私はクリスチャンではありませんが
敬虔なクリスチャンである
三浦綾子さん 星野富弘さん 渡辺和子さんの本は
かなりたくさん読んでいて
「どの人も1人の人間として凄い生き方だなぁ」
とずっと思ってきました。
どこに書いてあったか忘れてしまいましたが 3人の本のどれかに
「言葉は神なり」
という一節がありました。
初めて見た時不思議で不思議でたまりませんでした。
「心は神なり」なら何とか分かる気がするのだけれど
どうして「言葉は神なり」なの?
醜い言葉もある 傷つける言葉もある
ののしる言葉もある
裏切る言葉もある 嘘をつく言葉もある
それのどこが神なのだろう…と。
ずっとその事を考えていた訳ではありませんが
ある日
「あっ そうか。」と分かった気がしました。
(ずっと前 まだ若い頃のことですよ)
これは私の
ひとりよがりの解釈なので
本当のクリスチャンの皆さんには「違う!」と
片づけられそうですが…
汚いなら汚いなりに
愚かなら愚かなりに
欺くなら欺くなりに
どんなに隠そうとしても
言葉には「その人の本質」がそのまま表れてしまうなぁ
と思ったのです。
「きらい」という言葉があるとします。
たった三文字だけの言葉。
でもこれを
使う人とそのシチュエーションによって
意味は大きく変わりますよね。
あまり重みはなくて
どっちかというと好きではない時の、きらい
相手を激しく憎んでいる時の、大きらい
そして本当は好きなんだけど
それが言えなくて心とは裏返しの可愛らしい、きらい
それがどれなのか
私たちは自然に分かる事ができているのでは
ないでしょうか。
良きにつけ悪しきにつけ
本質が現れてしまう言葉は
使う人そのもの
「だから言葉は神なりなんだ」と
その時私は納得したのでした。
難しい言葉を使って長々と話す人の言葉が
全く中身がない事もありますし
逆にとつとつとした少ない言葉の中に
真心とか真実とかが
込められている場合もあります。
今回私が
「言葉の向こうにあるもの」を公正に感じ取り
読み取ろうとしているのは
そういうことです。
*
★さて
昨日気になったのは何と言ってもこれ。
一択です。
26日の衆院本会議場の一コマだそうですが
皆さん
何だかとっても楽しそうですね。
残念ながら私は見る事ができなかったのですが
テレビのニュースで
流れたみたいですから
ご覧になった方も多いのではないでしょうか?
昨日の夕方
私が帰宅してから今朝まで
けっこうSNSはこの話題でもちきりでした。
あの時と似ています。
お正月に「あれ?」と思ったあの時。
⇩
これがあったから
私はずっとその答えを探そうとがんばり
今に至っています。