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管理人のヨッシーです。
少し遅い夏期休暇を取得できたので、
コロナ禍で延期していた
"南東北ツーリング"に出掛けることにした♬
※岩手県の一部(陸前高田市)を含む。
令和6(2024)年1月1日に発生した
"能登半島地震"。
そして、
科学的に近い将来に発生が予測され、
私の住む地域もその範囲に含まれる
"南海トラフ地震"などの
大きな自然災害にどの様に向き合うかを
見つめ直す(防災意識向上)ことと、
この旅が被災された方々への
何かしらの"支援"になればという思いで
愛車のエンジンに火を入れた...。
南東北ツーリング(後編)
8月23日(金)am7:00ー
仙台の
お宿を出発し向かったのは...
JR常磐線"坂元駅"横の
農水産物直売所"やまもと夢いちごの郷"
の駐車場内。
ー LIM LIFE IS MIRACLE
TSUNAMI ハーレー展示館 ー
「社団法人まちづくりやまもと」
代表理事の成毛政孝氏が、
2012年に山元町在住の横山育生氏の
オートバイ(HARLEYーDAVIDSON)が
カナダに流れ着き、
米国のハーレーダビットソンミュージアム
に展示されることになったニュースを知り、
設置を思い立ちました。
自動車販売整備事業者である
成毛政孝氏は震災後、
自動車整備振興会の会員として
復旧作業に参加し、
ひしゃげた自動車などを重機で回収する
つらい作業の中、
見つけたのが顧客である
佐伯和浩氏の今回展示している
ハーレーでした。
ー説明看板より
右ハンドルが取れ、
ブレーキパイプで辛うじてつながるなど
破損が激しく、
再生は不可能に思えましたが、
スクラップにするのは忍びなく、
所有者の許可を得て保管していました。
佐伯氏のご家族は無事でしたが、
自宅は津波で流出し、
町内陸地に移転しています。
「つらい記憶を思い出してしまう半面、
初めて手に入れて20年以上乗った
ハーレーで愛着もある。
展示したいという
成毛さんの思いを受け止めたい」
という所有者の思いと
「自分もバイクに乗るので捨てたくなかった。
津波を後世に伝える展示がしたい」
という成毛氏の思いが重なり展示に至る。
尚、もう1台の展示車両は、
同業である(有)玉田自動車商会が
亘理町(わたりちょう)で撤去したハーレーで、
現在では珍しいサイドカー付きの車両。
是非、この車両たちをご覧いただき、
後世に東日本大震災を語り継いで
いただければ幸いです。
ーTSUNAMI ハーレー展示館 案内看板より
ー 2011年3月11日15地50分頃
大津波襲来。
津波の引き波によりコンテナガレージごと
海へ流出。
ー 2012年4月18日
カナダ・ブリティッシュコロンビア州の
グレアム島にて、
ピーター・マーク氏(カナダ在住)により発見。
ー 2012年5月
所有者のもとに発見の一報が届く。
その後、
ハーレー本社より修理して返送する旨の
申し出があるが、
「多くの人が被災している中で、
自分だけが恩恵を受けるわけにはいかない」
と辞退。
協議のうえ、
車両を寄付し同社の博物館に展示する
運びとなる。
ー 2012年10月
「ハーレーダビットソンミュージアム」
での展示スタート。
(アメリカ合衆国ウィスコンシン州)
ー 2019年4月21日
山元町においてパネル展示をスタート。
「ハーレーダビットソンミュージアム」
に展示されている、
津波にて流出した
ハーレーダビットソンの勇姿が、
同時に東日本大震災にて
被災した2台のハーレーダビットソンの
後方にパネル展示されている。
同じ様にオートバイを愛する者達の
思いが胸に突き刺さる...。
引き波にさらわれカナダまで
"6500Km"の距離を流されたにも関わらず、
発見されその姿を
再びオーナーに見せてくれるという
奇蹟のような話である。
人(人間)と機械(車両)であれど
何か不思議な"絆"で
繋がっているのだとすれば、
それは、
互いが互いの命をあずけ合っている
間柄だからではなかろうか...。
TSUNAMI ハーレー展示館を後にし、
国道6号線を南下し相馬市へ。
ー 鵜ノ尾岬 ー
鵜ノ尾崎トンネルの南出口にあたる
