陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

肉体のなかの古生代の音を求めて

2009-04-26 | 自然・暮らし・天候・行事


人間はひとしなみ、からだのなかに生命のリズムをもっている。
それは心臓がばくばく言う音であり、赤い血が波打つ脈音である。骨が軋む音、肉がたわむ音。鼻や唇のあいだからちいさなすきま風が出ていく、呼吸の音である。
それとはべつに、自分の生理がうみだすものではないが、環境のなかにひそんだ音に敏感に反応することがまま、ある。あるひとにとってはそれは小鳥のさえずりであろうし、またあるひとにとっては風の騒ぐ音、それによって裏がえっていく葉ずれの音、かもしれない。ちょっと刺激とスピード感のほしい御仁ならば、鉄や石がぶつかる硬めの音や、火がさかんに爆ぜる音かもしれない。

私にとってのそれは、水の流れる音だ。小さな川や瀧があると、かならず近くによってみたくなる。これが、沼や池などならば、そんなに滞りたい気持ちは湧かないかもしれない。

つい先日、とある山奥の寺のしだれ桜を訪ねた折りのこと。
境内に鎮座ましますその桜の観賞もそこそこに、私は近くの河原に咲いた桜並木を通り抜けて、水音に誘われていた。忘れ去られたように小さな山水を流している小川を発見し、そこにたたずむことのほうに興をおぼえたのである。
海に出かけたいのも、海の青さと光りをはじく砂のまぶしさに惹かれてではないだろう。潮騒に浸りきるために出かけるのである。したがって、流れているのかいないのだかわからないような、釣り人に好まれる橋の下の川にはあまり興味をひかれない。

人間にとって、水音というのは、自分のふるさとの声を訪ねることではないだろうか。私たちは生まれる前から母親の腹のなかで、あたたかな海にうかんでいた。さらにいえば、私たちの遠い先祖は、海からやってきた。そしてまた、人体の七割がたは水でできている。
してみれば自然のなかにせせらぐ水の音、滔々と流れていく水の音、ばしゃりと落ちて水面をぴしゃりと叩くような水の音にゆくりなく癒されるというのも、うなづける。肉体のなかに埋めこまれた古生代の音と、外界のリズムを同調させているのである。

しかし、美しい流れのある川のせせらぎや瀧のざわめきなどは、都会に暮していては、そうそう聞かれるものでもない。
風流をこのむ日本人は邸宅のなかに庭園をつくり、緑濃き松や紅い椿を植え、白砂や黒御影石を地面に敷いて、色彩もあざやかに飾る。だが、欠かせないのは鹿威し(ししおどし)だろうか。水呑み鳥のような定期的なおじぎも愛らしいが、あの竹筒が石をうつ響きが、なんともたまらない。庭といえばまず、あれを思い浮かべる方は多いだろう。
水の音を楽しむ装置としては西洋式庭園や現代の公園にしばしば据えつけられる噴水があげられるが、こちらは台座を彫刻で飾ったり、神話の人物や動物をならべ、また水の噴射そのものを見世物にすることからも、音に特化した装置とはいいがたい。それは水を響かせるのではなく、水で風景を飾り、水によって時代の勢いを記念するのが第一目的のうつくしいモニュメントである。
添水(そうず)はあくまで控えめなもので、その音によってしか自己を主張しない。そして音以外のなにものも喚起せしめない。それはまさしく楽器の本分である。だからこそ、その音は視覚にとりこまれずに、こころに直に響いてくる。
しかし、こうした庭園を自宅にしつらえられる人間も限られている。

そこで、私は、日常のなかにこうした水の流れをさぐる楽しみを覚えはじめた。
それはある夏の夜がはじまりだった。

ベッドにはいってもいっこうに眠られない昨年の熱帯夜のこと。夜の涼しい風にあたりにいこうと、私は外に出た。
私の部屋はベランダがなく、日中はかなり陽あたり良好であるので夜になっても熱がかなりこもって蒸し暑い。近くの大通りは二十四時間ライトアップされていて明るい。が、路地を一本逸れたところにある場所は、夜ともなればめったと往来はとだえ、静かな夜闇がひろがっているばかりだ。

