みなさんこんにちは!いつもご訪問ありがとうございます!!
そういえば、近所の本屋さん。
小さくもないけど、大きくもない、駅から離れた田舎の本屋さんなんですけど…
最近「精神世界コーナー」なるものが出来ていました。
こんな所にまで!とビックリしたんですが、その内容は、と言えば…
仏教書の隣に預言者があったり、引き寄せの法則系の本があるかと思えば、相対性理論の本があったり、宮沢賢治の本やら般若心経やら…内容はちゃんぽん。
とりあえず宗教、オカルトっぽいものは全部「精神世界」にしちゃえ!みたいな…
うーん。
世間の認識を垣間見た気がしました…
さてさて!今日も昨日の続きです。なにやら長くなってきましたが、もうちょっとお付き合いください。
その頃の私はとにかく、葛藤を手放さなきゃ!と自分と向き合っていたんですが、その動機は、と言うと「恐れ」が少なからずあった気がします。
最初に知った知識の中に「アセンション」があり、そこではアセンションできる人は一部で、出来なかった人は眠り込むか死んでしまう、と書いてありました。
盲信はしなかったけれども、なんとなく「アセンションできなかったらどうなるんだろう」と言う不安はあったんですよね。
だったらしないよりした方がいいし、きっと自分はアセンションを体験する為に地球に生まれてきたのもあるんだろう、と思いました。
人間って面白いもので…「幸せ」の為には動かない人が多いのに、「恐怖」を与えると慌てて動き出すんですもんね。自分もそうだったんですが。
人を動かすには「恐怖」だ、と、今人間達を動かしたい存在たちは知っているだろうなぁと思います。
いつまでたっても「のほほん」とした私達に痺れを切らして、大げさに言っているんだなぁ、と。
でもその「恐れ」と言うのは結局、自分の為、ですよね。
自分が恐い目に遭いたくない、自分だけは救われたい、と言う思い。
それは「エゴ」のものです。
そんな「恐れ」が動機の行動では、何をしてもエゴを強化するだけで、ますます「分離」してしまうだけなんです。
その頃の私も、その「自分」と言うものを徹底的に知るハメになっていました。
誰かの為、と行動しても結局はその「誰かの為」と言う思いに隠された「自分がいい人と思われたい」「魂のレベルを上げたい」と言う自分の為、と言うエゴを発見します。何度も、何度も。
それはある意味、自分との戦いでもありました。
自分自身のもう一つの側面から、「まだこんなものがあるぞ」「手放せてないぞ」と、その部分を拡張して目の前に突きつけられます。
その度に、それを受け入れ、意識の光をあてる。
これが俗に言う、光と闇の戦い、と言うものかもしれない、と。
目の前で苦しんでいる人を助ける事が出来なかったとき。
誰かの役に立ちたい、と思っているとき。
その時も、「私が」あなたの為にやってあげる、と言う思いがあることに気づきます。そして、耳を塞いでいる人には何を言っても届かない。その時の無力感…
自分は何もできないんだ、と言うことも受け入れなければなりませんでした。
その時はかなり落ち込みました。
あぁ自分は何て弱いんだろうか!
