陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

アニメ映画「竜とそばかすの姫」

2022-09-24 | 映画──社会派・青春・恋愛

アニメ映画「竜とそばかすの姫」は、言わずもがな細田守監督の話題作。
日本アカデミー賞にもノミネートされるぐらい知名度があがった彼ですが、本作はテレビで特集番組が組まれるなど、スタジオジブリなみの広報宣伝活動があったせいか、興行収入は60億を突破したと記録されています。

では、その出来はといえば、ネット上でも評価が二分されるところ。
私としましても、手放しで褒めちぎるレベルではない、というのが結論です。今回は地上波初放映の金曜ロード―ショーで視聴しましたが、途中で放棄して、ラスト30分ぐらいを観て、なんとか観終えたな、といった程度です。安倍晋三元首相の暗殺事件で放映日が延長され、この連休日になったというのもあって、期待度が高すぎたのかもしれませんね。


***

子どもの頃、母親を水難事故で奪われた女子高生の鈴(すず)。
それ以来、実父との関係もギクシャクし、好きな楽曲制作もできなくなっていた。親友のヒロちゃんがプロデュースして、仮想世界U(ユー)に歌姫の「Belle(ベル)」としてデビュー。そばかすがチャームポイントの愛らしい外観と歌唱力で、次第にファンを獲得、一躍人気者になる。しかし大事なコンサートの日、お尋ね者の竜が大暴れし、舞台は台無しに。すずはなぜか、その竜のことが気がかりになってしまい…。

本作は2021年7月に劇場版公開されたので、実質、一年ぐらい。
こんなにも早く地上波放映したのは驚きですが。昨年、話題に上ったあたりからネタバレ感想がわんさか溢れていましたので、竜の正体やら、酷評された部分やらも全部わかったうえで観ていました。

個人的に残念だと思ったのは。
実質、令和版の「美女と野獣」オマージュだとされているわりには、外見的なパロディ(キャラデザというだけの)にのみとどまり、ディズニーアニメ、ひいてはその原作に当たる童話の本質を引き継いではいないということです。ディズニーのそれは全般ミュージカル調でキャラすべてが愉快に歌い出し、野獣となった王子が父親想いの娘ベルの真実の愛によって、人間としての美しさをとりもどす、ある意味、古典的なレジリエンスの物語です。誰もが観終えたあとの気持ちよさを感じるような。それはまさしくエンタメの王道です。

反面、「竜とそばかすの姫」では、主人公は母親への喪失感──悲哀というよりは、他の子を助けたために死んでしまい、世界に取り残されたような虚無をかかえたまま、父親と距離をおいています。この父はけっして悪意のある人物ではなく、むしろ、ジブリアニメの「思い出のマーニー」がそうであったように、養い親が健在であるにも関わらず、孤児根性でかってにひねくれている、ややめんどくさい女の子といった印象を与えます。ただし、すずの懊悩が描写されているので、視聴者はそこまで主人公を否定したくもならない。

さらにこの主人公は仮想人格As(アズ)としてスターになるものの、実生活上は学校で友人にも恵まれ、幼馴染のナイトのような男の子もいたり、合唱団としての母親のようなご婦人たちにも囲まれて、けっして不幸な境遇ではない。引きこもりの子どもが承認欲求をこじらせて、アバターをかぶってVチューバ―デビューしているような、そんなものではない。なので、ちょっと同情しづらい。

そもそも本作の仮想空間は、細田監督の代表作「サマーウォーズ」のOz(オズ)のように、人工知能が支配して人類のライフラインすべてを握っているような、ディストピアではありません。
同じサイバー空間が舞台なのですけども、十数年前に発表されたそれは、当時ツイッターやらが出回り始めたころでコンピューターの叡智と人間の理性との対決という、古典的なSFのテーマがあったものでした。しかるに、今回の仮想世界は、そのサイバーシステムそのものへの皮肉ではなく、そこに住む、人間そのものの擬態と実体との乖離、そしてまた両者の和解を描いているという意味では、ひじょうに現代性に肉薄した内容となっています。

ただし、こうしたツイッター上のプロフィールを盛る人がいる、インスタ映えのために日常を飾る、匿名のアイコンで百鬼夜行と化して個人攻撃をする、特定の愛好家の集いの場を荒らしまわる、といった問題は、誰しもが日ごろから厄介ごととして抱いている事柄であって、それを料理するには、いささか脚本に無理があったのは否めないのではないでしょうか。

