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☆Rainbow Light☆

日々の徒然日記。最近は日本の現状を綴っています。

自由3

2009-12-14 | 池田晶子(哲学)


こんにちは!ご訪問ありがとうございます。


いやぁ~。

さっき何気に人気ブログランキングのバナー置き場に行ってみたら、季節のバナーってのがあったんですね!こんなんとか↓

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カワイイっす☆

ってなわけで、早速うちもクリスマスバージョンを設置~!

ふっふっふ。これでポッチリが増えるかも!?

なんつて。



さてさて!では早速、昨日の続きでっす!


「池田晶子著 14歳からの哲学より抜粋」


人間はあらゆる思い込みによって生きている。その思い込み、つまり価値観は人によって違う。

その相対的な価値観を絶対だと思い込むことによって人は生きる指針とするのだけれども、まさにそのことによって人は不自由になる。

人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。

それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には存在しない。

自由とは、精神に捉われがないということだ。

死の怖れにも捉われず、いかなる価値観にも捉われず、捉われないということにも捉われない。

何でもいい、何をしてもいい、何がどうあってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。

いや、本来全ての人は完全に自由なんだ。

自分で自分を不自由にするのでなければね。




以上、自由の章、抜粋終わり!

ホントこれはまさに、私が言いたいことで…

本来人は何にも縛られずに自由であるんです。

憲法や法律で保障されなくとも。

けど様々な思い込みや「社会のルール」を信じ込むことによって、「自分で自分を不自由にしている」状態、なんですね。

自縄自縛、雁字がらめ…

その思い込みに気付いて、一つ一つ手放すたびに、自由に、楽になっていくのが分かると思います。


あのね。

高尚な目的とか使命とか、なくてもいいんだと思うんだ。

世界を救うためとか、人類を助けるためとか…
悟りを開くためとか、究極体験をするためとか…

そんな大げさなものじゃなくて「いまここにいる?心は安らいでる?」ってことだと思う。

たくさんの思い込みで縛られていると、苦しいですもんね。


でも…前回の記事でも書いたように、私達には「怖れ」がある。

解放されるって分かっていても、それを「アイデンティティー」にしていると日常の過ごし慣れた「苦しみ」に戻ってしまう。

自分が自分である所以、アイデンティティーを「必要だ」と思っている限り、手放すことを怖れてしまうんですよね。

でも本来、私たちは「何ものでもない」んです。

「何ものでもない」ってことは「全てである」ってこと。

ちっちゃなアイデンティティーを手放したからと言って、損なわれるものなんて何一つない。

表面上、どんなに傷付いているように感じても。

なのでいまの自分をそのまま「受け入れる」(許す)と、必要ないものは自然とはがれていきます。

無理に手放そうとしなくてもいいんですね。そのままで。



でもね~やっぱり「考える」って疲れますよね…

今更ながら哲学の本を読んだりしてるんだけど、哲学者ってどうしてこうまどろっこしいのか…!

昔は娯楽が少なかったから、議論も娯楽のうちだったのかもしれないなぁ。

興味深いことは確かなんですが。。。

とは言え私の結論は「当たり前のことに疑問を感じる視点は素晴らしい!でも考えすぎない!」でした…


今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!感謝


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自由2

2009-12-13 | 池田晶子(哲学)

こんにちは!ご訪問ありがとうございます!



いやぁ~!あっと言う間に一週間も経ってました!

お久しぶりでございます。

中々更新できないにもかかわらず、訪れてくださった方々、ポッチリ押してくださった方々、ありがとうございました!

ちょっとじ~んと…嬉しかったです!(ノД`)・゜・。

めっきり冬めいて参りましたが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか!?

11月12月と、さまざまな感情が表面化して「大掃除」な方も多いかと思います!

でも、落ち込んだりしなくてもOKです!それでよし!

あ~キレイになってるんだなぁ~っと思いつつ、必要のなくなったものはどんどんさよならしちゃいましょうね!

何度も何度も同じことを書いているけれど…

表面上はどんなに「辛い」「苦しい」「悲しい」「痛い」ことだったとしても、自分にとって最善のことが起こっているんだ。

宇宙は味方!信じた(委ねた)分だけの流れがやって来る。

どんな「いま」でも、「いま」を受け入れようね!

