難していることが、確認が、とれたと、
電話があったから、安心したよ。』

どこでどう区切ったらいいのかわかんないいつもの父のメール。

でもびっくりしすぎて返信の文章が思いつかなくて。

とりあえず父に電話をかけた。

 

社員の方が弟の存在を確認したので、父に電話をかけたのだという。

ほっとして涙が出た。

良かったー!

 

そしたら丁度交代時間になったのか、相方から電話が来た。

父からのメールの事を伝えると、また泣けてきた。

 

ほっとしたら、なんかお腹が減ってきた。

そして、笑えるくらい何にも食べていなかったと気づく。

あれから2日目の朝を迎えていたなんて信じられない。

長い長い一日の途中みたい。

 

とりあえず適当に食べ、
心配をかけてしまった同僚や友達や親戚に連絡があったことを伝え、
mixiの方にも、原発職員が無事に施設に避難していると連絡が実家に届いたと伝えた。

ふーって息をついて、頭を垂れたらそのまま寝てしまった。

連絡をし忘れていた友達からのメールで目が覚め、慌てて弟の無事確認を伝えた。

 

ほっとしたらまた涙が出た。
こんなに涙もろかったかい。

今までの中で一番確信が高い情報。

弟は大丈夫!

 


地震の記録⑤ 3月12日

2011-03-14 23:08:16 | 徒然

2011年3月12日 土曜日 時間不明 朝から


Twitterの情報を眺めていると、直接女川の人とコンタクトを取った人や現地で医療活動を始めている人の情報が目に付き始めた。

現地で医療活動を始めている人に、感謝と情報をツイートしてくれたお礼をしてみた。

すると、私宛に返信というものが来た。
こうやってコミュニケーションをとったりできるのか。

これから女川に入るから、よければ弟の名前などを教えてくれないかという内容。

ほんの少し迷ったが、こんな状況だ。
職場と名前を伝えた。

戻りは深夜になるとの事だが、時間なんて関係ない。
実際に現地にいて、情報をくれる人と連絡がとれたのだ。
あとは待っている間にできることをするだけだ。


調べていくと、女川町は地震が来てから津波が襲うまで
約50分の時間があったことがわかった。

それならば避難する時間もあったはず。

津波の影響で女川町をカバーしていた電波塔が全て壊れ、携帯での連絡は不可能。

だったら、携帯がつながらない理由わかる。

仙台放送の内容のツイートで、原発施設内に約2000人が避難との情報。

きっと、きっとその中に弟も…。

Twitterに加えてgoogleリアルタイム検索も利用した。
内容は結構かぶるが、それでも流れてくる情報を少しでも多く手に入れたかった。

気が付くと、外が暗くなっていた。

 

しばらく放置していたmixiの方を見てみると、
同じように家族の安否を知りたい方々からの『情報求む』の書き込み。

協力できればいいけど、今は弟の安否が知りたい。
その経過で偶然にも手に入れることが出来た共有できる情報なら教えられるけれど、
今は何もない。

他の人の手助けどころか自分が本当に知りたい情報を手に入れられない自分に
無力さを感じて悔しくなる。

情報がなんでもいいわけじゃない。
弟が無事に施設内にいるという確実な情報が欲しい。

 

気付くと、とっくの昔に日付がかわっていた。

 


地震の記録④ 3月12日

2011-03-14 23:07:39 | 徒然

2011年3月12日 土曜日 05:00くらい


電気が回復してから何度も通話ボタンを押す。

電話番号は実家・祖母の家・父の携帯。
相方は地震発生直後から、すぐに災害派遣で働きっぱなしのはずなので、控えた。

ほとんど諦めながらの何度目かの父の携帯への電話。
耳元で呼び出し音が聞こえた。
それまで無音もしくはドコモの音声案内だったのに。

息が止まり、じっと耳を澄ます。

「もしもし。」という眠そうな父の声に涙が出た。


良かった。これで本当に無事を確認できた。


お互いに無事を喜び合い、身の回りの人が全部無事だと知り、あとは弟だけ。


父は、たぶん地震直後で施設の復旧などで忙しくしているんだろう、と平気な声音だったが、
本当は心配で仕方なかったに違いない。

まだ停電が回復していなかったのだから。

 

電話を切った後、少しだけほっとしたらうたた寝をしてしまったらしい。

電話の呼び出し音で目が覚めた。

相方からだった。

どうやら昨日からずっとかけ続けていてくれたらしい。

私の携帯の受信はまだ混乱していたようだった。

 

お互いの家族の無事を伝え合い、弟が不安だ、と伝えた後の励ましを貰い、電話を終えた。

 

聴きたかった声達の二つも聴けて、本当に落ち着いた。

 

