千歌音はやにわに上体を起こして、姫子の心の臓に耳をそばだてる。
聞こえない、何も。かつて姫子は「神に肝を喰われたことがある」と言っていた。その神とはおそらく、あの邪神ヤマタノオロチの手先の巨神(おほちがみ)なのだろう。だとしたら、月の巫女である自分が洞窟でまみえたあの白銀の鎧の女神の正体は――…? タケノヤミカヅチを側にかしづかせていた、あの女神は…? いいや、おばあさま生き写しのお声のあの神々しい存在が禍(まが)であるはずもなかろう。
姫子の体中には、不穏な痣があちこちに現れる。なに、これ…? もちろん、千歌音が口吸いした痕ではない。必死に口づけをして息を送り、揺すってみたが、人形のように動かない。
三の首戦で姫子に表れたおろち衆と同じ痣――蛇の鱗を、鐘の中に隠されていた千歌音は知らずじまいだった。だから、知らなかったのだ。井戸の贄「ひめこさま」にされたことのある子どもがどういう末路をたどるのを。
「ああ、神さま、姫子を私のもとへ戻してください! 私の姫子を返して!」
よもや姫子は私と睦みあいをすると死んでしまうのだろうか?
それとも、これは禁忌を犯した私たち巫女への罰なのだろうか?
だから、姫子は夜を忘れてしまうのだろうか? そんなことってあるの?
いつも、抱くたび、抱かれるたびに初めてと喜ぶ姫子に、千歌音はどこか空虚感をくすぶらせていた。
千歌音は涙と混乱とでもはや前が見えない。前を向けないままである。姫子のいない明日を、千歌音は想像できない。
しばらくすると、千歌音の背中に回された手に力がこもる。
ころりとひっくり返されて、下にされる。両頬を包んで、姫子が見下ろしている。なんとなく顔がまた違う。唇が触れあいそうになったとき──。
「──何処へ行っていたの?」
「千歌音が知ったら、悲しむところ」
だから言えない。こちらも聞けない。
ふたりで結んだ幻だけが現のように千切れて夜風を染める。
姫子はおそらく情事のさなかに、うっかりと魂逸り(たまはしり)をしたのだろう。
ふたりでいっしょに頂きにのぼりつめたと思ったのに、とんだ思い違いだったのだ。勾玉の首飾りをしていない姫子は、あれをしないはずだったのに。
いつから? どこへ? 誰と?
たとえ、それが夢想なのだとしても、許されない。気持ちの隅々まで、未来までも縛るのは、女の罪なのだろうか。
どうして姫子だけがふらりと飛ぶのだろう。蝶のようにひらひらと。捕まえたと思ったら、するりと逃げていく。
千歌音をこの肉体に残したままで。二枚貝のように身を合わせてはいても、ちっとも、その魂はひとつながりではない。なんだか哀しすぎる。千歌音は顔を覆って咽び泣く。姫子が困った顔つきで、千歌音の手首をやんわりと握ろうとするも、
「姫子、貴女はね、そうやって毎回新しく生まれ変わったような清々しい顔しているけれど──私は、私は…貴女と過ごした一秒ですら忘れたことはないの。忘れられないのよ!!」
弾かれた手の痛み。切なさすぎて、寂しくて、虚しさいや勝って。
千歌音は姫子にしてもらったことを倍返しにしておこなった。とてもいやらしく、それは淫らに、もっと大胆に。姫子はそれをすべてうけいれて、果ててしまうまで逃げなかった。
──姫子のお陽さまの痣が熱い。
千歌音は顔をその胸の真ん中に伏せる。抱きとめている姫子の指がいつになく優しい。
「千歌音、あのね…よく聞いて。邪神ヤマタノオロチの復活が近いの。おろち衆の八の首がすぐそばにいるの」
すぐそばという言葉をやたらと強めて、姫子がつぶやく。
耳たぶをいじったり、髪をなぜたり、うなじをこそばかしたり。羽を浮かすような甘いため息が肌を撫でる。姫子の胸もとに、ぬるい涙がさらりとしたたり落ちる。
【神無月の巫女二次創作小説「夜顔」シリーズ (目次)】