1986年の映画「サクリファイス」は、スタンリー・キューブリック作の「2001年宇宙の旅」とおなじで、高い映像美を誇るけれど一度観た限りでは筋書きがまったく理解できない難作。
「惑星ソラリス」のアンドレイ・タルコフスキー監督の遺作。カンヌ国際映画祭創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞受賞作品。
スウェーデンの南のある島。老年のアレクサンドルは、幼い息子(作中では"子供"としか呼ばれない)とともに、枯れた松の木を植えていた。"子供"は喉の手術をしたばかりで声が出ない。
今日はアレクサンドルの誕生日で、お祝いに娘夫婦と郵便配達夫のオットー、医師のヴィクトルが駆けつけた。アレクサンドルはかつて成功した名優だった経歴をすて、演劇評論家、大学教授として、この静かな島で暮らしている。妻のアデライデは、そんな生き方に不満をこぼす。
やがて、テレビでは核戦争を報じるニュースが流れ、外部と連絡がとれなくなったため、混乱する面々。
無神論者であったはずのアレクサンドルは、はじめて神に救いを求める。オットーからの助言で、侍女のマリアの元へ向かったアレクサンドルは…。
奇跡を起こす力がある魔女マリアと、アレクサンドルは関係をもつことに。このマリアはおそらく聖母マリアの象徴なのかと思うのだが、なぜ彼女を抱くことが世界の救済になるのかがわからない。そもそも、世界が崩壊したという描写すら無きに等しい。その後、アレクサンドルは神との契約を守るべく、みずから犠牲になろうとする(といっても、自宅に放火して精神病院に収容される結末で、家庭の幸せを放棄してしまうだけだが)アレクサンドルはイエス・キリストになぞらえているのか。
そして、"子供"は喋られるように。彼は、人類が存続する希望の権化なのかも。冒頭から登場するイコンがそれをほのめかしている。
ドラマの展開を楽しむのではなくて、映像にこめられた詩的なメッセージを解読するのが狙い。きわめて寓意的。
アレクサンドルの口を借りた「俳優の演技は彼自身に所属し、みずからが芸術のようにふるまう。が、詩の力こそ偉大でそれは個人を超える」という芸術論は、監督の持論なのだろう。
あまりに冗長なロングショットは、いかにも広大なロシアの凍土を見て育った監督ならではの美学。タルコフスキーは黒澤明と溝口健二に深く傾倒し、代表作でも日本との関連を匂わせている。この映画では、アレクサンドルが前世は日本人だったと語るシーンがある。
ラストが細い木と少年のカットで終わるのは、このふたつのモチーフではじまった長編デヴュー作「僕の村は戦場だった」への回帰とされる。
ソ連から亡命したタルコフスキーは、二度と祖国の地を踏むことなく、この映画を遺して亡くなった。
木の下で言葉を話せるようになった少年は、おそらく核戦争の脅威のなくなった大地に木が育ち、そして表現の自由を求められる未来を求めた彼自身の願いでもあったろう。アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」同様、きわめて政治的な色あいの濃い作品である。
(〇九年八月十七日)
サクリファイス(1986) - goo 映画
【2011年6月12日追記】
つい最近になってぼんやりと思うに、アレクサンドルとマリアの契りが世界を救うきっかけになるというのは、人類ひとしなみに流れる愛が地球を破滅から救う手だてとなる、という暗黙のメッセージだったのではなかろうか。そして言葉をなくした少年が言葉を取り戻すラストは、反体制として弾圧されていたタルコフスキー自身の鬱屈した表現であるとともに、核兵器の撤廃に向けて畏れずひるまず声を大にして行動せよという若い世代への願いであったのかもしれない。原子力発電の脅威があらためて世界に共通認識されたいま、私はこの主人公の結末が、あえて原発反対を唱えながらその主張を封じられてきた人々と重なって見えてしまうのである。彼を犠牲にしたのは原発神話を鵜呑みにした我々人類に他ならない。
奇しくも悪名高きチェルノブイリ原発事故はこの映画が発表された年に発生した。
イタリアでは福島の原発事故を受けて、原発建設の是非を問う国民投票が行われている。当の日本ではつい昨日大規模な反原発デモがあったが、政府はいまだ意思表明をするだけで具体的な手だてを打てずにいるのがなんとももどかしい限り。