たとえば、すずとしのぶくんとの淡いロマンス。そして、恋敵かと思われた学園アイドルルカちゃんのミスリードなエピソード。青春時代らしい「好き」という感情の芽生えはわかるのですが、物語を大胆に動かす要素にはなっておらず、別に削ってもいいとさえ思います。ルカちゃんやカミシンの恋のありようが、ヒロインを変えるよい動機になったのならばいいものの、ただ他愛もないさざなみを立てるだけで終わる。そもそも、タイトルがタイトルだけに「竜」と「姫」となる人物の関係性にスポットをあてるべきで、「竜」の正体を謎解き風に最後まで伏せていたせいで、タイトルから対照的な価値観を持つ男女の壮大なラブロマンスを期待した層からは、かなりの落胆の声があったことでしょう。正直、美女と野獣パクリがどうのという指摘は横に置くとしましても、すずの側の世界に尺をとりすぎてしまったのは構造設計上のミスではないでしょうか。

「竜」を成敗しようとする自警団リーダーのジャスティンについても、中途半端な存在です。
「美女と野獣」でいうところの、傲慢な二枚目ガストンの位置にいるというわけでもなく、彼の正体はあきらかにされません。ひょっとすると、あの虐待親じゃないか? 実はすずの父親で本性はイイ人を演じているが…というトンデモ裏返しなのではと思いましたが、さすがにそこまで主人公側にダークサイドを用意していません。こうなると、すずがなぜ実の父を苦手にしている理由がわからず、思春期の女の子にありがちな、女性らしさを獲得する娘へのゆがんだ目線を感じてうっとおしくなったとか(この父親はかなり紳士的な人間なのですが、最後までいい人すぎてインパクトがなさすぎ。そのため、娘が男親の何に不満を抱くのかが不透明)、そういったありふれた小さな闇で片付けなくてはいけないのでしょうね。

「竜」の正体に気付いてしまったすずたち。
外面のいい父親にDVを受けている弟と、彼を守る兄。誰も助けてくれないと叫ぶ彼らに居場所を明かしてもらうことができない。そこで、すずは仮想空間上で自分の素顔を明かし(アンベイル)、学友たちやおばさんたちの協力で、兄弟たちを救うべく走り出します。財布ももたないで!(爆)

このすずのとったひとり行動が本作の不評を買った最大の問題点。
彼女の兄弟を虐待親から護ったことはあっぱれで、それが冒頭にあった、自分の母親のわが身を顧みず、我が子さえも捨てて犠牲となった過去とオーバーラップすることは明白です。それはいいのですが、その母親のときも、今回のすずの振る舞いも、周囲の大人たちが傍観視しているところがなんとなく気持ち悪いと感じているのではないでしょうか。これは、実際、電車内で暴行事件があって被害者女性が声をあげても、居合わす誰もが見て見ぬふりをしてしまった、という事件を思い起こします。

なぜ、私たちはこの物語のこの顛末を気分が悪いと感じてしまうのか?
それは他人が抱えた傷口を、面白いいじくりとしてネットであざけ笑うか、さもなくば、無関心なものとしてふるまうか。そんな残酷な現代人のありようを、それとなく映し出しているからに他ならないからです。子どもを置き去りにしたせいで事件事故で失った母親への強烈な攻撃。そして十代の女の子なんかが他人の家庭のイザコザに口を出しても行政が本気で扱うわけないじゃん、と思っている。この意識、怖くないですか? まともそうな大人が訴えれば通るけれども、子どもの騒ぎは子どもうちの話という、いじめ問題がくさいものに蓋をするでもみ消されてしまう論理と同じになってしまう。けれども事実はそうなのです。未成年の子どもには法的な人権保護の判断をすることができないとされているのですから。ファンタジーだと割り切ってしまえば心地よく観れるでしょう。でも、この物語の日常らしさがそれを許さない。だから、私たちはとてもモヤモヤします。何もできなかったオトナのひとりとして。

シナリオがとっ散らかった印象をうけるのは、監督の主張が盛り込まれ過ぎて整理できていないからでしょう。これは名声を得てカリスマ化されすぎたクリエイターにはありがちなことで、監督やら作家やらの信条やら嗜好やらそのものが物語の軸となる、そういった同一化現象でみられるうちはいいのですが、それが過ぎると、興行的な失敗=創作者への人格否定という危険性をはらむことになります。サイバー空間のひずみを物語のテーマにしがちな創作者には、どこか、ウェブの評判をうまく利用しながらも実は振り回されすぎて、もはや社会上のほかの問題点に気付けなくなっているのでないか、と私には思われるのです。

