陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「夜の逸(はしり)」(三十五)

2009-09-28 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

文机から顔を起こした千歌音は、いつのまにか、うたた寝をしていたのだと気づいた。
千歌音にしては珍しく洋装で、立襟のブラウスに、折り目のついたスカートを着用していた。体調が上向いてきたので、脱ぎ着が複雑な洋服も着られるようになっていたのだ。かつて舞踏会の華として洋館に通っていた時のあのいでたち。髪を結い上げることも、もはや厭わない千歌音である。もうすぐ女学生になるのだ、という意気込みを装ってみたのだ。

頬にはりついた手紙を剥がしながら、千歌音はふるりと首を振った。
手紙は乙橘女学校からだった。具合がすぐれなかったあいだの千歌音の休学扱いが、そろそろ解かれる手筈になっていた。亡き姫宮千実卿の遺言だったらしい。乙橘女学校には月の大巫女の元配下であった女教師もいて、彼女が復学に力を貸してくれていたと書かれてあった。おそらく、あの限月さまこと修道女ワルキュレイシアのことであろう。千歌音に日常が戻ってくる。かつての無為の日々のように、毎日泣き暮らした長襦袢ではない。あきらかに装いが違うのだから、さっきまでの出来事はつかのまの夢に違いないのだ。

それにしても、なんて熱い夢だったのだろう。
千歌音に覆いかぶさっていた姫子の腕の強さや、陽だまりを思わせる柔らかな匂い、指の先の熱さがはっきりと残っていた。さきほどの甘いひとときを思い起こすにつれ、千歌音の頬にみるみるうちに赤みがささずにはいられなかった。姫子が来てからというもの、ほんとうに摩訶不思議な夢ばかり見る。この村では、すべてが夢のように押し寄せてくる。嬉しいことも、哀しいことも、苦しいことも、楽しいことも、すべて。

障子に見慣れたひと影が写っていた。
もちろん輪郭だけで誰だかわかる。だが、千歌音は後ろを振り返りもせずに声をかけた。千歌音はほてった頬に両てのひらを当てながら、気持ちが鎮まるのを待っていたのだ。

「そこにいるのね」
「あなたの寝顔、眺めておきたくて」

音もなく、気配もなく、姫子は千歌音の後ろに立っていた。ほんとうに影のような人だ。いつもいつも、いつのまにか側にいる。だからこそ、不意に消えてしまうと、驚き慌てふためいてしまう。さっきの夢のことは、幻ではなかったのかもと勘違いしてしまうくらい。ほんとうにあのような一夜を共に過ごしたのではないか。

「障子に影を描いて、たぶらかす遊びなんて、いじわるね」
「千歌音は聡明だから、気づくと思って」

小袖の身の八つ口に両手をさしこんだまま、うんうんと頷き、くすくすと笑いさざめく。
のどかで、朗らかな様子に変わりはない。万事が万事、いつもこんな案配で、こちらの調子を乱されてしまうのだ。
だが、こんなふうに和やかな会話を交わしたのはひさしぶりだろうか。あの巨大な邪神が現れてからと言うもの、緊張がやわらがない日はなかったのだから。

居住まいを正した姫子は、ついと膝を進めてきた。

「千歌音、よく聞いてちょうだい。あの巨神(おほちがみ)を倒す方法が見つかったの」
「え。あんな化け物を…」

あの謎の怪物。数日前に山で襲われかけた、あの大きな人のようなもの。
あれはやはり夢ではなかった。夢ではないはずだ。このからだがしっかりと覚えている。命がけで姫子が庇ってくれた時の腕の強さと、甘ったるい陽だまりのような匂い。忘れるはずがない。

「あれはね、もとは一人の人間だったの。欲望や憎悪に囚われて、それを具現化することに長けた人間だけがあのようになるの」
「あれが、人間…?」
「そう、核となって動かしているのは、生きている人間なの。だから、彼らをとりのぞくことができれば、あの巨神はただの石の塊に還っていくはず」
「どうやって、欲に憑かれたひとを取り戻すの?」
「それには神の剣が必要になる」

千歌音は息を呑む。姫子はいつも重大なことをそれとはなしに、しかし、箏を弾いたようにさらりと語る。しかも、いちばん端っこの格別高い音を出す巾の弦のような、ぴんと張りつめた声で語る。その言葉が、いま、解しがたい。

「その神の剣はどこにあるの?」

姫子はずいと近寄って、千歌音の胸元に手のひらを添えた。
千歌音はいきなりそうされたことに、びっくりしてしまった。先だっての耽美な夢の中身がよみがえり、顔が茹でられたように火照った。姫子に触れられたいと思って、気恥ずかしいと思ったことなどなかったのに。

だが、姫子はそんな様子を意に介することもなく、自分の胸にも手を当てながら、こう言い放った。──「剣はわたしたちのなかにある」と。




【十二の章に続く】





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