人生旅路

タイトル変えてみました。
青森~茨城~濠州~石垣(沖縄)・・・
次はどこでしょう・・・というかそろそろ落ち着け,私。

2週間経って。。

2011-03-28 08:50:35 | 徒然

停電グループが更に分けられて、
急遽うちの職場と家が停電実施だという決定ニュースを見て
急遽午後出勤。

あれから2週間以上。

避難所の生活や配給が、『直後からはある程度』軌道にのってきていると思います。

でも、本当にまだまだ物資の量や種類が整っていない。

飢えはしのげる、というか餓死の危険性が減ったというだけで、
ひもじい思いはしていると思う。

弟も、職場の仲間と分け合う為に大量のペットボトルのお茶や水を持って女川に帰ったという。
個人でだから、重たくて大変なのに、2Lを何本も。
でも、いくらあっても足りない。
やはり、配給は他の方々優先にしようとするから。
それはいつも町の皆さんにご理解を頂きながら職場が成り立ってきたから。

それでも、足りない。

 

食糧だけじゃないんです。

仙台市内でもガスや水道が通っているのは一部。
大部分はまだなんです。
お風呂入れないって本当につらい。
風邪ひいても、あったかくするエネルギーがない。
お薬も足りない。
消毒するアルコールもない。

届いた物資は必ず消費されるから、長期的な支援が必要なのに、
集積所から各避難所や自宅避難をされてる方々へ届けるためのガソリンもない。

 

足りないものいっぱい。

 

助けたいのに、自分の力も足りない。

出来る事は小さなこと。、

節電して、買い物も最低限で十分で、
確実性のある所を見つけたら募金。

 

本当に小さな小さなこと。

 

届いてください。

 

さっき、東松島の消防団の方が、一家5人を亡くされて、
それでも、今他のご家族の捜索を一生懸命行っているという話を見ました。

母親と息子さんのお嫁さん、お孫さん3人。

残ったのはご本人と息子さん。

 

どんなにつらいでしょうか。

息が出来ませんでした。

自分だったら、きっと今でも頭が真っ白なんじゃないでしょうか。

 

とても頑張ってくださいなんて言えません。

どんな慰めの言葉も思いつきません。

 

ただ、ただ、少しでも前に進めるように
ほんの少しでも今出来る事を続けるだけだ。

 

自分は車持ってないからガソリン節約っていうより全く使うことが無いけど、
せめて、ガソリン無くてもちょっと不便になるくらいの方々には我慢してもらいたい。

生活に車使ってないやつが何言ってんだ、って思う人達いるかもだけど、
電車でなんとか行ける人達は、電車使っていただきたい。

そのガソリンがあれば、細かいところまで物資が届くかもしれないから。

そしたら、今苦しい人達が少しは楽になってくれるかもしれないから。

 

あーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!

もーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!

今すぐ宝くじ当たりたい!
めーーーーーーっちゃ大金持ちになって、ヘリとか船とか駆使してガソリン持っていきたい!

ものすごくいっぱいこっちの人雇って、いい給料やるから超高速で復興しようぜ!って言いたい!

 

もどかしくて、うがうがする。


残り物。

2011-03-21 20:54:52 | 徒然

今回の三連休ほど静かな、落ち着かない連休はないんじゃないかなーって思いました。

 

多くの皆様にご心配をおかけした弟は、金曜に女川から仙台まで自分の車で行き、
仙台の友達のところに停めさせてもらい。

関東行きのバスに乗ろうとしたところ、27日まで予約で満席だというので、
急遽方向を180度変えて、青森の実家へ向かうことにしました。

情報が入ってきづらいのですが、仙台から盛岡行のバスも運行再開したそうで。
そして盛岡から青森方面の電車も、本数が少ないながらも再開しているそうです。

心配していた両親に顔を見せることができたので、そっちの方でよかったなーと。

そして本日、原発職員の方々で、未だご家族と連絡がとれない方々の捜索手伝いの為に
再度女川へ戻りました。

twitterでも呼びかけている方もいらっしゃったので、
ご無事で避難所にいてほしいと思いました。

いろんな方面で避難所の名簿リストがアップされてますが、
なにぶん写真だもんで、読めない漢字もあり。

テキストに直そうと思ったのですが、読めないのと数千人分という膨大な量と。。。

出来ることは、その地域で未だ安否情報を求める方を見つけた際に、
そのリストで探すことでした。

今日たまたま安否情報を求めている方をみつけたので、
そのリストで探したのですが

今日は見つかりませんでした。

歯がゆくて、申し訳なくて。

今も眠れずに、あの日から続く長い一日の中にその方がいるのだと思うと
自分が無力だと痛感するんです。

 

