陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

京四郎と永遠の空は、美しきフランケンシュタインの物語

2024-10-05 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

世に余り知られてはいない、けれどもなぜだか自分の記憶には残ってしまった。
そんな作品が不思議とあるものです。拙ブログで延々と記事にし続けるジャンルがまさにそれ。

2022年の冬休み、ひさびさに漫画「京四郎と永遠の空」を再読しました。
この作品、うっかりDVDもドラマCDも売り払ってしまい、実は現在、原作漫画およびスピンオフ外伝話の小説しか手元にありません。あとは雑誌掲載時の付録の小冊子。

このアニメが放映されたのは2007年の年明け。
現在(2023年1月)からなんと16年も前。このアニメは管理人がはじめてブログでリアルタイムレビューした作品。なので、ひときわ思い出深かったのです。

この作品は、当時、百合アニメとして現在は地歩を固めつつある神無月の巫女の後継作と目されていました。神無月の巫女のメインキャラである、姫子と千歌音のそっくりさんが客演するからです。実際、神無月の巫女ファンを意識したようなキャスティングでしたし、その二人の百合キャラのほうが、主演の少年少女トリオの活躍を食ってしまったかのような感もありました。また、原作者の介錯氏の過去作「円盤皇女ワるきゅーレ」をはじめオールスターが豪華共演する、スターシステム的な作品で、連載当時はかなりの注目があったはずです。

今回の再読は、この「神無月の巫女の続編である」という先入観を取っ払った、主演三人組にフォーカスして物語をもういちど再考しなおそうという試みでした。
以下、作品のネタバレが含まれますので、未読の方はご注意ください。

漫画版を改めて読むと、この三人の心理劇はなかなかうまく構成されています。
大災害後の関東の、とある学園都市アカデミア。学生の自治に任された自由な校風の学校で、夢見がちな女子高生の白鳥くう。ある日、幻の王子様とよく似た少年・綾小路京四郎が転校してきたその日、学園を絶対天使と呼ばれる存在が襲う。くうを守ってくれたのは、京四郎と彼が使役する絶対天使のせつなだった。

第一話から、脱ぐだの、キスするだの、ショッキングな場面の連続で、恋愛ものとしては非常においしい設定なのですが。
メインテーマは、少年ひとりに少女ふたりの三角関係。主に絶対忠誠を捧げ、最後は破壊されることも受け入れる献身的なせつな。彼女はある意味、神無月の巫女でいうところの大神ソウマの立ち位置。亡き兄の遺志を継ぎ絶対天使殲滅をもくろむ京四郎と、彼の雄姿に惹かれるくう。自分は人間だから、せつなと違って、京四郎と恋人になれる、という優越感に浸る。ところが、くうは敵方のミカの部下にさらわれたことから衝撃の真実を知ってしまいます。彼女は恋をすることすら許されない存在だった!

いっぽうの京四郎は、絶対天使の二体目として利用するはずだったくうに、せつなには抱かなかったはずの思慕の念を覚えてしまいます。その真意を知ってしまったときの、せつなの叫び。せつなは京四郎が人間の女の子と幸せになるのはいいが、自分と同じ天使とそうなるのは許せない。この痴情のもつれ、さあどうなるの? といったところで、京四郎の理想だった、あの兄のカズヤがなんと復活。少女革命ウテナの暁生兄さん以上の予想斜め上をいく傍若無人ぶり。そして、兄が語る過去の事実に、うちのめされ、プライドを粉々にされてしまう京四郎。



初読のときは、クールなイケメンがへなへなになるので情けないと思ったものの。
でも子供の頃は、遊んでくれたやさしい大人が自分のお手本に見えてしまうものだし、仕方ないものですよね。この十年俺は何をしていたんだ…と涙ながら後悔にもだえ苦しむ。恋しい彼女も、剣となる少女も奪われて無力な少年に力を貸したのは、絶対天使との共生を望んだもう一人の兄のソウジロウや、姉の部下たち。

