このコーナーは管理人が鑑賞した展覧会の感想や、芸術に関する話題を主に取り扱おうと思っております。ただしおよそ十年の間の記憶に基づいて書くものであって、現在ひらかれている美術展レヴューをお披露目するものではありません。また私の見識は素人の域を出ないもの、自分なりの知識を寄せ集めにしたものであります。ですので、きわめて速報性と専門性のひくいものとお考えくださればありがたいです。
第一回は十月十二日にお亡くなりになった、建築家黒川紀章についてです。
私は彼の著作物をほとんど読んだことがありませんでしたが、調べてみますとかなり有名な方らしいですね。女優の若尾文子と結婚していたり、都知事選に出馬して石原都知事の都政に異を唱えたり。またバラエティ番組にも出演するなど、ひじょうにメディアに顔を売っていた建築家のようです。
私はこういったタレント化したアーティスト(ただし役者やミュージシャンなど活動領域がメディアを主とする者はのぞく)やアスリートの類は、本来めっぽう大嫌いでした。偏見かもしれませんが、スポーツ選手(とくに力士がその典型だと思う)がテレビに出演すると、たいていそのひとは堕落します。自分の肉体を酷使して鍛えた技に磨きをかけることをおそろかにして、小手先のおもしろいリップサービスや自分や身内の暴露話などで利益を得ることを覚えてしまうからです。そして、そんなものは一時的に大金を得たとしてもすぐに大衆に飽きられてしまうのです。
話がずれたので戻しましょう。
建築を専攻している学生や建築愛好家には、彼の建築は敬遠されているそうです。コンセプトだけでつくりあげた建築なのだと。
私は建築を学んだわけではないので、その持論の有効性を図ることはできません。それにああいう思想書を読んでも、じっさいにその造形作家の生産物に反映されているかどうか判らないのです。私は作家が自作について書いたものからではなく、作品それ自体から情報を読みとるべきだと思いますので。さらに専門家に彼の論理が敬遠されているのは、メディアに露出される彼の度の過ぎたパフォーマンスぶりのせいなのかとも。
いまでは有名な「共生」という言葉を提唱したのも彼だそうです。
ちなみに彼は父親も、実弟も、そして彼の次男、三男も建築家という、まさにサラブレッド。日本建築界のバッハないしは現代の狩野派といったところでしょうか。ああいう巨大な空間造形感覚ってやっぱり遺伝されるものなんでしょうかね。
私がじっさい訪れたことのある、彼の作品を以下に挙げます。()内は完成年度
・国立民族学博物館(大阪府吹田市、千里万博公園、1977年)
・国立文楽劇場(大阪市中央区日本橋、1983年)
・名古屋市美術館(名古屋市、1988年)
・広島市現代美術館(広島県広島市、1989年)
・和歌山県立近代美術館(和歌山県和歌山市、1994年)
私がはじめて黒川の名を知ったのは、名古屋市Mが発行しているフリーペーパーにおいてです。名古屋市Mは、愛知出身の彼らしい愛郷心とモダニズムのデザイン感覚が生かされたつくりになっています。名古屋城と熱海神宮など日本の伝統的建築手法と意匠とをりこんだのだそうで。入口近くにはステンレス製の鳥居、また屋外には木曽川の水景をしのばせる庭園がみられる。名古屋というと金ぴか趣味のゴテゴテした印象があるのですが、この建築物に至っては、幾何学的だが殺伐とした白亜の現代建築を、日本人のなじみ深い景物と融合させることで、ひじょうに安らぎを感じさせてくれるのです。みどり深い公園内に位置されていることもおおきいのですが。
地下一階からの三層構造となっている館内は、吹き抜け構造になっていています。とくに地上一階部(だったと思うがうろ覚え)の第一展示室に至るにあたっては、空中に渡された狭い橋を通らねばならない。綱渡りをしているような危機感を強いられた鑑賞者は、おそらく芸術作品それ自体がうみだす効果よりもさらに緊張感のある美術体験をそのあとで得ることができるでしょう。
印象深かったのは民博と広島現代M。二度三度と足を運んだことがありましたので。