客観的には、よくないんだってわかってるんです。

よく、こういった自然災害に遭った人や、ご家族が遭った人が無事であった時も、
自分だけ幸運で良いのかという罪悪感に苛まれると。

楽しい事をしたり、笑ったりする事への罪悪感。

そんな事は必要ないんだって、知識ではわかってるんです。

でも感情はそちらに向かうんです。

 

土日、大学の時からの友達と会ってました。

その子と話したり、まったりしたり、ただ道歩いたり。

ずいぶんと楽になりましたけど、やっぱり思い出します。

 

これは、徐々になんでしょうね。
回復するの。

 

自分にできる事を模索しながら、日常を取り戻しながら。

 

あの日からずっと心に残り続ける重たいものが軽くなるのはいつでしょう。

 

でもでもでも。

重たいものを抱えた人に支援をされても、気を遣わせてしまう可能性もあるんで。

元気でいきます。

 

そんで、素朴であったかくてたくましい東北の復興に協力していきます。


1 week after  福島県のみなさまへ。

2011-03-18 21:08:02 | 徒然

1週間が過ぎました。

前日の強風も穏やかになり、良く晴れた1日でした。

 

今回私は家族が無事であったこと、身の回りの大切な人達が無事であったこと、
それを知ることができたこと。

本当に幸運だと思います。

 

そんな中、未だに不安で堪らない方々が大勢いるんです。

 

これまで宮城を中心に情報を集めてきたけど、
家族の安否がわかった今、やっと視界を広げることができてきたように思います。

 

今、日本中かハラハラしながら、中には批判しながら、応援しながら見守っているであろう
福島原発で最も近い距離で頑張っている方々。

怖いと思います。

本当は、家族のそばにいたいんじゃないか、と思います。

でも、明日も明後日も、自分の大事な人達が笑っていける未来を守りたいから
自らを奮い立たせて一番近い距離で戦ってるんです。

 

巷では、福島産の作物を汚染されてるという差別の目でみる人や
その地域が汚染されたものとして風評を流す人もいると知りました。

確かに、今でも余談を許さない事態の最中です。

でも、同じ日本です。

みんなそれぞれ愛する地元があるように、
福島で生まれ育った人たちにとって、福島は愛する守るべき土地です。

 

今、最前線で戦い続ける東京電力の社員の方々、
共に戦う消防・警察・自衛隊の方々、
不安に耐えながらも戦い続ける姿を見守るご家族の方々、

あなた方のおかげで、私達は電気という素晴らしいエネルギーを使うことが出来、
今回の自然災害でもたくさんの情報を得ること、
そして快適な生活を送ることが出来ています。

言葉足らずですが、ありがとうございます。

 

決死の冷却作業、応援させてください。

でも、生きてください。

ご家族の元に、大切な人の元に帰ってきてください。

 

いつか必ず、福島を訪ねにいきます。

おいしい野菜を食べにいきます。


地震の記録⑩ 3月17日

2011-03-18 00:43:00 | 徒然

今日は12:00から計画停電の為、会社都合の早退。

帰宅後、案の定部屋が停電していたので、軽く携帯で情報を見た後寝る。

電気回復後明日から急遽出発になった相方が外出許可が出たというので、前日見送りがてら会いに行けた。

でも、大宮が今度は計画停電のため、真っ暗だった。

 

電気復旧まで、暗闇の中でも営業していた喫茶店で時間をつぶして、復旧した後に必要物資を購入。

どこも保存が効くような食材は空っぽだった。

 

不安な心理から日用品やガソリンの買占めが起こる気持ちはわからなくもないけど、
実際に必要な人にとって、それがどれだけ大きな負担になるのか。

救援に行く方は、お米などの食材は持っていくものの、すべて避難所の人達へと渡し、
自分たちは乾パンや缶詰のごはんで生活するのだ。
つまり、自分達の食は自分で用意する。

長期滞在になると、それだけ保存が効かなければならない。
でも、それはこちらで普通に生活できている人達によって買い占められてしまった。

なんとかなるよーって言ってたけど、なんか悔しかった。

 

ぶらーっとしてたらまたまた02から始まる番号からの着信。

弟だ!