この高台は、
夕顔観音様が古くから祀られている。
その参道に沿った岩壁のくぼ地が
祠(ほこら)になっていて、
昔は石碑や地蔵尊が
沢山並んで祀られていた。
地域の人達は、
この参道を「お地蔵通り」と呼び
観音様へのお参りの時には、
この地蔵様への供養も欠かさず、
大切に護ってきました。
2011年3月11日、
三陸から常磐沖にまたがる海底を震源とする
東日本大震災が発生しました。
この地震による10メートルを越える大津波が
この鵜ノ尾崎を呑み込み、
「奥の院夕顔観音」と「お地蔵通り」
はその波しぶきに覆われました。
地蔵様は
この激流に巻き込まれ押し流されて、
その姿を殆ど失ってしまったのです。
誰もが自分の身の回りの事で精一杯の
毎日を送っていた中、
地蔵様設置に携わった石材店の方々が、
鵜ノ尾崎の現地に入り、
流されたお地蔵様の捜索や取り出し作業を
して下さっており、
ここに五十二体のお地蔵様の復元設置を
実現することができました。
ー案内看板より
津波被害もあり
鵜ノ尾崎灯台は立入り禁止となっている。
この地に立ち寄ったのは、
鵜ノ尾崎より
"大洲海岸"の眺望を拝むためだ。
真っ直ぐに延びる"市道大洲松川線"
の眺望は素晴らしいの一言であった。
ー 大洲海岸(大洲松川ライン) ー
平成8年日本の渚・百選に選ばれた
"大洲海岸"は、
松川浦県立自然公園の潟湖と紺碧の
太平洋を7kmにわたって仕切る白砂青松の
美しい景観を持つ渚です。
大洲松川ラインが開通し、
そう快なドライブが楽しめます。
平成23年3月11日に発生した
東日本大震災の津波により
甚大な被害を受けましたが、
2018年4月21日に
市道大洲松川線が開通するなど、
震災前の景観を少しずつ戻している。
美しい市道大洲松川線を
"TRANSALP"で駆ける♬
国道6号線==県道120号線と繋ぎ、
南相馬市原町区本町へ。
ー 3.11 希望の灯り ー
以下"碑文"
この「希望の灯り」は、
2011年3月11日に発生した
東日本大震災で亡くなられた方々の
「生きた証」として、
福島第一原子力発電所の事故で、
ふるさとを離れざる得なかった方々への
「道しるべ」として、
今を生きるすべての南相馬市民の
「希望の灯り」
として一歩踏み出す力になるようにと
国内外からのご寄付や多くの市民の
皆さんが協力して建立したものです。
ここに灯(とも)る火は、
1995年1月17日に発生した
阪神淡路大震災後の
2000年1月17日、
全国47都道府県から種火を集め、
神戸市東遊園地に建立された
「1.17 希望の灯り」
から分灯したものです。
大震災が教えてくれた、
やさしさ、思いやり、
家族や地域の絆の大切さを
忘れることなくともに歩んでいきましょう。
2012年3月10日
3.11南相馬希望の灯り実行委員会
認定特定非営利活動法人「1.17希望の灯り」
たすきプロジェクト
そして文頭には、
「1.17 希望の灯り」と同じく
この言葉が刻まれている。
ーーー
希望の灯り
二〇一一年三月十一日
午後二時四十六分
東日本大震災
震災が奪ったもの
命 仕事 街並み 思い出
・・・たった一秒先が
予知できない人間の限界・・・
震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間
この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ
堀内正美(神戸市)
ーーー
希望の灯りを後にし、
"道の駅なみえ"にて休息を取る。
ー ポケモン ローカルACTS ー
2019年2月に
ポケモンGOのキャラクター
"ラッキー"が
「ふくしま応援ポケモン」
に任命されました。
ラッキーは幸せ(福)を運ぶと
言われているポケモンで、
福島県の福を連想させます。
また、
お腹のタマゴは、
美味しく栄養がたっぷり。
同じく美味しく栄養がたっぷりな
農産物を通じて県内外へ
幸せを運ぶ福島県の応援ポケモンに
ぴったりということで選ばれました。
ー説明看板より
道の駅の公園に設置された遊具も
"ラッキー"♪
私も"ツキ(福)"をもらえると信じて
撮影してみました♬
自動販売には
"ラッキー"と...