でもそれを認めたとき、自分は強くなれたんです。
自分が何もできない、と知っている。自分は弱い人間だ、と知っている。
それは「知識」として知っているんじゃなく、「体験」として知っている、と言うことは自分の強さになりました。
それに、自分と同様に「相手を信頼する」と言うことも気づきました。
今まで自分が苦しんできたために、同じように苦しんでいる人を見ると放っておけない。ついつい、ああだこうだ言いたくなる。
けれどもそれは裏を返せば「あなたにはできない」と言っているようなものだったんです。
相手は神。自分の問題は必ず自分で解決できる、と信頼すること、なんですよね。
そうやって何度も、何度も気付かされては、スタートラインに立ち返る。
その繰り返し。
自分で気付けることは手放す。
気付けないことは目の前で起こる問題から、手放すべきことを知って行きました。
それまでぱんぱんに溜め込んだ「知識」を、一度全て捨てなければなりませんでした。
もちろん、知識によって理解した事もたくさんあります。
けれどもそれから先は、「体験」あるのみ、だったんですね。
買った本を開かなくなり、サイトめぐりも自然にしなくなりました。
目の前で起こる事、感じる事が、大切な事を教えてくれていたんです。
情報は文字になった時点で「固定化された」ものです。
それに、湧き上がってきた情報を「解釈」し「文字」にする時点で、その人の「主観」が入ります。それを受け取る人も自分の「主観」を通して解釈するわけですから、正確に伝える、と言うことはとても難しい。
受け取る側がそれをきちんと知っていればいいんですけれど…。
結局は自分がどう思うか、どう感じるかなんだ、と言う事を理解することが出来ました。
さて、その頃にはもう「自分は特別だ」と言う思いも散々に打ち砕かれていたので(笑)随分自然体になっていたと思います。
そんなとき、二度目の気付きがやってきたんです。
リビングのソファに座っていたとき。
何も考えていなかったんですが、突然「全ては神である」と言う思いが降ってきました。
それまでも「全ては一つ」と言う言葉は何度も聞いて知っていました。
けれども、頭では理解できていたんですがやはり「神と自分」「宇宙と自分」と分離して考えていたんですね。
その後、あ!と思い、慌ててベランダに出ました。
その時見た空や雲や太陽が、今までとは全く違ったものすごい圧倒的な「存在感」を持って私の目に映ったんです。
私は感動して喜びに震えるのが分かりました。
体の底から湧き上がる歓喜。
毎日見ていた空なのに?
でも違う。あれは「空」ではない。「存在」そのものだ。
庭の木。葉っぱの一枚、道端に転がっている石ころに至るまで、それは「神」なんだ。神ではないものは存在しないんだ!
神は愛。全ては愛でできている。
それが頭ではなく、体…心で理解できました。
私の肉体も神であるし、私自身も神であるんだ。
その時、自分がなくなる瞬間を感じました。
それが「悟り」であるかどうかは分かりません。
悟った状態がどんなものか知りませんし、それを感じた時確かに「自分」はいなかったんです。悟った、と認識する自分がなかった。
「私」なんてものは最初からいなかった。
私はここに存在する「全て」なんだ。空間も無も宇宙も含めた全て。
この皮膚に覆われた肉体である「私」を守る必要なんて、何一つない。
ぜんぶ一緒なんだから。
それまでまるで演劇の舞台の「書割」のようだった風景が、急に「生命」を持って輝きだしました。
私の目に映っていたのは「形」で、別々のものだと認識しているけれど、その本質は全て同じ存在…神なんだって。
阿部さんや黒斎さんみたいな派手な「至高体験」はなく、至って地味~な体験でしたが、今までどうしても超えられなかった「三次元的な思考」を、いとも簡単にひょいっと超えることができました。
そうすると、本当に今まで手放せなかった「自分を証明するもの」が何も必要なかったんだ、とホロホロと手放すことができたんですね。
考えるよりも前に。
でも、それだけです。
それは特別な事でも何でもなく、みんな例外なくその状態なんです。
ただそれを「思い込み」が阻んでいるだけで。
でもそれも、自分で望んだ「体験」です。
どのようなプロセスで思い込みを手放し、本当の自分を思い出すのか。
思い出したときの「歓喜」を楽しみたいがための、チャレンジです。
偉い人もいなければ、落ちこぼれの人もいない。
私達はそれぞれの「特性」によって、それぞれの体験をし、生きる、と言う表現をしているだけなんだ。その人生にいいも悪いもない。
ですので、目覚めた人は自分の人生を生きながら「地球救済ゲーム」に参加して、そのプロセスを楽しむ。
目覚めてない人は、二度と来ない「覚醒」までのプロセスを楽しむ。
一度目覚めてしまったら、もう目覚めていない時の体験が出来ないわけですから!
精神世界の真実を理解すればするほど、地に足が着いてきます。
現実を生きることに目が向いてきます。
私もまだまだ勉強の途中で、日々学びです。
何をしても、何を見ても、気付かされることばかり。
時に落ち込み、泣いたり怒ったりもするけれど、それでもいいんだって思える。
私はいま、ここで生きている。
私がいま、やりたいこと。
それは阿部さんや黒斎さんみたく、みんなを引っ張って行くようなことは出来ないけれど、いつでもここにいて「大丈夫だよ」と言い続けたい。
みんなの心の側に寄り添っていたい。
みんなが感じることを一緒に感じたい。
それが出来れば嬉しいなぁ、と思う。
あぅ!またもや長くなってしまったのぉ~…
読むの大変だとは思いますが!長らくのお付き合い、ありがとうございました!