深呼吸とともに。そう!これでよし!なのだ!



さてさて。

今日は長い間滞っていた、「自由」について書こうかなぁって思います。

もちろん、池田晶子さんの「14歳からの哲学」からの抜粋!でございま~す!



自由というのは、他人や社会に求めるようなものではなくて、自分で気がつくものなんだ。

自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だ、とこう気付くことなんだ。

自分で判断するのでなければ、どうしてそれが自分の自由であるはずがあるだろう。

自由は判断する精神の内にある。

精神の内にしかないんだ。

そう、精神の自由とはまず「怖れがない」ということだ。




人間、本来は自由です。

何をしてもいい。

何をしてもいいのなら、何をするのか?

それを決めるのは「自分自身」。

池田さんはここで「善悪」と言う言葉を使っていましたが、「やりたいこと、やりたくないこと」って思えばいいと思う。

宇宙はネ。善悪はないけど、敢えていうなら対極のない「至高の善」なんだ。

だって本当に「悪」なら、存在すらできないんです。

存在できているってことは、宇宙に存在を許されているってこと。

光と闇と同じで。

なので、宇宙の流れに乗るってことは「自分にとって(=みんなにとって)よいこと」をやるってことなんだ。

それが「自由」ってこと。

「怖れ」のない、自由。

よく「わくわくすることをやる」って言いますよね!

そこには「怖れ」がない。

「自分のやりたいことをやる!」ってことですもんね。

それが「宇宙の流れに沿っている」ってことなんです。

結局、みんな本当の意味で「自由」になって「やりたいことをやっていいよ」ってなると、「いいこと」しかやらなくなるという(笑)

むふふ。


やりたいことをやろう~!

間違ってもいいし、失敗してもいい。

それが必要ってときもあるもんね。

あぁそうだったのかって気付くことができる。

どんなときも、宇宙は味方なのだ!

あんまり考えすぎないようにね~!



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自由1

2009-12-03 | 池田晶子(哲学)
こんにちは!ご訪問ありがとうございます!


今日は「自由」について書きたいと思います!

以前書いた記事でっす。参考までに!

関係ないこともたくさん書いてありますが…

(なんつ~か…昔からこうだったのね…
テーマがヨタヨタ、あっちいったり、こっちいったり…ゴメンよ!)


「自由と責任」

「イメージ」


私達は、本来自由な存在ですよね。

何をしてもいい。どんな生き方をしてもいい。

けれどもその「自由」に対しての「責任」がある。


で。

池田さんの本を読んで、面白い表現が載っていました。

私達は「自由に、好きに生きていい」と言うと、

「悪い人が好きに生きたらどうなる!?」と心配しますよね。

悪行の限りを尽くすんじゃないか!?と。

いい事をする自由があるなら、悪いことをする自由もあるはずだ、と。

で。

池田さんはそれについて、こう言っています。



人は常に自分にとってよいことをしたいはずなのだから、よいことではない悪いことを、知らずにしているその人は、本当は、自分がしたいことをしているのではないということになる。

自分では、自分は自分のしたいことをしていると思っているのだけれども、本当は自分がしたいことなんかしていない。

自分がしたいことをしていないのだから、自由ではない。

だから、悪いことをすることは、自由ではない。


(池田晶子著 14歳からの哲学より抜粋)



ね!面白いでしょ!?

「悪いこと」をするとき、実はその人は自分の意志で自由に選択したのではない、と言うこと。

「こうすることが自分にとってよいことなんだ」か、または「こうするしかない」と言う「思い込み」によって泥棒や殺人の選択をすることは、確かに真の「自由」ではないですよね。

「思い込み」が選択することさえ、できなくしているんですね。

確かに人はどこかで「悪いことかも」と思っていたとしても、「自分にとっていいこと」しかできないって言うのは納得。

けれども結局、「自分にとっていいこと」をしているつもりが、「知らない」ことによって逆に「自分にとって悪いこと」をしているパターンが多い。

「自分さえよければ」がそうですよね。

と言うことは「悪いことをする自由」なんて最初っからないんだってこと。
(それは自由とは言わない)

長くなりそうなので、今日はここまで。


この「自由」についてはちょっと興味深いので、明日も続きま~す。

他の人の考え方やものの見方を知るのは、とても勉強になりますよね!



