陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「夜の月(あかり)」(六)

2009-09-27 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


「それだけじゃないわ。もっと不思議なことがあるの。戦時中に工場で働いていたとき、この写真が風で吹き飛ばされてね、拾うために工場へ戻るのが遅くなったの。戻ったとき、工場はすっかり焼け落ちていた。遠くの空に唸るB-29の音を聞いて、わたしはその写真を握りしめながら防空壕まで走ったわ。走ってはしって、あれだけ走ったのはたぶん人生でただ一度ね。マコちゃんと競争したら、勝つんじゃないかしら」
「ばあちゃんなんかに負けないよっ。兄ちゃんたちにだって負けたことないんだから!」
「そうね。じゃあ、これからも、マコちゃんは走るのをやめちゃだめね」

うまく乗せられてしまったらしい。
真琴は話の旨い祖母に肩をすくめたが、後悔はしていなかった。

「わたしは生きる、ぜったいに生き残る、あの人だって帰ってくる。そう信じていたの。マコちゃんのお父さんがおたふく風邪に罹って死にそうになったときも、あなたのお母さんが初産で危なかったときも、二番目のお兄ちゃんが修学旅行で乗ったバスがトンネルの火災事故に巻き込まれたときも、ずっとこの写真を持って、おばあちゃんはね、祈っていたの。これは、待っていたい人が戻ってくるおまじないなの。だから、マコちゃんにあげる」

祖母がさしだした写真を真琴は、すなおに受けとる気がしなかった。
言ってはいけないだろうな、と思いつつ、そのいじわるな質問をしてしまったのだ。

「…でも、じいちゃんはもう天国から戻ってこないよね」
「そうね。人間は永遠じゃない。寿命があるもの。あなたが生まれる前におじいちゃんは亡くなったけれど、あの人、最後にひとつお願いごとをしたの。もし、もういちど生まれ変わるんだったら、思いっきり走ってみたいって。砲弾から逃げのびるためじゃなくて、だだ広い草原をひたすら走る。それがおじいちゃんの夢。そして一年後、おじいちゃんの命日に、あなたが生まれた──おじいちゃんの名前はね、早乙女真事(まこと)よ。あなたはおじいちゃんの生れ変わりみたいなものね」

自分の名前は祖父譲りだったのか。それで祖母が他のいとこ連中にも増して、やたらと自分を可愛がってくれた理由が腑に落ちたのだった。
年の離れた兄貴がいたせいか、かねてから跳ねっ返りで女の子らしくなく育ってしまったのは、男とも女とも読めるその名前のせいではないかと思っていた。苗字が女らしいものだから、小学校ではクラスの男子によくからかわれたものだったが、真琴は言い返すぐらいの度胸はあった。

「ばあちゃん、ごめん。だけどさ、このおまじない、大事なものなんだろ。あたしが貰っちゃいけないよ」
「いいのよ、マコちゃん。あなたがそれでいつか大事なひとに巡りあえるのなら、おばあちゃんにはそれが幸せよ。お友だちも、親切だった近所のお兄さんもお姉さんもみんな、あの空襲の日に亡くなってしまったわ。おばあちゃんにはね、もう、待っていたい人がいないの。待ってくれているのは、おじいちゃんの方なのよ。どんなに遠くに離れていても、あの人が帰ってくるかもしれないという望みだけあれば、それで幸せなのよ…。マコちゃんはまだ若いからわからないけれど…いずれ、大きくなったらわかるわ。どんなに近くにいたって、血を分けたって、それだけで家族としてうまくいくわけじゃないのよ」

祖母が寂しそうに笑った理由が、真琴には痛いほどよくわかった。
三人の食べ盛りの子を抱えた共働きの両親は、互いの仕事ですれ違うことも多かった。父母が祖母をないがしろにしていたわけではないが、年をとっていささか愚痴っぽくなった祖母に温厚に接していたとは言いがたかった。祖母は晩年、しきりと故郷の海から採れる魚を食べたがったが、近くに火力発電所があるからと反対したのは母だった。両親が介護施設のパンフレットを取り寄せて、こそこそ話し合っていたのを目撃したこともある。真琴も大学まで出してやりたいけれど、おばあちゃんがねえ…と母が言葉を濁したのを聞いて、真琴は思ったものだ、早く誰にも依存しない大人になりたい、と。しかし、真琴はいまだに走るだけしか能がない少女でしかない。陸上競技は野球やサッカーと違って、プロ選手として活躍できるわけではないのだ。それでも、祖母と交わした秘密の協約のゆえに、就職先に恵まれるであろう進学先を蹴って、乙橘学園を選んでしまった。




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