何か状況が変わったのか? と思って急いで電話に出た。

 

「あのさー、明日から6連休取れたから、実家帰ろうと思うんだけど、交通状態って検索できる??」

なんだよ。そのぼへーっとした連絡。。。

帰ったらするから、また連絡して、と電話を終えた。

周りのアタフタ感を完全スルーした声音。

安心したけど。

 

相方の門限時間が迫ってきたので、気を付けるようにと解散して帰宅。

帰ってからネットで検索してみる。

なんとなーく予想してたけど、まだ復旧…無理だろ!!!

 

23:30くらいに再度連絡が来た。

青森に向かう方法が今はまだ見つからない事を伝えると、

「やっぱかー。。どーしよっかなー。。6連休…。」

てか、被災者の一人でもあるのに、勤務してたってのがすごいわ。
まー、避難場所が原発だし、物資も届いてるし、原発から一歩も出れないってんなら
電力復旧にむけて点検と修理と調整やるしかないよなー…。

とりあえず、ほかに案が浮かばなかったので、逆に私のアパートに来るように言ってみた。
こっちなら数は非常に少ないが東京⇔宮城間の高速バスの運行も再開したし、たどり着ける可能性が高い。

「じゃー、そっち行くわ。洗濯物溜まってんだけど、洗濯していい??
 あと、銭湯とかある??」

軽っ!!

洗濯でも銭湯でもお好きに言ってくださいな。

その前にたどり着きなさいよ。

「でもねー。女川から仙台にも行けるかどうか…」

…そこからかい!!

 

とりあえず、明日女川から仙台へ向けて、何かしらの方法で出発し

仙台で一泊してから早朝にしかない東京行きの高速バスに乗れたら乗るっていう、

実にフンワリした予定を告げて電話終えました。

 

 

…逆に、あんなに真剣になって多くの方々に心配をかけた私恥ずかしいわ。

 

とにかく元気で何より。

 

無事に埼玉までたどり着けたら、状況を聞いてみたいと思います。

 

おしまい。

 


地震の記録⑨ 3月16日

2011-03-16 23:56:32 | 徒然

今日は午後3時20分から計画停電だったので、とりあえずは会社都合の早退となった。

業務に必要不可欠な機械が動かなくなるし、自家発電も私が所属する部署までまわらない。

 

家に帰ってみると案の定停電。

特に情報を探すこともできず、外もすべて閉まっている状態なので寝ることにした。

 

16:00くらいに寝て、起きたら21:00近くだった。

あれから結構平均睡眠時間が3時間くらいだったんで、ものすごくすっきりした。

 

とうとう相方が現地のひとつに飛ぶことになった。

1週間くらい。

二次災害に遭わない事を願うのみ。

 

今日分かったこと。

・ だいぶ原発~女川間の道が拓け、悪路ではあるがバスが通れるくらいまで復旧した

・ 明日最初のバスが原発から何人かを移動させる予定(女性・子供優先)
  どこが移動先なのかは不明。
  また、ガソリン不足の問題もあるため、次のバスでの移送がいつ行われるか不明

・ 給水車が到着し、女川町での水の配給がおこなわれている

・ 食糧も今すぐに底をつく不安はなくなった

・ 今後最低3か月は携帯などの電話連絡は回復不可能であろうとのこと

 

弟は職員だし、まだ若いし男性だし、早くても移送は週明けになるとみていいんだろう。

移送されたとしても、仙台市内にあてがあるわけでもないし。

もしかしたら寮が無事ってことは移送されない可能性もある。

移送されずに残り、ガソリンを手に入れられたら食糧調達とともに電波が入るところまで行って、
何かしらの連絡をくれるかもしれない。

移送よりも、こっちの可能性の方が高いな。

部屋は4階だから、倒壊の恐れがなければそのまま滞在しそうだ。
めんどくさがりだし。

 

ひとまず、弟の不安はだいぶなくなった。

大丈夫だね。

あとは町の復興だけど、どうしても時間かかる問題だ。

大きな支援とかは早急にできる見込みはないけれど、
もしかしたら、もう少ししたら同じような人達が集まって、まとまった物資を送ることができるかもしれない。
それまでは地道に募金しかできないけど、あの子は大丈夫。

町の皆さんだって、つらいけど、頑張ってる。

 

ねーちゃんも、実家も無事だし元気だ!