今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!感謝


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何ものでもない

2009-12-01 | 池田晶子(哲学)

こんにちは!ご訪問ありがとうございます!


ちと、昨日の「考える」の付け足しをば。

池田さんは「考える」ことの大切さを説いていましたが、それはやはり「自分とは何か」などの命題について考えること…

意識的にお題を与えて「思考の方向性」をつけることが大切なのだと思います。

とりとめのないことを、無意識にずっとぐるぐる「考える」ことではなくて。

そして彼女が「自分とは何ものでも、誰でもない」、すなわち「Nobody」と言う答えにたどり着けたのは、思考を超えた「気付き」があったからだと思います。

「あっ!そうか」と言う内からやってくる直感、最初から「そうである」ものに気付く瞬間。

自分は何ものでも誰でもない、なんて、思考だけでは絶対たどり着けませんもんね!

私も左脳人間なので考えることは大好きなんです。
彼女の言っていることは、とてもよく分かります。

けれどもこの「自分とは誰でもない」と言うことなど、「そうである」ものを、考えずともそのまま受け入れられる人もいると思うんです。

最初から知っていましたよ、と言う感じで。

ですので、池田さんの「考える」こと、これも一つのケースなんですよね。

絶対「そうでなきゃいけない」ってことはないですので!


で、大切なのがこの「自分とはすなわち、何ものでもない」と言うところ。

いわゆる「空(くう)」ですよね。「0」である。

で、何ものでもないってことは、何ものでもあるってこと。

と言うことは「全て」(宇宙)であるってこと。

でね。

私達は「ちっぽけな自分」がこの人生を生きていると思っていますよね。
自分の意志で生きている、と。

ある意味それは間違っていない。

けれどもこの「ちっぽけな自分」の意志では「生まれて」くることも、「死ぬ」こともできないですよね。
自分の生死なのに、自分で決めることさえできない。

と言うことは、この人生も「ちっぽけな自分」の意志では生きていないってことになるんです。

じゃあ生きているのは誰なのかって言うことになりますよね。
私達は「命」を自分で創ったわけではないですし。

それが、「いま命が自分を生きている」ってことなんですネ。

命が、宇宙が、全てが、「自分」と言う「個」を通して生きているんです。


ただ在る。

それに気付き、ちっぽけな自分を超えたその存在を、認めるだけなんだと思う。
(それが委ねる、手放す、帰依するってこと)


でね。

私達は何か目覚めたり悟ったりしたら、何でもかんでも知っているもんだ、と思っているかもしれませんが…

そんなことはありません。(と、私は思いますが、他の人は違うかもしれません~!)

ただそうであることを受け入れる、それだけなんです。

敢えて言えば、分からないことが分かる。
分からないことを、そのままの在りようで認識する。

それが「分かる」ことなのだと思う。

なので…そのシンプルなことに気付いていれば、躍起になって謎を解こうとすることもないんじゃないかなぁ。そのままで。

知る必要があれば、それが「問い」と「答え」と言う「形」でやってくる、みたいな…


たぶん(笑)



今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!感謝


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考える

2009-11-30 | 池田晶子(哲学)
こんにちは!ご訪問ありがとうございます!


いやぁ~!昨日に引き続き。

池田晶子さんの「14歳からの哲学」読み終えました!

面白かった~!素晴らしかった。

今まで読んだ本の中で(小説以外で)三本の指に入るぐらい、面白かった。

読んでいる間、どきどきわくわくするような高揚感と、ちょいっと涙が出そうな感動がありました。

読んでる間は幸せで幸せで。
「オイラここにいるぜ!」って言う、リアルな感覚がありました。

「ほんとうのこと」は、リアルでパワフルなんですよね~。


そのぐらい自分にとっては素晴らしい本だったのですが!

コメント欄にisacさんがAmazonの書評について書いてくださったので、見てきました。

そしたら!ホントに真っ二つ。

面白くない、分からない、疲れる、最初のページで読むのをやめた、などなどと、バッサリ。

もしこの本を買おうと迷ってらっしゃるなら、この書評も見るといいかもしれません。両方の意見が見れて面白いですよ!