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!
感謝
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そういえば、近所の本屋さん。
小さくもないけど、大きくもない、駅から離れた田舎の本屋さんなんですけど…
最近「精神世界コーナー」なるものが出来ていました。
こんな所にまで!とビックリしたんですが、その内容は、と言えば…
仏教書の隣に預言者があったり、引き寄せの法則系の本があるかと思えば、相対性理論の本があったり、宮沢賢治の本やら般若心経やら…内容はちゃんぽん。
とりあえず宗教、オカルトっぽいものは全部「精神世界」にしちゃえ!みたいな…
うーん。
世間の認識を垣間見た気がしました…
さてさて!今日も昨日の続きです。なにやら長くなってきましたが、もうちょっとお付き合いください。
その頃の私はとにかく、葛藤を手放さなきゃ!と自分と向き合っていたんですが、その動機は、と言うと「恐れ」が少なからずあった気がします。
最初に知った知識の中に「アセンション」があり、そこではアセンションできる人は一部で、出来なかった人は眠り込むか死んでしまう、と書いてありました。
盲信はしなかったけれども、なんとなく「アセンションできなかったらどうなるんだろう」と言う不安はあったんですよね。
だったらしないよりした方がいいし、きっと自分はアセンションを体験する為に地球に生まれてきたのもあるんだろう、と思いました。
人間って面白いもので…「幸せ」の為には動かない人が多いのに、「恐怖」を与えると慌てて動き出すんですもんね。自分もそうだったんですが。
人を動かすには「恐怖」だ、と、今人間達を動かしたい存在たちは知っているだろうなぁと思います。
いつまでたっても「のほほん」とした私達に痺れを切らして、大げさに言っているんだなぁ、と。
でもその「恐れ」と言うのは結局、自分の為、ですよね。
自分が恐い目に遭いたくない、自分だけは救われたい、と言う思い。
それは「エゴ」のものです。
そんな「恐れ」が動機の行動では、何をしてもエゴを強化するだけで、ますます「分離」してしまうだけなんです。
その頃の私も、その「自分」と言うものを徹底的に知るハメになっていました。
誰かの為、と行動しても結局はその「誰かの為」と言う思いに隠された「自分がいい人と思われたい」「魂のレベルを上げたい」と言う自分の為、と言うエゴを発見します。何度も、何度も。
それはある意味、自分との戦いでもありました。
自分自身のもう一つの側面から、「まだこんなものがあるぞ」「手放せてないぞ」と、その部分を拡張して目の前に突きつけられます。
その度に、それを受け入れ、意識の光をあてる。
これが俗に言う、光と闇の戦い、と言うものかもしれない、と。
目の前で苦しんでいる人を助ける事が出来なかったとき。
誰かの役に立ちたい、と思っているとき。
その時も、「私が」あなたの為にやってあげる、と言う思いがあることに気づきます。そして、耳を塞いでいる人には何を言っても届かない。その時の無力感…
自分は何もできないんだ、と言うことも受け入れなければなりませんでした。
その時はかなり落ち込みました。
あぁ自分は何て弱いんだろうか!
でもそれを認めたとき、自分は強くなれたんです。
自分が何もできない、と知っている。自分は弱い人間だ、と知っている。
それは「知識」として知っているんじゃなく、「体験」として知っている、と言うことは自分の強さになりました。
それに、自分と同様に「相手を信頼する」と言うことも気づきました。
今まで自分が苦しんできたために、同じように苦しんでいる人を見ると放っておけない。ついつい、ああだこうだ言いたくなる。
けれどもそれは裏を返せば「あなたにはできない」と言っているようなものだったんです。
相手は神。自分の問題は必ず自分で解決できる、と信頼すること、なんですよね。
そうやって何度も、何度も気付かされては、スタートラインに立ち返る。
その繰り返し。
自分で気付けることは手放す。
気付けないことは目の前で起こる問題から、手放すべきことを知って行きました。
それまでぱんぱんに溜め込んだ「知識」を、一度全て捨てなければなりませんでした。
もちろん、知識によって理解した事もたくさんあります。
けれどもそれから先は、「体験」あるのみ、だったんですね。
買った本を開かなくなり、サイトめぐりも自然にしなくなりました。
目の前で起こる事、感じる事が、大切な事を教えてくれていたんです。
情報は文字になった時点で「固定化された」ものです。
それに、湧き上がってきた情報を「解釈」し「文字」にする時点で、その人の「主観」が入ります。それを受け取る人も自分の「主観」を通して解釈するわけですから、正確に伝える、と言うことはとても難しい。
受け取る側がそれをきちんと知っていればいいんですけれど…。
結局は自分がどう思うか、どう感じるかなんだ、と言う事を理解することが出来ました。
さて、その頃にはもう「自分は特別だ」と言う思いも散々に打ち砕かれていたので(笑)随分自然体になっていたと思います。
そんなとき、二度目の気付きがやってきたんです。
リビングのソファに座っていたとき。
何も考えていなかったんですが、突然「全ては神である」と言う思いが降ってきました。
それまでも「全ては一つ」と言う言葉は何度も聞いて知っていました。
けれども、頭では理解できていたんですがやはり「神と自分」「宇宙と自分」と分離して考えていたんですね。
その後、あ!と思い、慌ててベランダに出ました。
その時見た空や雲や太陽が、今までとは全く違ったものすごい圧倒的な「存在感」を持って私の目に映ったんです。
私は感動して喜びに震えるのが分かりました。
体の底から湧き上がる歓喜。
毎日見ていた空なのに?