この物語は、仮想空間を舞台にしたありがちな現実と虚構との間をゆれる少年少女たちの日常劇。
けれども、その本質は、不思議の国からいつでも戻れるアリスなのであり、変身アイテムをもたない現代版の魔法少女なのであり、男たちが雄々しきヒロイズムで世界を救わなかった令和の、子どもたちの息苦しさを重くならない程度に扱ったものとも見えます。そうした手加減が、昨今のかなりバイオレンスで刺激的なストーリーに満ちた物語ばかりを浴びた視聴者には肌に合わないと思われても、しかたがないのかもしれません。主人公が起こした奇蹟は華々しいものでもなく、それが持続可能なのかもわからないのですから。「サマーウォーズ」のように、世界を変える、人類が救済された、なんて革命的なことは生じてはいないのです。

最終的に、すずは兄弟と離れて、元の暮らしに、自分たちの仲間に囲まれた穏やかな幸せの日々へ戻っていきます。恵と知(ふたりあわせて知恵という名になるのは、何かの隠喩なのか)のふたりは、どうしたのか。すずのひるまなかった態度に臆したあの父親が改心したのだとは思えず、兄弟ふたりして行政に逃げこみ、児童養護施設に拾われたのでしょうか。しかし、すずの合唱仲間おばさんが挫折したように、児童保護の48時間ルールなるものに阻まれて、うまく行ったのだとは思えません。それどころか、スマホ撮影すら禁じられて、外部に連絡をとることもできずに監視が余計に厳しくなるであろうことは想像できます。

そこで、最終局面では、すずだけではなく彼女の父親も同行し、このえせ良パパぶりの虐待男に法律的に抗することができた、という始末ならよかったのではないか。さすがに、帰ってきた娘に、土佐鰹のタタキ食うかでいいおやっさんだなで締めるこのシナリオ、どうなのよ? と首をひねりたくもなります。中の人が役所広司なのに、おばさん連中だって森山良子だとか、坂本冬美だとか、岩崎良美だとか、ビッグネームを揃えていのに、有名人の無駄遣いです、いやホント。

仮想空間のUは、生体認証によって仮想人格のアバターを得られるしくみ。
すずはアイドルのルカちゃんの顔が認識されたため美人のアバターになったと勘違いしますが、そばかすのある特徴からも、ベルがまぎれもなく彼女の素の容貌を反映したものわかります。恵少年が凶暴なバケモノになり、毒舌家のヒロちゃんが道化じみたゆるキャラになり、貴婦人こじらせオバサンが赤ん坊だったこともを考えると、その世界でのすがたは、人間のEQ(感情指数)によって決まってしまうのでしょう。いちど決まったすがたは変えられないため、「サマーウォーズ」のときのように、仮想人格が成長しないともいえます。

ただ、「竜」の少年が虐待をうけた心の傷が可視化される演出はいいが、暴れ回る彼が自警団に排除されてしまうぐらい異常に嫌われているのは、じつは彼の痣が見えるのはすずだけであって、他のキャラたちには見えないとか、そういった設定があったのでしょうか。すずと少年とを結びつけたのは、親に愛されなかった、突き放された記憶ですが、すずは母親の様な慈愛を獲得することにより強い女になり、いっぽう恵少年たちはドストエフスキーの最高傑作「カラマーゾフの兄弟」にあった父親殺しほどではなくとも、なんらかのかたちで毒父をのりこえて新しい人生を生き抜くのだ、そういう結末があったらな、と考えないでもないのです。それも、創作者にありがちな、視聴者に委ねます作法なのかもしれませんが。父親を断罪に処さなかったことには、親としても生きづらいこの世の空気感があるから、なのかもしれません。

以上が私がこの映画を観た感想。
私の感想自体も論点があちこちに散在した、しまりのないものになりました。もし、再放映されたらジブリアニメみたいに何度も繰り返し観たいのだとは思わないでしょう。あくまでも今のところは、であって。「思い出ぽろぽろ」や「ハウルの動く城」みたいに初見では理解できなかったが、二度見したらなんとなく受け取り方が違って楽しめたこともあるので、極端な酷評はしたくはないです。

シナリオにやや不足はあるが、傷口をかかえた内気な女の子の思春期特有のめんどくささとその解消、虐待を受けた子どもたちへの熱きエールとうけとっておくことにしましょう。つまらない、という一言で切るには惜しく、いろいろ考えさせれられた一作なのでした。

(2022/09/23視聴)




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