陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

美の復讐師 ハン・ファン・メーヘレン(前)

2008-11-06 | 芸術・文化・科学・歴史


その男は稀代の贋作作家だったのか。それともすぐれた腕前の画家だったのか。
強いていうなら、私はその男を英雄と呼ぶ。
もしアートヒストリーに英雄をえらべと言われたら、ミケランジェロ・ブオナローティとこの男をえらぶ。

時の権威者、教皇ユリウス二世の仕事をうけながらにべもなく逆らった男、そしてまた政治革命を志しながら挫折した男ミケランジェロは、すぐれた彫刻や天井画を残し、およそ数百年その名を世に知らしめた。そしてまたあの『モナリザ』の天才画家レオナルド・ダ・ヴィンチと拮抗した画家でもある。
いっぽう激動の世紀二〇世紀は、もうひとつのモナリザの画家に挑み国家や権威に美しい罠をしかけた男を生み出したのである。
その男の名はハン・ファン・メーヘレン。オランダの画家である。そう彼はまぎれもなく、画家である。大文字のArt Historyが画家であることを認めなかったとしても、画家であるに違いない。なぜなら、彼は美術史をひっくり返した男だから。




ハン・ファン・メーヘレンの名が世界的に広まるのは第二次大戦終了後。国宝級の芸術品フェルメール中期の最高傑作とされた『キリストと悔恨の女』をナチスに売り渡したかどで、オランダ警察に手錠をかけられる。しかし、男はかたくなに罪状を否認。そして驚くべき告白をする。「あのフェルメールは私が描いたものだ」と。
勾留所で衆人環視のなか男が描きあげた画は、まさにフェルメールだった。男はナチスの国家元帥ゲーリングを手玉にとった男として、贋作作家のそしりを外れ、一躍国民的ヒーローに祭り上げられたのだった。

しかし、男がこの大胆な犯行を思いついたのは,長年の私怨からであった。彼にはドイツ帝国をあざむく意思があったのかはさだかではない。それは美に携わる男が美を持ってして美意識の権威に挑み、その威光をくだくという、まったくみごとな復讐劇だったのである。

学生時代コンクールで受賞し将来を嘱望された気鋭の画家だったメーヘレン。しかし、時流のかわった美術批評に、それまで絶賛されていたロマン主義的リアリズム風の作品をこきおろされてしまう。「オリジナリティのない、ただの名画を模倣した技術家のお絵描きにすぎない」と。その酷評は彼を失望させ、堕落させ、ついには順風満帆であった家庭も崩壊した。ここでふつうであったら、筆を折り、他の道を模索するかもしれない。しかし、彼は画家である自分をやめなかった。絵画修復の仕事で生計を立てながら、暮らしていた。
時代はピエト・モンドリアン式の抽象造形に代表される前衛美術を求めていた。アートクリティークにこてんぱんにやり込められてもなお、彼はみずから望むところの芸術にすなおだった。美術潮流におもねることを知らず、メーヘレンは憧れのフェルメールになりきろうとしたのだった。

そのため、彼はフェルメールと同時代の画布や絵の具の使用法を調べ、また構図やタッチの特徴をつぶさに研究した。たしかなにかの伝記に書かれてあったと記憶しているが、キャンバスに年代をかぶせるため、新しいキャンバスに薬品を塗って数日間野ざらしにしておいたらしい。
じゅうぶんな技量を得た彼は一世一代の大芝居にうってでる。架空の資産家の貴婦人を名乗って代理人を通じて、オランダ美術界の重鎮アブラハム・ブレディウス博士に鑑定を依頼した。
フェルメールの初期の宗教画と晩年に近い風俗画との間をうめる過渡期の作品は未発見だった。ブレディウス博士がフェルメール中期作の発見を預言したことを聞きつけ、彼はその時期の未発見のフェルメール絵画として売り込んだのである。その絵画には現存する他のフェルメールのモチーフ、たとえば『絵画芸術』の女性や『地理学者』の横向きの男が描かれていたのだった。断片的にフェルメール芸術の特質をつなぎあわせたその一枚『エマオのキリスト』は、アルコール検査をもくぐり抜け、みごと時の美術界のお墨付きを拝したのであった。



そのときの彼の胸の内はどんなに爽快だっただろうか。かつて、自分の才能を握りつぶした美の権力者をまんまと欺き、膝まづかせたのである。自身の筆さばきに老獪の審判者たちがうっとりしている。それは世界を震撼とさせた世紀のスキャンダルにして、美術史上もっとも華麗でみごとな復讐劇だった。裸の王様のように空虚な美意識をまとってふんぞりかえっていた連中を、メーヘレンは嘲笑していたに違いないのだ。

メーヘレンはさらに贋作づくりを進めた。その一枚『キリストと悔恨の女』がナチスドイツの国家元帥ゲーリングによって買い上げられた。その絵がのちのち彼の名を知らしめることになった。もし、ドイツが敗れなければいまだもってその絵はフェルメールとして大衆を欺きつづけていたのである。

ときにふしぎに思うことがある。文学や音楽、演劇などの世界ではしばしば過去の大家を模倣することは、美術界ほど毛嫌いされてはいない。
したがってしばしば若手を賞賛する際に、なんとかの再来という言葉がまことしやかに囁かれる。そして、本人もその名を背負うことを誇りとする。それは無能な世襲制がつづく政治とは無縁の、表現の血縁関係をむすぶという創作特有の系譜に他ならない。二百年とつづいた狩野派が探幽、永楽や元信などわずかに数えるほどの天才しか輩出しなかった一方で、百年のインターバルをおいて、俵屋宗達──尾形光琳──酒井抱一とうけつがれた系譜が存在するのと同様に。
だとしたら、フェルメールを継いだ男としてメーヘレンの画業は評価されるべきだろう。彼はみずからをフェルメールを称し、自分の作品は贋作ではなく、オリジナルだと主張しているのだ。

ハン・ファン・メーヘレンはフェルメールの影だったのではない。こういってよければ、ひとりの名のある画家として光りある存在になったのだった。
くしくも裁判にかけられる際、裁判所に彼の描いたにせフェルメールが一堂に会したことが彼の生涯最大の個展となった。ひとりの画家として彼の作品は美術館に迎えられた。そしていまも展示されているのである。もちろんハン・ファン・メーヘレンの名を冠して。

もちろん贋作画家としての汚名は消えないし、麻薬に溺れた自堕落な人生も批難されるべきものだ。
だが仮に彼があからさまに自己をフェルメールの再来だと謳って自分を世に売り出していたらどうか。たぶん、誰も彼には同情しなかったし、英雄視する向きもなかっただろう。ゲーリングを手玉に取り、いかめしい美術界の大御所をこけにした気持ちの良さで、彼はいちやく人気者になった。処せられた刑はあまりに軽い禁錮一年、出所すればまちがいなくスターであるはずの画家はしかし、判決のわずか一箇月後に独房であっけなく生涯を閉じた。



【画像(掲載順)】
ハン・ファン・メーヘレン『楽曲を演奏する女』(1935-36)アムステルダム国立美術館
ハン・ファン・メーヘレン『キリストと悔恨の女』(1945)ヨハネスブルグ、南アフリカ
ハン・ファン・メーヘレン『エマオのキリスト』(1937)ボイマンス美術館、ロッテルダム


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