今日は昨日と打って変わって暖かい一日でしたね!
久しぶりの陽射しに、ウキウキ洗濯三昧の時間を過ごしました☆
結構早く乾いて、陽射しが強くなったんだなぁ、と
こんな所でも春の気配を感じてしまいました。
さて今日は…「神」について書こうかなぁ。
私はどの宗教にも、どの団体にも属してませんし、
特定の何かを信仰している、と言う訳でもありません。
私がこのブログで「神」と書く場合、特定の名前のあるような神様や
人格神のような存在ではなく、もっと大元の…自然や宇宙そのものの存在、
私達全ての根源である大いなる源の存在を意味しています。
ですので、人間の本質は「神」である。と言う時は、この「根源の存在」
の事を指しているんですね。
私達の「意識」は、根源の存在の「純粋な意識」と同じです。
根源の存在を「大海」とするならば、私達の意識は「一滴の海水」。
でも、一滴でも海水は海水。成分も同じ。
海に戻れば、同じ「大海」に混じります。
そう言う意味で、私達の本質は「神」である、と言うんです。
ですので、「汝自身を知れ」と言うように、自分自身を知ることが、
宇宙(神)を知ることになるんです。
私達に「創造する力」があるのも、不可能を可能にしてしまう力があるのも、
宇宙そのものである存在と、同じだからなんです。
と、言うことで結局、「みんな同じ存在」であり「一つ」と言うことなんですよね。
神=宇宙=愛=調和=光=宇宙の法則=純粋な意識=…挙げていたらキリがな
い!!
でも今は「神」と言うと、特定の神を喚起させますし、宗教色が強くなってしまう
ので、どうしても受け入れ難い人もいると思うんです。
そう言う「イメージ」は控えたいんですが…中々難しいですね。
特に日本は八百万の神と言って、トイレにも神様がいるぐらいですから(笑)
宇宙そのものである根源の存在から、トイレの神様みたいな身近な存在まで
みんな「神様」で一括りですからね~混乱しますよね。
ちなみに私は宗教には入っていませんが…「信仰心」はあるんです。コレが。
何かいいことがあると、思わず手を合わせて「ありがたや~」って言いたくなる(笑)
し、「神に感謝する」って気持ちになります。
宗教については否定はしないんですが…やっぱり「組織」になった段階で
もうそれは「金儲け」のツールになってしまう気がするんです。
(カルト宗教は言わずもがな!)
たとえばキリスト教。
もともとのイエスの教え、と言うか彼の言った言葉は純粋に
「その通りだなぁ」とか「素晴らしいなぁ」って思います。
当時は「目には目を」的な、やられたらやり返すことが普通の価値観の中で
「隣人を愛せ」「汝の敵を愛せ」「右頬を打たれたら左頬を出せ」と、
「愛」による「平和」「調和」を説いていたんですものね。
彼は自分を崇めて欲しくて「神の子」と言った訳ではなく、
「人間の代表」として、私が神の子であるならば、全ての人間が神の子だ、
と言いたかったんだと思うんです。
自分が出来ることは、皆出来る、と言って様々な奇跡を見せ、
人間の持つ無限の可能性を示してくれた。
それは、委ねること。信じること。
自分の内側にいる「父なる神」を信じて(エゴである自分を手放して)
あるがままに受け入れること。
あらゆる制限から解き放たれ、真の意味で自由になること。
(疑いのない状態でいれば、水の上も歩けるよ!って)
けれど…人々はすがってしまった。
「自分で何とかしよう」じゃなく、「神に救ってもらおう」と。
この「委ねる」と言うのは、自分自身の内なる神に委ねる、と言う意味で…
「外側の神」に委ねるってことではないんですよね。
三位一体ですから結局、父と子と精霊は皆同じ。
けれど…表面だけしか理解していないと「(外側の)神にすがる」と言う
意味になってしまう。「依存」です。
今でも、そう言う傾向がそこかしこで見られる訳ですから、
2000年前の世界ならなおさら、そうだったんだろうなぁと思います。
イエスは自分の言葉を弟子に「書くな」と言ったそうです。
「よき知らせは行って伝えよ」と言って、決して残さないよう
弟子に言い含めていたのに、彼らはそれを書いて残してしまった。
それによって、イエスの純粋な教えは、時代と共にどんどんまるで伝言ゲームのように
後の人たちの勝手な解釈で歪められてしまったように思います。
政治に宗教が絡むともう、その時点で民衆を支配するための道具ですよね。
結局、弟子の人達誰一人、イエスの教えを真に理解していた人はいなかったって
