キャンバスの中の天使は笑っている。
その笑みにあの暴君も誘われて微笑まれるだろうか。ひみこにはそんなささやかな望みがあるのだ。創作が創作者ひとりだけを満足させるのならば、それは素人の作。真の創作は、その創作になんら関わっていない者をも幸福に包み込む。戦場にあるものに笑いを、病にあるものに優しさを、貧困にあるものに満足を。一枚の絵は、感動を教え込む。名前も知らない、由来も知らない、なのに通りすがりの壁にあるポスターにすら、ひとを魅入られて立ち止まらせてしまうような力があるのだ。もちろん、この絵はあの主のコレクションとなるのだから多くの目には触れまいが、先々、この絵が後世に残ることがあったとすれば、さて、この一枚のキャンバスよ、絶対天使かおんの美しさを世に広めてくれたまえ、と画家は願ってやまない。絵は描かれたものの生き抜いた、駆け抜けた時間を延ばすものだから。
「…ミカ様も、喜んでくれるかな」
ミカの名前が口をついて出たことに、かおんの胸はいくばくか痛んだ。
蜜月の時間もこれでおしまいなのだ。この二週間は出撃命令もなく、ミカの護衛の任も、ふだんは東月封魔女学園外回りの警備にあたっていた加賀たちに代わってもらっていた。他の絶対天使たちとの闘いでエターナル・マナを大量に消耗することもないから、その期間はといえば、ひみこの手料理をごちそうになっていた。そんな甘い日々がもう終わりを告げるのだ。
かおんは返事を継げなかった。
冷めたまなざしのまま。沈黙が痛い。青ざめた顔つきを眺めて、ひみこは、かおんが寝そべっていたベッドの毛布を肩にかけてやった。
「寒かったよね。いま、コーヒーを掩れるから」
揮発性の絵の具特有のもったりした匂いのこもった空気を払うには、薫りのいいコーヒーを沸かすに限る。
創作がひと段落したあとに、ふたりで飲むのが習わしになっていた。五月とはいえ、夜はまだ肌寒い。ひみこはにこりと笑うと、いそいそと準備にとりかかろうとする。
くるりと背を向けて踏み出そうとしたその足は、二歩、三歩で止まってしまった。
するりと伸びた裸の腕が、ひみこの腰に回されていた。ひみこが掛けた毛布は、払いのけられていた。
「かおんちゃん、あのね…服、着たほうがいいよ。風邪ひくといけないから」
「絶対天使は風邪なんてひかない」
かおんが意地悪く、くすりと笑みを洩らす。ああ、もう。かおんちゃんたら。
ひみこの溜息には熱いものが混じりはじめそうになった。びくん、と肩が震える。髪の毛を掻き分けられて、うなじに唇をつけられている。抱き寄せる腕にひときわ力が籠った。ひみこはその腕の輪に手を重ね,振りほどこうとした。浮き輪から抜けだすように、腕を下に押しやろうともした。もうその腕からも熱情からも逃げられなかった。
「わたしの服、油絵の具がついたままだし、近づいたらだめだよ…」
「私はそんなこと気にしない」
「ほら、シーツだって汚れちゃうし」
「私たちの間を隔てるものなんてなくせばいい」
ひみこの胸の前を覆っていたエプロンが、すとん、と床に落ちた。
続いて、かおんはひみこのボタンに手をかけた。しかし、どうにも外しにくい。目に入ったのは、テレピン油できれいに拭われたパレットナイフだった。先端が丸まっているそれは、ひみこを突き刺す恐れはない。かおんは、ゆっくりと時間をかけて、ボタンを縫い付けた糸を断ち切っていった。