"浪江女子発組合"
「浪江発の風に乗せて、
笑顔が皆様に広がりますように…。」
浪江から始まった
"わ"を日本全国に届けます。
人と土地を結ぶ
”縁結び”をグループならではの
スタンスで活動していきます。
...とのことです♬
応援宜しく!
道の駅に併設された
"なみえの技なりわい館"では、
鈴木酒造店の酒造りの様子を
ガラス越しに見学できる。
ー 鈴木酒造店
「日本で一番海に近い酒蔵」
福島県浪江町の鈴木酒造店は
かつてそう呼ばれ、
浪江町の漁師たちは、
大漁だったときは鈴木酒造店の
定番酒「磐城壽(いわきことぶき)」
の一升瓶で祝いしたものであった。
2011年3月11日に発生した
東日本大震災は、
浪江町に大きな被害をもたらした。
波の音が聞こえるくらい
海に近かった鈴木酒造店は、
酒も蔵も看板も酒造りに関するデータも、
すべて津波で流されてしまいました。
さらに、
福島第一原子力発電所事故により
浪江町へは立ち入りさえ出来なくなり、
6年にも渡る長期の
避難を余儀なくされることになる。
たまたま福島県の研究所に預けていた
酵母が残っていたため、
その年の夏には本数限定で「磐城壽」を醸造。
11月には縁の出来た
山形県長井市の蔵を買い取り、
酒造りを再開し
長井での酒造りは年々軌道に乗り、
2017年には、
鈴木酒造店長井蔵で醸造した
「一生幸福」が全国新酒鑑評会で
金賞を受賞し(2022年には二度目の金賞受賞)
地元に貢献することも叶う。
2017年3月末、
浪江町の一部地域の避難指示が解除され、
震災から10年目となる2021年3月には、
「道の駅なみえ」がグランドオープン。
鈴木酒造店は同所に併設する形で
新しい酒蔵を建設し、
浪江町での酒造りを10年振りに復活させた。
鈴木酒造店が手掛ける
"酒の試飲(有料)"もできる♬
流石に
"飲酒"をするわけにもいかず...