京四郎と同様に、カズヤにも側に寄り添う鋼鉄天使がいます。
ワルテイシア、彼女も報われない存在。かおん、たるろって、せつな、そして、ワルテイシアとくう。五体の天使が融合し一つの存在になる。それは白鳥くうが積年求めていた夢の王子様と結ばれるときでもある。なのに、くうはみずからその儀式を打ち破って、他四体の天使たちを解放してしまうのです。

もちろんそれは、京四郎とふたたび会いたがったため。
その行動は彼女の命の破滅でもあり、だからこそ、くうはせつなにこそ、京四郎との将来を託して消えてしまうわけです。くうは、神無月の巫女の姫宮千歌音めいた結末になるのですね。

この原作漫画版は、アニメ版とは異なった結末があり、それはたしかに第一話のくうと王子様の邂逅につながるものでした。このせつなの扱いについて、現世の京四郎と夫婦になれたのだからよしとする意見もあれば、産む道具にされたけしからん!とか、男性向け同人の孕ませ願望が透けてみえて気持ち悪いという見解も多々あるでしょう。でも、これって今の法治国家ならば許されないだろうけれども、それこそ異母きょうだいが結婚できた古代の天皇家みたいに、もし人類の生存者が限られてくれば、ありうる措置だったのでは、と思えなくもありません。なるべく京四郎に近い遺伝子を残すとしたら、他の血が入らない方がいいとか、そんな理由なのか。

でも、このラスト、ある意味、かなり古典SF的といいますか。
神無月の巫女の転生譚とはまた違った、悠久の時を超えて出逢ったふたりの物語、なわけです。先祖が成し遂げられなかった想いを何世代にもわたって受け継ぎ、いつか子孫がそれを成就する。それは、生態系の本質ではないでしょうか。せつながどれくらい長生きしたのかわかりませんが、ほんらいは、人間から生み出されるだけで、産む能力がなかったとされる超常エネルギー体である絶対天使が、人間の子をつくれるという奇蹟を与えられたわけです。キスひとつすれば相手のエネルギーを奪って死なせる可能性もあった絶対天使が、人間の愛がなければ飢えてしまうか弱い存在であった彼女たちが、ひとしなみの幸福を得ることができた。

おそらく、原作者が描きたかったのは、恋愛ゲームで誰が勝ったか負けたか、ということではなく。
微妙な愛憎劇に降りまわされ、まちがった目的のために他人を傷つけていた少年少女たちが、真実の愛に気づき、自分ではない者を思いやることによって、人たるに値する生活を取り戻せた、ということなのです。

十数年前こそは、かおひみの出番が少ない! 京四郎たちの恋愛劇は未熟! せつなだけが可哀そう! と批判轟々だった私でしたが。当時の読み方が幼かったのは、人生経験が足りなかった自分のほうでした。夢の王子様にモノローグで手紙を書く白鳥くうにしても、そうした二次元めいたアイドルを心のなかに額縁で飾っておかないと、両親がいない生活や、思春期ならではの空虚感を埋めきることができなかったのでしょう。

くうは京四郎の本意を知って、平穏な日常を脱したいと願ったかつての自分を呪い、旧友にアクセスとろうとします。この場面の断絶もかなりコケティッシュというかインパクトあるのですが(笑)、私たちいっしょよ、といいながらもあっさり裏切られてしまう女の子の友情の薄さをよく表していて。今ならば、笑いとばせますが、当時の私にはかなり胸に響いたものでした。くうが自己の存在に絶望して自死を選ぼうとしたときも、かおんとひみこの関係には理解を示したことも、けっして不思議ちゃん系のめんどくさい女の子というわけではなく、むしろ、自分を誇示しない、自信がなくて自分を愛することができないから、物語のような恋に浮かれてしまう、十代らしい一面があると言えます。でも、若かりし頃の私は背のびしがちで。こういう青くささを嫌っていたんですね。