携帯の時計を見ると07:00くらい。

それから職場の同僚たちからメールが届いていた。

不安でたまらなくなり弟の事を話すと、
その中の一人がTwitterで呼びかけてくれると提案してくれた。

非常にありがたかった。
全く無力な自分が悔しかった。

 

でも、Twitterで呼びかけるのに、人数が一人じゃなくてもいいんじゃないか、と思った。
私が登録して、自分でも呼びかけてもいいんじゃないか、と気づいた。

さっそく登録したが、使い方がわからない。

方法を見てもわからない。

なんとなく検索窓があったので、【女川】と検索してみた。

ずらっと、女川についての一言が並ぶ。

リアルタイムな掲示板みたいなものか、と勝手に解釈した。

そうすると、弟の名前が出てきた。

私の教えた情報と全く同じ情報の捜索願い。

きっと同僚なんだろう。
思わずクリックすると、ツイートした人が大きくなった。
推測すると、同僚の父親も協力してくれたらしい。
同僚の父親は福島にいて、ご自身も大変なのに協力してくれたその気持ちがありがたかった。

しばらく見ていたが、多くのツイートは女川についての情報求む、というものばかりだった。

中には情報を流している人もいたが、どの情報が信憑性が高いのか判断しづらい。

 

もやもやしてきた。

自分でも調べてやろうと思った。

まずは、女川原発や社員寮の位置関係・地震の状況。
ネットとテレビと携帯を全部一度に使って、少しも重要な情報を逃すもんかと集中した。

あんなに頭使ったのは久しぶり。

それでも詳しい情報が欲しくて、今度はmixiの宮城県女川町のコミュニティをみつけ、
情報提供と共有を呼びかけてみた。

すぐに書き込んでくれた人が現れた。
どうやら、弟の住む社員寮の寮母さんをご家族に持つ方。

それからぞくぞくと女川情報を求める人達が書き込んでくれた。

一人より二人、二人より三人、人数が多ければ手分けして情報を集めることができる。
共有すれば更に情報の照合もできるし、信憑性も高まる。

 

ふと携帯が鳴った。

着信はは61から始まる番号。
もしやと思って通話ボタンを押すと、オーストラリアで同居していたEmilyからの国際電話。
ニュースで見て心配してくれたらしい。
それからFacebookを開くと、たくさんのむこうの友達から安否を尋ねるメッセージ。
もう5年くらい会ってないのに、こんなに気にかけてくれる友達が海の向こうにもいる。
元気が出た。

 

弟の安否を知りたくて、不安を消したくて、一心不乱に情報を集めた。

まだ一日も立っていないし、事故になったら報道されるはず。
事故報道がないから、大丈夫。

何せ原発施設だ。
しかも新しいんだ。
耐震構造は他の建物よりしっかりしてる。

施設内にいれば、大丈夫。

 

でも違ったら?

もし、夜勤とか休日シフトとかで街にいたら?

 

じゃあ、施設内にいるかどうかを調べよう。

求める情報がはっきりした。

後はやるだけ。

 

怖い事は考えるな。

大丈夫。大丈夫。

 


地震の記録③ 3月11日

2011-03-14 23:07:03 | 徒然

2011年3月11日 金曜日 23:00くらい


いつの間にか眠ってしまったのか、ブォンという音で気が付いた。

日常の音がする。電気が回復した。

携帯の充電もだいぶ溜まったので、家族・相方に電話をかけてみる。

やはり回線が混乱しているのか繋がらなかった。


電気が回復してからテレビをつけた。

テレビではどこも地震の情報ばかりだった。


画面の右上に映る【震源地宮城 M8.8】の文字。

どこが最も悲惨なのか分からないほど広い地域での大きな被害の事実。

 

それから時間がどんなふうに過ぎたか全く覚えていない。

 

外は明るくなったが、気付くとダウンコートを着たまま布団の上に座っていた。

 


地震の記録② 3月11日

2011-03-14 23:06:32 | 徒然

2011年 3月11日 金曜日 15:30か16:00くらい

アパートに到着し、玄関を開けると不気味に静かだった。

いつも無意識に聞こえる電化製品が動く音が聞こえない。

地震の影響で停電と断水になっていた。


以前買った災害用充電器を携帯にとりつけ、
無駄だと知りながらもずっと手回しで携帯の充電を続けた。

 

かろうじて充電が少したまっても、ボタンを一つ押すだけで電池がひとつ減る。

もどかしかった。

 


家に着いてからどれくらい経ったか

気が付いたら外の景色は真っ暗になり、
地震直後に連絡がとれたっきり相方も家族も音沙汰なくなっていたのに気付いた。

 

 

