陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

マリア様がみてるの名作回「片手だけつないで」考察

2024-04-07 | 感想・二次創作──マリア様がみてる

平成時代に百合ムーブメントを起こした火付け役というべき集英社ライトノベルの「マリア様がみてる」(著者;今野緒雪、挿絵:ひびき玲音)。
そのランダム感想記事、原則は一巻につき一記事なのですが。今回は趣向を変えて、小話ひとつのみを扱うことにします。

山百合会の三薔薇ファミリーのなかでお気に入りはと聞かれたら。
私は白薔薇で、志摩子×乃梨子推しです。原則的にマリみてでは、柏木さん含め(爆)、嫌いなキャラはいないのですが。

その白薔薇さま、シリーズ最初の「初代」と言われたら佐藤聖。
三薔薇さまのなかで、最初に本名が判明したのもこの人。無印では、薔薇の館に出入りする主人公・福沢祐巳にモーションをかけるなど、女たらしな面は実においしい立場。キャラ立ちがかなり濃厚だったせいか、終盤まで人気があり、シリーズ中、スポット出演することもしばしばでした。

その佐藤聖の振舞いには、かねてから、疑問がありました。
祐巳のような下級生にはちょっかいを出すのに、妹である藤堂志摩子にはいたって平然。熟年夫婦のノリか? 祐巳には、つっけんどんな姉妹喧嘩で始終衝突している支倉令と島津由乃と比して、冷めた関係に感じられます。この違いは何なのか? そして、志摩子はなぜ、二条乃梨子のようなしっかり者の妹を持つに至ったのか? そもそも、佐藤聖は、久保栞との離別をどうやって乗り越えたのか? 

この謎がひさびさに再読してみて、明らかになったわけです。
今回の記事は、その考察記録です。たぶん、どこかの感想ファンサイトさんですでに指摘されているのかもしれませんが、自分としては初めての発見でしたので。

『いばらの森』所収の「白き花びら」は、佐藤聖と久保栞の出会いと別れを描いたもの。
これまでの白薔薇さま像とはガラリと変わる、ニヒリストな過去が暴かれます。あまりに毒々しく痛々しい。自分の「聖」という名を裏切るような。その彼女は、聖堂で運命を感じた少女の純白さに惹かれ、恋愛に近い感情さえ抱きます。周囲の圧力もあって逃避行を企てたものの、栞のドタキャンによって別れの言葉もなく破局。聖は、自分の姉や親友の水野蓉子に支えられますが、正直、それまでのマリみての各話と比べると、後味の悪さの残る、インパクトの大きい終わり方です。

これに続くのが今回の「片手だけつないで」
このタイトルから、聖と志摩子の出会いの話だと思い出せませんでした。がっぷり四つに組む相思相愛じゃなくて、という意味合いだとはわかります。でも、姉妹が同じ前を向いていたら、つなぐのは左と右なのだから、あたりまえではないか。というひねくれた第一印象でした。このタイトルに覚えがなかったのも、「白き花びら」や「チェリーブロッサム」に比べたら、桜の樹の下や花吹雪が作中の演出になっているのに、題に含まれなかったからでもあります。

藤堂志摩子と佐藤聖の交互の一人称回想で進む絶妙な構成。
四月、桜の花びらに埋もれるように顔合わせしたふたり。姉が卒業し、白薔薇さまに就任したばかりの聖には、妹問題がもちあがっていました。蓉子や鳥居江利子の画策で、薔薇の館にお手伝いとして参加しはじめた志摩子。志摩子は栞の代わりではない、いや、むしろ自分そのもの。自分の弱みを共有してくれる存在。聖にはそんなふうに感じられ、とうしょはツンデレぶりだったのに、志摩子がいる日常を心地いいとさえ、感じはじめます。

いっぽうの志摩子。実は彼女が抱えた事情、まだこの時点では明らかではないのですが。
じつは、栞と同じシスター志望。この世ならぬ楽園を夢見たい。その崇高な将来のために、この学園を足抜けしたいから、級友たちとは深くかかわらない。なのに、自分を必要としてくれる特別な場所を求めてしまうという絶対矛盾。

