陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「春のイシュー」(十)

2010-10-28 | 感想・二次創作──マリア様がみてる


「でもさ、手紙の書き方とかだって形式ってもんがあるじゃない。ちょっとぐらい真似たって、それは学習の範囲でしょ」
「そりゃ、学術書なりの言い回しとか、そういうのは参考になるわね。でも、サトーさんのは度が過ぎてる。他人の学説を引用して論理の下地をつくりながら、最後は自分なりの結論でまとめないとだめなの。公式や文法を暗記してなぞって、回答欄を埋めていけばいいのは高校生までなんだから」
「結論っていったって、自分独自の意見なんてものあるわけない。けっきょく、誰かがとっくの昔に思いついたこととかぶってくるのに。個性が大事、オリジナリティが大事とかおだてといてさ、社会出たら他人と同じことしなきゃ白い目で見るくせにさ」

目の前にいるこの学友が、あの古式ゆかしく折り目正しき女子校にいたことがふしぎとおかしなことに思われた。
こんな顔だちが彫り上げたように目立たしくて、性格の磊落すぎる十八歳が、あの楚々としたお嬢さまたちばかりの集う学園で、昆布みたいな地味な色あいの制服におさまって、しかもお利口さんに生徒会活動までしていたなんて。

ふつうこんなにも破天荒な友人に乗せられてしまうと、おとなしい人間でも羽目を外しすぎて、目も当てられぬほど豹変してしまうことがあるものだ。女の子というのは、とかく変わりやすい、染められやすい。

彼女の闊達さに惹かれながらも、景がすべてを預けられるほど気がおけない間柄に至るのを拒んでいるのは、ひとえに佐藤聖のもつ底知れぬ吸引力だった。彼女のようなはみ出し者は、無数の生物が進化の分かれ目に生み出した変種のようなものだろう。だが、社会というものをつくりあげてきた知能の高い人間は、変わりつづけることよりも凝り固まったまま生きながらえることを望む。いや、それとも気づかないだけで、佐藤聖のようなちゃっかり者のほうが多数派になっているのだろうか。

「課題与えられて文章書くのって苦手なんだよね。自分の書いたノートがそのまま、評価につながったらいいのに」
「そんな評価があるわけないでしょ」
「生物学Bはそうだった。あれは楽勝だったな」
「でも、あれは教養科目でも選択よね。このレポートの法哲学講義は、聖さんの学科だと必修よね?」
「そうだった」

景が眼鏡の奥で眉を八の字に寄せていると、聖は、あたかも見えない重しを支えて苦しんでいるかのようなしぐさをしている。よもや絶望的だと言わんばかりの態である。

「ああっ、もうぉ、締切は明日だってのに。”清教徒革命以後の英国における法解釈について”だなんて、どーでもいいテーマだと思わない? 私らにはもっと切羽詰まって考えなきゃいけないことたくさんあるんだけどな」

聖の言い分にも一理あろう。
消化器官と酵素の組み合わせを覚えるぐらいならば、胃に負担のかからない食事を教えてもらいたいぐらいだし、近代の政治思想だの倫理だのを学び、憲法の条文を丸暗記するくらいなら、労働基準法や民法を教えこんでおく方がよっぽどいい。細胞分裂の順番なんて知らなくたって、昔の人は畑でどう作物を育てたら食べていけるか知っていたのだ。

もっと実用的なことを教えてほしいという向きもないではない。とくに昔の花嫁修業前の教養を身につけるお嬢さま大学から抜けだしつつあって、就職率も高くなった私立の女子大なのだから。

しかし、また学問の府とは、卒業すれば嫌というほど向き合わねばならない現実の世知辛さから一時ばかり逃れることのできる知のオアシスでもある。この時期に常識を疑うことを知り、自分の頭でじっくりと突きつめて考える訓練を積めば、それは将来きっと財産になるには違いない。景はとにかくそう信じておきたいのだ。




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