内容が分からない、と言うのは分からなくもないけれど、面白かったのは意外にも「偉そう」「上から目線で腹が立つ」「他の人たちは分かってないけれど自分は分かっているって態度が嫌」「傲慢すぎる」「自分の考えを押し付けているだけ」と言う評価もありました。
それで読むのをやめた人もいたりして。

これにはちとびっくりしました。

自分はそんなこと、読んでいて全く感じなかったんですね。
語りかけ口調で書かれているので、優しいな~と思ったぐらいで。
そう受け取る人もいるのか!!と。

これこそ、以前の黒斎さんのところで記事にあった「人は自分の思うように受け取る」ことなんだなぁ、と。

特に『やさしさを持て』に書いてあったように

「娯楽用に書かれた本ではなく、まとまった主張や思想を書いた本は性格のきつい人間のようなものだ。

読むとは、そういう人間とつきあうということと同じだ」なんですよね。

もっと押し付けがましい本や、ドギツイ表現の本はいっぱいあるし、そんな本は不快になるから一切読まないとしたら、本当にもったいない。

表現の仕方は人それぞれなので、合う合わないあると思うけれど…大切なのは何が書いてあるか、ですもんね。


あと面白かったのが、池田さんほど「考える」ことをしている人はいないだろうに、「内容が幼稚すぎる」「無知だ」と書いてあったこと。

そう。

内容は一見簡単に思える。

けれども、簡単なものほど、簡単であるがゆえに奥が深いもんなんですよね。



この本には、答えは書かれていません。

なぜなら自分で「考える」ことをススメる本だから。

私達はいつだってどこかに「答え」があると思ってきた。

なので、分からなければすぐに答えを「教えてもらおう」とする。

でも答えなんて、どこにもないんです。

たとえ、別の人が出した「答え」を教えてもらったとしても、それは自分の答えじゃない。

それはただの「情報」に過ぎない。

これは本にもあったけれど「分かる」とは何か、「知る」とは何かってことなんですよね。

これについても面白かったので、ぜひご一読を!


で、ここで問題になるのが「考える」ことですよね。

今まで「考えるな!感じろ!」と再三言われて来たのに、池田さんは「考えろ!」と言う。どっちが本当なの!?って。

ここで注意して欲しいのが、「考える」の意味なんです。

私達が「考えるな!」と言っている「思考」は、いわゆる「無意識、無自覚の思考」のこと。

例えば何かをしていたり、ぼ~っとしていたりすると、頭の中で意図しなくても何かの「思い」が回っていますよね。

「何であの時あぁ言ったのかなぁ~」とか「アノ人嫌な感じだな~」とか「早く仕事終わらないかなぁ~」とか「もうすぐ○○がある。どうしよう~」とか。

いわゆる「考えごと」ですよね。

自分が無意識に、頭のなかで思考をこねくり回している、堂々巡りの思考。
「思考に支配された」状態のことです。

一方、池田さんが言う「考える」は、「意識した、自覚のある思考」を指します。

それは「意識的」でなければ決して考えられないことなんです。

「生きるとは何だろう?」「自分の存在とは何だろう?」「善とは?悪とは?」
この疑問は、無意識でいるときは決して浮かんではきません。

意識的に生きるからこそ、疑問に思う命題なんですね。

それについて「考える」ことは、「気付く」ことを促します。

必ず、「あぁそうか!」と言うヒントに出会える、方向を示す「思考」なんです。

ですので、思考も大切。「考える」ことが出来るのは人間だけ。

ただそれに「支配されるな」「使われるな」ってこと。
無意識に生きていれば、思考に支配されてしまいます。

でも「意識的」に「いま」にいることができれば、そんなことはないんですね。
考える時は考え、考えないときは考えることを「やめる」ことができるから。

ですのでこの「考えるな、感じろ!」と言う言葉一つとっても、それが「知識」ならば、人は「考えちゃだめなんだ」と「言葉通り」に受け取ってしまいます。

そして、考えないように考えないようにしてしまうんですね。

でもその意味が分かれば…「理解」すれば、考えること自体ががダメなんだ、悪いんだと思わないんですね。

なぜなら、そこに到るまでの間、一度は「自分とは何か」「生きるとは何か」「人間とは何か」「命とは何か」「死ぬとはどういうことなのか」と言うことについて死ぬほど考えていると思う。