孤独を求めながらも、疎外されてしまうことが怖い。
いっそ何も心を持たない、生殖すら自家培養な植物の姿にすら憧れてしまう。そんな人間に生まれながら人たることを罪深く思うふたりは、互いに似た者同士。それに気づいているのは、水野蓉子。

志摩子を中途半端な山百合会助っ人状態のまま放置した聖。
野良猫の餌付けを眺めた志摩子に、遠回しに揶揄されても、自分の優柔不断さには気づけない。しかし、決断を迫られるときが来ます。蓉子の入れ知恵で、紅薔薇のつぼみの小笠原祥子の妹にと、志摩子を奪われそうになる。

聖は衆人環視の授業開始直前に、志摩子を連れ出し。
まるで花嫁を結婚式場からさらった映画「卒業」ならではの、グッとくるシチュエーション。告白の場面はもちろん桜の下。すでに季節は秋。残されたふたりだけの期間は残り半年。そう、半年も、この聖というひとは、志摩子を利用していた。志摩子の言い出せない望みを見まい、聞くまいとしていた。周囲の無理やりなお膳立てで、正式にスールの誓いを結ぶも、ロザリオは首を縛るものではなく、片手に軽く掛けただけ。

栞にはできなかった妹、なぜ、志摩子にはできたのか?
栞とは好きの度合いが違うから? 恋人じゃないから? いいえ、そうとも言い切れない。志摩子は悟ります。自分の抱えた家庭の裏事情、そんなものを、この自分と同じにこの世界に傷ついたひとと分かち合ってもらいたいとは思わなかったから。打ち明けたとしても、相手には価値のないものだから。自分の懊悩を干渉されたくない志摩子からすればちょうどよかった。この部分の志摩子の洞察は、目を見張るものがあります。「彼女は私の着ている物にも、背負っている物にも興味がないのだ。理由はわからない。けれど、私という一個の人間をありのままに受け入れようとししているだけなのだ」と。事実、いばらの森騒動時、志摩子は聖の過去を探ろうとはしませんでした。だからこそ、聖は志摩子を選んだのかもしれません。蓉子のように、自分の弱みを知り過ぎて適格に突いてくる鋭い相手が怖かったから。

アニメ神無月の巫女で、来栖川姫子が「苦しみも悲しみも私にわけて」と姫宮千歌音を受け入れるシーンに涙した私には、とても新鮮に映ったのです。長々とくだくだしく、いかに、自分が劣情を抱いて懊悩していたかを語り明かし、そのうえで全身で受け止めてくれる。ときには一緒になって、地獄の底にも飛び込んでくれるような。けれども、そんな百合心中な関係は「いばらの森」で解決したように、マリみて世界では起こりません。だからこそ、ともに悲劇に向かう要素のキャラとしての、久保栞は佐藤聖の前から消え、その後、登場してはなからなかったのです。聖が彼女を「天使」だと称したように、それはもはや降臨しない存在でなければならなった。

そして、喜びを二倍に、悲しみは半分にという詩人シラーの言葉を体現した関係が、志摩子にとっての二条乃梨子との姉妹。
聖には求められなかった心の重荷を分かち合う相手を、志摩子は不動心の妹に迎えたわけですね。このあたりの考察は「チェリーブロッサム」のレビューに譲るとします。

栞には抱いた恋情を、なぜ、志摩子には抱かなかったのか?
栞は聖にとっては救世主であるが、志摩子は、聖そのものだから。自分の悪い部分=他人と距離を置き、どこか斜に見ている無関心さを好きになれないから。籠の中の鳥のように、誰にも触れさせない、宝物のように、志摩子を囲い込もうとせず、蓉子たち他の者とも交流させる存在にしたから。要するに、自分の可愛がりを満たす愛玩動物にしなかった、と。

