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陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

美術館学芸員という仕事を諦めた先に

2025-05-28 | 芸術・文化・科学・歴史

先日(2023年の秋)、秋篠宮家のもと内親王さまが米国のメトロポリタン美術館でのお仕事がうまく行っていない云々といったウェブニュースを知った。
英語は堪能だが美術についての知識不足だったとかなんとか。とはいえ、昨年司法試験合格し、弁護士事務所で活躍中の配偶者氏との仲は悪くはないようで。今回の記事は、とにかくメディアを賑わしたこのご夫妻へのあてつけではない。私自身の反省文だ。

拙ブログに何度も書いたが、国立の大学院で芸術学を修めた私の就職希望先は、美術館学芸員だった。学芸員になるだけならば博士号まで取得しなくてよい。大学での研究者を目指すよりは、早く自立できるというのが私の目論見だった。私の同期の誰もがそうだっただろう。

就職氷河期世代であったことに加え、ゼロ年代の当時、もともと博物館学芸員の募集などごくわずか。
しかも自分の専門研究分野と重なる就職口は限られている。数年ほど前の先輩には、米国のスミソニアン美術館へ就職できた秀才の女性もいた。民族博物館へのボランティアに参加して顔を売っているクラスメイトもいた。私の地元の県立美術館には母校の大学院出の学芸員がおり、帰省するたびに何かと展観へ出かけてはコネクションをつくったものだった。大学内での論文の評価も悪くはなく、実績にできるような大学紀要への掲載も常連だった。大阪市内の図書館で非常勤職員として勤務していることもアドバンテージなのだと、愚かにも勘違いしていた。

そんな私が初めて受験した東京都立近代美術館の試験。
今となっては恥ずかしいが。まわりの受験生は東大京大だので留学経験ありのエリートばかりだった。当然ながら落ちた。二流の国立大学で学内では優秀だからといい気になっていたのだ。その後、私の専門分野ぴったしの美術館の求人もあった。何を勘違いしたのか、英語力を見せつけようと、私は英文で履歴書を書いて送付した。書類選考で落ちてしまった。

学生時代が終わり、派遣や正社員の就職を経て、故郷のとある文学ミュージアムで募集があった。
薦めてくれたのは家族だった。1人の採用枠に100人の受験生。文学の知識などからきしなかった。当然ながら落ちた。当時、30代前半だった。それが最後だった。

そのあと、私の大学の同期がいわゆる学歴ロンダで10年かかって博士号取得したり、非常勤の学芸員となって学会で発表したり、あるいは有名私大で非常勤講師をしたりといった活躍をネット検索で知ってしまうことになった。彼女たちは、卒論時代はいずれも評価があまり芳しくなかった。ちょうどそのとき、私は個人事業主になる前の、引きこもりも同然の状態だったときだった。中島敦の「山月記」を思い浮かべたのもそのときだった。

実家の経済力は言い訳にはならなかっただろう。
文系大学院生の就職が悪いことは常づね自覚していたし。修士修了後、薬学部へ進学しなおそうかと思ったぐらいだったのだから。親族の相次ぐ死だとか、次々に問題が起きて、地方での勤め先でも私はいつも社内で戦力外通告されたり、パワハラに遭って体調不良で転職を繰り返した。資格試験にも励み、なんとか再就職しようともがき続けたのだ。

そんなとき憎々し気に思い出したのは、小学校時代の旧友から言われた「美術を仕事にできなかったんだね」だった。今も蒸し返して何度も記事にしているが、あいかわらず大人げない。

最近は美術への未練もなくなって、展覧会にも行かずじまいだ。
なぜ、若い頃、あんなに必死になって文化通をきどって観て回ったのだろう。近現代アートには庶民に理解不能なコンセプトがあったり、ややいかがわしい表現を匂わせるものもあった。法律を学んだいまでは倫理的にどうかと目くじらをたてるそんな文化に、私はなぜか心酔していた。

私が美術館学芸員という仕事を諦めた理由の一つが、勤務地を選べないことだった。
学生時代に生じた実家の不幸のせいで、私は遠方へ行くことができなくなったのだ。くわえて、自分の好きな作品や造形作家以外の研究を微塵もしたくないという頑固さがあった。研究者たちのインテリぶった陰湿さでねじれた人間関係を目の当たりにして、失望もしていた。医師の過労死が問題視されたが、学術研究の専門職は終わりがなくハードな仕事だ。プライベートでも常に美術のことばかり考える。わがままな画家に振り回されたり、学閥があったり。地味なように見えて、企業家などとのパーティーではドレスアップしたりもする。画商とは価格交渉したり、事務的な雑務もあるだろう。今の私にはとうていこなせるとは思えない。


現在の学芸員はかつてほど狭き門ではないらしく。
教員も行政職員もそうだが、退職世代が多いので募集が増えているらしい。しかし、非正規職もあるとは聞く。地元の公立図書館は公務員の司書ではなく、管理団体運営の非常勤職員であるらしい。文化の専門職で働く難しさがある。

もし私がうっかり運よく学芸員に就職できたとしても、数箇月で挫折して辞職していただろう。
過去に会計事務所で勤めたときも、昼休みもないあまりの過酷さに退職してしまったのだ。好きなものがあっても、それを仕事にするだけの能力が私にはなかった。そして、しまいには呪うようにさえなったのだ。

いま、40代半ばを過ぎた私は田舎の老舗企業で、しがない総務経理をしている。
周囲は美術だの文化だのには無縁の方々ばかり。けれども、基本定時に追われるし、コツコツ独り作業、毎月定型業務ではあるし、数字を追う仕事は嫌いではない。土日にたまに読書をしたり、空き家の管理ができたりする。なにより正社員で組織に属している安心感がある。けっして華やかではないが、私が理想とした働き方ではある。

数年前に検索したら、私と同期だった派手好きな子の一人は中小企業で営業マネージャーをしていた。学芸員志望を誰よりも熱く声高に主張していた野心的なひとりは専業主婦になったという。学芸員になったあの子はたしかに当時の研究能力は低かったかもしれないが、人懐こさがあり、私と違って教官と衝突したりはしない人物だった。気難しい業界だからこそ、こういう柔和な性格が求められているのだろう。気性の激しい私には、自分の欲しかった夢をかなえた人へエールを送ることができなかったのだ。

子どもの頃に絵が好きだった、学内でもちょっとばかし絵が上手いとおだてられたらからこそ目指した夢だった。亡くなった家族がイラストレーターであったことも固執していた理由だったのだろう。その選択が間違っていたのに気づいたのが遅かったが、今の年齢だからこそ、得られた境地や恵まれた環境もあったのだろう。

子どもの頃に目指した夢を掴む人生は素晴らしい。しかし誰もが藤井聡太や大谷修平にになれるわけではないし、なれなくたって楽しい人生は待っているのだ。バリキャリの専門職でなくたって、高給取りでなくたって、自分が置かれた場所で咲けばいい。中年になってやっと達観してきたのかもしれない。だから、もう夢をかなえなかったことに苦しむのは金輪際やめにしよう。自分には別の人生があり、やらねばならないことが盛りだくさんなのだから。

なぜかこんなことを、空き家の畑の草刈りをしながら考えたのだった。
好きな仕事をしなかったからこそ見られる、のんびりした田舎の景色がある休日、まんざら悪くはないと私は思っている。

(2023/10/29)









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