陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「夜の蚕(ひめこ)」(八)

2009-10-06 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

男は菅傘を外して、それを仰いで顔に涼風を送っていた。
その頭にはかつてあったはずの、武張った結い髷がなかった。頭がすっきりと丸められていて、浅黒い地肌から銀の雪をかぶったかのように、明るんでみえる。眉が太く、鼻が大きく、唇が並みよりも分厚い。いかにも欲深く豪胆な顔つきであったが、暑さには敵わなかったと見えて、鬼のごとき面相もひょうきんに崩れている。瓢箪に口をつけて、ぐふぐふと、水をたらふく呑んでいた。小動物を丸飲みした蛇のように、喉が動いて気味が悪かった。飲んだり食ったりを大袈裟にやらかすこの男は、まるでひと月にいちどしか獲物にありつけないような貧しい虎のようでもある。

「邪神はまだ完全には駆逐できていないわ。だから、あの子はまだ預かっているの。それより、どうして貴方があの子の行方を心配するの?」

千歌音は警戒心を解いてはいなかった。
なにせ、あのような辱めを受けた相手なのだ。いま、平然と口を利いているだけでも、随分と自分は進歩したものだと思う。かつてはあの舞踏会で、殿方に触れられるのさえ厭わしかった潔癖な自分が嘘のようだ。熊のような大きな男だと思っていたが、巨神タケノヤミカズチを前にしてのあの威圧感と比べたら、こいつの威嚇などまるで大したことはなかった。それも、そのはず、この男。どうも様子が違う。大きな図体をひたすら丸めて、なるべく小さくして、そこに坐っているのである。人間とは、なんと小さな生きものなのだろう。

「いやあ、すまねえ。あんた、まだ、あん時のこと根に持ってんだろ? 女子どもにする仕打ちじゃねえよな。本気で悪かった。煮るなり焼くなり好きにしたっていい。だが、あのガキのことは教えてくれねぇか。あんたが洞窟から拾ったガキだ。元気にしてんのか、なあ?」

男はやおら胡座を崩して、あろうことか土下座したのである。
噛み菓子特有の耳障りな口の音が聞こえなくなった。呑み込んだのだろう。青々と剃りあげた頭部が見え、額に刀傷があった。喧嘩を物語る痣もところどころにある。ひとのからだには悲しい歩みが刻まれている。かつて頬を張られ頭を下げさせられた苦々しい想い出が、まざまざと千歌音の脳裏によみがえった。その苦々しさを噛み潰すのに千歌音は必死だった。

「あの時のことはもう気にしていないわ。貴方がたの暮らしが大変なことを知らずに、豪遊していた私だって悪かったのだから。でも、あの子のことは教えられないの。あの子は大事な切り札だから。貴方みたいな乱暴な方に渡すわけにはいかない」
「そこをなんとか、ひとつ頼む! この通りだ! 俺はあいつにどうしても会いてぇ」

入道頭の男が二度三度とさらに頭を低くした。ほぼ床に擦り付けるまでになっている。
そのとき、千歌音はあらためて気づいた。男が腕を抜いた左袖が空疎に舞っている。つまり、この男は片腕だけで平伏している。なんと無礼な! 不遜に懐手をしたままで頭を下げたことに、千歌音の眉が吊り上がった。そして、驚いたのは──男の首から下げられた光るものだった。思わず体が熱を帯びてしまう。なぜ、お前がそれを…?! 喉に釘を刺されたような衝撃だった。だが、弱みを見せまいとして平然と取り繕う。

「俺がこんなに頭下げて、お願いしてんのに無理か? え、姫宮の嬢ちゃんよぉ」
「目的は何? あの子をどうする気?」
「どうするって、ただ会いてえってだけだろ。俺様がもと山賊(やまがつ)でこの辺一帯のお宝をがっぽり盗んだからって、いくらなんでもガキなんざ今更さらうかよ」

千歌音は応えなかった。
こいつは、自分が会いたいと思えば約束もなく会いに来るし。連れて来いと命じたら、部下が勝手にその誰かを引きずってくるような、誰にも遠慮のない暮らしぶりだったのだろう。馬車から乱暴に降ろされた千歌音にはそれがよくわかる。まるで野獣そのもの。本能のままに生きる輩には、ひとの機微も社会の理すらも通じない。

姫子ならこんなとき、どう振る舞うのだろう? 男の言い分を信じて、あっさりあの子に会わせてやるに違いない。姫子なら、何があってもあの子を護りきる力があるだろう。だが、自分には? 大切なものが目前で危険に遭っても護りぬく自信がない。

「ちッ。仕方ねえ。なるべくなら、こうしたかなかったんだが…」

大男は着ていた着流しの懐を大きく開けて、その奥に手を突っ込んでいる。
からだが痒いのだろうか? いや、そうではない。おそらく懐に隠したなにかを探しているのだ。拳銃か? それとも匕首か? 毛深い胸をはだけたところに、あの貝殻が光って揺れている。見たくない。何かの間違いであってほしい。姫子がこいつに…渡した──?! 千歌音は身構えた。斬る、叩き斬る。それしか遁れる手立てがない。畳の下に護身用の脇差しがある。仕方がない、こうはしたくなかったなかったのだけれど──男の言葉を胸の中で返すようにつぶやいて。視線をさだめたままで、座りなおすふりをして、それに手を伸ばそうと腰を浮かした、そのとき──…。



【神無月の巫女二次創作小説「夜顔」シリーズ (目次)】




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