「惑星ソラリス」のアンドレイ・タルコフスキー監督の遺作。カンヌ国際映画祭創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞受賞作品。
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スウェーデンの南のある島。老年のアレクサンドルは、幼い息子(作中では"子供"としか呼ばれない)とともに、枯れた松の木を植えていた。"子供"は喉の手術をしたばかりで声が出ない。
今日はアレクサンドルの誕生日で、お祝いに娘夫婦と郵便配達夫のオットー、医師のヴィクトルが駆けつけた。アレクサンドルはかつて成功した名優だった経歴をすて、演劇評論家、大学教授として、この静かな島で暮らしている。妻のアデライデは、そんな生き方に不満をこぼす。
やがて、テレビでは核戦争を報じるニュースが流れ、外部と連絡がとれなくなったため、混乱する面々。
無神論者であったはずのアレクサンドルは、はじめて神に救いを求める。オットーからの助言で、侍女のマリアの元へ向かったアレクサンドルは…。
奇跡を起こす力がある魔女マリアと、アレクサンドルは関係をもつことに。このマリアはおそらく聖母マリアの象徴なのかと思うのだが、なぜ彼女を抱くことが世界の救済になるのかがわからない。そもそも、世界が崩壊したという描写すら無きに等しい。その後、アレクサンドルは神との契約を守るべく、みずから犠牲になろうとする(といっても、自宅に放火して精神病院に収容される結末で、家庭の幸せを放棄してしまうだけだが)アレクサンドルはイエス・キリストになぞらえているのか。
そして、"子供"は喋られるように。彼は、人類が存続する希望の権化なのかも。冒頭から登場するイコンがそれをほのめかしている。
ドラマの展開を楽しむのではなくて、映像にこめられた詩的なメッセージを解読するのが狙い。きわめて寓意的。
アレクサンドルの口を借りた「俳優の演技は彼自身に所属し、みずからが芸術のようにふるまう。が、詩の力こそ偉大でそれは個人を超える」という芸術論は、監督の持論なのだろう。
あまりに冗長なロングショットは、いかにも広大なロシアの凍土を見て育った監督ならではの美学。タルコフスキーは黒澤明と溝口健二に深く傾倒し、代表作でも日本との関連を匂わせている。この映画では、アレクサンドルが前世は日本人だったと語るシーンがある。
ラストが細い木と少年のカットで終わるのは、このふたつのモチーフではじまった長編デヴュー作「僕の村は戦場だった」への回帰とされる。
ソ連から亡命したタルコフスキーは、二度と祖国の地を踏むことなく、この映画を遺して亡くなった。
木の下で言葉を話せるようになった少年は、おそらく核戦争の脅威のなくなった大地に木が育ち、そして表現の自由を求められる未来を求めた彼自身の願いでもあったろう。アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」同様、きわめて政治的な色あいの濃い作品である。
(〇九年八月十七日)
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【2011年6月12日追記】
つい最近になってぼんやりと思うに、アレクサンドルとマリアの契りが世界を救うきっかけになるというのは、人類ひとしなみに流れる愛が地球を破滅から救う手だてとなる、という暗黙のメッセージだったのではなかろうか。そして言葉をなくした少年が言葉を取り戻すラストは、反体制として弾圧されていたタルコフスキー自身の鬱屈した表現であるとともに、核兵器の撤廃に向けて畏れずひるまず声を大にして行動せよという若い世代への願いであったのかもしれない。原子力発電の脅威があらためて世界に共通認識されたいま、私はこの主人公の結末が、あえて原発反対を唱えながらその主張を封じられてきた人々と重なって見えてしまうのである。彼を犠牲にしたのは原発神話を鵜呑みにした我々人類に他ならない。
奇しくも悪名高きチェルノブイリ原発事故はこの映画が発表された年に発生した。
イタリアでは福島の原発事故を受けて、原発建設の是非を問う国民投票が行われている。当の日本ではつい昨日大規模な反原発デモがあったが、政府はいまだ意思表明をするだけで具体的な手だてを打てずにいるのがなんとももどかしい限り。