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陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

活字中毒者は、ふしぎと本を見るだけで安心してしまう

2018-04-20 | 読書論・出版・本と雑誌の感想

世の中にはいろんな依存症があります。
それがなければ、私は生きていけないよ、というものが。皆さんはなんでしょうか?

私は賭け事や投資にのめりこむ人が嫌いです。宝くじもきらい。夢を買うものだというけれど、やはりお金の無駄だと思ってしまうから。みなさんは窒息する状態でもないのに、掴んでも何も得られない空気を買いますか? 賭け事や宝くじはそれと同じものだと思っています。買い物依存症かと思うほど、服を買いあさる人がいます。家で着てみたら案外似合わない、シーズンオフになってしまったという理由で、箪笥の肥やしになってしまう。それでも、服を買うのはなぜか? いまとは違った自分に変身できるからです。

でも、私も案外、他人の批判はできないのかもしれません。けっこうな買い読依存症だからです。お利口そうな本を読めば、これまでよりも成長した自分になれるような気がする。感動と銘打たれた物語を読めば、こころが救われるかもしれない。本にはそんな詐術があります。

仕事でミスがあって挽回しなきゃ、資格取得して勉強しなきゃ、もっといろんな知識を持たなくちゃ、そう思って本を購入しますが、読み切れていないんです。けっきょく、業務上、不要になったり、情報が古くなってしまったりする。経費に積み上げられるからいいかとも思うのだけど、型落ちした本は古書店で売るにしても廉価にされますし。

私はお金がないときは、ケチケチして、古書店でも一冊80円だかの本ですら渋って買うのですが、収入が増えてしまうと気前よくレジに持って行ってしまう癖があるようです。時間がないので本屋に来るのが惜しいから、パパっと買ってしまうのですね。

よくよく考えたら、私は本が好きなのではなくて。
単に本が集まっている場所が好きで、安心するのかもしれません。そう気づいたのは、ふと、ある日、ふらりと書店に立ち寄ったり、図書館に足を延ばしたりしたことが多かったからです。

私が本のある場所に憩いを求めるようになったのは、高校時代の孤独な時間もありますが、おそらく大学での研究生活および、図書館で働いた経験からくるのではないかと思っています。私があの当時、住んでいた関西には、近くに複数の図書施設がありまして、本屋もあって、とても充実していました。その頃は一人ぐらしで生活もさほど豊かではなかったので、通うといったら、古書店か図書館のはしごでしたが、大きな自治体の図書館の充実度というのは、すばらしいものです。

全国チェーンの古書店はその地域の自転車で通える範囲で三軒はありましたので、夜、なんとなくふらっと入ったりしては、買ったりしていましたね。筑摩書房文庫のオルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』や、ハンナ・アーレントの『人間の条件』は、半額でそのとき入手しました。読み切れていないけれど、いつか暇があったら挑戦したいものです。

私は図書館や古書店で本棚を見るとき、時間があれば、すべての棚を舐めるように見ています。この分野では、どんな作者の、どんな本があるのか、知るためです。ネット上のデータベースや検索システムで調べることはできますが、タイトルだけ打ち込んで探すよりも、実物の本棚を眺めていく方が本に愛着がわきやすいですよね。

私が小説を読むようになったのも、この関西時代の古書店通いがきっかけです。
古書店には安価な文庫本がおおいし、数もそろっているので、作家と作品タイトルが掴みやすい。物故者の作家さんだから害はないと思うのですが、夏目漱石や川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫などの日本文学の名作は、ほとんど古書店で揃えました。そして、私が教科書では知っているけれど、実際読んだことすらなかった、こうした日本の文豪の傑作に耽溺していくのも、社会人になってからです。とくに失職したときは、一日中、食事もしないでずっと読んでいることもありました。いまから考えればとても不健康な生活ですね。

当初は、実用本や自己啓発本の類などは大嫌いでお説教臭くて敬遠しがちだった私ですが、いまの自治体にある図書館で借りた社会学系の本などをきっかけに、世の中の事象に関心を抱くようになり、資格取得をして、自分の将来について考え直すようになります。

私はいま月に一度は図書館に通っています。
図書館にはいろんな人がいます。受験勉強中の高校生、退職したシニア層。子どもと絵本を探しに来た父母。そして、かつての私と同じように人生に迷って、なんとなく、自分に活を入れてくれるような、目を啓(ひら)かせてくれるような言葉を探しに、ふらりと訪れる人もいるでしょう。

作家の泉鏡花は、活字中毒で字が書いてあれば箸袋でもありがたがって持って帰ったとかいう逸話があるそうです。まあ、そこまでいかずとも、字や絵の描いてあるものを見ると安心するあなたは、立派な活字中毒です。一人暮らしで寂しいと、街中にある無料のミニコミ誌やチラシなどを意味もなく持ち帰ってしまうらしいですが、かつての私がまさにそうですね。いまでも持ち帰る癖が抜けないので、家族にごみが増えて困ると呆れられています。スマホでニュースを眺めるよりも、活字になったものを眺める方が落ち着くんです。

独房とか絶海の孤島に取り残されたとき、名も知らぬ誰かが残したメッセージに励まされたとか、生きる知恵を授かったというお話がよくありますよね。誰かが書いたよくわからない文章であっても、それが別の誰かの光りになる。そういうことはあるのかもしれません。そのような万が一かの奇蹟に味を占めて、私たち活字中毒者たちは、本のある場所を求めてやまないのです。誰かの思想や感情にぶつかり合うために、わたしたちは本の中へ埋没していくのです。

若者の読書離れが深刻でと言われておりますが、ネット上のSNSやりとりなど見ても、文字でコンタクトしあう文化が廃れているわけでありません。ひとは、いつまでも、自分に愛情ややさしさをももたらしてくれる言葉を待っている、愚かしくも、どこか可愛らしい生き物なのです。文字を読み書きし、言葉で話すからこそ、私たちは人間らしくいられるのです。


読書の秋だからといって、本が好きだと思うなよ(目次)
本が売れないという叫びがある。しかし、本は買いたくないという抵抗勢力もある。
読者と著者とは、いつも平行線です。悲しいですね。



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