せつなにとっては本望でしょうが、京四郎の心はくうへ向けられたまま。
大神ソウマのように新しい彼女をあてがわれないまま純愛を貫く男ではない京四郎は、女性からすると不評なのかもしれません。残念ガッカリ王子様もいいところです。けれども、現実には、一番の想い人とは添い遂げられずに、他の人と家庭を持つ、ということはありうるわけで。京四郎がけっして、せつなを大事にしなかったわけでもないだろうに、と今となっては思うのです。(ちなみに、アニメでは京四郎はせつなとそういう関係になったかどうかは明確にされていません)

ところで、この生み出してはならなかった人造人間というのは、古今東西よくあるモチーフ。
絶対天使はいずれ滅ぼすべきである、という当初の京四郎の思い込みは、「フランケインシュタイン・コンプレックス」と呼ばれるものです。「創造主に成り代わって人造人間やロボットといった被造物(=生命)を創造することへのあこがれと、さらにはその被造物によって創造主である人間が滅ぼされるのではないかという恐れが入り混じった複雑な感情・心理のこと」(ウィキペディアより)。

神無月の巫女はまぎれもなくロボットバトル作品なのですが。
本作も、絶対天使の旧約形態が、流線形のフェミニンな等身大ロボット(というか特撮者のスーツに近い)であり、しかも神という扱いだったオロチ衆の機体と異なって、綾小路京四郎の祖父たちが開発した、まぎれもない危険な人造生命体なわけです。

アイザック・アシモフの小説をはじめとする古典SFでは、「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とするロボット工学三原則にしたがって生み出されたはずの彼らが、予想もつかない行動や解釈によって、人間に脅威をもたらすというお馴染みのパターン。昭和生まれならば覚えめでたいのは、ハリウッド映画の「ターミネーター」シリーズですよね。人間と心を通わせる絆をつくることのできたロボットには、太陽に突っ込んでいく鉄腕アトムのように、人類救済の美名目のための哀しい犠牲がつきもの。ロボットですから、われわれ読者は可哀想とは思いつつ、どこかモノだからその痛みを自分のものとして感じないようにしています。だから主人公が異能の存在の場合、壊れても、傷ついても、架空の出来事として気持ちが乗らないことがあるわけです。修理したら治るだろうぐらいの意識しかのぼらせない。

ひるがえってみるに、京四郎と永遠の空に出てくる絶対天使たちは。
その天使という名称それ自体が(原作者の介錯氏の過去作に萌芽があるが)、おそらく新世紀エヴァンゲリオン人気からきているのだとしても、人工存在でありながらもさほど機械めいた硬質さがなく、またせつなたちもどこか感情に鈍い面もあるにせよ、人間の命令に杓子定規に従うような融通の利かなさがあるわけではなく。むしろかおんのように恋情のために拝命に叛くことさえあるわけです。

あまりに可憐で美しく、そして天衣無縫にして、儚くてもろい。
そんな少女たちである絶対天使たちは、ここでは古典的SFのモチーフを軸としつつも、表面上はそうした悲劇を感じさせないドラマを演じ、さらには自ら消滅を選んだ主人公を除けば、絶対天使四体はそれぞれの想い人と終生添い遂げるという、輻輳的なハッピーエンドを迎えてしまったのです。しかも非業の死を迎えたのは、むしろ天使たちを酷使した人間がわで、綾小路ミカしかり、廃人同様になったカズヤしかり。

たとえば、いま令和の現在。
クリエイティブな作業は人間の領分だったとされてきたのに、それですら、AIに精巧な絵画能力を奪われつつあります。もしAIが人語を解し、私たちの気持ちを理解し、悲しい時に慰め、嬉しい時に楽しませ、そんな都合のいいお手軽な、情動の道具にされる可能性はあるでしょう。だが、しかし。そのときに、はたして人間はそのひとならざる便利なものに、人間に等しい愛を捧ぐことができるのでしょうか? AIで生み出されたものに人間の知性や感情の熱を感じ取ることができるのか?

