加東景は目覚めたと同時に、頭に強烈な衝撃を受けた。
うっかり起きあがろうとして、何かにぶつけたらしい。暗闇に小さな星がいくつも弾けとんだまま、くらくらとしてまた倒れこんだ。どうやら悪酔いして、ベッドの下に頭を潜り込ませていたらしい。傍からみればかなり間抜けな寝相である。膝から下を昆虫の後ろ足のように動かして、ベッドの下からそろそろと這い出た。
…ん?
悪酔いで、ベッドの下に?
まさか、そんなはずはない。
自分はたしかにベッドで眠ったはずなのだ。寝相が悪くて転げ落ちたにしては、いささか不自然すぎやしないか。
「さては聖さんたら…。いじわるなんだから」
目覚まし時計は朝の八時半だった。しかし、アラームは外されていた。
起きしなに目の前から火花の飛び散るような痛みを感じたせいか、あくびすら出ない。全身が完全に目覚めていた。
すでに部屋には、もうひとりの影もかたちもなかった。
朝の素面になったらここぞとばかり恨みごとを浴びせてやろうかと、2LDKのなかを探しまわったが、どこにも例の要注意人物はいない。浴室の回しっ放しだった換気扇を止めると、室内はまたたく間にふだんの住人の暮らしにふさわしい静まりを呼び戻すのだった。
キッチンを覗いた時に、景のやりきれなさは吹き飛んだ。
テーブルには、炊きたてのご飯と簡単な具の味噌汁、漬け物の食膳がおいてある。その横には砂時計で重しをした書き置きがあった。
「『お世話になりました。二日酔いにちょうどよい朝食を用意しました。聖』──だって。まったく、ほんとに台風みたいな人よね…」
書き置きの紙を指先ではじきながら、景は笑いこぼさずにはいられなかった。
箸置きにていねいに揃えられた箸をとった。
朝食はなかなかおいしいものだった。
味噌の香りを深ぶかと吸いこんでいると、落ち着いた。やはり日本人は、この香りに包まれていないと不安でたまらないのだ。ぱさぱさした小麦粉の文化圏に滞在すると、米の味が無性に恋しくて狂おしいほどだ。日本の食事がおいしいと実感させられたのは、あのイタリアから帰国後の翌朝以来だった。
あさりの入った赤出しを啜りながら、景はぼんやりと考えた。
「けっきょく、なにもかも独りでやっちゃって。レポートもうまく書けたのかしら」
レポートが仕上がったとしたら、聖はもうここを訪れはしまい。
彼女はどんな春休みを過ごすのだろう。
いっしょに旅行する相手がいるだろうか──たとえば、あの浅生メイと。
こんなおいしい食事を用意したことが他にもあったのだろうか──たとえば、あの浅生メイに。
できあがったレポートはいちばんに誰に読ませるのだろう──やはり、あの浅生メイなのか。
食事を終えてリビングに戻ると、ラウンドテーブルの下に紙切れが落ちているのを発見した。
紙はかなり傷んでいて、その黄ばみから半年は経っていることを窺わせた。そこに書かれていたのは、この人生でいちばんによく見慣れた筆蹟だった。それだと察したのは、紙の劣化に伴ってインクの色も褪せているが、裏返すと筆圧の高さから文字の特徴が透けて見えたからだった。数字とアルファベットの組み合わせらしいが、「1」と「2」の書き方に特徴が見られる。縦棒の受け皿のようにていねいな横線を添えた「1」を書きたがるいっぽうで、解けかけた縄の結び目のように「2」の下を丸めてしまうのは、明らかに自分の書き癖なのだ。
「おかしい…。なんで、こんなものが出てきたんだろう?」
自分で書いたものを自分で処理するのになんらためらいはない。
反故にされたレポート用紙で充たされたごみ箱は、小首を傾げながら部屋の主が放り投げたものを受け取らなかった。
朝九時の鐘の音が、珍しくも正確に、その短針の数だけ響き渡っていた。
その音が鳴りやんだ直後に、景は窓の外で何かが落ちて割れる音を耳にした。
【第二部につづく】