甘酒プリンソフトクリーム
をいただくことにした♬
プラカップが、
酒枡に入れられているところが
なんとも粋だ♬
※酒枡の持帰りは不可。
酒枡が欲しい方には、
厚紙製の"紙枡"が用意されているが
趣がないので私はやめた。
道の駅より
震災遺構"浪江町立請戸(うけど)小学校"へ。
2011年3月11日
東日本大震災発生。
未だかつて経験したことのない
大地震・大津波と
その後の原発事故に見舞われ、
甚大な被害を受けた福島県沿岸部。
福島県浪江町に位置する
請戸小学校も大きな被害を受けましたが、
全員が無事避難することができた
奇跡の学校としても知られている。
津波到達直前(36分前)の
請戸地区の航空写真。
津波襲来直後(15:53ー頃とある)
請戸地区の被害状況。
地震・津波、
原発事故の爪痕を残す
浪江町立請戸小学校に
足を踏み入れる...。
あの日、
どのようにして逃げ切ることができたのか、
事実に基づいたこの物語とともに
校舎の被害状況をみていきましょう。
ー案内看板より
2011年3月11日の
児童の避難状況を絵本
「請戸小学校物語大平山をこえて」
とともにパネル展示されてゆく。
あの日の出来事が時系列で示され、
地震(強い揺れ)発生による
現場の逼迫(ひっぱく)した状況と、
時間経過とともに教職員と児童が
徐々に切迫(せっぱく)した状態に
陥ってゆく様子が克明に描かれ、
臨場感(圧)がとても強い展示内容と
なっていた。
2011年3月11日(金)
93名の児童が通学していた。
11名の1年生は、
4校時目までだったので帰宅。
2年から6年生まではまだ学校で過ごしていた。
5年生は体育館で
3月23日(水)に行われる
修・卒業式へ向けた準備をしていた...。
ー 14時46分
震度6強の地震発生
数日前にも地震があったこともあり、
"また地震か"と揺れがおさまるのを
机の下に隠れまったが揺れはおさまらず、
机ごと数十センチ移動した。
体育館にいた5年生は、
その場にしゃがみ込み、
頭を手で守るようにしていた。
ー 14時47分
安全確認と校内放送
「早く校庭に出なさい!」
校内放送で児童の安全確認を呼びかけ、
校庭へ避難するよう指示を出した。
ー 14時49分
大津波警報発令
ー 14時50分
防災行政無線放送
「只今、大津波警報発令中です。
ただちに、沿岸地区の
棚潮地区、請戸地区、中浜地区、両竹地区
の方は指定された避難所に避難して下さい」
震災後に児童が
黒板に思いを残したのか...。
津波の威力により、
2年生教室の壁が南から北へ倒される。
3年生教室の壁は流出。
1年生教室の壁は
大きく歪んだまま残されている状況から、
海に近い方が強い衝撃を受けたことが分かる。
ー 壁から引きはがされた複合盤 ー
津波により壁は流され、
各室の時計や火災報知などを
一括管理していた複合盤はむき出しになり、
傾いたまま機能停止した。
そのため、校内に残っている時計はすべて
15時37分を刻んだまま停止している。
ー 校長室の金庫 ー
頑丈で重い金庫も
津波の威力には勝てずに流され倒れた。
津波(水流)の威力の
凄まじさを今も残す...。
ー 14時54分
先生・児童、大平山へ向かう
全員が校庭に避難したことを確認、
教務主任の先導のもと
"大平山"へ向けて避難を開始。
同時刻
福島県沖で地震
大平山へ避難を開始すると同時刻に
マグニチュード6.1の地震が発生。
浪江町では震度5弱の揺れ(余震)が観測。
ー 15時14分
当初3mと発表された津波高が、
6mに修正された。
ー 積みあがった機器類 ー
調理場の機器類が
北側の検収室へ押し流され
積みあがっている。
ー 15時30分
大津波警報(高さ修正)
津波高が10mに再度修正された。
ー 15時33分
沿岸部に津波第一波が到達。
ー 16時00分
先生・児童、大平山頂上到達。
ー 大津波の襲来 ー
津波第一波到達後も、
何度も押し寄せる津波は
大平山のふもとまで到達した。
ー 床の落ちた体育館 ー
ー 16時30分
双葉町鴻草(こうのくさ)地区に到達。
山を下り、国道6号線沿いの
駐車場で休憩していると、
何度も余震がきて、