でも違う。あれは「空」ではない。「存在」そのものだ。
庭の木。葉っぱの一枚、道端に転がっている石ころに至るまで、それは「神」なんだ。神ではないものは存在しないんだ!
神は愛。全ては愛でできている。
それが頭ではなく、体…心で理解できました。
私の肉体も神であるし、私自身も神であるんだ。
その時、自分がなくなる瞬間を感じました。
それが「悟り」であるかどうかは分かりません。
悟った状態がどんなものか知りませんし、それを感じた時確かに「自分」はいなかったんです。悟った、と認識する自分がなかった。
「私」なんてものは最初からいなかった。
私はここに存在する「全て」なんだ。空間も無も宇宙も含めた全て。
この皮膚に覆われた肉体である「私」を守る必要なんて、何一つない。
ぜんぶ一緒なんだから。
それまでまるで演劇の舞台の「書割」のようだった風景が、急に「生命」を持って輝きだしました。
私の目に映っていたのは「形」で、別々のものだと認識しているけれど、その本質は全て同じ存在…神なんだって。
阿部さんや黒斎さんみたいな派手な「至高体験」はなく、至って地味~な体験でしたが、今までどうしても超えられなかった「三次元的な思考」を、いとも簡単にひょいっと超えることができました。
そうすると、本当に今まで手放せなかった「自分を証明するもの」が何も必要なかったんだ、とホロホロと手放すことができたんですね。
考えるよりも前に。
でも、それだけです。
それは特別な事でも何でもなく、みんな例外なくその状態なんです。
ただそれを「思い込み」が阻んでいるだけで。
でもそれも、自分で望んだ「体験」です。
どのようなプロセスで思い込みを手放し、本当の自分を思い出すのか。
思い出したときの「歓喜」を楽しみたいがための、チャレンジです。
偉い人もいなければ、落ちこぼれの人もいない。
私達はそれぞれの「特性」によって、それぞれの体験をし、生きる、と言う表現をしているだけなんだ。その人生にいいも悪いもない。
ですので、目覚めた人は自分の人生を生きながら「地球救済ゲーム」に参加して、そのプロセスを楽しむ。
目覚めてない人は、二度と来ない「覚醒」までのプロセスを楽しむ。
一度目覚めてしまったら、もう目覚めていない時の体験が出来ないわけですから!
精神世界の真実を理解すればするほど、地に足が着いてきます。
現実を生きることに目が向いてきます。
私もまだまだ勉強の途中で、日々学びです。
何をしても、何を見ても、気付かされることばかり。
時に落ち込み、泣いたり怒ったりもするけれど、それでもいいんだって思える。
私はいま、ここで生きている。
私がいま、やりたいこと。
それは阿部さんや黒斎さんみたく、みんなを引っ張って行くようなことは出来ないけれど、いつでもここにいて「大丈夫だよ」と言い続けたい。
みんなの心の側に寄り添っていたい。
みんなが感じることを一緒に感じたい。
それが出来れば嬉しいなぁ、と思う。
あぅ!またもや長くなってしまったのぉ~…
読むの大変だとは思いますが!長らくのお付き合い、ありがとうございました!
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!



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