でも答えは出ない。
けれども、それによって…その問いに「フォーカス」することによって、「気付く」ことが出来るんです。

その気付きをまた、「考える」(思考)によって言葉に翻訳する。
そうして「理解」が深まる。

思考を超えるには「感じる」ことが大切です。
でもその第一歩になってくれるのが「考える」ことなんですよね。


なので、書いてあることが分からなくてもいい。
それらの「根本」の問題について「意識を向ける」ことが大切なんだ。

「なぜなんだろう?」と。それが自分を知る、第一歩だ。


当たり前のことを考えるってことができるようになれば、自分との対話の仕方が分かれば、生きていけるもんね。

誰かのせいにしたり、社会のせいにしたりせずに、自分の人生を「責任」を持って。


最後に抜粋。

自分で考えて知ることだけが「知る」ということの本当の意味で、知識を覚えて知っているだけのことを「知る」とはいわないと言ったね。

まさかこの本を暗記して覚える人はいないと思うけど、一通り読んで、
ハイそういう考え方もあると知りましたというのでは、何を知ったことにもならない。

もし君が、この本に書いてあることを自分で考えて、自分の知識として確実に知ったのならば、
君の生き方考え方は、必ず変わる。変わるはずなんだ。

本当に知る、「わかる」とは、つまりそういうことなんだ。




今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!感謝


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自分とは何か!?

2009-11-29 | 池田晶子(哲学)
こんつわ!ご訪問ありがとうございます!


いやぁ~!今ですね、鉛筆削りさんからご紹介いただいた、池田晶子さんの「14歳からの哲学」を読んでいるんですけれども!

めっさ面白い~!これは面白い。

まだ途中にも関わらず、あまりの面白さにブログに書いちゃいます。

これはホント、みんな読んだらいいんじゃないかな~って思う。

中学生はもちろん、「思い込みでガチガチになった」大人も!

今まで思いもしなかった「当たり前」のことを考えてみよう、焦点をあててみようってもの。

そうすると「あれ?あれれ?」って戸惑う事に気付く。

常識だと思っていたことが、実は「そういえば、どうしてそうなんだろう…」と分かってなかったりするんですよね!

まだ途中なんですが、印象深かった内容をちと抜粋。


「自分とは誰か」


子供は、世界に存在するものには名前があると知り、「ワンワン」「ブーブー」と教えられて覚える。
大人の言葉を真似るんだ。

そしてある時、「○○ちゃん」と言い出す。
大人が自分のことを指して「○○ちゃん」と言っているのを真似て
自分には「○○」という名前があると知るわけだ。

自分とは「○○」のことである、自分と「○○」は同じものであると、ここで思ってしまうんだ。
よく注意してほしい。

その名前を教えられる前、君はただ自分は自分であると思っていた。
いや、正確にはただ自分だったんだ。

その「自分である」ということは、名前より先にあるもの、名前ではない別のもの、また何ものでもない何ものかだったはずなんだ。

(中略)

自分は自分であって自分以外のものではない、名前でも「私」という代名詞でもない、何ものでもないものなんだ。

だけど、その何ものでもないものが、まぎれもなく自分であると、君には分かる。どうして分かるのだろうか?
自分が自分であると、どうして分かるのだろうか。

いろいろ教え込まれる前の小さな子供は、この不思議な感じを理解していることが多いようだ。
残念ながら君たちは、もう十数年も生きちゃって、いろいろ教えられて、いろいろ覚えちゃったから、思い出すのはちょっと難しいかもしれない。

だからって全然遅くなんかないんだ。
まわりの大人たちを見てごらん。

気の毒に、間違った思い込みでガチガチに固まって、こんなの何を言っているのかさっぱりわからないって顔をするはずだから。

間違った思い込みは、自分を名前と思うところから、次第に広がっていくことになる。

世界に存在するものには名前があるから、犬や自動車が存在するのと同じ仕方で、自分と言うものも存在していると思ってしまうんだ。

でもこれは違う。

だって自分はその名前のことじゃないんだから。




と言うふうに、自分自身とは何か、と突き詰めて考えると、ちょっと混乱しますよね。
自分とは体か?脳か?心を指すのか?と。
(ここら辺も、本にはちゃんと書いてあります)