児童や先生の目の前で地割れが発生した。
ここからどうしたものかと
立ち尽くしていると、
突然目の前に大きなトラックが止まる。
いわき市の運送業者で、
トラックの荷台に全員を乗せ、
役場まで連れて行ってくれた。
正面玄関から
昇降口へと向かう。
2階への階段を上る。
踊り場の"津波到達地点"。
2階床上10cm程度まで
津波が浸水している。
ー 2階展示室 ー
校庭側に設置されていた時計
大津波の影響により
文字盤が曲がってしまっている。
ー メッセージが書かれた黒板 ー
震災当時の在校生は、
原子力災害による避難指示で、
しばらく立ち入ることができませんでした。
(立ち入り許可は高校生以上)
立ち入許可がでた後、
多くの方々が
黒板に想いを寄せた...。
請戸小学校は
福島第一原子力発電所より、
北側に約5.1Kmの距離。
2階の窓からは排気塔が見える。
ー 見晴台 ー
請戸小学校で印象的なのは、
この美しい見晴台であろう。
"津波到達地点"
の高さがよく見て取れる。
ー プールの手摺り ー
折れ曲がった手摺りにもまた
津波の凄まじさが感じられる痕跡がある。
震災遺構"浪江町立請戸小学校"の
パンフレットには、
この様に書かれている。
「ありのままのわたしたち」
を見に来てくれて、ありがとうございます。
震災から10年以上の年月がたっても、
こうして足を運んでくれたことに、
心から感謝しています。
請戸小学校を震災遺構とし
一般公開する意図として、
東日本大震災の教訓を活かし、
防災意識の大切さ、命の大切さを、
考える切っ掛けにして欲しいとの
浪江町の方々からの
願いが込められている様に感した。
興味のある方は、
下記QRコードを読み取り
"リアルインタビュー"
にアクセスしてみるのも良いだろう。
浪江町より
"東日本大震災・原子力災害伝承館"のある
双葉町へと向かう。
ー FUTABA Art District ー
「FUTABA Art District」」は
東京電力福島第一原発の事故で
全町避難を強いられた福島県双葉町を、
壁画アートで盛り上げようと
双葉町出身の料理人髙崎丈さん、
壁画アートカンパニー「OVERALLs」が
手がけたプロジェクト。
地震で倒壊してしまったり、
解体されたりしたものもありますが、
現在も多くの壁画アートが
双葉町を彩り多くの人の注目を集めている。
ー 東日本大震災・原子力災害伝承館 ー
原子力災害を中心とした展示や
語り部講話を通じて、
震災の記録と記憶を教訓として
防災・減災に役立てる為の施設。
ー基本理念
世界初の甚大な複合災害の記録や教訓と
そこから着実に復興する過程を
収集・保存・研究し、風化させず後世に
継承・発信し世界と共有することは、
被災した人々の共通した思いです。
東日本大震災・原子力災害伝承館では、
特に福島だけが経験した
原子力災害をしっかり伝えるために、
以下の3つの基本理念を掲げます。
1 原子力災害と復興の記録や教訓の
未来への継承・世界との共有
2 福島にしかない経験や教訓を生かす
防災・減災
3 福島に心を寄せる人々や団体と連携し
地域コミュニティや文化・伝統の再生
復興を担う人材の育成等による
復興の加速化への寄与
館内を見てまわる前に、
円筒形のシアタールームで、
福島県出身の俳優
"西田敏行"さんのナレーションによる
地震・津波・原子力発電所事故発生当時の状況を、
アニメーションを組み合わせた内容の映像で
紹介される。
震災のこと、事故のこと、復興のこと、
これからの未来のことについて考える
入口としての役割を担う。
※映像撮影及び音声録音は不可
シアターの周囲は螺旋状の通路(順路)と
なっていて、
内壁には震災・原子力事故の経緯が
時系列に紹介され、
資料・証言・事故調査の記録から
複合災害の始まりを克明に描かれる。
錯綜(さくそう)する情報。
転々とする避難生活。
これまで経験したことのない
原子力発電所事故発生直後の状況や
その特殊性を、
様々な資料や証言などをもとに振り返る。
ー 原子力発電所事故直後の対応 ー
ひとたび大きな災害が発生すると
"社会的弱者"の方々への