 

そろそろ、こっちでの定期記録は必要ないかなー。

てか、明日は12:00~16:00の停電だけど、仕事どーすんだ??

ご帰宅OKならしたいんだけどー。

インキュベーターもPCRもタンクも制御装置も動かないから
仕事まーーーったく出来ないし。

職場で定時までお茶すんのか??


地震の記録⑨ 3月15日

2011-03-15 21:46:04 | 徒然

今日から仕事を再開することになった。

地震後の片付けがメインだが、だいたいは休日出勤をした男性の同僚がやっておいてくれたので、
微調整と掃除、今後の業務再開に向けての計画立てといったところだろうか。

なにぶん、今の職場がGMP管理下のワクチン開発だもんで、それに使用する機械の正確性を調整後に何度か確認する必要がある。
どうしてもすぐに業務再開という訳にはいかない。

私服から作業着に着替える更衣室で、フロアは違うが会うたびによくしてくれる先輩に会った。

メールで弟の無事確認を伝えたが、今日もものすごく喜んでくれた。
本当に喜んでくれて、涙まで流してくれた。

普段お世話になっているのは私のほうなのに、こんなに気遣ってくれる。

うれしくて、あったかくて、鼻の奥がツーンてした。

 

特に作業という作業が無かった今日、ちょこちょこ空き時間を見つけて情報集めをすることができた。

弟へ対する心配事の度合いが低くなったためか、福島の状況が気にかかる。

私が住む埼玉県の自衛隊駐屯地から特殊防護化学班が行っている。
彼等は放射能に対する訓練は受けているものの、原子炉の専門家ではない。
だけど、原子炉での作業をしている。

自分たちの危険を知りながら、指示してくる側の『安全だから』という言葉の下に。

福島原発で作業している東京電力社員もそうだ。
実際に手を動かす人間は危険だと気付いていながらも作業を続けている。
指示する側は、危険だと確信しながらも『安全は保障する』という。

人命がかかっているのだから、不満も不安も言葉にするのをこらえて作業する。

 

どうか、周りの人達だけでなく、
現場そのもので作業する人達が笑顔でご家族・ご友人に会えますように。

 

女川の現状を調べてみる。

Googleリアルタイムで、あるツイートが流れた。

『RT @kanajeju: 今日8時半ごろ女川原発に出張に行っている父親から、
 直接電話がありました!
 今父親は食料調達のため石巻の赤十字に向かっているらしいので、
 通れる道ができたのではないでしょうか。
 とりあえず女川原発にいる方は確実に無事です!
 自衛隊も昨日入ったとのことです!』


さらにmixiでの無事確認情報で、

『避難している女川町の人達は、自分達で瓦礫をどけ、陸路を切り開いているそうです!』

『体育館も避難場所になっていて、千人単位の方々がそこに避難しているそうです!』

『食料は地元の人達を優先に配っていてみんなで節約しながら食べている。
 でももう底をつく限界という訳ではないそうです。』


ということは、原発施設から町までの道が開けたということ!!

そして、女川の町で支援活動が行われているのだから、そこから食糧も調達できるということ!!


『町立病院で働く従姉妹から連絡がきました。石巻←→女川では移動ができるみたいです。』

更に、石巻や女川町の旭ヶ丘まで行けば携帯の電波が入るようだとの情報も!!

 

一歩一歩確実に状況が好転してる!!

女川町の人達は、単に救助を待つだけでなく、自分たちからも立ち上がってる!!

そして、こちらにいる皆もそれぞれ行動してる!!

 

では、今度は何ができるんだろう??

今現地へ赴くのは得策じゃないと思う。

・ まず、ただでさえガソリンが不足している
  避難されている方だって、ガソリンさえあれば移動できるし、
  電力も僅かながら確保できるはず。

・ 水・食糧の問題
  行ったとしても、滞在中の自分の水・食糧を完備する必要があるはず。
  避難されている方のための救援物資を自分が使うことになってしまっては意味がない。

・ 何もできないのでは??
  今私達が向かったところで、出来ることはあるのだろうか?
  無い。
  食糧配給にしても交通・調理に伴う燃料を消費することになり、
  それよりは業者・プロの救助隊での大型物流に使用してもらった方が効率がいい。

 

今はもう少し時間が必要かもしれない。

行動を起こすなら、現地の受け入れ体制が整ってから。

 

なら、何が必要か??

自分が向こうの立場なら、何が欲しい??