両脇の民家のわずかな灯火をたよりとして、近くのマンションのごみ捨て場まで歩くのが、夜の日課になってしまった。寄り道もせず長居もしない、それはことのほか、ちょうどいい距離だった。一本道の中央をゆったりと歩く。自分の落とす影だけが長く伸びてゆく優越感、その道がまるで自分ひとりだけのためにあつられたレッドカーペットの道のように思いなされて、得意げになってみたりもする。夜にはそんな遊びの思考が許される。

そのゴミ捨て場からはおおきな建物の稜線が途切れ、夜のあお空がすっきりと見えた。
その日は十五夜が近かったせいか、月はまるくふくらんで輝いていた。こころなしか雲もうすくなったように思えた。あんなに月がきれいにみえるなら、もう秋も近いのだろうと予測した。日中の猛暑はどこへやら、夜になると次の季節への期待を寄せてしまう。秋を思えば夏のわずらわしさもしばし忘れるのだ。

夏は私の人生において、多くの終わりをむかえた時節だった。厳しい陽ざしからまもってくれる葉闇をひろげている街路樹は、いったい誰がじょうずに世話をしているのだろうか。私はいまだ夏の翠が育てられないでいる。私は思い出す。水やりの日課を忘れ、土だけうまった朝顔の鉢植えを抱えながら、登校して恥ずかしい思いをしたことを。私はその夏の日課をいまだ果たせないまま、不器用な大人になった。

町中にあって、夏の喧噪とは無縁なこの夜の月見亭は、まさしく私がもとめていた聖域だった。
目的地にいたるまでの路地の曲がり角には電柱が一本立っていて、私はそこに背を休めるのがお気に入りなのである。昼間はあまりじろじろ眺めると失礼なお宅の外観が、じっくりと観察できる。手入れの行き届いた庭先の樹木は、夜にまぎれても翠の艶をだして、緑のワインボトルのように渋く輝いている。センスのいい車も、ほこりを目立たなくしてガレージで控えている。迷惑な騒音も排気ガスもない。いまならひとも轢かない。原油高で出番を制限されたのか、その車は昼間でもお留守番をしていた。

電柱に身をもたれて夜空をみあげていると、ここちよい音が足もとから流れてくるのに気づく。
光りのおおい時間でみればうんざりする生活排水も、夜には清流のせせらぎのように聞こえてくるからふしぎ。夏の夜にはふしぎな音のマジックがある。祭りの騒ぎですら、許されてしまう。冬の夜が昼間ならなんてことないまっさらな雪だまの落音を、どす黒い隕石のかたまりみたいに表現してしまうように。

その街の底のせせらぎに、ぴったりと耳を寄せて、一晩じゅう浸ってみたい気分にかられていた。
夏の夜に水の音を求めてしまうのは、生まれ故郷のおおきな清流をみて暮らしたせいだろうか。それとも、自分の前世が魚かなにかではなかったのか。なにも不快が聞こえない、水面にちらばる光りの破片をまぶしくみあげながら、水底にひっそり生きる。そんな魚の生き方が私の理想だった。誰かに釣られて、あんこづけにされるなんて、まっぴらごめん。

静かな冬をのりこえ春になった今だが、雪解け水のような静かな喜びをじわじわともよおさせる、あの街の底のせせらぎには、まだ早い時節だ。あのせせらぎは、水を流すことにためらいのない夏ならばこその、夜の癒しの水音だったのだ。
あの音を聞いた翌朝、私の目覚めはここちよかった。そして、数日憑かれたように、街の底の音拾いに没頭したのであった。

したがって、この夜のせせらぎがない時代は、動画サイトにあがるせせらぎのムービーに耳をかたむけている。大きな岩場や滝ぐちは耳をやぶるような豪快な音をたて、水草を優雅に揺らし角の丸い石を転がしてながれる清流はやさしくて、やはりこころ癒される。

絶対音感など持ち合わせがなくて、クラシックの名曲なんぞ耳にしても、ついぞ違いの分からない鈍い耳の私である。そんな私がもとめてやまないのは、この身近にある流れの音なのだ。すばらしい音楽は、意外なところに転がっているものだ。その街の底のせせらぎを耳にするたびに、ここに居をさだめてよかったと、しみじみ感ずるのである。おそらく、つぎに住まいを変えることになっても、水の音からは離れない暮らしをしたいと願う。

【画像出典】
壁紙村様より「ノロ川の流れ」をお借りしました。




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