陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

日曜写真館 十九枚目「鋼のタイトル」

2009-06-23 | 芸術・文化・科学・歴史


去年のいま時分だったか、ある展示会に出かけたときの一枚。
お目当てのブースへの顔見せを終えた後、せっかくだからと会場を一巡したときに目に止まった。
ちょっと暗くて分かりづらいかもしれないけれど、右側がステンレス製の扇で、左がネームプレート。
明るく調整してもいいのだが、重厚感がうしなわれるので、手をいれていない。最近、あまり凝った加工するのが厭わしくなった。時間がかかるわりに見映えがよくないからだ。

私はどうしてだかわからないが、字が彫ってあるものを見ると、わくわくしてしまう。さびれた街のペンキの剥げかけた看板の文字は敬遠するが、苔むした板碑は足を止めてしまう。明治の耽美文章でならしたあの潔癖性の小説家みたいに、活字求愛症なのかどうかわからないが、活字が好きで。
好きが嵩じて、中学生ぐらいの頃、レタリングの本を買ってきて一日中真似して描いたことがある。

そのいっぽうで、手書きの文字などにはめっぽう暗い。人の性格がにじみ出る書道などは、展示をみてもさっぱりその良さがわからない。学生時代に、書道の師範代をもつというクラスメイトがいたが、彼女の字のうまさがさっぱり理解できずじまいだった。王羲之の書もなにがいいのか、わからない。
この私の不理解はじつは、小学生の頃の習字のまずさから来たもので。筆を乱暴にあつかって使えなくした記憶があるせいか、年賀状も筆ペンを用いている。

そんなわけで今でも自筆の字が汚くて、PC多用の昨今ではさらに書類ひとつに書き込むのすら横着したくなる私は、まれにとったメモ書きを確認すると、そのミミズの字に失望することしきりである。

この鋼のタイトルに魅せられたのは、印字のみならず、そもそも工学的な興味なのかもしれない。
ホームセンターに出かけると、使いもしない工具のコーナーを回ってみたりする。むかし、彫刻刀で彫り物をしていたら手首を刺して出血し失神してしまった前科があってから、危ないものはえてして握らないようにしてきたが、惹かれてしまう。

硬いものへの興味は、残された歴史遺物への興味であり、記録への関心であり、恒久性への希求なのかもしれない。
そんな私が今もっとも読む彫り文字が、墓石に刻まれた生家の苗字。
ブログなんて墓石に多くを刻み残せないむだなお喋りが、書きたがる道楽に過ぎない。しかし、性格の棘をやんわりと和らげもするこの記述は、なかなかどうしてやめられるものでもない。



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