とくに民博は、建物の外観というよりも展示スペースがすばらしかったのです。世界各地の民俗文化を網羅した巨大な博物館。その内部空間は、従来の博物館のように展示品を分類して各部屋ごとに配置させるのではない。ゾーニング(空間の区切り)があいまいで、文化の境界線というものが定かではない。強い太陽とサバンナから誕生したアフリカのニグロアートに耽溺した観者は、そのフォルムにみられる黒い生命力を、南太平洋の爽やかな白砂とマリンブルーの海が生じさせたアボリジニ文化のなかにもみてとれるでしょう。私はこの民博に出かけて、人類というのはほんとうにみんなひとつなんだと感じさせられました。肌や瞳や髪の色とか、信じている神様の名前とか、家の広さとかお金の多さとか、そんなもので争っていることがばかばかしく思えてきます。
動線を支配されないあの自由な展示形態を提案したのは、黒川ではなくて、初代館長の梅棹忠夫の私意があったのかもしれない。だが黒川紀章の共生という概念は、ちゃんと彼の壮大なる建築物のなかに埋め込まれているのです。
現代は一億総勢、いくらでもにわか思想家が輩出される時代なのです。おそらく銀河よりもひろい人間の電脳空間においていくらでも、自分の思念をひろめてゆくこができるでしょう。けれど、そうした思念を歴史にくみこんで、堅牢な文化遺産に構築できる能力をもったひとは、そうめったにいません。ひとつの建物をつくりあげるのには、おそろしい時間とスペース、そして夥しい人力と費用がかかります。机上の図面を現実におきかえる工学的知識にも長けていなくてはなりません。ひとの生活を脅かすような構築物をつくりあげて、それを納得させるための論理的話術も必要でしょう。
私は建築という芸術ジャンルが好きです。
それは至極、ひとの生活を包摂し、文化を収めるものだからです。そして時代精神を構築するものであります。産業革命によって人間を機械の部品のように扱える思考がもたらされた前々世紀末、芸術と日常の不可分な関係性を提唱したウィリアム・モリス。彼は建築家ではありませんが、室内に飾る壁紙をデザインし、建築の内側から生活を美しくすることを唱えた。黒川もそうであったが建築家の思考領域は、しばしば一個の構築物のスケールを凌駕します。「宇宙船地球号」を唱えたバックミンスター・フラーしかり。フラーの発明した建築物は、あまりにも空理空論じみていて、実用的ではないものばかり、当時の建築家からは揶揄されます。彼の理想が実現されるにふさわしい技術と材料が発明されるまでは、数世紀を要すると考えられた。しかし、ある意味では彼の夢見たユートピアは石や木を用いない建物として実現しているといえなくもない。彼の案出したひとつのユニットが組み合わさって蜂の巣状にひろがってゆく、ジオデシック・ドームは、まさに電子空間上に形成されたコミュニティと同類項なのです。甘い花蜜のような言葉と、麗しく開いた華やかな映像と、実り豊かな情報をもとめて、さすらう蜜蜂のような生き方。顔の見えない他人の幸せは吸いこみ、道を外した有名人には毒針の言葉でもって制す現代人。だが、電子空間はあくまで虚構で異世界なのです。だから、それはユートピア主義者の甘い夢を壊さない。ユートピアは実現したら、ユートピアでなくなってしまうのだから。
都知事選で黒川紀章が提唱したプランは、将来的に実現されるだろうと磯崎新は語ったそうですが、私もそう願っています。
建築家はいつだってユートピアの図面を引く。
偉大な芸術家は、彼と同じ時代の空気を吸った者では実現不可能な、未完のプロジェクトを残していく。
彼はおそらく死の間際に、丹下健三チームのもとで半世紀前に夢想した一千万都市のデザインを、世に再び問うたのでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
【参照サイト】
黒川紀章さん追悼 建築家・磯崎新 日本初のメディア型建築家
(MSN産経ニュース 〇七年十月十六日)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071016/acd0710160835003-n1.htm
名古屋市美術館HP
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/index.shtml