無性に不安になり、電話をかけてみようと思うが電池の事を思うと実行できず、
自分は大丈夫だと、落ち着いたら連絡が欲しいと再度メールを送り
充電器をひたすら回し続けた。

本格的に暗くなる前に、意を決してダメ元でコンビニへ向かう。
災害用充電器も9V電池を使えばもう少し効率よく携帯を充電できるはず。

思いのほかコンビニは再開していた。

落ち着いて考えてみれば当然の事。
災害直後で今後どうなるかわからないのだから、多くの人々が物資を求めるのは当たり前。
それなのに、物資がある状態で店を閉める方がおかしいだろう。

急いで9V電池を4個と飲み物、簡単な食べ物を買い
店を出てすぐに充電した。

携帯を無事に充電できて少し冷静になると
単にメール受信がうまくいってないんじゃないかと気づいた。

問い合わせると案の定5件溜まっていた。
家族と相方。

良かった。
二次災害などには遭っていないようだ。

ただ、弟からの連絡がなかった。


弟の職場は震源地宮城県の女川原子力発電所。

不安で仕方ない。

生きていて。

頼むから生きていて。

命があればそれでいいです。

頼むから無事でいてください。

 

届いたかわからないメールを何度も弟に送った。


地震の記録① 3月11日

2011-03-14 23:05:35 | 徒然

2011年3月11日 金曜日 14:46

昼食が終わり、午後の仕事に入っていた。

大きな作業は午前中に終わっていたこともあり、
作業しながら上司と雛祭りの事について雑談をしていた時

同じく作業中の上司が最初に揺れに気付いた。

前日の地震の事もあり、当初は同じくらいの程度だろうと思っていた。

想像した以上に長く続く揺れは時間とともに大きくなり、
棚の物品だけでなく、棚自体も動き始めた。

とりあえず作業から手を離せない上司の代わりに、
上司の頭上から落ちて当たったら危険な物品を退け
様子を見に作業部屋の外に出た。

他の人達も、これはおかしいと廊下に出ていた。

急に揺れが大きくなり、大型冷蔵庫や重くて動くはずが無いと思っていた大型の棚が
生き物の様に大きく動いた。

パニックになりかけ、そばにいた別の先輩にしがみついた。

先輩と私、もう一人の先輩は頑丈そうな柱のそばに寄りかかり、しがみついていた。
その間、ずっと「大丈夫、大丈夫」と先輩が励まし続けていてくれた。


揺れている間、頭をよぎったのは、

先日のニュージーランドの地震の映像

今(その時)いるフロアが4階であるということ

いくら頑丈でも枠だけ残って崩れるんじゃないかという恐怖

もう二度と大好きな人達に会えないかもしれないという恐怖


ひとしきり揺れが収まり、目を開けるとそこには5分前には考えもつかなかった光景が広がっていた。

散乱するガラス器具

整列を大きく乱した大きな棚と冷蔵庫たち

バラバラになった書類

床に散らばるパソコン


こんな中、変わらず作業を続けて終えてから出てきた上司はすごいと思った。

誰も怪我人がいないのを確認し、
全員でひとまず外に出ると、他のフロアや建物で作業していた人達が続々と出てきた。

しばらく上の方々で相談している間、急いで携帯メールで相方、青森の家族と宮城の弟に安否確認のメールを送り、ワンセグを起動して地震情報を見た。


【宮城で震度7】


衝撃が走り、急いで弟に電話をかけたがつながるはずも無かった。

電話を切るとすぐに相方と青森の家族は無事だ、メールは帰ってきていた。

弟からは何も無かった。


そこからの時間はぼんやりしている。

なんか作業服から私服に着替えて
そしてなぜかそのまましばらく30分くらい外にいたような気がする。

車通勤の先輩に送ってもらって
信号がついてなかった事と、途中から道が混み始めた事は覚えている。


帰り際に先輩が

「気を確かに!」

とか励ましてくれたような覚えがある。


すこーし落ち着いた。

2011-03-14 20:22:43 | 徒然

地震発生からずーーーーーーーーーーーっと不安だったのが落ち着いた。

怖かったーーーーーいろいろ。

地震そのものだけじゃなく。

 

つい数時間前まであった普通の毎日がどんなに幸せだったのかを痛感した数日。

 

まだ、不安な毎日を過ごしている方が多い現実。

悲しみでどうしたらよいのか全くわからなくなってしまった方々もたくさんいる。

 

正直、私はかなり幸運だったと思った。

大切な人達みんな無事ってわかったもん。

まだ、救助待ちもいるけど、生きてるってわかったもん!

 

てーことで、怖かった時に、不安でいっぱいだけになりたくなくて、
うぉーってなって書いてた記録を次回から。

 

みんな早く普通の日常に戻れる日がくるといいなー。

笑ってお花見とかしたいー。