陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「夜の蚕(ひめこ)」(七)

2009-10-06 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

いま、自室にこもった千歌音は、ひとり瞑想にふけっていた。
洞窟で行っていた修行の一環でもある。なにがあろうと、誰にも惑わされない冷静沈着な魂を維持すること。それは、巫女に必要な資質だった。しかし、千歌音には懸念すべきことが生じていた。

新しく寄越された侍女は、せつなとくうという二人の娘だった。
せつなはとくに綺麗好きで、せわしなくよく働く。くうは、相方に比べたらてきぱきしないほうだが、愛嬌があってひとを疑わない性格のせいか、仔犬のひめこや拾い子のそうまが懐くので助かっていた。二人は世情に明るいらしく、村の外に出たことがない千歌音に、乙女が好きなこまごまとした情報を教えてくれたりもする。最近は、宝塚歌劇団に夢中とかで、きれいな節をつけて歌ってくれたりする。休暇には阪急電車に乗って百貨店に出かけ、定食を食べたあとは黒豆を挽いた香り高い珈琲を楽しんだり、流行りの女絵師が描いたお耽美な絵はがきを集めたりするのが、モダンガールな乙女たちの生きがいなのだという。鄙びた村の上流階級の楽しみしか知らなかった千歌音には、珍しい話ばかりだった。

「ところで、最近、乙羽さんはお元気なの? あまりお見かけしないけれど」
「乙羽さん? どちらの方ですか?」
「姫宮家の縁戚の如月家の出自の方よ。以前に私付きだった侍女で…」

ふたりの新米侍女は顔を見合わせ、はてなと首を傾げる。顔は違うのに、しぐさが同じでおかしい。二人そろって、天使のような愛らしさがある。

「如月家は古くからのお家柄ですが…たしかこのお邸にご奉仕できるような若い娘はいなかったはずです。乙橘女学校の同期にも、そんな方のお名前は伺ったことがございませんし」

そのときの、千歌音の衝撃は計り知れなかった。
あの巨神(おほちがみ)の襲撃からこの自分を救った、あの聡明な侍女が…実在しない──?! では、あの乙羽は何ものだったのだろう。自分に如月のばあや馴染みの巾着を与えて、慰めてくれたあの侍女は? あれは、姫子が居ないあいだに、千歌音の心の隙間を埋めてくれるために使わされた神の使者だったというのだろうか。そんなはずは──ない。

姫宮家の侍女はいくらでもいるが、千歌音にあれほど尽くしてくれたのは、姫子の次には乙羽しかないないのだ。逢いたくてたまらない。自分が巫女として成功できたことを喜んでくれるだろうか。

千歌音は乙羽にだけは、どうしても訊ねたいことがあった。
そう、あの子だけは、姉のように理解ある彼女だけは、自分のこのどうにもならぬ懊悩をうちあけられるかもしれない。昨日の残り香のある赤いリボンの端を口に含んで、人知れぬところで妄想にふけっていた。姫子が残したもの、姫子がいない、なのに、いつもあの顔を想いだす。そんな自分を乙羽ならどう言うのだろう。ときめきを知った女だと笑うだろうか。朝に夕に鏡を見るたび、からだを拭くたびに磨かれたような肌をみて、千歌音は自分の変化に驚く──ひょっとして、これが乙女の恋なのではないか、と。


邸にひょっこり賊が現れたのは、そんな折であった。
賊というか、乞食というべきか。頭に菅傘(すげがさ)を被っていて、深い陰が顔に差していたので、顔の彫りや眼光の鋭さがいくぶん和らいでいた。無精髭も消えて、やや埃で黄ばんでいるが、頭陀袋を提げた托鉢僧の成りをしている。そのせいか、どことはなしに、やや柔和に見える。人間がここまで印象を違えることに、千歌音は新鮮な感慨を覚えずにはいられなかった。その男がいざ口を開くまでは、なのだが。

「よお、姫宮の嬢ちゃんよ。久しぶりだなぁ。お前が洞窟から連れ帰ったっていう赤子に会いてぇんだ」

忘れもしない、あまりに不愉快な不穏当な野太い声。
姫宮家の炊事場にあった食材は、この男に食い荒らされていた。
図体の大きいこの男の荒行を誰も止められなかったのだろう。男はあぐらをかき、左腕を懐手にしているので、法師の身なりとはいいながら、着物がやや崩れている。男はおおきな口をくちゃくちゃ動かしながら、さかんにしゃべる。空腹しのぎに噛み菓子でも含んでいるのだろう。現在で言うところのチューインガムは世界的煙草代用品として大正四年に発売されたが、当時はまだ国内生産されていない輸入品だった。とにかく、その歯鳴らしの音が耳障りでしかない。邸の静寂さをやぶる煩わしさで、飢えた獣じみている。そのせいで、僧形の成りでも反省しているようには思えない。

「なんですって?! まさか、貴方、おろちの生け贄にあの子を戻そうって言うの」
「おろち? ああ、あの流行病みてぇな、胸くそ悪い信心のことか。あんなもん、とっくに棄てちまったぜ。俺は信徒どもの用心棒に雇われていただけなんでな。お前ぇら、巫女さんがよ、退治してくれたんだろ?」
「退治…?」
「そうじゃねえか。巫女が血を捧げりゃ、蛇神さまがよみがえる。んで、あんたはその洞窟に行ったんだろ? 今まで誰も帰ってこなかったのに、お前ぇたちだけ帰ってきた。たまげたもんだぜ。お前ぇたちだけじゃねえ、村で行方知れずだったはずの赤ん坊まで帰ってきやがった。でよ、俺はその赤ん坊にちょいと野暮用がある」

たしかに子どもは連れ帰ってきた。
しかし、千歌音が連れ帰ったのは男児ひとりのみ。それにそもそも、あの巨神(おほちがみ)を退治したのだという確証はなかった。洞窟内に棲んでいた神らしき、あのひと柱を鎮めはしたが、あれは以前に村を襲ったものではなかった。禍々しい鎧武者のあとに、現れた白銀に輝く神々しい機体…女神の声、あれは…何──? おばあさまの声によく似ていたあの女神は…? ともあれ、巨神は何柱か存在するということだ。油断はできない。



【神無月の巫女二次創作小説「夜顔」シリーズ (目次)】




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