続けて2回分更新・・・というのもなんだけど・・・。
今日の講座で 「なるほどねぇ」 と思ったことがあるので皆さんにもお知らせしようかと。
写真に詳しい方には 『釈迦に説法』 でしょうけど。
題して 【写真のちから】
◆カメラのファインダーを覗く・・・・自分の「好き」をみつけること。
自分が興味あるもの、こころ惹かれるものにレンズを向けているはず。
⇒正直な自分の感情に100%なれる時間でもあることを意識する。
◆シャッターを押す・・・・・目の前の無限の興味からある部分を自分で決定する。
⇒能動的に「外部の世界」と関わっていく時間を味わう瞬間をつくる。
⇒誰からも強要されることなくすべて自分の責任で決めていく。
◆出来上がった一枚の写真をみつめる・・・・・後から見えてくるものを探ること。
⇒他の人との共有によって新しい見方を考えられる、写真を読む行為の習慣づけ。
以上のようなことから写真のちからについて考えると・・・
シャッターを押して「自分の外側の世界」を切り取る行為であるはずのものが、
実は自分の内側(こころ)を見せている(みつめている)ことが分かってくる。
日記に作り事を書かないように自分に素直になってシャッターを押すことで自然体の撮影ができるようになってくる。
カメラを持って出かけることでいつシャッターチャンスにめぐり会えるかもしれないドキドキした感じを味わうことができる。
そして「外の世界」との関わりあいを意識することで積極的な自分をみることになる。
ポイント
撮る前にできあがった写真を他人がどう見てくれるのかを心配するのではなく、
自分の目の前の何に興味をいだいているのかをしっかり考えながらシャッターを押すようにする。
写ったものが何か違うなぁと感じたらいろいろな設定値(絞り、シャッタースピードなど)が自分の気持ちモードと上手く合ってないと考える。
(以上写真講座の講師 【日本写真家協会会員 服部辰美氏】の講座資料より引用させていただきました)
今日話を聞いて思ったんです・・・ワタシって写真で表現することはシャイなんだ! って。
人との会話では自分をさらけ出すことに抵抗はないんだけど(開き直り・・っていうのかな?)
また他人の目は気にせず『我が道を行くでいいんだ!』 とやっと悟ったこの頃でもあるし。
ところがどうも写真となるとすっごく臆病になり 他人の目 を気にしてしまうような気がする。
結局は自分の責任で写真を撮れないんじゃないのかと・・・変な言い方ですけど。
写真で自分をさらけ出すことに 恥ずかしさがあるんじゃないのかと。
こんな【デカンショばばぁ】(・・・メタボがよくこう言ってたんです)にでもシャイな部分があるんだと考えさせられた時間でした。
自分が感じるままにシャッター押してるけど、家に帰りPCに落として見ると愕然とする写真ばかりです
写真って写心っていうけど、私の心に濁りがあるからこれと言った写真が写せないのかもね
でも写せないからこそ、夢中になるのかもね
何も考えずに好きっと思ったら自然体で撮れる写真がやっぱり好き♪
ヨッコさんの写真がこれからもっと楽しめそうだね。
自分に厳しいhanaさんだね。
厳しいからこそ上達するんだよね、きっと。
ワタシが知ってる限りでは、hanaさんは心濁ってなくてとても素晴らしい人
『好きな場面・場所』『好きな撮り方』を模索中。
それが決まってくれば『そういう写真をもっと上手に撮るには…』をアドバイスしてくださるとのことだったの。
何しろシャッターを押さなきゃ始まらないわね!
kayさんのこの考え方OK! 本来そうあるべきなんですって!
kayさんの写真も素晴らしいドキッ!とする写真も多いです。
たま~にピンボケ写真があるけど(苦笑)これまた愛嬌で、味があるんだよね。
時々「もう記念写真・記録写真でいいや!」って思うことがあるの。
わたしゃセンスない、最近そう思うよ
でももう少し頑張ってみる…だって4月~9月分の講座料払い込み済みだもん。
写真は素人なので「詩」に置き換えたりして読んでいます。
ある程度のテクニックは詩でも必要ですが、当然対象を通して、自身の内面を作品化してます。でもそれは公表したら自分のものでなくなり、どう読まれてもいいと。共有できるものも出来ないものもある・・。同じ被写体を何人かで写しても絶対に個性は出るもので、それを見せて頂く・・でしょうか。~変な表現ですが。
KEN-SANの存在、絶対忘れる時ないですって…安心してくださいね!
(KEN-SANのBlogを読んでのコメをここで書いてすみません…コメ欄あいてないものだから)
『自身の内面を作品化』…心を込めて書き、何度も推敲を重ねるわけですよね?
『公表したら自分のものでなくなり、どう読まれてもいいと』
大げさな言い方ですが【作品は自分の子ども】のようなものじゃありません?
何だか寂しくありませんか?
少しでもいいから共感してもらえる人がいて欲しい、とワタシは思うのですが。
『同じ被写体を何人かで写しても絶対に個性は出るもの』
確かにそうです! そっかぁ…それが写真の面白いところなのかも。
何だか支離滅裂のお返事になってしまいました、ごめんなさい。
少しでもいいから共感してもらえる人がいて欲しい、とワタシは思うのですが。
>僕の場合「詩」は内面に書きたいものがたまったら出てきます。「自動筆記状態」です。勿論ある価値感を持って生きてるから。批判のための批判には「公開質問」を誌上でしたことも。でも共感は嬉しいですが、100%理解はされません。小説は推敲もしますが、詩の場合ちょっと伝え難いですが、巫女的状態なんです。「さあ書こう」では書けないんです。そういう意味では詩がいい意味で批評されるのは、嬉しいことです。相手と詩が部分的にしろぶつかって高い次元に、自身の「詩心」が入っていけるように努力しますから。次の「自動筆記」に生かされるとでも言っておきますね。「自動筆記」なので誤字等の手直しくらいしか書いた後はしないですよ。
写真もそうなんです…というかワタシはそう思うのです。
最初に「自分有りき」でなきゃならないのに「人はどう評価するんだろうか」が勝ってしまい…逆だから思うように撮れないんだと思ってるのでこれを直さないと。
『自動筆記状態』『巫女的状態』…なんて素晴らしいんでしょう!
【言葉の泉】から言葉が溢れ出てくる時があるんですね。
推敲はされないんですか…助詞の使い方などでずいぶん変わってくるような気がしますが、逆の意味で変わっちゃいけないんでしょうし変えたくないんでしょうね。
溢れ出てくる感性を大事に…ということでしょうか。
再度の訪問で、ごていねいなコメントをありがとうございました。