…と言うことは「他人とは何か」と言うことも、同時に分からなくなる、と言うこと。

なぜなら他人とは「自分以外の人間」なんだから、自分の存在が「ここからここまで」と明確に定義できないとしたら、他人の存在もあやふやになってしまう。

で、ここでも一つ抜粋。

「他人とは何か」


自分が絶対的である、というのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり、みたりしているということはありえない、そういう意味で絶対的だということだ。

この自分は「大きいほうの自分」と呼ぶことにしよう。
中学三年生の君は、「小さい方の自分」だ。
これ以後の「自分」はすべて「大きいほうの自分」の意味だ。

君は驚くと思うけど、この意味で、「世界」つまり全てのことは、この大きい自分の存在に依ってっている。
自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。

自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。
世界が存在するから、自分が存在するんじゃない。

世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。
つまり、自分が、世界なんだ。

続きを考えてゆこう。

自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、当然、他人というものの存在もそうだということになる。

世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、それらは全て自分が見ているその光景だ。
自分がもし存在してなくて、自分がみているのでなければ、それらは一切存在しない。

世界も他人も存在しない。、

なぜなら、それらを見ている自分が存在しないからだ。

でも「自分が存在しない」ということは、「ない」、ということも、先に気づいた事だったね。

だからやっぱり、すべては存在するんだ。
存在しないということはなくて、世界も他人も存在するんだ。

全てが自分として存在するんだ。
なぜなら、自分でないものが存在するということはないからだ。
「他人」なんてものは存在しないと最初にいったのは、この意味だ。

他人の存在を認めないとか、世界には自分しか存在しないとか、そんな子供のわがままみたいな話をしているんじゃない。

これは本当に深くて、本当に難しい話なんだ。

世界の謎そのものだと言っていい。



うぉ~気持ちイイ!

自分が存在しなければ、宇宙すら存在しないと言う、説明が困難なことを、理路整然と分かりやすく説明できるなんて~

(この抜粋だけだと分かりにくいかもですが、本では一つ一つの章でかなり詳しく説明されています。特に「死をどう考えるか」を読むと繫がります。)

池田さんってスゴイ人ですね!

哲学書なんて読んだことなかったけど、もっと早く読んどきゃよかった~って思ったけど、これもまたタイミング…

もう一冊、「人生のほんとう」も買ったので楽しみっス!

池田さんの本はめちゃめちゃたくさん出ているので、またぼちぼち読んでみたいと思います!「残酷人生論」もね!

「自分とは何か」って疑問は誰しも一度は考えたことがあると思いますが、ほんと「スタート」なんですよね!

「スピリチュアル」に偏らずに、真っ向から当たり前のことを…「生きる」こと「死ぬ」こと「自分」「他人」「言葉」「言葉の意味」…などを「考える」こと、その先に見える「真実」について語っているこの一冊は紛れもなく良書です。

大抵の人は「自分とは?」と問うと、この皮膚に覆われた体のことだ、と答えると思う。そしてその答えに何の疑問も感じないと思う。
だって、当たり前(と思っている)だから。

が、そこに「本当にそうなのだろうか?」と問いを投げかけること…「生まれたときからそうであった」常識(観念)に、「なぜ?」を問うことに意味がある。

それが真実への一歩だからだ。


あ、最後にもう一つ抜粋。長くなってごめんよっ!

自分は自分でしかないことによって「すべて」である。

(「すべて」というのは文字通り、すべてのこと。
他人も、他人の体も他人の心も、全世界、全生物、全宇宙、つまり森羅万象だ)

矛盾しているように聞こえるけれども、これも自分というものの存在の仕方の真実だ。

矛盾というのはそれ自体が真実であるということも、ちょっと覚えておくと役に立つでしょう。



抜粋を読んで興味が出た人はぜひ!ご一読ください!


今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!感謝


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