 

・ 電力: 携帯の簡易充電器や充電器用乾電池。家族に安否を知らせるために。

・ 水: 個人が貯えておくには重すぎるが、消費は早い。
     定期的な供給が行われればベスト。

・ 食糧: 乾パンなどの非常食ではなく、暖かい汁物とか、精神的に落ち着く食べ物が欲しい。

・ 燃料: 遠すぎないが近くもない、車で移動する範囲にいる知り合いの安否を確かめたいが、ガソリンが無い。
       食糧配給にも暖をとるにも燃料が必要不可欠。

・ 日用品: 津波が来たのだから着の身着のまま。
        各種各サイズの下着 ・ 歯磨きセットや石鹸 ・ 消毒用アルコール
        傷薬や風邪薬、とげぬきや爪切り ・ リップクリーム ・ コンタクト用品
        挙げればキリがない

・ 女性&お子様特有の必要なもの
       生理用品やおむつ・粉ミルクなどの消耗品

もちろん全て新品もしくは清潔なものに限る。

 

そして資金。

 

障害は大きい。

欲張っても何もならない。

この中で、自分ができること。

もう少し考えてみよう。

 

みんな頑張ってるもん。

また、サンマ祭り行くんだもん。

また、ゆぽっぽでお風呂入るんだもん。 


地震の記録⑧ 3月14日

2011-03-14 23:10:00 | 徒然

2011年 3月14日 月曜日


今日から仕事…のはずだったが、輪番停電の影響で休みになった。

電車も動かないし、あまり変化は期待できないが、女川町の情報を集めることに。

 

昨日手に入れた情報は以下の通り。

・ 地震発生時、弟は浦宿にある社員寮にいた

・ 13日の朝に原発施設についた

・ 最初は車で向かおうと思ったが、途中までしか行けず徒歩で向かった

・ 津波は浦宿寮を避けたので無事

・ 食糧は底を尽きかけているが、とりあえずはまだ大丈夫

・ 女川原発の原子炉は確かに停止していて問題なし

・ 他の職員も元気にしている

・ 外部に流れている情報の通り、衛星電話はバッテリーが少ないのであまり使えない

 

これらの事と、今まで調べた情報を合わせると、

寮がある浦宿が面する万石浦は内海のようになってるため、津波の影響は少なかったのでは。

もし、津波が寮の建物自体を襲ったのなら、寮に停めてあった車がすぐ動くとは考えられないので、浦宿を津波が通ったとしても建物を避けたというのは本当だろう。

車で向かおうとしてが無理で、徒歩で向かったということは
原発施設が孤立しているという情報から
寮から原発までの道のりの間を津波が通り、道が寸断されているのでは。
他の被災地の水が中々ひかない事をみても、ある程度まで水が引くのを待って、
それから同じ寮の仲間と一緒に13日の朝、歩いて原発に向かったのではないか。

大体寮から施設まで車で30分かかるので、歩いて3~4時間だと考えると
13日の朝6~7時に出発し、弟が施設について休んだりしている間に社員の方が父に連絡を入れたのでは。

 

弟は救助を待つ身であるのに、

「早いとこ炉の点検と復旧をして、電力回復に努めますよ~」

と、笑いながら言っていた。

 

たぶん、普段の私達姉弟の会話がふざけたものばかりなのに
真面目に心配していた私へ対する照れ隠しだったかもしれない。

食糧も少ない中で不安なはずなのに、明るい声を出していた。

 

声が聴けたから大丈夫。

 

報道はされていないけど、救助活動は行われていると信じています。

きっと、道路が寸断されているから、救出経路を確保するのに時間がかかっているだけ。

 

そうこうしている間にmixi情報で、寮母さんが無事だという知らせが届く。
浦宿寮も避難場所のひとつになっているとのこと。

続々と無事確認の情報が出てきている。

 

報道されないのは、マスコミが入れないだけ。

それよりも、大きな事故だったり起こってしまっているから。
福島も本当に心配。
同じように現場で作業している方々にだって家族がいる。
その家族の気持ちを思うと、やるせない。

本人たちだって、自分の危険を省みずに作業してくれている。
家族だって、本当はそばにいたいだろうに、ぐっとこらえてる。

弟の声を聴けた、そしてみんな無事だった、たくさんの人が気にかけてくれた私は幸せ者だ。

 

情報をさがしていると、周りの不安を煽りたいのか女川原発も危ないというツイートが流れる。
原発サイトで見れる放射線濃度の値が高すぎるとか。

女川原発のサイトで逐一更新される放射線濃度を見てみる。

数だけ見ると6000とかだけど、単位はナノだ。
つまり6マイクロってこと。

どうみても福島の影響や、天候・地形による増幅などの影響が出ただけに過ぎない。
自然界では気温や湿度・太陽光・反射光など、様々な要因があるのだから。

レントゲンで用いる放射線濃度の1000分の1以下の間で増減したからって、
女川原発が危険になってたまるか!

