goo blog サービス終了のお知らせ 

ベンベエの詩的つぶやき

世の中をちょっと斜めに見て・・・

あるがままに

2008-03-28 11:48:10 | 日記・エッセイ・コラム

いっときは19匹いた屋敷猫が
いつの間にかその半分の数になっている。
車にひかれたり 仲間から追い出されたり
三大猫伝染病(風邪、ネコエイズ、腹膜炎)で死んだり・・・・・
これまでも20匹を越えたことはなく
始末にならないほど増えてしまったというようなことは一度もない。
人間が手を出さなくとも彼ら自身が本能的にコントロールされて
屋敷内居住スペースに適した数が残るのかもしれない。
自然界のバランス、あるいは神のご意思というようなものが・・・・・。

少子化。
日本の人口が減っているが
これも屋敷猫たちと状況は同じこと。
面積37、8万k㎡の居住スペースはその四割弱
約10万k㎡に一億二千万人が犇めいている。
・・・・・・すでに過密なのだ。

経済学的には少子化は望ましくないのだろうが
種の存続ということを考えたら、そんなに悲観的になることもない。
居住スペースとの適正な調和があってこそ
平和で安全な暮らしを維持することができる。

減ることよりも、むしろ増えることのほうが心配が大きい。
孤島や船倉のネズミのように集団自殺に奔ったり
あるいは生活圏を求めて隣りの国を侵略するとか
戦争、格差、貧困を増大させることにもなる。

本来、この地球はうまく造られていて
人間がよけいなことを仕出かさないかぎりは
すべてのいのちが豊かに共存共栄していける筈なのだ。


   梅真っ白木登り上手の猫もゐて   やす


虫の一分

2008-03-18 13:42:58 | 日記・エッセイ・コラム

  〈暑さ寒さも彼岸まで〉・・・・
北関東の地もようやく春めいて
三分咲きの梅の枝で鶯がさえずり
農村直売所ではセリやフキノトウなどが並び
春の香りを放っている。

かのシロアリにぼろぼろにされた門が
先日の突風により傾いてしまった。
柱も梁も芯まで朽ちてしまって
このままでは倒壊の危険がある。

大きな事故にならない内に急遽、撤去することになった。
業者が足場を組んで、事故の無いよう慎重に作業している。

在ったものが失くなるということには、一抹の寂しさもあるが
それも時の流れ・・・・・・・・・
形あるものはいつかは滅びる。
新しい門はできるだけシンプルなものにしようと考えている。

それにしてもシロアリという奴は凄い!
あの小さな虫けらが、これだけの門柱を食いつぶしてしまうとは。
数年前、母屋から分派したものらが巣食っていたのだ。
感心するのも変だが、まさしく〈一寸の虫にも・・・・〉 である。


  
 街道やなんじゃもんじゃの芽吹きたる   やす


救急車

2008-03-07 17:13:12 | 日記・エッセイ・コラム

きのうは救急車のお世話になった。

隣町のめがね屋で視力を検査してもらっているうち
突然、背中から腹部にかけて激痛が走った。
そのまま身動きできずに救急車を呼んだ。

ところが、ぼくを乗せても救急車はいっこうに走り出さない。
激痛に身を捩りながらも、救急隊員といくつかの病院との
やりとりが聞こえる。
何やかにやと理由をつけて病院側は拒否しているのだ。
隊員はまた別の病院を探す。

こんな地方の町にまで救急患者の受け入れ拒否が
現実に起きているとは 驚きである。
まるで都市部に起きているのと同じ状態。
年々医療のリスクは高くなっていて、
医師へのプレッシャーも増大していることは確かだ。
一方的に医師だけを責めることはできないが、
緊急を要する患者が治療を受けてもらえないなんてどうかしている。
これでは救急指定病院の意味を成さないではないか。

医療現場の実態がやたらニュースで報道されるので
一種の流行りになってはいないだろうか。
あるいは便乗してはいないだろうか。
医師としての本分を忘れ
皆がやっているから自分もやったって構わないという安易な群集心理。

社会も人間もほんとうに狂い始めている。

ずっと昔に観た 「目には目を」という映画を想い出した。
診察拒否で妻を亡くした男の
医師を相手のすさまじい復讐のドラマである。

最終的にぼくの場合は、友人の医者のもとに搬送してもらったので
充分な治療が受けられて、夜には激痛も治まった。
「尿管結石」でした。
夜中に再発するといけないので、一晩、特別室をあけてくれた。
兎に角、水分をとれということで、1・5リットルのポカリスエットを飲み
2時間おきに排尿したが、石はまだ体の中である。

    
 余寒なほ文書きゐては破りては   やす


ほめて育てる

2008-03-03 23:53:30 | 日記・エッセイ・コラム

詩集「よぶり火」が
日本詩人クラブ新人賞候補にノミネートされた。
最終審査では落ちたけれども
自分の作品が一応の評価を得られたことは素直にうれしい。

だからどうと言うことではないが
ややもすると、詩を書く者はひとりよがりの世界で戯れ
その迷宮にはまり込みやすい。
だからそれらに陥らないためにも
あるいは自分のスタンスを認識しておくためにも
過大でもなく過小でもなく客観的で公正な批評が大切になってくる。

賞や評価は目的ではなく、書き続けるための手段であり
詩作の励みである。

「オーケー、オーケー、 さあ! これからだ まだいける」
負けがこんでいるスポーツ選手を奮い立たせる監督やコーチの言葉。
そして奇跡的な逆転勝利!

15年前、一篇の作品が初めてとり上げられ活字になったときには
うれしくて うれしくて、新聞を何部も買い込んだものである。
あの感動がなかったら、今、こうして詩を書いていることは
なかっただろうと思う。

〈 ほめて育てる 〉・・・・まことに まことに、
人間なんていくつになってもその程度なのであります。


   
ほめられて春月われを照らしけり   やす