それから、一箇月ほどが過ぎただろうか。
巨神(おほちがみ)が村を荒し回っているという報告はあったが、千歌音にとって、それは耳遠いことだった。彼女はまたしても、あの姫宮の離れに閉じこもっていたのだった。千歌音にはそら恐ろしかった。いったい、あんな巨体の化け物にどうやって立ちむかえというのだろう。千歌音は文机にもたれかかって、悄然としていた。うつらうつらしかけたその横顔に、誰かが軽く唇を押し当てたことなど、千歌音は知る由もなかった。
夕暮れどき、茜いろがさしはじめた頃合い。
いつのまにか、障子に見慣れたひと影が写っていた。
輪郭だけで誰だかわかる。どうぞ、と言わなくても、彼女はかってに入ってくるのだ。姫子はあの巨神退治について、千歌音を急かそうとはしなかった。そうかといって、では、別の話題をこぼすわけでもなかった。ふたりのあいだに会話はなく重苦しい雰囲気だけが、この場には漂っていた。
しかし、今日に限って、彼女は向こう側で息をひそめて、開けるか開けまいか、迷っているらしい。
しびれを切らした千歌音は立ち上がると、障子をすらりと開けた。だが、そこにいるはずの姫子はいない。障子に影だけが残されている。まるで、それがこの世での残滓であるかのように。
そんな?!
姫子が跡形もなく消えてしまったなんて!
千歌音は廊下に飛び出すと、裸足に長襦袢一枚のまま駆け出した。まさか、まさか、あの巨神とひとりで戦って、喰われてしまったのでは?!
──姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子、姫子──ッ!
邸内のどこを探しても、姫子は見つからなかった。
さすがに、このままの格好で外へ出るのは憚れる。真冬であったのに、千歌音は汗だくになっていた。こんなに走り回ったのはひさしぶりだった。
いったん自室に戻ってみると、千歌音は目を見張った。
さきほどまで茶室のように狭い和室だったその離れは、花畑になっているではないか。
いったい、これはなに?
なにごとなの?
とすん。
背中に柔らかい衝撃を感じて、千歌音は花畑のなかに倒れこんだ。
顔一面に花の薫りがむせ返るように響く。起きあがろうとして、こんどは逆に引っ張りこまれ、仰向けに寝ころんでしまった。誰の仕業なのか、もうわかりきっていった。目と鼻の先に、そのひとの顔があった。
組み敷かれたまま、観念したように、千歌音は眼を閉じた。
はじめての接吻は瞼に落ちた。ふたつめは額の上に。そして、みっつめで姫子の甘い口づけを受けた。花びらをそっとつまみあげるような可憐さで、姫子が長襦袢の襟元を広げ、千歌音のからだを開いていった。千歌音は姫子のなすがままに、その指先を受け入れた。唇を重ねたまま、姫子と千歌音は花の海のなかに沈んでいった…──。