対応はとても困難を極める。
特に医療の分野では、
特殊な対応が求められることが多く、
とても興味深い内容の展示に
かなりの時間を費やし資料を読み込んだ。
ー 双葉病院患者の過酷な避難 ー
ー 長期化する原子力災害の影響 ー
除染(放射性物質の除去)、
風評の払拭、長期避難への対応、
健康に対する取り組みなど、
原子力被害による困難な課題に、
タッチパネル解説や資料を通じて伝える。
ー モニタリング機器
左:①シンチレーション検出器
中央:②電離箱検出器
右:③ゲルマニウム半導体検出器
①と②は検出器に監視盤が接続され
空間線量を電話回線で、
県原子力センターに送信するもの。
③は土壌や農作物・海産物の
放射性物質検査などに使用される機器。
ー 復興への挑戦 ー
廃炉作業の進捗、
福島イノベーション・コースト構想などの
取り組みから、
福島県民が困難に立ち向かい、
復興へ向け力強くチャレンジする姿が
発信されている。
災害・事故に直面した際の
人の想いの様なものを克明に伝える
写真の数々。
切り取られた瞬間(とき)に
その人々の痛烈なる感情が
あふれ出ていて感慨深い...。
ー 資料館外通路(館内廊下) ー
①読売新聞社の記者・カメラマンが撮影した
2012年から2020年の「3月11日」の写真。
※撮影不可のものも多数あるので、
閲覧したい方は足を運んで下さい。
②浪江町立請戸小学校のピアノ
ー 屋外展示
①津波により変形した消防車(双葉町)
この車両は、
伝承館敷地近くで発見された。
消防車の放射線量を計測した記録が
残されており、
計測時は"約0.6μS"であった。
(双葉町消防団第9分団の車両)
乗車していた消防団員は難を逃れている。
②原子力広報の文字パネル(双葉町)
標語は双葉町が町民から募集したもので、
標語を掲示したアーチは、
双葉町の公民館・体育館のあった
国道6号線に沿った場所と
双葉町役場庁舎前に設置されていた。
※展示品はレプリカ
"東日本大震災・原子力災害伝承館"
と併設されている、
双葉町産業交流センターに展示されていた
"双葉ダルマ"。
双葉ダルマは
"①太平洋ダルマ"と"②町章ダルマ"の2種類。
双葉町ではおよそ300年前の
江戸時代からダルマ市が行われていた。
このダルマ市では様々な縁起物の
ダルマが販売されていたのだが
双葉町独自のダルマがなく、
そこでおよそ30年前に
JAふたば女性部
双葉支部ダルマ部会がデザインを考案。
双葉ダルマとして
広く知られるようになった。
七転び八起きの意味をもつ
縁起物の双葉ダルマは、
東日本大震災と原発事故の被害を受けた
双葉町にとって復興のシンボルとなっている。
ー 双葉町公式HPより
①太平洋ダルマ(青色)
青い縁取りは太平洋を表現。
町の花・桜と町の鳥・キジの羽の
モチーフを描いています。
キジの羽のモチーフには
未来へ向かって羽ばたいて欲しい
との思いが込められている。
②町章ダルマ(赤色)
町章をモチーフにした
金色の縁取りで体に竹の模様を配置。
竹は冬場でも色あせず、
縁起物の松竹梅に由来します。
しなやかで折れにくい竹に、
願い事をかなえる
途中で心が折れないようにとの
思いが込められている。
ー双葉町HPより
この後、
国道6号線を双葉町より
大熊町(福島第一原子力発電所)を抜け
富岡町へと向かうのだが...。
ブログの文字数制限もあり
"南東北ツーリング(後編) その2"
としてお伝えしようと思う。
地震・津波・原子力発電所の事故
の3重苦...。
福島県を襲った被害は甚大である。
この後、
南東北ツーリングは
"とみおかアーカイブミュージアム"
"東京電力廃炉資料館"
へと続いてゆく。
その2へと続く...
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【関連資料】
【震災遺構 双葉町立請戸小学校】ー公式HP
【FUTABA Art District】ー公式HP
【東日本大震災・原子力災害伝承館】ー公式HP
【双葉町】ー公式HP
では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