その答えは、同じ絶対天使であるのに、せつなではなく、くうに心を動かした京四郎の動きに見てとれるのかもしれません。せつなは、京四郎が望むものをなんでも与え、準備し、テキパキ動くメイドさん。けれども、彼女は「京四郎に望まれたことしか」できません。白鳥くうのように、京四郎が体験したこともなく、望んでもなかった、ショッピングや公園でのデートやら、そんな他愛のない戦士の休息の時間を用意することができなかったわけです。ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、そうした衣食住の基本は整えられても、人間の情緒を育むような思い出をつくることができなかったのでしょう。なぜならば、彼女は、そうした余暇をもたない少年に育てられてしまったからです。

たとえ人工知能が描いた絵がどれほど技術巧みで素晴らしくとも、私たちは子どもがたどたどしく描いたお母さんの似顔絵や、友だちどうしで交換しあったイラストのほうを愛おしい、そう思う生き物なのです。孤高の戦士ぶった京四郎には、おそらく、そうした思い出がなかったのでしょう。

とどのつまり、私たち人間は、自分の予想や嗜好の範囲を超えた化学反応を、人生に求めてしまうわけです。
子どもたちが日常を退屈だと感じてしまうように、旅人がいつまでも理想郷に足を向けてしまうように。白鳥くうは平凡で夢見がちで恋するに値しないと思い込んでいたけれど、そんな少女こそが、戦いにあけくれて絶対天使は壊すべきものという偏見にとらわれた少年を目覚めさせてしまったのです。自分は京四郎に滅せられるべき存在だと甘んじているせつなには、京四郎を変えることができなかったのです。自分の本心を隠し、嫌なのだと声をあげることのない従順さのために。

ドストエフスキーの名作「カラマーゾフの兄弟」のエピローグで、聖職者ミーチャが少年たちに語り掛ける名言があります。貧しかった少年は罪深い父親のためにクラス全体を敵にして、たった一人でその名誉を守ろうとする。少年は不幸にも病死してしまうが、その彼を忘れないようにしよう、とミーチャが少年たちに語りかけます。「決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生き続けるのです!」。そして、少年たちはあなたが大好きですと叫びあいます。

はたして主人と従者、創造主と被造物、といった一方的な使役関係に、こうした共生的な愛情関係は成り立つでしょうか。ひとの思い出を永遠にするということは、そのひとを忘れないこと、つまり友人・夫婦・恋人関係を問わずに、そのひとの良さを愛し続けることなのでしょう。

京四郎と永遠の空は、まさに人間たちと絶対天使たちがその永遠の愛をつむいだ奇蹟を描いた物語でもあり、また遺恨や誤解をのりこえて協働しあう世界観でもあり。転生をまつファンタジーめいたラストの神無月の巫女よりもなおさらに、現実的な物語であるともいえます。

ところで、個人的に私がこの作品にこだわるのは。
亡き兄の思い出をひきずって同一化しようとしていた京四郎が、やがて自分らしさに目覚めていく過程が、当時の私の心境とマッチングしていたからなのかもしれません。このアニメ放映時に亡ききょうだいの夢を追って就いたはずの仕事に挫折した私は、そののち、新しい人生の目的を探してたちなおるまでに長き時間を要してしまいました。

京四郎とくうの恋を幼稚だと見なしていた時の私は、二次元キャラに怒りをぶつけて物語の本質が理解できなっただけだったのでしょう。くう、せつな、京四郎の三人が迎える恋の顛末は、けっしてキレイにおさまった純愛ラブストーリーというわけではなく、涙誘う感動があるというほどでもないかもしれません。それでも、私はこの話をいつかまた読み返すたびに、理想の相手に裏切られても、尽くした相手に振り向かれなくとも、自分の信念が砕けそうになったとしても、それでも明日を続けるためには立ち上がらねばならないことがあることを、学ぶのではないか。あの無為だった日々とともに。そう思うのです。

「百人の王子様よりも、私はたった一人の京四郎さんが好きです」──主人公の白鳥くうの言葉ではありませんが。
まさに自分の胸の空虚を埋めてくれたもの、それこそが自分にとっての大切な存在。大事な宝物の物語。百作の名著や人気作があろうが、たった一つの作品があればそれでいい。人にとってのかけがえのない物語は、こうして読者によって形成されていくのではないでしょうか。



(2023/01/08)


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