ことですよね。
純粋なクリスチャンは、イエス・キリストただ一人だ、と言っていた人もいました。
有名なモーセの十戒も、「~するな」と言う戒めではなく、
「~しない」と言う但し書きのようなものだったそうです。
それが時間と共に戒律になってしまい…
そうやって自分は無力な「迷える子羊」であり、神のお導きがなければ何も出来ない。
そんな自分が「神の教え」さえ守っていれば救われる、と言うような
今の宗教が出来上がってしまった。
宗教が「依存」になってしまっているのは、本当に残念だなぁ、と思います。
「信仰」する心、大自然や宇宙やそういったものを「敬う心」と言うのは
とても尊いことだと思うんです。
あとは、宗教間での争いを生んでしまったことも、残念ですよね…
「集団的エゴ」がいかに恐ろしいか、いかに周りが見えなくなるか、
見せてくれた例でもあります。
私の家はクリスチャンでも何でもなかったのですが、親が行かせてくれた幼稚園が
「聖母幼稚園」と言う教会が目の前にある、キリスト教系の幼稚園でした。
そこで会った神父様やシスターたちは、とても清らかで、優しい人達でしたし、
何と言うか、とても謙虚なんですよね。
教会で平和の為に一心に祈る姿、と言うのはとても美しい。
しかも教会って、何だか荘厳な気持ちになりますしね!不思議と。
そこで学んだことは後の私にとって、とても重要なものとなりました。
両親には感謝です!
しかし…神様、と言ってもぴんとこないかもしれません…
そう言う時は!私達を見守ってくれている存在は必ずいますので、
彼らに「いつも見守ってくれてありがとう」と感謝するといいと思います!
きっと喜んでくれるんじゃないかなぁ゜*。(*´Д`)。*°
自分ひとりで生きているんじゃないぞ、って見守ってくれているぞ、
と言う認識にもなりますしね。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!
感謝
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久しぶりの陽射しに、ウキウキ洗濯三昧の時間を過ごしました☆
結構早く乾いて、陽射しが強くなったんだなぁ、と
こんな所でも春の気配を感じてしまいました。
さて今日は…「神」について書こうかなぁ。
私はどの宗教にも、どの団体にも属してませんし、
特定の何かを信仰している、と言う訳でもありません。
私がこのブログで「神」と書く場合、特定の名前のあるような神様や
人格神のような存在ではなく、もっと大元の…自然や宇宙そのものの存在、
私達全ての根源である大いなる源の存在を意味しています。
ですので、人間の本質は「神」である。と言う時は、この「根源の存在」
の事を指しているんですね。
私達の「意識」は、根源の存在の「純粋な意識」と同じです。
根源の存在を「大海」とするならば、私達の意識は「一滴の海水」。
でも、一滴でも海水は海水。成分も同じ。
海に戻れば、同じ「大海」に混じります。
そう言う意味で、私達の本質は「神」である、と言うんです。
ですので、「汝自身を知れ」と言うように、自分自身を知ることが、
宇宙(神)を知ることになるんです。
私達に「創造する力」があるのも、不可能を可能にしてしまう力があるのも、
宇宙そのものである存在と、同じだからなんです。
と、言うことで結局、「みんな同じ存在」であり「一つ」と言うことなんですよね。
神=宇宙=愛=調和=光=宇宙の法則=純粋な意識=…挙げていたらキリがな
い!!
でも今は「神」と言うと、特定の神を喚起させますし、宗教色が強くなってしまう
ので、どうしても受け入れ難い人もいると思うんです。
そう言う「イメージ」は控えたいんですが…中々難しいですね。
特に日本は八百万の神と言って、トイレにも神様がいるぐらいですから(笑)
宇宙そのものである根源の存在から、トイレの神様みたいな身近な存在まで
みんな「神様」で一括りですからね~混乱しますよね。
ちなみに私は宗教には入っていませんが…「信仰心」はあるんです。コレが。
何かいいことがあると、思わず手を合わせて「ありがたや~」って言いたくなる(笑)
し、「神に感謝する」って気持ちになります。
宗教については否定はしないんですが…やっぱり「組織」になった段階で
もうそれは「金儲け」のツールになってしまう気がするんです。
(カルト宗教は言わずもがな!)