なのに、なぜ、聖は志摩子を妹に。志摩子は姉として受け入れたのか?
恋情でも、母性でも、友情でもない。相手を自分の好きの枠に閉じ込めない。束縛をしない。そんな人間として互いの尊厳をまもりあう関係になれそうだから。志摩子は二年次にだいぶ人づきあいになれたのか、くだけたようになり、祐巳や由乃にもあけすけに家庭の事情を明かすようになれます。けれども、佐藤聖とはそこまでいかなかった。近づかず遠からず、けれども、双方のこの世界での存在の祝福を称え合う、認めあう、そんな関係。それを志摩子の言葉でこう語らせています。

「長い旅の途中で、同じ木陰を選んで休んだ言葉の通じない者たちのように。私たちはたぶん、自分のことを語り合わなくても、一緒にいられる。いずれまた離ればなれに旅立つことを知っていながら、そこにその人を感じながら魂の安息を感じることができるだろう」
「言葉ではないのだ。私たちは近くにいるべきなのだ」

一樹の陰という言葉がありますが、まさにこのふたりの絆こそがそれ。
樹と同化したい、人間としての生をなくしたいという、哲学的な自己否定に陥っていた聖も、自分の出生に悩んで現世から逃れる聖女への憧れがある志摩子も、生身の人間として未来を歩む覚悟をここで共有するのです。

他人の生き方に口出しをし過ぎて相手を壊してしまわないということ。
これは、しばしば、頭が良すぎて世の中が見通せるとうぬぼれている人が陥りやすい欠点です。親しくなりすぎて、相手を食いつぶしてしまう。拒否されて人間不信になってしまう。しまいに生きていくのが嫌になる。変わらねばならないのは、自分なのに。

しかも、この回をいばらの森とセットではなく。
聖たちの卒業式回の「いとしき歳月」に含めたのが、じつにうまい。聖がなぜ、祐巳にお餞別(笑)をくれて、学生生活が楽しかったと答えた理由がわかるからです。祐巳を都合のいい遊び相手にしているような感じにも見えるけど(爆)

この「片手だけつないで」の内容をすっかり忘れていた私は、十年ぶりに読みなおして、おおいに打ちのめされたのです。百合というジャンルの枠だけでは語れない、人生賛歌や人間愛がテーマになっているということを。今野先生は、ユリイカか何かの思想雑誌でのインタビューで、マリみては百合ではないと語られたらしいのですが。狭義のふたりきりの閉ざされた特別な、濃厚な関係性や、結婚という法的な縛りによってしか保証されない、誰かにとっての○○であるという役割でしか価値を見出されえない、そんな百合作品とは別ものですよ、という意味合いでおっしゃったのかもしれません。私はその文面を未読なので、推察なのですが。

志摩子が終局に、聖という人間をみくびっていたという考察は、胸に刺さります。
私たちはどこか孤独でよそよそしい、組織で浮いているような同胞を見つけて歓び、近づき、悲しみを分け合って、けれども片方だけがその苦悩から脱け出したときに手を離してしまう、――なんて罪深いことがあるのです。

この回は恐ろしく人間観察に満ち、人間関係、とくに複雑なねじれをもよおす女性どうしの関係に、深い示唆を与えてくれました。人生に迷ったときに、愚かな私はもういちどこの回を読みなおすでしょう。そして、もし十代の時に戻れたら、世の中を、自分の隣でその人なりの目的で必死に生きる人をどこか小馬鹿にしていた自分に、ありがたい、耳に痛い助言をくれた水野蓉子の言葉を、与えたいと思うのです。もうすこしあなたは人間と関わった方がいいと。自分のわがままな美学だけでは、見える範囲が限られてしまうのですから。

このシリーズが本来の読者層であるハイティーンの女子のみならず、働き盛りの女性や熟年男性陣にも幅広く読まれた理由が分かるような気がします。
この「片手だけつないで」の出だしは、実に文学的でライトノベルとして位置付けるにはもったいないくらいです。


(2023/03/19)


【レヴュー】小説『マリア様がみてる』の感想一覧
コバルト文庫小説『マリア様がみてる』に関するレヴューです。原作の刊行順に並べています。

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