 

今日も救助されたという報告は無かった。

でも大丈夫。

あのあたりは地形も入り組んでいるし、避難場所も分散されてしまってる。

携帯が使えないから、それぞれ孤立してしまった避難場所をひとつにまとめることは困難。

それに、やはり被害が大きいのは確かであって、
救助する人数だって限りがあって。

それにそれに、津波で倒壊した建物の下で今でも救助を待っている生存者がいるかもしれないから、下手に車両乗り入れや重機は使えないわけで。

 

だから、今日じゃなくても大丈夫。

人間は思ってるより強いもん。

特に逆境に強いもん。

 

でも、出来れば早めに

「出てきたー」って声と「今ご飯食ってる」っていう呑気な声を聴きたい。

 


地震の記録⑦ 3月13日

2011-03-14 23:09:29 | 徒然

2011年 3月13日 時間不明 昼


ある程度弟の安否が確認できたので、あとは女川町の現状について調べることにした。

被害の度合いのせいなのか、女川町や女川原発についてはほとんど報道されない。

たまに出るテレビのテロップには
【女川町 壊滅状態】
だけ。

もういい。
知ってるから。
津波がきたんだもん。
そりゃ家だって壊れるよ。

せっかく少し奮い立った気持ちを潰さないで。
簡単に【壊滅】って言わないで。

生きてるんだ。
映ってないだけで、生きてるんだもん。


集中すると太陽が動くのが早い。

また暗くなった。

 

変わらず情報集めと情報提供を続ける。

あまり変化のない情報だとしても検索せずにはいられない。

推測で女川原発は本当はやばいから報道されないんじゃないかというツイートが流れる。

あくまでそっちは推測だ。

本当は安全だもの。

電話来たって父が言ってたもん。

 

携帯の着信音が鳴り、父かと思って画面を見ると02から始まる番号。

もしかしたら! と思い、急いで通話ボタンを押した。

「あー、もしもし?姉ちゃん?」

懐かしい声。

一番、今一番聞きたかった声。

 

不思議と涙は出なかったが、全身が震えてうまく言葉を話すことが出来なかった。

喜びで身体が震える、というのはこの事かな。

 

無事を喜び、ついでと思っていくつか聞いていた他の原発職員や関係者について尋ねる。
尋ねた人が無事でいると聞き、私と同じように喜んでくれる人が増えると思って嬉しかった。

弟は会社の衛星電話を使って連絡をとってきた。
たぶん、順番がまわってきたのか、
家族に直接声を聞かせてやりたいと上司が気にかけてくれたのか。 

他からの情報によると衛星電話は数少なく、バッテリーも危ういらしい。

弟に確認すると、その通りだとのこと。

他にも外部に連絡したい人は大勢いるだろうし、電力もあまり使えないだろう。

短い時間に出来るだけの情報を入手し、またこちらが手に入れていた外部の状況を伝えた。

向こうは外がどうなっているのか知らないから。

 

13日09時の時点で救助隊が女川・石巻を中心に救助活動開始。

その情報を伝え、ねーちゃんも頑張って情報集めたりして待ってるから
頑張れと伝えて電話を終えた。

 

震えの止まらない手に握られたままの携帯から再び着信音が鳴る。
地震直後から交代時間の度に連絡をくれる相方。

あれから4時間交代・缶詰状態で連日勤務なのに、心配までかけてしまった。

しかし、毎回ものすごい良いタイミングで電話をくれるけど、見てんのか??