たとえばキリスト教。
もともとのイエスの教え、と言うか彼の言った言葉は純粋に
「その通りだなぁ」とか「素晴らしいなぁ」って思います。
当時は「目には目を」的な、やられたらやり返すことが普通の価値観の中で
「隣人を愛せ」「汝の敵を愛せ」「右頬を打たれたら左頬を出せ」と、
「愛」による「平和」「調和」を説いていたんですものね。
彼は自分を崇めて欲しくて「神の子」と言った訳ではなく、
「人間の代表」として、私が神の子であるならば、全ての人間が神の子だ、
と言いたかったんだと思うんです。
自分が出来ることは、皆出来る、と言って様々な奇跡を見せ、
人間の持つ無限の可能性を示してくれた。
それは、委ねること。信じること。
自分の内側にいる「父なる神」を信じて(エゴである自分を手放して)
あるがままに受け入れること。
あらゆる制限から解き放たれ、真の意味で自由になること。
(疑いのない状態でいれば、水の上も歩けるよ!って)
けれど…人々はすがってしまった。
「自分で何とかしよう」じゃなく、「神に救ってもらおう」と。
この「委ねる」と言うのは、自分自身の内なる神に委ねる、と言う意味で…
「外側の神」に委ねるってことではないんですよね。
三位一体ですから結局、父と子と精霊は皆同じ。
けれど…表面だけしか理解していないと「(外側の)神にすがる」と言う
意味になってしまう。「依存」です。
今でも、そう言う傾向がそこかしこで見られる訳ですから、
2000年前の世界ならなおさら、そうだったんだろうなぁと思います。
イエスは自分の言葉を弟子に「書くな」と言ったそうです。
「よき知らせは行って伝えよ」と言って、決して残さないよう
弟子に言い含めていたのに、彼らはそれを書いて残してしまった。
それによって、イエスの純粋な教えは、時代と共にどんどんまるで伝言ゲームのように
後の人たちの勝手な解釈で歪められてしまったように思います。
政治に宗教が絡むともう、その時点で民衆を支配するための道具ですよね。
結局、弟子の人達誰一人、イエスの教えを真に理解していた人はいなかったって
ことですよね。
純粋なクリスチャンは、イエス・キリストただ一人だ、と言っていた人もいました。
有名なモーセの十戒も、「~するな」と言う戒めではなく、
「~しない」と言う但し書きのようなものだったそうです。
それが時間と共に戒律になってしまい…
そうやって自分は無力な「迷える子羊」であり、神のお導きがなければ何も出来ない。
そんな自分が「神の教え」さえ守っていれば救われる、と言うような
今の宗教が出来上がってしまった。
宗教が「依存」になってしまっているのは、本当に残念だなぁ、と思います。
「信仰」する心、大自然や宇宙やそういったものを「敬う心」と言うのは
とても尊いことだと思うんです。
あとは、宗教間での争いを生んでしまったことも、残念ですよね…
「集団的エゴ」がいかに恐ろしいか、いかに周りが見えなくなるか、
見せてくれた例でもあります。
私の家はクリスチャンでも何でもなかったのですが、親が行かせてくれた幼稚園が
「聖母幼稚園」と言う教会が目の前にある、キリスト教系の幼稚園でした。
そこで会った神父様やシスターたちは、とても清らかで、優しい人達でしたし、
何と言うか、とても謙虚なんですよね。
教会で平和の為に一心に祈る姿、と言うのはとても美しい。
しかも教会って、何だか荘厳な気持ちになりますしね!不思議と。
そこで学んだことは後の私にとって、とても重要なものとなりました。
両親には感謝です!
しかし…神様、と言ってもぴんとこないかもしれません…
そう言う時は!私達を見守ってくれている存在は必ずいますので、
彼らに「いつも見守ってくれてありがとう」と感謝するといいと思います!
きっと喜んでくれるんじゃないかなぁ゜*。(*´Д`)。*°
自分ひとりで生きているんじゃないぞ、って見守ってくれているぞ、
と言う認識にもなりますしね。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!



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