陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「最高の晩餐」 (七)

2007-08-22 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女
千歌音は紅のビロード地の学園服をふたたび脱いで、弓道着を纏う。
背中を覆っていた丈の長い豊かな黒髪が、後ろ手で頭の高くに結わえられる。白いうなじに垂れた数本の後れ毛を残して、手櫛とは思えないほどきれいにひとつに纏まっていた。
千歌音から預かった愛用のカチューシャを大事そうに両の掌に載せて、姫子はゆったりと揺れうごく漆黒の尾をまぶしくみつめている。千歌音ちゃんのポニーテール姿、かっこいいなぁ、ここでもう一枚撮れたらいいのに。緊迫した面持ちの弓人たちに遠慮して言い出せないけれど、姫子は真剣な顔の千歌音も大好きだった。
のんびりとした思考を廻らせていた姫子とふと目が合って、千歌音はひととき緊張を解いた。「また後でね」とそっと耳打ちすると、姫子がぱっと顔を輝かせる。大事の前に微笑みあうふたりを、千歌音より先に弦を巻きおえていた桜が、なんの感情も映しださないような瞳で遠くから眺めていた。

姫子が床に両膝をついて紺袴の帯をしめ、防具の胸当てもあててくれた。軽く心臓部に手を添えて、無事を祈る気持ちを贈ってくれる姫子を眺めて、千歌音は馬の手綱を引き締めるような勇ましい心地がした。この勝負、まったく負ける気がしなかった。
汗がすっかり乾いてしまって指元まで滑りやすくなった紫紺の弓掛をふたたび右手に奥深くはめ、弦の張り具合を念入りに確かめる。射るのは一瞬だけれど、道具と心身の調整には万全の時間がかかる。射手はひと刹那の美しく完璧な射のために、千刻万日のこころ尽くしをするのだ。

颯爽として弓矢をたずさえた袴着姿の千歌音が、射位に立った。両足を横ざまに軽く踏み開いて体(たい)をととのえる。
すこし間をおいて、左側には、おなじく白衣に紺袴を着けた桜が並ぶ。弓をはじめて間もないのだろうか。彼女の道着は肌になじまず硬く、眩しいほどに真新しい白さを放っていた。白亜の生地に刺繍された黒字の学園名がきわだっている。しかしいま彼女は伝統ある部の名誉も外側から押しつけられたなにものも、背負ってはいまい。それは千歌音とておなじだった。的に深々と一礼をして、こちらと目が合うと軽く会釈を交わした。あどけなさの残る顔がすこし凛々しくなっている。巫女服すがたの姫子とすこし似ているかもしれない。あんな折れそうな細い腕に、強い弓をひく力があるとは思えない。けれど、こちらとて手加減するつもりはない。

観戦者は姫子だけ。はじめてのことだ。
千歌音は自家の射場でも早朝練習をおこなうため、姫子を連れたことがない。万一、流れ矢に当ててしまったと心配してのこと。そして、その時間は千歌音がひとりになって沈思できる時間でもあった。

姫子にみつめられている。負けるわけにはいかなかった。絶対最強の弓をひこう。誇らしく、美しく、優雅に射る私の姿、姫子の瞳に存分にやきつけてほしい。けれど、そのためには、今はもう彼女の存在を忘れ、目前のことに専心しなければならない。
矢をつがえ、弓を打ち起こし、押し開きながら引き絞る。左右の腕のあいだで、せめぎあう張力。弓と弦は限りなく満ち月に近づくかのように撓み、美しく弧を描く。

的に近いのは左の指先だ。利き腕は右だけれど、弓道を嗜むせいですっかり左手を前にだす習慣が身についてしまった。
姫子が階段から滑り落ちそうなとき必ず支えた左手。自分の右側には出ようとしない姫子の肩をそっと抱ける左腕。なにかとてつもなく巨大な力の掌のうえで、護れないことの無力を嘆いて砕こうとした左手。傷ついた姫子の右手を握りつぶそうとした残酷な左手。月いろの花びら舞いおどる別れの花畑で引き離された悲しみの左手。そしてふたたび、最愛の右手と結ばれた約束の左手。
この手のなかに、ふたりの愛しみも苦しみも掴んできた。
いま的にまっすぐ伸ばされた左手は、その先にある別の存在にむかっている。迷いなくためらいなく繋がっている。
──もう絶対、それを離さない。もう離れない、絶対に私たちは。どんなに痛くても、辛くても──

あたれと思ってはいけない。
あたらせようと狙ってはいけない。

的はむこうから近づいてくる。自分とそれとが一直線につながる紅いひかりの道筋がみえる。伸ばした指先へ、向こうから気持ちが吸いついてくる。矢は飾りだ。構えた右手は竪琴の弦を弾き、胸元へとなにかを誘い手繰り寄せるために音を奏でるようなもの。だから強引に撃ち抜くのではない。こちらへ優しく引き寄せるために、しっかりと、つかみとるための射。
満を持して弦を自然と離れた第一射はみごとに的中した。まるで、無垢でまあるい笑顔の持ち主の、白くて柔らかい胸の真ん中に、自分の気持ちをすっぽりとうけとめてもらったかのように。矢が離れた際の快い手応えが、うっすらと湿った右の掌のなかに薄く残っていた。いつもきれいに命中するときの親しみ深い感覚だった。この感覚が消えないうちに射ることができたら、かならずすべて的中する。

桜は驚きと羨望のまなざしで、麗人の洗練された射をみつめていた。自分が無謀にも挑んだのは、太陽を射抜く者。あまりに無謀な賭け弓だった。それでも焦燥も悔しさもなかった。その美しい技にしばし見蕩れてしまって、もはや勝つことなど忘れてしまいそうになる。



【目次】神無月の巫女二次創作小説「最高の晩餐」






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