 

弟と直接話せた事を伝えると喜んでくれた。

きっとこれで向こうも安心して仕事が出来るだろう。

 

Twitterで協力してくれた人に弟の無事と感謝を伝え、
mixiの、同じように原発職員をご家族・ご友人に持つ方々に弟の安否と手に入れた情報を伝えた。

 

その後は久しぶりに眠った。

まともに眠った。 

 


地震の記録⑥ 3月13日

2011-03-14 23:08:49 | 徒然

2011年 3月13日 日曜日 未明


何時か忘れたけど、Twitterで知り合った、女川町で医療活動をする人の事を思い出した。

連絡が来ていた。


『自分は原発施設までは行けなかったが、女川町役場の人からの情報で
 原発職員は全員無事でいるとのこと。確定情報ではないですが。』


それだけでも嬉しかった。

弟本人がそこにいるかどうかはまだわからないけど、
どんな形であれ、弟に関する良い情報が聞けると勇気が出る。


朝になったら実家に連絡しよう。

情報集めを続けていると、
何人か原発施設内に避難している人と連絡がとれたという人が出てきた。

方法は衛星電話かPCメール。

4、5年前に弟がホットメールを利用していたことを思い出し、
無駄だと思いながらホットメールのアドレスに送る。

無精な弟だから、十中八九ホットメールの存在を忘れているだろうけれど。


そうしていたら朝10時30分くらいにまた大きめの余震。
あの後からちょくちょくあるけど、慣れない。

心配したのか父からのメールが届く。

『しんど4がでたけど、大丈夫か、たった今、東北電力から、連絡かきて
浦宿の仲間と一緒に避難していることが、確認が、とれたと、
電話があったから、安心したよ。』

どこでどう区切ったらいいのかわかんないいつもの父のメール。

でもびっくりしすぎて返信の文章が思いつかなくて。

とりあえず父に電話をかけた。

 

社員の方が弟の存在を確認したので、父に電話をかけたのだという。

ほっとして涙が出た。

良かったー!

 

そしたら丁度交代時間になったのか、相方から電話が来た。

父からのメールの事を伝えると、また泣けてきた。

 

ほっとしたら、なんかお腹が減ってきた。

そして、笑えるくらい何にも食べていなかったと気づく。

あれから2日目の朝を迎えていたなんて信じられない。

長い長い一日の途中みたい。

 

とりあえず適当に食べ、
心配をかけてしまった同僚や友達や親戚に連絡があったことを伝え、
mixiの方にも、原発職員が無事に施設に避難していると連絡が実家に届いたと伝えた。

ふーって息をついて、頭を垂れたらそのまま寝てしまった。

連絡をし忘れていた友達からのメールで目が覚め、慌てて弟の無事確認を伝えた。

 

ほっとしたらまた涙が出た。
こんなに涙もろかったかい。

今までの中で一番確信が高い情報。

弟は大丈夫!

 


地震の記録⑤ 3月12日

2011-03-14 23:08:16 | 徒然

2011年3月12日 土曜日 時間不明 朝から


Twitterの情報を眺めていると、直接女川の人とコンタクトを取った人や現地で医療活動を始めている人の情報が目に付き始めた。

現地で医療活動を始めている人に、感謝と情報をツイートしてくれたお礼をしてみた。

すると、私宛に返信というものが来た。
こうやってコミュニケーションをとったりできるのか。

これから女川に入るから、よければ弟の名前などを教えてくれないかという内容。

ほんの少し迷ったが、こんな状況だ。
職場と名前を伝えた。

戻りは深夜になるとの事だが、時間なんて関係ない。
実際に現地にいて、情報をくれる人と連絡がとれたのだ。
あとは待っている間にできることをするだけだ。


調べていくと、女川町は地震が来てから津波が襲うまで
約50分の時間があったことがわかった。

それならば避難する時間もあったはず。

津波の影響で女川町をカバーしていた電波塔が全て壊れ、携帯での連絡は不可能。

だったら、携帯がつながらない理由わかる。

仙台放送の内容のツイートで、原発施設内に約2000人が避難との情報。

きっと、きっとその中に弟も…。

Twitterに加えてgoogleリアルタイム検索も利用した。
内容は結構かぶるが、それでも流れてくる情報を少しでも多く手に入れたかった。

気が付くと、外が暗くなっていた。

 

しばらく放置していたmixiの方を見てみると、
同じように家族の安否を知りたい方々からの『情報求む』の書き込み。

協力できればいいけど、今は弟の安否が知りたい。
その経過で偶然にも手に入れることが出来た共有できる情報なら教えられるけれど、
今は何もない。

他の人の手助けどころか自分が本当に知りたい情報を手に入れられない自分に
無力さを感じて悔しくなる。

情報がなんでもいいわけじゃない。
弟が無事に施設内にいるという確実な情報が欲しい。

 

気付くと、とっくの昔に日付がかわっていた。